2013年12月19日 |
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北朝鮮における前No.2・張氏の無残な死刑執行のニュー スの衝撃がなお冷めやらぬ年の瀬、国内では猪瀬東京都知事 に関する矮小な事件の真相究明が当面国民の関心を集めてい ますが、そうした中で、わが日本国の将来のあり方を左右し かねない事態も次第に表面化してきました。組閣以来1 年、 もっぱら“アベノミクス”という経済政策でそれなりの人気 を保ってきた安倍内閣が、いよいよその本命である“国家主 義”実現への意思を明らかに示し始めた感があるからです。
特定秘密保護法制定に対し国内各地で湧き起こった国民の 反対デモは自民党首脳にとっても予想を超えるものであった ことは、石破幹事長の「大声のデモはテロに匹敵」という失 言(?)に象徴されますが、それでも該法案は野党議員の懸 命の反対の声を背に、去る6 日議会で強行採決されました。 更に今週初めには、「国家安全保障戦略」(NSS)と共に新 防衛大綱も閣議決定され、四海次第に波荒くなりつつある時 代に、一旦緩急あった時点でのわが国の現実的対応の態勢は、 ここへ来て急速に現実化されてきたと言えましょう。
こうした状況に対して、戦前の日本社会を体験している僕 の心境は極めて複雑です。現憲法も“自衛権”を認めている 以上、一旦緩急あった場合に備え、政府としては、法制度的 にも現実対応策としても怠りがあってはならぬことは当然な のですが、最近までは米軍全面依存のいわゆる“傘の下”政 策がなし崩し的につづけられたのが、今や仇となったと言え ましょう。いよいよ日本国民も現実的“自衛策”を講ぜざる をえなくなった時期に当面しているとして、「その大業を、 果たして安倍内閣に託していいか?」と自問してみて、簡単 にそれを肯定できないこと、それが、僕の今の悩みです。 |
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2013年12月3日 |
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上記表題は、先週金曜午前、日経ホールの「日経ビジネス 創造支援フォーラム」での僕の講演の演題です。対象は中小 企業・小規模企業の経営者の方々。僕は大学教授としてでは なく、半世紀にわたり都心で株式会社の個人事務所を維持し てきた経営者として、自らの体験を率直に語りました。
占領政策に伴う東大航空学科の廃止により「父親を超える 航空技術者たらん」という少年時代からの一途な目標を喪失 し、やむなく理系から文系へ転じた僕の心を惹きつけたもの、 それは、占領政策によって大企業の活動が何かと大きな制約 を受けていた時代に、各分野で逞しく活動し始めた起業家た ち。早速、大学で「経営概説」という講義を聴講しましたが、 何とそれは企業の“死体解剖論”。しかしそれが返って僕に、 “生き生きと活動する企業”への関心をより強めました。
卒業後は起業家にでもなるべきだった僕は、思いがけず特 研生として大学に残されましたが、研究者としての対象は、 以後一貫して“生き生きと活動する企業”。この研究関心を 満たすために決定的に不自由な東大を去って立教へ移ったも のの、大学はやはり、立地・研究室の狭さと使用条件・何よ りも専属の協力者を自由に雇用できない制約…といった点で 満足できず、研究者としてのみか教育者としても必要な僕独 自の活動の推進基地として、個人事務所を開設したのです。
先週の講演後、立派な企業経営者になった昔の僕のゼミ生 二人も挨拶に来て昼食を共にしましたが、「学生時代の先生 の講義は、産業界に入ってから本当に役立ちました…」と言 われた時の僕の嬉しさ…。彼らこそ、“生き生きと活動する 企業”を専攻する大学教授としての僕の生き証人。「限りな く個性的であること」、これこそ、中小企業永続の鉄則です。
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2013年11月25日 |
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現行の“民主的”手続きによって選出された国会議員の多く を人間的に信用していない僕は、彼らによって目下衆院可決が 着々と進められている「秘密保護法案」の行方には、殊のほか 神経をとがらせています。積極推進派の連中がどのように抗弁 しようと、戦前の国家主義的日本社会の息苦しさを思う存分味 わった僕にとって、この法律の施行を契機として、日本社会の 動向は為政者による一般国民に対する“言論の自由”の一段と 抑圧が早まることは必然的であると確信しています。
ギリシャの昔から、デモクラシーは「選良の劣化」により早 かれ遅かれ“衆愚政治”に陥るものとされてきましたから、僕 は終戦後以来、その推移に殊のほか関心を払ってきましたが、 “貰い物のデモクラシー”にしては、劣化速度は意外に遅かっ たと言えます。しかし、好運に次ぐ好運の経済成長が70 年代 で終わり、能力・人格とも劣化した政治指導者と“にわか成金” 根性の国民の慢心が引き起こしたバブル経済の崩壊は、遂に、 事実上今日まで続いている長い“第二の敗戦”期を生みました。
折悪しくこの間、世界情勢も政治・経済両面で日本に不利な 時代だった上に、殊にここ数年は近隣の中国とは領土問題、韓 国とは(戦前の慰安婦などへの)保障問題で正常な国交が不可 能に近い状態にまで悪化しつつあります。正にこの時期に、我 が国では戦後最も右翼的と考えられる安倍政権が誕生し、政治 家同士で互いに陰に陽に国民をみだりに刺激するような言動を 発しては自らの存在感を示し続けていると言えましょう。
ただし(Rapport-905)にも記した釜山市での記念講演で、 臆せず・大声で・率直に上記のようなことを訴えた僕に対する 満堂の韓国聴衆からの熱い反響は、今も僕を励まし続けていま す。どこの国の国民も、共に愚かな政治家の犠牲者なのです。 |
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2013年11月14日 |
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最近のJR 北海道での現場データ改ざんとか一流百貨店の食 品偽装といった事件の報道に接すると、僕は何故かピーター・ ドラッカーのことを思い出す。もう40 年以上も昔のある夏、 彼に招かれてコロラドの避暑地エステス・パークの山荘で歓 談の夜を過ごした翌朝のことだ。素晴しい好天に恵まれ、彼 に誘われるままに、僕たちは一緒に近くの山道を辿った。
山道と言っても、滞在客たちに絶景を楽しませるためのハ イキング・コースだったが、学生時代から山岳部で足を鍛え た僕の方が長身の彼を終始引き離しがちだったから、僕はゆ っくり歩きながらも後ろからの彼の呼声で何回か一休みした。 さて、素晴しい展望が開けたある場所で腰を下ろしていた時 のことだ。僕の前にしゃがんだ彼は、傍に落ちていた木の枝 でいきなり地面に円を書いて真ん中にぽんと点を押すや、微 笑みながら僕を見上げ、「これ、何だと思う?」と問うた。
そして、僕が首を横に振るや否や、「…オーガニゼション・ チャート(組織図)は危険なものだ…」と彼は一段と声を高 めながら、「…組織図は山の形をしているから、そのトップに 居る会社社長は、自分が一番下界を知っていると思いがちだ が、それが最も危険だ。だから私は彼らに(…と、さっき書 いた円の真ん中の点に枝を差し込みながら)『球の中心に閉じ 込められている、これが貴方だと常に思いなさい』と忠告し ている…」と言うや、「大会社ほど、周りの壁は厚い…」と、 その枝でその円の内側を力一杯何回も何回もなぞった。
ふだんはにこやかでジョーク好きなドラッカーだっただけ に、あの時の彼の迫力は余計忘れられないが、社長の経験も ない彼の話を、各国の一流会社の社長が競って聴きたがった ことの理由の一端を、僕が知らされたひと時だった。
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2013年11月5日 |
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園遊会の場で天皇陛下に手紙を手渡した山本太郎議員に対 し、マスコミやネットで有名・無名の人たちの議論が噴出し ていますが、肯定的意見はほとんど無く、あの橋下徹大阪市 長さえ痛烈な批判を投げかけたことは驚きでした。山本議員 のやったような非常識な行為を罰する法律がない以上、本人 が突っ張れば、やがて“道理”は引っ込む他はありません。
今年夏の参院選に立候補を表明し、過激な主張で約67 万票 を獲得した人物だけに、東京都民に多くの支持者がいる限り、 今後も奇抜なパフォーマンスをくりひろげつづけるはず…。 ギリシャの昔から「デモクラシーの末路は“愚民政治”」と覚 悟はしていましたが、前世紀末から今日までの約30 年間、日 本国の最高権力者である国会議員の人間的資質は低下しつづ け、山本議員に象徴されるように、今や末期的状態です。
戦後日本の経済復興・成長期には、“国会議員”はそれなり に魅力のある職業で、相当な人物が立候補し、庶民も“選良” 選びに真剣でした。しかし、日本に高度産業社会が確立する や、魅力的職業は増加し続ける一方、職業としての国会議員 の魅力は激減し、極論すれば、彼らの大部分は、“家業として の政治家”の子弟か子飼いの余得職、あるいは、まともな職 業から脱落した輩の“一発勝負”の対象となり果てたのです。
ところで、宮城県立大学の学長時代に東北各地を訪れなが ら僕は、地方の小さい市町村の首長の多くが、その人品骨柄 からも政治家としての理念と実績両面からも、さすがに住民 から選出されただけの人物だと、よく実感させられたもので す。したがって、問題は国会議員。日本の民主主義を蘇らす ためには、国会議員選出に関して抜本的な制度改革が絶対に 必要ですが、その実現を阻む輩は、正に国会議員たち。嗚呼! |
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2013年10月22日 |
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先週後半は久しぶりに、ソウル〜釜山への韓国出張。最も 印象に残った思い出は、ソウルでの朝鮮日報記者の熱心な取 材と、釜山の「直轄市昇格50 周年祝賀会」での僕の記念講演 後控え室へ集まった学生たちとの会話。このどちらもが、僕の息子のような趙佑鎭君(多摩大学教授)の名通訳のおかげ もあり、悪化している日韓関係に関しての僕の率直な見解に 対する韓国の人々の予想外の共鳴共感に大いに感激しました。
上記どちらの場合も、最初の僕の切り出しは「日韓関係が 極度に悪化している現在、韓国での講演を頼まれた日本人は、 断わるか、または、ためらいながら来韓するのが普通でしょうが、僕は違います。今こそ、一日本人として僕自身が考え ていることを直接率直に韓国の人々に語りかけたいとの思いで、張り切ってやってきたのです…」で、戦前・戦中・戦後 を生々しく体験した一人の日本人として、最近の日韓関係悪 化の根因とその抜本的改善の考え方を、率直に話したのです。
朝鮮日報の取材申し入れは、「ホテルのロビーで朝30 分」 ということでしたが、話し出すと双方とも気が乗ってしまい、 遂にホテルからソウル駅までの車中から(釜山行き新幹線に僕たちが乗車する寸前の)プラットフォーム上まで、実に2 時間半にわたる取材となった次第。釜山のホテルの大宴会場 での講演では、市が各階層別に招待したと思われる約300 名 の聴衆の醸し出す真剣な雰囲気に深い感銘を受けました。講演後、招待された学生の全員が控え室にやってきて、実に2 時間にわたって僕と真剣な質疑応答をつづけ、帰途には、全員がエレベータの前に整列して僕を見送ってくれたのです。
国家間の関係悪化は、主に政治家が創り出すもの。われわれは、それを増幅させるマスコミに踊らされてはなりません。
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2013年10月1日 |
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1903 年、中学生だった僕の父は、ライト兄弟が人類最初の 初飛行に成功したというニュースに感動するや、航空力学を 専攻する意志を固めました。しかし、努力して大学の理学部 物理学科に入学を果たしたものの、明治末期の日本には帝国 大学にも航空力学の専門家は居らず、卒業後海軍技術研究所 に職を得た父は、進んでドイツに留学し日本人としては初め て正当な航空力学を学んで帰国し、恩師の指示で、当時軍の 要請を受けて軍用機の開発に乗り出そうとしていた三菱に入 社、航空機製造工場がつくられた名古屋に赴任しました。
父は日本の航空技術の水準を超えるものとすべく、会社に 毎年最優秀な大学卒業生の採用をうながし、次々に当時航空 先進国であった欧米諸国に派遣してその才能を伸張させまし た。父を尊敬し自然に熱烈な“航空少年”になっていた僕の 胸を轟かせた名機九六式艦戦や零戦、その設計主任の名を誇 らしげな表情の父から聞いて以来、“堀越二郎”は僕の憧れと なりました。彼の誕生は1903 年、誕生日は何と僕と同じ6 月22 日。以来、彼こそが僕の生きた人生目標だったのです。
敗戦でその目標を失った僕が、好まぬ大学教授としての人 生を切り開きやっと満86 歳の安らぎに達した時、何と“堀越 二郎”は『風立ちぬ』で時の人となったではありませんか…。 アニメーション映画の趣味がない僕でしたが、妻に誘われる まま期待して映画館に足を運びましたが、率直に言って、大 きな怒りに駆られました。映画の主人公はひ弱な青年で、肺 を病む深窓の令嬢と恋に落ち結婚までする一方、新入社員の 頃から会社ではまるで設計主任のような働きをしますが、こ れらは全て商業主義に基づく虚構。僕の憧れた堀越二郎はこ の映画で完全に汚されました。僕は宮崎駿監督を許しません。 |
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2013年9月17日 |
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昨日は“敬老の日”。日曜の一昨日は早々と娘や息子たち、 教え子や友人たち大勢から温かい祝いの言葉をおくって貰っ て、長寿冥利を十二分に味わった次第です。
目下86 歳3ヶ月。悠々自適の心境からはまだ程遠く、現在 の事業構想大学院学長職は、幸い建学の基礎が固まったため、 来年4 月からは後輩の清成忠男君にバトンタッチし、僕はま た新しい大学づくりに取り掛かります。原稿、講演、放送… の仕事に日々苛まれて最近不調のゴルフも、“エージシュータ ー”を目指して練習に身を入れねばなりません。顧問を引き 受けているネパール航空のヴァッタ社長からは、念願のヒマ ラヤ行きを誘われており、中秋から初冬にかけてが天候安定 期ということから、何とか今年中に達成したいと計画中です。
日本の人口構成で65 歳以上がほぼ25% に達したため、最 近マスコミ上では、有識者たちがしきりに“生産”年齢人口 の減少を憂いていますが、そんな紋きり型の発言に接する度 に僕の心には、「…歳を取ったからこそできる仕事で日々忙し い自分は、“生産”などという世俗的言葉を使う水準以上の社 会的貢献をしてるんだ…」という誇りと自信が湧いてきます。
さて、その僕が「長生きしたいとは思わない」と言えば、 多くの人は「いや、もう十分長生きしてるのに」と白けるこ とでしょうが、人生でできた貴重な親友にこの十年間に次々 に先立たれた僕にしては、これから更に長生きした結果、残 る親友にも頼る身内の多くにも死に別れ、周囲から「あの爺 さん、未だ生きてる…」などと白い目で見られるのは真っ平。 死んだ時、困る人はおろか、惜しんでくれる人も悲しんでく れる人もいないのも真っ平。死に遅れて、あの世で待つ両親 や親しい友人たちに、また先立たれるのは、更に真っ平…。
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2013年9月9日 |
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昨日日本全土は歓喜に包まれました。「2020 年オリンピッ ク東京開催決定」。僕もご機嫌でワープロに向かい、ある雑誌 の依頼原稿に係わる丸山真男氏の経歴を確認すべくインター ネットを開いたところ、『丸山真男をひっぱたきたい』と題す る檄文が目に入り、一読するや、深く考え込まされました。
朝日新聞社の『論座』(2007 年1 月号)の掲載記事の再録 のようですが、僕にとっては初見。筆者は31 歳の男性フリ ーター。学校卒業後も定職には就けず、親元に寄生して、結 婚の夢すら抱けず、「フリーターがGDPを押し下げている」、 「最近の若者は無気力」…といったマスコミの報道に接するう ちに、極度の反社会的思想を抱くに至ったようです。
「平和社会を目指すという良識的な思想は、社会の歪みをポ ストバブル世代に押し付け、経済成長世代にのみ都合のいい 社会の達成を目指している」とする不平等感が鬱積した結果、 彼は「ポストバブル世代の弱者、現代の若者たちが向かう先 の一つは『右傾化』。…いっそ戦争でも起これば“ご破算”で、 日本は平等化する」という過激な思想に達したのです。
戦時中、思想犯として逮捕歴のあったわれわれ世代の教祖・ 丸山先生は、30 歳にして二等兵として徴兵され、中学にも進 めなかった一等兵から散々ないじめに会ったとのことですが、 「戦争でも起こって現状がひっくり返れば、自分たちも“丸山 真男”をひっぱたける立場に立てるかも知れない」という、 現在の良識人から言わせればとんでもない一文を読みながら、 一瞬僕の頭を掠めたのは、「2020 年の日本は、果たしてオリ ンピックを華やかに開催できるほどの経済的豊かさと社会的 安定を保持しているだろうか?」という不安。今後この不安 は、僕の心の中で現実性を増して行きそうです。 |
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2013年8月30日 |
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去る20 日夜羽田を発ち、僕にとって5 回目となる地中海ク ルーズを楽しみ、昨夜イタリーから帰国しました。誘ってく れたのは今回も、“地中海狂”の南部靖之君。ご長男真希也君 のハネムーンも兼ね、3 夫婦に桂文枝師匠を含む親しい男女4 人を含む総勢10 人の全く気のおけない旅でしたが、出航も帰 港もリヴォルノだったため、僕が世界で一番好きな街フィレ ンツエの変わらぬ風景を2 回も満喫できたことは幸せでした。
クルーズの真髄は何といっても、一方ではサービスの完備 した大型客船での毎日の食事やイヴェントと、他方では日ご とに変わる寄港地でエキゾチックな旅を楽しむことにありま すが、どんな豪華客船でも、終日波の荒い海上を航行しつづ けたり、あるいは寄港地の町ないし街に魅力を感じなかった りすれば、変人以外は誰でもすぐ飽き飽きすることは必定。
これまでの長い人生で国内外いろいろなクルーズを経験し た僕にとって、少なくとも一週間以上のクルーズを本当に楽 しめるためのあらゆる条件を兼ね備えている場所と言えば、 (エーゲ海やアドリア海を含む)いわゆる地中海を除いて他 にないというのが結論で、このところ数年を措かず、機会さ えあれば、喜び勇んで地中海の旅に出かけてきた所以です。
…と時差を感じつつ、つれづれなるままに得意然と“クル ーズ”論を書きつづってきましたが、「書き残した大切なこと は…」と考え直してみて、すぐ思い浮かんだのは「道連れは 誰か?」ということ。クルーズ船内の雰囲気は、“独り旅”の 感傷を楽しむセンチメンタリストには全く向きませんし、「誰 とでも親しくなれる」外向的性格の人にとっても、クルーズ の雰囲気では、船上で知り合った人と無聊を慰めうる可能性 は極めて少ないはず。クルーズこそ、正に「旅は道連れ…」。 |
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2013年8月15日 |
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今日は敗戦後68 年目の日本人には忘れられぬ日。偶然この 日にキリのいいRapport − 900 号を書くに当たって、僕は自 宅マンションの倉庫に下り、書類ケースの中で眠っていた昔 のRapport の束の中からRapport − 1 を取り出してきました。
その日付は1994 年11 月1 日。表題は『大きさと強さ』。 その内容は、地球上最大の動物でもあった恐竜類の絶滅の過 程を例に、安定した環境の中では力を発揮できた“巨大さ”は、 環境の変化とくに急激な変化の到来時には、かえって適応力 の障害となり、滅亡の原因になることを強調しています。
時あたかも日本では、経済的には、80 年代後半のあの狂乱 のバブルの崩壊が識者の間でもまだまだ現実的に認識されて いない時代。また政治的には、国民の信を失った自民党政権 が崩壊して以後は、それこそ実質的な空白時代。93 年夏には 非自民連合の細川内閣が成立しましたが、翌年春には早くも 崩壊、その後成立した羽田内閣も秋には崩壊して村山内閣成 立と…1 年で総理大臣が3 人入れ替わるという体たらくでした。 戦後思いがけず、図体(=経済)だけは巨大化した日本で したが、ご存知のごとく頭脳(=政治)は一向に向上しなか った点、巨大恐竜の哀れさにも似ています。要するに、日本 は今や、いま国政を担っている面々の識見・能力にはそぐわ ないほど巨大な国になってしまっていると認識すべきです。
かく言う僕は、現状をただ嘆く評論家ではありません。現 に、頼もしい友人・知人たちと共に、戦後の経済成長過程で 完全に過疎化してしまった淡路島を擬制共和国化することに よって逞しく蘇らせ、それを起爆剤にして日本国を再活性化 しようという壮大な事業まで推進しています。86 歳の今僕は、 戦後の哀れな青年時代の頃よりも遥かに颯爽と生きています。 |
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2013年8月7日 |
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突然「大昔、先生の講演を拝聴し…」と大村市の松本市長から 電話を受け、先月初め赤坂のホテルで夕食歓談しました。 同氏は父上が大村市長母上は女性県議だっただけに、東京の 大学を卒業して大企業に就職したものの、約十年後退職して 県議となり、87 年市長に選出されるや、斬新な政策を打ち出 して市財政を好転させ、次回選挙では無投票当選されました。
ところがその後、降って湧いたような収賄事件の被告とし て承服しがたい収監の身となり、市長の地位を失ったばかりか、 最愛の夫人の自殺と三男の急死という悲運に見舞われたのです。 この悲運にめげず氏は、同氏を信じて擁立する人々に励まさ れて02 年の市長選挙に勇躍立候補された矢先、何と思わぬ難 病にかかり、車椅子の身にもなられました。それにもめげず 氏は“奇跡の復活”を果たすや、市長として次々と積極的市 政を断行することにより、急速に悪化していた市財政を短期 間で好転させるという前人未到の奇跡を実現されたのです。
さて、この松本市長が不自由な身でわざわざ上京され、僕 に相談された案件は?…何とそれは、9 年後の長崎新幹線開通 に伴って建設される新駅前の広大な公有地に、大村の未来の 発展を拓く画期的大学の建設。…市長のお話を聞きながら僕 の頭に浮かんだのは、「限りなく個性的な小さい大学を中心と する空前のニュータウンの創出。それには、何としても隈研 吾君の協力…」。幸い市長の賛同を得て、僕は早速隈君に電話。
実は「果してあの超多忙な彼は…」と懸念しましたが、受話 器の向こうの隈君の声は予想外に弾んで、「面白い。それに先 生、私の先祖は大村藩士ですよ…」と。先週土曜、大村市の招 きで僕は隈君と第一回の現地視察をし、大いに自信を深めまし た。どうやら僕は、あと9 年は死ねなくなってしまいました。 |
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2013年7月24日 |
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参院選は大方の予想通り自民党の圧勝に終わりました。し かし今回の選挙は、09 年民主党が308 議席を獲得して第一党 となった衆院選の時に比べ著しく国民的盛り上がりを欠いた ことは、その投票率が09 年の際より10%も下回って戦後最 低に終わった事実が如実に示しています。これは自民党のみ の責任ではありません。あれほど国民の期待を集めて成立し た民主党政権の3 年間余の惨憺たる実績に対する有権者=日 本国民の議会政治への失望感の表れと見るべきでしょう。
あの敗戦から丸68 年の日が近づいてきました。当時18 歳 の一旧制高校生だった僕は、学徒動員先の東京郊外の工場の 庭で、真夏の太陽を浴びながら学友たちと共に整列して終戦 の詔勅を聞きました。スピーカーから流れでる陛下のお声は 実にか細く、率直に言って何を仰っているかは分かりません でしたが、誰かが突然あげた嗚咽で“敗戦”を実感させられ ました。暫し沈黙の時が流れる間、誰の心の中にも「死なな いで済んだ」という安堵感より、やがて必然的に経験させら れる“占領”への言い知れぬ不安感が広がって行きました。
主に“冷戦”という神風に始まった一連の国際関係の恩恵 に助けられ、敗戦国日本は短期間で驚異的経済復興・成長を 成し遂げて世界の主要国にまでなりましたが、その間お仕着 せの“民主主義”は、国民の間でその本質的意義を問われる こと無く徐々に形骸化し果てました。その象徴こそ(国家の 最高権力者である)国会議員の劣化に他なりません。僕の印 象では、衆・参を問わず、選挙が行われる度に国会議員の人 間的魅力・信頼度は低下し、それに反比例して政党の“横暴” 度は高まり、国民の政治的無関心は広がり続けたのです。
芭蕉翁を偲んで、「歯がゆうてやがて空しき選挙かな」。
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2013年7月12日 |
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梅雨明けと共に様々な団体による“夏季セミナー”が避暑 地で開催されるのは日本的慣習ですから、講師を依頼される 身には、7・8 月は結構忙しい季節です。ただし夏季セミナー は、“勉強”とは言え意外なテーマの依頼が多く、それを簡単 に引き受けた講師にとって、いざ本番となって深く考えさせ られます。先週八ヶ岳ロイヤルホテルで開催されたニュービ ジネス協議会の夏季セミナーで「突破力」というテーマでの 講演を簡単に応諾した後本番間近に同会事務局に書き送った 僕の以下のレジュメで、そうした苦労をお汲み取り下さい。
“突破力”は経営学者の間で使われる学術用語でもなければ 経営者の間で使われる“専門用語”でもない。“突破”という 語にふさわしい対語は“難局”だ。だから、「経営者の“突破 力”」とは、企業経営上何らかの難局に直面した際の、または、 何らかの難局に直面することを想定した経営者の対処の仕方 に他ならない。「こういう状況に際し経営者は?」と自らに問 うと、私の頭にはいろいろな経営者の顔が浮かんでくる。
私は過去半世紀間多くの企業経営者と親しく接してきたか ら、幾つかの実例に即しつつ“難局突破力”について語って みたい。ただし、“難局”の種類も程度も各様である上に、そ れに対処する経営者の個人的事情や立場も千差万別だから、 経営者全てに効果的な突破力などはありえない。企業を取り 巻く環境も、企業内に起こる諸問題も、経営者の個人的事情 …もそれぞれ異なる以上、経営者たるもの、自らに起こりう る主な“難局”とその際の心構えと方策を常に周到に想定し、 難局に際しては見事にそれらを実践に移して効果を挙げるこ とこそ、正にプロの経営者らしい見事な生き様と言うべきだ。 |
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2013年7月1日 |
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今日は「富士山の山開き」。先般山裾遥かな「美保の松原」 も含め大方の予想を裏切って世界遺産に登録が決定した富士 山には、今年は例年にも増して多くの登山客が訪れることで しょう。が、僕の富士登山拒否反応はより一層高まりました。
父親の影響で子供の頃に芽生えた僕の登山熱は大学時代の スキー山岳部を卒業した後は、秩父・大菩薩連峰や南ア連峰 前山の(森林や渓谷の)“山歩き”狂いまで含め30 年間ほど 続きましたが、何と富士山頂へは一度も登ったことがありま せん。よく大学山岳部員にありがちな「富士山なんて…、登 り甲斐なし」といったペダンティシズムからではありません。
昔「一度は登ってみようと」志してバスでスバルライン五 合目に到着した時、その混雑と猥雑さに衝撃を受けて引き返 して以来、「富士は遠くで仰ぐもの」という信念が固まってし まったからです。最近マスコミがしきりに報ずるところでは、 富士山の混雑は、千円や二千円の入山料の設定や中腹までの 自動車乗り入れ大幅制限くらいでは到底収まりそうもないと のこと。僕は多分一生の間、富士山頂には立たないでしょう。
ところで、日本のマスコミは最近、「(南海トラフによる) 大地震・大津波」と並べて「富士山の大噴火」の報道に熱心 です。これによってあの美しい円錐形は醜く山容を変えるだ けでなく、山麓一帯のみか遥か東京にまで噴火の激しい災害 が及ぶということですが、こうした過激報道には慣れっこの 日本人大衆は「ああ、またか」と冷静ですが、それらが諸外 国に流されるや、実情に疎い外国人観光客の多くが来日を取 りやめるか、躊躇することは当然でしょう。アベノミクスの 成長戦略の一環である「訪日外国人観光客2千万人」の夢は、 思わぬ“心無い内なる敵”によって阻まれているわけです。 |
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