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2003年6月25日
451 76歳を迎えた日
 この日曜日の昼、ワイフと子供たち夫妻や二人の孫まで12人がウェスティン・ホテル内の中華料理店に集って、76歳を迎えた僕のために誕生会を開いてくれました。僕はというと、出かける寸前までワープロに向かい、暫く会っていない先輩に一通の見舞文を心を込めて打っていたのです。宛先は永谷嘉男氏。日本人なら誰でも知っている「永谷園」の事実上の創業者。偶然「週刊朝日」誌上で、最近舌癌の手術を受けて苦しまれたことを知りいたたまらなくなったからです。

 「…消灯時間が過ぎて病室が真っ暗になると、毎晩『このまま死ぬのかな』という恐怖に襲われて眠れなかった。奈落の底に落ちるような気がするほど怖くて、ベッドのそばで、家内にじっと手を握ってもらって…」という告白を読みながら、軽妙洒脱な人柄で会うたびに誰にでも朗らかな冗談を飛ばしていたあの好漢を思い、僕は涙をこらえられませんでした。

  一家団欒の雰囲気に包まれて、本来なら紹興酒の酔いの高まりとともに親父然と喋りまくるところだったでしょうが、僕の脳裏からは病室で夫人の手を握り締める永谷さんの姿がどうしても離れず、一同がお互いに談笑している様をにこにこ見守るだけという、いつもとはかなり違う“温和な年寄り”に変身していたことには、我ながら驚きました。

 もちろん宴終わって帰宅する頃には、“打倒巨人”に血沸き肉踊る本来の“戦闘的老人”に戻っていましたが、念願の阪神の勝利に意気高揚してテレビのチャネルを回していると、聞こえてきたのは何と、懐かしい美空ひばりの「悲しい酒」。年に似合わず演歌嫌いの僕を惹きつける数少ない演歌。「独りぼっちが好きだよと、言った心の裏で泣く…」を視聴しながら、再び感傷的気分に浸りながら眠りについた僕でした。
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2003年6月18日
450 この不思議な縁の気分は…
 聴衆で膨れ上がった福井の「ハーモニーホール」の客席で、先週は久しぶりに葉加瀬太郎のヴァイオリンを聴きました。 昨年暮僕の赤坂のオフィスに集まった友人たちの前で遊びに演奏してくれた時ばっさり切り落とされていたトレードマークの頭髪はすっかり元通りに伸び、官能的な音色も大きな身体をしなしなとくゆらす癖も相変わらずでしたが、曲目がほとんど同君自信の作品だったことは驚きでした。この異色なヴァイオリニストは、いつしか新進作曲家へと変身を遂げていたのです。それでやっと、吉田健治君がこの演奏会にはるばる僕を招いてくれた理由がよく納得できました。

 法政大学教授というより、わが国のCG事業の先駆者の一人である同君は、僕の赤坂のオフィスで葉加瀬君と偶然知り合ったのを契機に、その作曲活動にコンピュータ技術面で協力するようになり、二人の仲は急速に深まっていきました。福井出身の吉田君は、目下地元の政・財界指導者たちの懇請を受け、ご多分にもれず苦境に悩む敦賀短大の活性化のために努力を傾けています。その一環として彼が企画したのが、同校に来年新設予定のIT関連の2コースのための公開シンポジューム。吉田君はこの催しに葉加瀬君と僕を講師として呼ぼうとしたのですが、葉加瀬君はあいにく都合がつかず、一日前の演奏会で友情に応えてくれたわけだったのです。

 敦賀短大は公設民営ながら、理事長は河瀬一治市長。毎年2億円の補助金を支出しているだけに、その活性化は市の至上命題。夕刻の列車で金沢へ向かう僕のためわざわざ一席を設けてくれた市長としみじみ語りあううちに僕は、「訪れたこともなく、交通的には最も不便なこの市と、実は深い縁で結ばれていたのかも…」という不思議な気分になっていきました。
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2003年6月9日
449 絹谷幸二の「黙示録」
 絹谷幸二氏の主要作品を網羅した個展が、世田谷美術館で開催されています。招待状を読みながら、イタリア留学から帰国直後に画家の芥川賞と言われる「安井(曽太郎)賞」を受賞して颯爽と画壇に登場した同氏もすでに還暦か…と感懐を新たにするとともに、「黙示録」という個展名には殊さら興味をそそられました。それに、…あの美術館は悪くないぞ…、客の込み合わない早目の時間帯に「Le Jardin」の窓辺の席から溢れる緑を楽しみながらご機嫌で昼食をとろう…といった世俗的誘惑にも駆られて、早速この日曜に出かけました。

 「分かりやすい作品」とか「分かりにくい作品」などという表現を使えば、美術評論家からはそれだけでど素人と顰蹙を買うことは百も承知しています。が、例えば同氏の記念すべき作品「アンセルモ氏の肖像」(「安井賞」受賞)を改めてじっくり眺めましたが、やはりその意味を理解できたという自信は僕には到底生まれません。ただし、意味の理解と芸術的迫力や魅力とは全く別で、作品一つ一つを鑑賞しながら、その多くから僕は僕なりの大いなる刺激や示唆を受けました。

 館内を歩きながら終始考えていたのは「黙示録」の意味です。神道にも仏教にも終末論に基づく救済の予言といった思想はないわけですから、絹谷氏がキリスト教やユダヤ教的な意味での「黙示」を伝えようとしているとは思えません。ただ印象に残ったのは、90年代に入ってからの氏の大作の題材には、真っ赤な太陽と富士山が目立つことです。太陽は活力の源泉であり、富士山は日本の象徴であるとすれば、氏は独特の芸術家的直感をもって、万人が衰退を認めざるをえない現在のこの祖国にも、再び栄光が蘇る日のあることをわれわれ同胞に暗黙のうちに訴えておられるのでしょうか。
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2003年6月4日
448 Chicago・清兵衛・シュミット
 久しぶりに陽射しの戻った土曜日の朝、ワイフに誘われるままに渋谷の街に出て、『Chicago』を観ました。ブロードウェイでかつて爆発的にヒットした名作ミュージカルの映画化ですが、舞台となった1920年代のシカゴがスクリーン上で見せる経済的繁栄と精神的退廃、富裕階級の華美と虚栄、犯罪の日常化とマスコミの無責任さ…には、資本主義的成功と堕落の描写が余りに度が過ぎていて、正直言って食傷しました。一流スターが華麗に競い合い、本年度ゴールデングローブ賞など数々を受賞したにもかかわらず、同名のミュージカルと並び称せられるほどの名作映画だとは到底思えません。

 少なくとも映画では、ヒット作と名作とは違います。名作を見終わった後には、「すごかった」とか「おもしろかった」といったエンターテインメント的満足感ではなくて、「感動した」ないし「教えられた」といったもっと心の深層に訴えるもの(=感銘)がなくてはならないと信じます。例えばごく最近の映画では、『たそがれ清兵衛』(山田洋次監督)や『アバウト・シュミット』(アレクサンダー・ペイン監督)などは、僕の定義からすれば、十分名作の部類に入ります。

 どちらの映画でも観客の多くは、自分が生きている時代や国や状況は違っているのに、(『Chicago』のそれのように)スクリーンの展開過程で違和感を味あうことは全くありませんから、「われ」を忘れて「観客」になりきれるのです。そのことを大前提にして、優れた脚本と監督と演技の究極の産物である主人公の生き様に対して観客の「共感」が加われば、映画は(興行収入とは直接かかわりなく)名作と評価される価値があります。その意味で、老練な山田氏と新鋭のペイン氏は、ともに映画監督として立派な名作を残したといえます。
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2003年5月28日
447 「社長の言語力」に寄せて
 「社長の言語力」を特集した先週の『AERA』(5/26号)は、いま評価の高い松井道夫、カルロス・ゴーン、御手洗富士夫といった社長とのインタヴューのあとに、僕の総括コメントを掲載しています。ベテラン記者が仙台まで取材にきただけに、記事に文句はありませんが、ちょっとひと言…。

 国により時代によりリーダーのあり方が大きく変わるのは当然ですが、とくに戦後の日本のように、経済成長率から人口の年齢構成に至るまで一世代で激変するような社会では、親と子、教師と生徒・学生、上司と部下…といった人々の間でのコミュニケーション・ギャップは想像以上に大きくなっています。それぞれの関係は、わが国ではつい先頃まで、伝統的な慣習やその基底にある価値観によって、後者が無条件で前者に従う(とまではいかなくても、少なくとも公然と逆らえない)のが普通でした。つまり、前者がリードし後者がリードされざるをえない社会的力関係が厳然と存在していたのです。が、この力関係は今や急速に薄れつつあります。社会の成熟化に伴う価値観の変化に少子化の影響も加わって、伝統的慣習が社会的拘束力を失い、それとともに、leaderをそのまま指導者と訳す時代も終ろうとしているのです。

 インフォーマル・リーダーとかオピニオン・リーダーという言葉があるように、リーダーとは、必ずしも権力を行使できる社会的地位や立場にいる人のことではありません。子の言うことに親が従えば、子が親をリードしたことになりますし、部下の反応を恐れて命令をためらう上司はリーダーとはいえません。慣習や権力に代って、敬愛や納得といった属性が人を動かす大きな力となりつつあります。だからこそ、社長がリーダーたるためには新しい資格要件が必要になったのです。
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2003年5月21日
446 当世日米名門高校事情
 先日の米国出張では、仕事が終わってニューヨークに飛び、わずか丸2日間でしたが、7年ぶりのマンハッタンを歩き回ってきました。そして帰国するJAL便の中で、つれづれなるままに機内誌の『AERA』(5/12号)を手にとった時、「名門公立、凋落第三波」の記事が目にとまりました。ついその前日、「グラウンド・ゼロ」を探訪した際に、目と鼻の先にあるスタイベサント高校の前を通りかかったからです。

 この公立高校は、ブロンクス科学高校と並んで、ニューヨークにあって全米ベスト10に入る英才校としてつとに名をはせており、毎年卒業生の過半はアイヴィー・リーグ校へ、残りの大部分はMITなどの難関校へ進学します。公立校ですから、ニューヨーク市民であるすべての中学生に受験資格が与えられていることは勿論ですが、入試は日本と違って、特定教科目の学力よりは天賦の知的能力と創造性を厳正に見抜くよう実施されるため、合格者には貧しい家庭で堅実に育った移民の子弟が多く、とくに最近はアジア人の比率が半数を超えて白人のそれ(43.2%)を凌駕し、全米の注目の的です。

 だからこそ、前掲の「AERA」の記事は大いに気になります。実質と関係なく東大は昔も今も日本の大学の象徴ですが、その東大進学実績で、かつての名門公立高校は私立中高一貫校に圧されて凋落著しいとのこと。日本の大学入試は相変わらず学力中心ですから、家庭に恵まれて中高一貫校に入学できれば、そこそこの勉学努力×入試技術の習得で、凡才でも東大をはじめ一応は名の通った大学に進学できる半面、いかに優秀な資質に恵まれた若者も、家庭が貧しければ、一流大学への進学は決定的に不利とならざるをえません。国家としての日本の衰退の一因は、正にこの現実にあると信じます。
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2003年5月13日
445 僕にとってのアムウェイ
 7日帰国しました。今回の渡米の目的は、カリフォルニアにあるアムウェイ社の農場や研究施設を視察した後、グランドラピッツ(ミシガン州)の本社を訪問し、幹部と腹蔵ない意見交換をすることにありました。一昨年来日本アムウェイ社(AJL)の経営諮問委員を引き受けている関係で、久しく懸案となっていた事項の一つを果たしてきたわけです。

 アムウェイ社は59年の創業以来、徹底して品質にこだわる研究開発型の製造業者ですが、自社内に営業部門を持たぬ代わりに、“ディストリビューター”と呼ばれる独立自営の販売員を組織化して市場をくもの巣のように広げていくという直接販売方式で急成長を遂げ、01年には、ヴァンアンデル会長が全米商工会議所会頭に選任されるほどの社会的評価を確立しました。日本進出は77年ですが、複雑な官庁の規制、関連業者による陰湿な嫌がらせ、マスコミを含む社会的偏見…と、AJLが四半世紀間に味わった体験は、そのままビジネスの日本的風土をこよなく物語ってくれて興味津々です。

 実はAJLから経営諮問委員の要請があった時、僕はそんなことなど全く知らぬまま、暫し二の足を踏んだのです。そうです。90年代末、一悪徳訪販業者の逮捕を契機に「マルチ商法」排斥熱が一時日本社会を席巻した際、同社の販売方式にまで世間の疑いの目が及んだたことが、僕の記憶の底にあったからです。しかし僕は、旧知の敬愛する先輩である牧野昇氏(同社取締役)の『検証マルチレベルマーケティング』(ビジネス社)を通してアムウェイ社の理念を初めて理解するとともに、「僕もまた付和雷同する一日本人だったのか」と深く己を恥じました。以来、「アムウェイ流ビジネスを正しく日本化させること」、これが僕の挑戦課題の一つになっています。
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2003年4月30日
443・444 春宵一刻 直千金
 桜とGWの喧騒を避けて暫し春を楽しもうと、今年もワイフと2泊3日で京・大和の旅を楽しんできました。実は今年の旅には、もう一つ目的がありました。京都東山の高台寺近くにある旧竹内栖鳳邸、そこを改修して三男が開こうと進めている京都第二店の下見に誘われていたのです。

 栖鳳といえば、東山魁夷と並び称せられた京都画壇の巨匠。4000?の美しい日本庭園を持つ由緒あるその屋敷を結婚式などの催事場を兼ねた高級レストランにして一般の人々に開放しようというわけですから、オーナーの方のわが息子に対する信頼もさることながら、その成否にかかわらず息子の社会的責任は重く、両親としてもとても他人事には思えません。

 場所は京都の超一等地。開店は今年10月初め。木屋町の第一店THE RIVER ORIENTAL(旧料亭「鮒鶴」)のテラス(川床)からは鴨川を隔てて至近に望めるTHE GARDEN ORIENTAL(仮称)が、ともに京都の人や観光客に愛好されることをワイフともども切に祈るのみです。

 日暮れて高台寺を訪れると、快い微風がほのかに甘い花の香りを周辺に漂わせて、ライトアップされた庭は一段と華やかさに包まれていました。鮮やかな新緑を一面に映す臥龍池畔の暗がりに忍ぶように咲いていた真っ白な石楠花を見つけた時、思わず浮かんだ蘇東波の詩「春宵一刻 直(あたい)千金 花に清香有り 月に陰有り(おぼろにかすむ)」を何回も口ずさみながら、こんなことを考えていました。

 「内憂外患に対し内外とも百家争鳴するのみで一向に事態解決の見通しの立たない時代には、自分でどうにもならぬ問題に一喜一憂するほど空しくかつ愚かなことはない…」と。

(ゴールデンウィーク中の1週間は米国出張の旅に出ます)
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2003年4月23日

442

アメリカン・クール
 大雪でニューヨークでの第一戦が流れた日、密かにヤンキースタジアムにやって来て守備位置などを点検した松井は、森閑として無人のこの球場と対した時の感慨をこう語りました。「…伝説の選手がたくさんプレーし、数々の名勝負が繰り広げられた…そんな重みがあちこちに詰まっているようにすら感じるのです。…あこがれだけでプレーできるような、そんな簡単な場所じゃない。でも、その場所で勝負して、自分の力を出し切った時には、ほかでは得られない選手としての幸福感にきっと包まれる…」と(朝日新聞4月19日朝刊)。

 僕は小学生の頃からのトラ・キチですが、宿敵ジャイアンツの選手の中ではなぜか松井にだけは、最初から好意を抱きました。およそスーパースターらしい高ぶりはなく、常に落ち着いて実直そのもの大人的風格には、反感の生ずる余地もなかったからです。彼のメジャー行きが決まった時、その生真面目な人柄が米国の野球ファンにどう評価されるだろうかと気をもみましたが、予想以上の実績を踏まえて人気急上昇。滅入りがちの最近の日本人に与えてくれる勇気は絶大です。

 米国人は“クール”という言葉が好きです。スタン・ケントンのジャズ、ジョージ・スティーブンス監督の『シェーン』の主人公、ニューヨーク・ファッションの先駆者カルヴァン・クラインの作品…の共通点はと言えば、成り上がりの大国、米国に対する世俗的イメージ(熱気、覇者、贅沢…)とは凡そ対照的である点でしょう。実は、こうした特性こそ、心ある米国人を真に惹きつけるかっこよさ、つまり“アメリカン・クール”の源泉なのです。スーパースターでありながら、松井のかもし出す人間的雰囲気は心憎いほどの“クール”さ。松井が心ある米国人から敬愛される所以であると信じます。
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2003年4月16日

441

地域疲弊化センター設立の勧め
 日経平均株価が一時7700円を割ってバブル崩壊後の最安値を記録した週明け月曜の午後、内幸町のイイノホールで、(財)地域活性化センターと全国58新聞社が共催で行ったパネルディスカッション「コミュニティ新発見―新しい地域づくりの可能性」に、谷本石川県知事など4人のパネリストの一人として出席しました。

 およそ主題が僕の専攻分野とも関心事とも大きくずれていたので、実は依頼を断ろうとしたのですが、コーディネーターをつとめた野中ともよさんとは彼女が上智大学学生の頃以来の旧知の仲であったことから断りきれず、当日全国から集まった超満員の聴衆を前に、心ならずも登壇する羽目。心ならずの登壇とはいえ、いざ発言するとなると頭が冴え、口が滑らかとなり、かつ歯に衣を着せられないのが僕の性…。

 「日本中の全ての市町村はそれぞれに特色のある地域活性化に努めるべきだ…」と某氏が発言するや否や、「そんな方針のもとで政治家主導のバラマキ行政をやったら、全国の市町村全てがやがて活力を失っていく。過疎化も一つの時代の流れだから、滅び行くものはなるべく自然にまかせ、活性化の条件を備えていてしかも住民に創意とやる気のある市町村に対しては重点的に活性化政策を積極化すべき…」と反論して、ディスカッションを途端に活性化させました。

 さらに僕の発言はエスカレートし、「(日本の市町村の幾つかで)真に“地域活性化”の実を挙げるためには、何よりも“地域疲弊化センター”なる機関の創設を急ぎ、“地域つぶし”運動を活発化することで“地域開発センター”の“地域おこし”運動を側面から強力に支援すること」を提言。満場は呆気にとられたのか一瞬の沈黙。やがて万雷の拍手!…。
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2003年4月9日

440

合衆国日本を先駆ける東北
 宮城大学長を退任してから満2年。僕が依然として仙台に居を構えオフィスを設けて頻繁に東京と行き来していることを知ると、人は必ず「何故?」とその理由を聞きますが、その度にためらわず「東北の独立を目指して…」と答えます。

 盛岡を先祖に地としながら異郷に生まれ育った僕は、それ故にかえって子供の頃から東北への思いを強めました。多分東北に生まれ育った人々の多くより僕のその思いは強いはずです。しかも東北に住み、東北の歴史を知るにいたって、東北への僕の思いは、1200年の長きにわたって東北を不当に虐げてきた大和朝廷以来の国家権力への怒りに変わりました。

 とくに僕が生きた75年を振り返ってみる時、「第一の敗戦」から「第二の敗戦」へと致命的失政を重ねながら責任能力を完全に失った全体主義的権力構造は、日本国民にとっては今や疫病神的存在。したがって、日本人は今こそ米国のような「合衆国」を志向すべきです。その魁を最大の被害者だった東北が果たそうとしています。すでに北東北3県は、2010年に対等合併して「東北特別県」を創設し、中央政府から大幅な政治・行政的権限の移譲を受けて、連邦制の大前提である道州制の実現を目指す動きを具体化させました。

 「石をもて追はるるごとく…」故郷を棄てた啄木でさえ、春が来ると異郷にあって、「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」と熱い思いをつづりました。僕の東北への思いも、年とともに熱いものがあります。東京人、いや仙台人すら大部分は無関心ですが、すでに東北各地には、「中央の権力に頼らず、自分達の力で未来創りあげていこう」という運動が澎湃と起こっています。そうした運動に残りの人生のできるだけ多くを捧げること、それが僕の念願です。
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2003年4月3日

439

平松さんの“欣急”召集
 「ノダちゃん元気? 24日急に上京することになったが、夜空けてくれない? 今後やりたいことが山ほどあって、例の仲間に聞いてもらいたいんだ…」と受話器を通して平松(守彦)先輩独特の明るい声。祈る気持ちで急ぎ手帳を見ると、幸いその日は東京にいて、夜の先約はどうにか動かせそう。そこで、「…OK、ヒラマツちゃん! 場所決めて楽しみに待ってますよ…」と電話を切ったのが、たしか14日昼前。

 こうしたことはもう慣れっこで、僕はそれを“欣急”召集と呼んでいます。平松さんから声がかかると万難を排しても駆けつける人々は各界に数えきれません。今回もわずか実質一週間前の連絡なのに、欣急召集に応じて当日都内某所に顔を揃えた「例の仲間」は、阿久悠、椎名武雄、城山三郎、草柳文恵、壇ふみ…各氏。職業、年齢、性別を異にしても、みんなヒラマツちゃんの熱烈なファン、そして、昔からの仲。

 今年七十九歳を迎える平松さんはその夜、今春大分県知事退任後に構想している雄大にして多彩な人生計画を、熱っぽく僕たちに語ってくれました。平松さんをよく知らない人なら多分功成り名遂げた年寄りの放談と受け取りかねない大構想に対し、僕たちは誰一人その実現を疑うことなく、胸の熱くなる期待を持って、固く協力を約束したのです。

 「一村一品運動」、「豊の国テクノポリス」、「ローカル外交」…といった政策や、それを進めるために県民に呼びかけた「県は自ら助くる者を助く」、「テクノポリスに教科書はない」、「グローバルに発想し、ローカルに行動せよ」といった血のかよった哲学、そしてそれぞれの素晴らしい実績…。平松さんが故郷に帰って四半世紀、今もって在京の各界指導者によって「平松守彦を総理にする会」が盛大につづいている所以です。
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2003年3月26日

438

「戦争反対」の自由の有難さ
 先週金曜日の午後新橋駅の前で、デモ隊の長い列とぶつかりました。交差点は車と通行人で溢れていたので、やむなく暫しの人間ウオッチング。…プラカードなどを手に持ち、時々何か叫びながら行くデモ参加者の顔からは、なぜか強い意思や秘められた怒りはほとんど感じられず、反面、車に乗っている人や横断歩道を渡ろうとしている人の多くからは、困惑よりは苛立ちの表情がありありと読み取れました。

 一瞬脳裏に蘇った若い日の思い出。日中事変の勃発を契機に戦時体制の機運が次第に深まっていったとはいえ、日米決戦を主張していたのは、一部の右翼過激派だけでした。が、

 昭和15年秋突然「大政翼賛会」が結成されるや事態は一変。

 過激派の声は一段と高まるとともに、平和主義はもとより対米戦慎重論すら完全に沈黙し、翌年末には、真珠湾攻撃が決行されたのです。開戦後はもとよりそれ以前ですら、反戦を口にする自由は国家権力により完全に圧殺され戦争が国民運動化された点、少なくとも現在の米国の比ではありません。

 太平洋戦争末期のある日、日比谷公園を通りかかった時、大勢の人達が集まって気勢を挙げていました。ふと見上げると、白い布地に黒々と書かれていた文字は「鬼畜米英撃滅大会」。食うものも着るものもなく、住む家さえ焼き払われてなお、国民の敵愾心は旺盛に見えました。いや、そう見せずにはおかない恐怖政治がまだ支配的だったのです。敗戦以外に国民がこの権力から解放される道があったとは思えません。

 「サダムに血と魂を!」と叫ぶイラク国民に、かつての日本国民の姿が重なります。平和は万人の願いとはいえ、この世界に独裁国家が存在する限り、暖衣飽食国民の叫びだけで真の平和が到来しないことも、また厳然たる事実なのです。
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2003年3月19日

437

映画『アテルイ』に泣く
 先週土曜、仙台で長編アニメ映画『アテルイ』を観ました。「東北の独立」を生涯の理想とする僕はひどく感激し、何回も泣かされました。正にアテルイこそ、東北人の鑑…

 大化の改新を成功させた大和朝廷は、国家としての権力体制を整備するとともに、支配下になかった東北への侵略政策を断行しました。「蝦夷」などという蔑称で呼ばれたものの、豊穣な北の大地の上に各土族ごとに分かれ住んでいた古代東北人たちは、自然を崇め、争いを好まず、異民族にさえ心を開きながら平和な生活を送っていましたから、高度に武装された軍隊を引き連れて遠征してきた「征夷大将軍」の前には抗するすべもなく、短期間で次々に降伏させられ、“俘囚”として苦痛と屈辱の生活を強いられることになりました。

 そんな時代に、不当な侵略に対して敢然と反抗し、しかも何回となく侵略者に大きな打撃を与えた英雄こそ、アテルイです。残念ながら、アテルイに関する確かな史実はありませんが、若くして各族長から頼られるだけの英知と指導力を兼ね備えた人物だったこと、平和を望んだ彼は征夷大将軍坂之上田村麻呂に和睦を申し入れ、坂之上の勧めでともに大和朝廷の地に向かったまま図られて無念の死を遂げた、といったことだけが、東北人の間で長く語り伝えられてきたのです。

 アテルイ死後1200年、また戊辰の役後135年、東北は一貫して大和朝廷以来の流れを汲む国家権力の支配下に置かれてきました。結果としてそれが「東北人に幸せをもたらしたのか…」という漠然とした疑念が、いま東北各地に澎湃と起こり始めています。東北人による東北人のための映画『アテルイ』が、この漠然たる時代的疑念を強め、広げるために大きな影響を与えることを心から望んでやみません。
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2003年3月13日

436

今や、東北こそ活力の源泉だ!
 相変わらず東京と仙台を頻繁に行き来する生活を送っています。仙台は僕にとって今や、東京にいては絶対不可能な知的刺激の享受と素晴らしい人脈形成のための拠点。例えば、先週の新潟から山形へかけての旅から得た感動的体験…。

 「中国の安い人件費によって工業の空洞化を迫られている日本」というのは、統計的裏づけからは誰も否定できない一般的事実ですから、東京で何不自由の無い生活を送りながら天下国家を憂うる各界エリートにとっては、それが共通の不定愁訴にもなりましょう。が、地方しかも東京の権威に屈しない地方から見た日本は、また全然別の様相を呈します。

 かぼちゃなどの野菜から環境に優しい生分解性プラスティックの原料を精製するプラント建設は米沢市で進行中ですが、上越の柿崎町では、デンプン質のより高い古米(将来は工業米)に目をつけてそれを追おうとしています。一方、ドイツの技術を使って、建築廃材や山林の間伐材から燃料電池用の水素ガスを精製しようとするニュービジネスも、日本唯一の石油と天然ガスの生産地新潟で近く誕生するはずです。

 去る5日夜、平山知事を囲んでの夕食懇談会は、これらの事業を手がける経営者や専門家も列席して大いに盛り上がりましたが、東京から駆けつけた当地出身の池田毅君(新潟精密社長)によって、「バイオマスの夕」は「エレクトロニクスの夕」に一転。同君がここ15年来執念で追求してきた“ワンチップ”(全電子部品の組み込まれた極小の半導体)が遂にカーラジオチューナー用で成功したと、同君は新製品持参で大ニコニコ…。出席者も交互に視聴して大ニコニコ…。

 携帯電話用ワンチップによってリストフォンの時代が到来すれば、同社は正に「第二のソニー」の偉業達成ですぞ…。
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2003年3月5日

435

つくづく考えさせられたこと
 ハワイ島のホテルに着いたのは昼前。「2時にスタート取っといたよ…」と、嫁と並んで孫娘を抱いた息子の笑顔が待っていました。となると、くつろぐ余裕もなく昼食をとって隣接のゴルフ場へ。が、心には多少のためらい。というのは、僕の体の唯一の弱点といえる腰の具合が年末来思わしくなく、ゴルフはやめて養生をつづけたのに、痛みはまだ引いていなかったからです。しかし何と…、黄昏の気配が漂いはじめた頃プレーを終わってみると、腰痛は嘘のように消えてしまっていたではありませんか。カートを運転する息子の「親父、明日は2回戦よ…」の誘いに、心うきうきと「OK!」。

 翌日早朝、「ばっかじゃないの…」というワイフの厳しい愛の励ましを背に部屋を出て、再び息子とともに颯爽とゴルフ場へ向かい、簡単な食事をとってから7時52分スタート。前日のようなオッカナビックリでなく、強豪の息子を相手に一打一打下手なりに渾身を込めてのショットをつづけ、11時頃最後のパットを沈めるや意気揚々と上がってクラブハウスへ…。「乾杯!」の声高らかに、大ジョッキに泡もこぼれんばかりに盛られた生ビールをグイ、グイ、グイと飲み干した時の爽快感…。見渡せば、限りなく蒼い空に浮かぶ乳白色の散ぎれ雲、紺青の海に点々と心細げに漂うヨット、そして眼下には、強い陽光をうけて目に沁みんばかりに輝く芝生の緑…。

 …とうわけで、一日半3ラウンドのゴルフで腰の具合ますます快調。翌日は家族一同ホノルルに移動し、長男の結婚式を無事済ましたあとドライブやショッピングの2日間を楽しみ、25日ご機嫌で帰国しました。還暦まで海外移住が僕の夢でしたが、それがかなわなくなった今、真冬だけでも日本を離れ、暖かい土地でのんびり過ごそうと本気で考えています。
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2003年2月25日

434

世に度し難きは、大学教授
 2月15日(日曜日)の日経本紙の『いきいき術』に僕のインタヴュー記事が掲載されていました。赤坂のオフィスで取材を受けた時、「いつも元気はつらつとされていますが、何か健康法は?」と聞かれて、一瞬絶句。苦し紛れに、「独りで車を運転しながら、大声を張り上げて、悪党や卑怯者を怒鳴ったり、好きな歌を歌ったりして気分を発散させてることでしょう…」と答えたところ、何を怒鳴るとか、どんな歌を歌うとかがそのまま報道されてお恥ずかしい限りです。ワイフからも大目玉を食らいました。

 それにしてもこの半年、「AERA」(朝日新聞)の『現代の肖像』、「エコノミスト」(毎日新聞)の『人間探検』と、僕のようにすでに現役を引退した人間がたてつづけに取材対象にされる理由はよく分かりません。先週はハワイへ向かう飛行機の中で、つれづれなるままにそのことを何となく考えいて到達した結論は簡単。上記3つの記事内容の共通点からして、僕が(良かれ悪しかれ、日本の)大学教授のイメージから余ほど逸脱した人物だということ。

 僕が大学教授に悪印象を抱いたのはすでに大学生時代でしたから、進んで大学に残ったはずはありません。好条件を提示されたため、とりあえず研究室に残って以来、辞める機会を何回も逸しつづけ、遂に大学教授として年齢を重ねてしまっただけです。いま半世紀を省みて「一番嫌いな者は?」と問われると、学生時代よりもっと自信をもって答えます。「大学教授」と。だから僕はこれまで一貫して、「大学教授らしくなく」ということをモットーにして生きてきたつもりです。この生きざまが改めて評価されたとしたら、これほど嬉しく誇らしいことはありません。
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2003年2月18日

433

中学生を侮るなかれ!
 …私にあるのは、公立小学校に通った6年間と、塾に通いながら受験し、入学した東朋館での2年半だけである。その自分の経験と現代社会の種々の事象をもとに、まず考えた。同時に、父や母から学生時代の話を聞き、公立中学に通う友人とその生活時間帯や意識について話をした。妹や弟からも、意見を聞いた。「ゆとり教育」賛成、反対両方の立場の記述を繰り返し読み、数々のデータを検証していく中で、私なりに、ひとつの結論を導き出すことができたのではないかと思う。

 誰もが、良かれと思いながら改革にあたり教育にあたる。が、示された意図は、現場に投げ出された瞬間、諸々の要因により違った結果を生みだすことになる。キーワードは「生きる力」である。私は、考える。果たして「生きる力」は公教育によって周囲から与えてもらうことができるものなのだろうか。本来こうした資質は、(決してプログラムされた教育によってではなく)、各人が一生かけて、色々な知識や経験の積み重ねの中から、自分の力でつかみとっていくものではないのだろうか。もうそろそろ、「個性尊重」「子どもの人権」などの呪縛からとき放たれてもよいのではなかろうか…。

 先日福岡を訪れた際、旧知の東明館学園理事長麻生隆史君の依頼で、今年度合格者と父兄の方々を前に講演をしました。同学園は開設後わずか15年ながら、今や中・高一貫教育の成功で注目を集めています。高校への進学にあたり同学園は中学校3年生全員に自由課題の論文執筆を課していますが、上記はその一つ、河野君佳君の「ゆとり教育」についての論文のほんの一部です。同学園の教育成果の高さと、国の文教政策の浅はかさを、共に明快に物語ってくれて痛快です。
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2003年2月13日

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教師冥利を味わった夜
 先週末は仙台駅前再開発チーム関係者を伴って福岡へ。同じ政令指定都市でありながら、文化・スポーツ施設の整備度に関し両市にいかに大きな差があるかを再確認するために…。

 ダイエー・ホークスの本拠地としても有名な巨大多目的ドーム、大相撲九州場所を意識してつくられた国際センター、大音楽ホールとして性格と使用目的を異にする「アクロス福岡」と「マリンメッセ」、劇団「四季」専用のミュージカル・シアター、東京の「歌舞伎座」に匹敵する「博多座」…、その他空港、港湾、コンベンション施設、繁華街、ホテルや飲食店やエンターテインメントの多彩さにいたるまで、どれをとっても仙台は、残念ながら福岡の足元にも及びません。

 ですから僕はまず仙台駅前に、日本のどの都市にもない美しく、楽しく、そして賑わいのある玄関街をつくりあげ、それをきっかけに仙台、宮城、そして東北を活性化することを残りの人生の最大事業にするつもりです。幸い僕の事業に対する協力者や共鳴者は全国的に急速に増え広がっています。

 今回も石原隆司君が東京から、そして保太生君が鹿児島からわざわざ助っ人にやってきてくれました。石原君は、食文化と音楽、ことにミュージカルに関して売れっ子の評論家。また保君は、北九州の観光業界で今最も勢いのある城山観光ホテルのオーナー社長ですが、実は両君とも、僕が若い頃立教大学の教壇に立っていた時代の教え子だったのです。

 ホテル業以外にも積極的に事業展開をしてきた保君の最近の傑作は、福岡都心に開設した「しろやま乃湯」。自社の掘削技術を使い地下2000mから湧き出る天然温泉です。ここで露天風呂にゆっくり浸かったあと、昔の弟子たちと飲んだ酒の旨さと楽しさ…。正に教師冥利に酔いしれた福岡の夜でした。
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2003年2月6日

431

ピアッツァがとりもった友
 先週はローマの武藤順九さんと3回もファクスのやり取りをしました。僕は通信手段としてメールが好きでなく、単純な連絡以外には使いませんが、氏も同じらしく、しかも、必ず自筆でちゃんとした手紙の様式で書いてよこされます。氏の気持ちを勘案しながら僕も時間をかけてその度に返事の文章を練るわけで、メールでは味わえない知的充実感です。

 武藤さんは仙台のご出身で、その作品がすでにヴァチカン宮殿の永久保存となるなど、国際的に広く知られた芸術家。東京芸大を卒業後すぐ渡欧、若くして天賦の才能を海外で存分に発揮し、過去30年はローマを拠点に活動をされています。昨年僕は仙台駅前の再開発にあたり、一つの目玉としてイタリア風広場(ピアッツァ)を提案するとともに、その設計はイタリア人の一流専門家に依頼すべきだと強調しましたが、そのことを伝え聞いた氏がいたく感激され、望外の交友が始まったのです。まだ東京で二度会食歓談しただけですが、僕は氏にすでに何十年来の知己のような親しみを感じます。

 その武藤さんが、近くまた来日されます。今回は東京銀座で開催する個展やら、仙台での先祖のお墓参りやら、三井寺で行うインド政府後援の国際プロジェクトの打ち合わせとか…いろいろあって比較的長い滞在となるようですが、もちろん仙台駅前のピアッツァについては、二人で一緒に現場周辺を歩き回った上で、関係者の方々とかなり突っ込んだ意見交換をするつもりです。すでに昨年末お会いした時、武藤さんはかなり具体的なイメージを描いておられましたので、その後の展開が楽しみです。かりに仙台でできなかったとしても、僕たちは失望することなく、素晴らしいピアッツァを日本の他の大都市に実現させ、仙台市民を残念がらせてみせます。
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2003年1月29日

430

アド ホックな日々
 先週月曜の午後、窓ガラスごしに柔らかな冬の日差しの入る赤坂のオフィスで、音楽を聴きながらくつろいでいると、「…(来日中の)服部譲二君が明日の夜なら時間を空けられるので、いつものように先生のオフィスへ集まりましょうよ…」と南部靖之君からの電話。一日で人数は揃うかなと懸念しつつも(服部君にも久しぶりに会いたくて)快諾し、これはと思われる何人かの友人に電話で連絡をとり始めました。

 今回のように、誰かの突然の提案を受けるやお互いがこれと思われる友人知人に連絡し合って成立する集いのことを“アド ホック”な会と呼ぶなら、僕の赤坂オフィスは、正にそれを意識してサロン風にデザインされ、グランドピアノまで置いてありますから、別名“アド ホック”。毎日のように各界の人が集まります。翌日の夜、懸念は杞憂に終わって、8時を過ぎる頃には、参会者は何と30人を超えました。

 服部君はご承知のごとく、日本に生まれながら、長らくウイーンで音楽的才能を伸ばし、現在はロンドンに住んで、広くヨーロッパで活動しているヴァイオリニスト。最近は指揮者としても実績を重ね名声を高めていますが、同君の魅力は、音楽家としてはもちろん、育ちから来る素晴らしい人柄です。当日も演奏に先立ちこんな軽妙なスピーチ。

 「…なぜ悲しい曲があるのでしょう。悲しみに心が沈む時、人は誰でも孤独です。そんな時、悲しい曲は優しい友としてその人の心を癒してくれます…」と言っておいて、彼はクライスラーの「愛の悲しみ」を奏でる前に、「…悲しみといっても、彼のような場合には、好きな女性の機嫌を損ねたといった、大した悲しみだったとは思われませんが…」と肩をすぼませ、みんなをどっと笑わせてくれたりするのです。
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2003年1月23日

429

日本人の実力
 久しぶりに仙台に帰って最初のイヴェントは宮城総合研究所の新年会。単なる賀詞交歓会にしたくないと昨年末思案した結論は、阿部博之氏との新春対談。テーマは「日本人の実力」ということで快諾を得たものの、何しろ東北大学総長を退任された同氏は政府の総合科学技術会議の議員として僕と同じく毎週東京〜仙台を往復される身ですから、秘書同士は日程の調整には大いに苦労したようです。

 当日僕が冒頭とりあげたのは村上龍氏の『希望の国のエクソダス』(02年〜08年までの日本を舞台にした未来小説)。日本の中学生がアフガニスタンにわたって内戦戦士として活躍しているというCNNの報道をキッカケに、全国の中学生の間に登校拒否の運動が起こり急速に広がります。「(今の日本には)何もない。もはや死んだ国だ…。(が、この地には)生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊敬と誇り…がある」という少年戦士の一言が俄然同世代の共感を呼んだのです。中学は義務教育ですから、登校拒否は(大げさに言えば)国家への反逆。つまり今の日本は、中学生からさえ見捨てられようとしている「魅力のない国」、その国を少年たちがどう改革しようとするかが、この荒唐無稽の小説後半の展開です。

 実は90年代の半ば以降、中学生ではなく、あらゆる世代の日本人がさまざまな職業を通して人生の生きがいを海外諸国に求めることが、知られざる時代の風潮となっています。閉鎖性と集団主義に象徴される「息苦しい社会」に愛想を尽かした日本人が続々諸外国に散った後、それぞれの能力をそれぞれの国でどれだけ発揮できるのか。すでに学術や芸術、あるいは芸能やスポーツの世界での少数の先駆的成功例はあるものの、日本人の実力が全体として世界的に問われるのは、いよいよこれからだと言うべきでしょう。
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2003年1月15日

428

希わくは惜しまれつつ
 「一年の計は元旦にあり」。幼い頃から聞きなれたこの金言の意味を、今年ほど切実に味わったことはありません。理由の一つは、僕にとって今年が、四捨五入すれば80歳になった最初の正月であること。今一つは、時間をたっぷり感じながらの年末年始を、何十年ぶりに満喫したことです。

 還暦過ぎ頃から、「歳には見えない…」などと言われる度に、「ということは、僕が年寄りだということですよ…」と笑いとばしてきましたし、幸い生まれて以来病気らしい病気一つすることもなく元気に年を重ねてきました。が、平均寿命78歳弱という日本人男性の一人としては、いつ死んでもおかしくない歳に近づいたわけで、残された人生を「悔いなく生きる」ためには、言葉の真の意味で計画的であるべきだと、僕はこの歳になってやっと自覚したのです。

 過去半世紀間の僕の毎年の手帳をめくれば、年始から年末まで、朝から夜まで、週日から週末まで、白い箇所がほとんど見当たりません。他でもなく、仕事にせよ遊びにせよ僕がいかに忙しく生きてきたかの何よりの証拠です。「忙」とは「心を亡ぼす」、つまり無我夢中=無計画に生きる様を意味します。僕は今年からそういう生き方と絶縁します。

 今年も依頼される仕事は絶えないでしょう。会いたい人は増える一方でしょう。気の向かない仕事、会いたくない人を断りながら忙しい毎日を重ねれば、それが「悔いない人生」なのかと問われれば、答えは断然「否!」。「人生の真の宝」である家族や友人たちが心から惜しんでくれるような別れ、それを常に念頭に置きつつ残りの人生を生きるために、「計画」の持つ意味は、いま限りなく大きく感じられます。
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