nodakazuo.com 野田一夫 WebSite
プロフィール
関連リンク
はがき通信ラポール インターネット版
→English Page

2009年6月29日

749 『1Q84』と『1984年』

 この年齢になっても話題の新刊は読まずにおれない僕ですが、この週末は『1Q84』で苦労しました。若い頃から文学に親しんできたおかげで、1・2篇合わせて千ページを超す長編には辟易はしませんが、村上春樹氏の作風にはなぜかなじめず、読書のエネルギーがすぐ途切れてしまいがちなのです。

 かといって、今やわが国最高の人気作家である氏は、作品の多くが各国にも翻訳されて広く読まれているのみか、すでに数々の文学賞を受けていますから、まぎれもなく素晴らしい才能の持ち主。しかもこの最新作が、いかに出版社(+氏自身)の販売戦略の成功とはいえ、発行後一ヶ月で200万部に迫る売行きと聞いては、読まずにはおれなかったのです。

 読みながら、本書が“活字離れ”の定着している若年層の間で熱いファッション性人気の的だという事実を、よく納得できました。彼らは僕たちの世代の人間とは全く違った“新人類”だとすれば、僕の理性が絶えず首をひねるような行間を、彼らは独特の感性で苦もなく理解してしまうのでしょう。

 G・オーウェルの『1984年』は第二次大戦終結とともに勃発した“冷戦”の行く末に、ナチスの比ではない恐ろしい警察国家到来の可能性を欧米人に広く予感させ、ベストセラーとなっただけでなく、結果としてその後の“デモクラシー”の擁護と勝利に陰ながら大きな貢献を果したことは確かです。

 『1Q84』も同じ空想小説ですが、主題は社会体制ではなく、現世と同時並存する別次元の世界の存在が強調されます。第二次大戦の敗北後、日本が民主国家となって思わぬ経済的繁栄を遂げた果ての1984年頃を境に、にわかに変わってきた日本人的価値観と生き様の面妖さをさりげなく書き綴る本書は、果たして後世読者にどんな影響を与えるでしょうか。

このページのトップへ

2009年6月18日

748 千代の富士と多摩大学

 昨日赤坂のホテルで寺島実郎氏の多摩大学第五代学長就任の記念行事が催されました。新学長の講演の後の鼎談のため登壇した僕は、日馬富士について、こんな所感を述べました。

 「…先場所は最軽量力士の日馬富士が上背でも体重でも圧倒的に勝る琴欧洲や白鵬を破って優勝したが、勝因は小兵であることを見事にいかした“個性的”取り口。相撲と限らず、企業でも学校でも“大きさ”は“強さ”の基だが、それはまた@構成員の結束を保ちにくく、A意思決定と行動が遅く、環境変化に鈍感で、Bコスト・ベネフィットの原則を貫けない…といった組織上のデメリットも伴い、結局は、C個性の発揮を妨げる。逆が小さい組織のメリットで、個性を十二分に発揮できれば、日馬富士のような勝者になれるはず…」と。

 僕が多摩大学の創設の戦略を練っていた1988年、相撲界の王者は千代の富士でした。日馬富士とほぼ同程度に小兵の彼は、実に個性的な取り口で巨漢力士を倒しつづけてその年53連覇を成し遂げ、“昭和最後の横綱”の名を歴史に残しました。

 千代の富士を意識した甲斐があり、一学部・一学科で入学定員わずか160人だったとはいえ、89年の多摩大学の誕生も劇的でした。初年度の名目入試倍率33.3倍という、新設大学としては稀有な記録が端的に示したように、開学前から本学には、世間の評価が予想外に高まったのです。要は、規模の小ささを個性発揮で“強さ”に転じた戦略的努力の成果でした。

 新学長の就任が遅れたため、学長代行として昨年13年ぶりに戻った多摩大学では創設期の個性は失せ、入試倍率、偏差値、帰属収支差益…全ての点で僕を失望させました。「寺島君への責任を痛感しつつ僕が1年間懸命に行った再生努力は、果たしてどれほどの効果があったのか」、切に祈る気持です。

このページのトップへ

2009年6月9日

747 この素晴らしいアメリカ人

 今の日本社会の病状を象徴するものは、殺人・傷害から偽装・汚職にいたる暗い事件の頻発。それらをマスコミが連日大々的に報ずるために、いつしか僕までが“退廃不感症”に陥っていたところ、思いがけず、マスコミから感動の一撃・・・。

 読まれましたか? 5月30日(土)の朝日朝刊「be」版の主人公米国人ジェフリー・アイリッシュさん(文章は、偶然僕とも面識のあった山田厚史氏)。イェール大を飛び級で卒業し、一時はNYで起こした会社の副社長にまでなりながら、「・・・自分の目指した道ではない・・・」と退社してハーヴァード大大学院に入学、民俗学を専攻した同氏は、少年の頃からの日本への憧れを満たすべく京大に留学し、卒業するや再来日してその自然に魅了された南九州で定置網の漁船の漁夫を体験した後、人口28人・平均年齢81歳の「土喰村」に定住、質素な生活に甘んじながら、日本人の妻とともに村民たちの共同体を正に縁の下で支える充実した日々を過ごしています。

 あの日「立志挑戦塾」の講義で青森に飛んだ僕は、挨拶のため同席された三村知事に「本来日本人の誰かがしなければならないことを、進んでやってくれているこの素晴らしい外国人を青森に是非招いてほしい」と熱っぽく提案しました。何と、先週月曜朝には青森県庁から僕に同氏への接触要請があり、僕は早速朝日OBの親しい友人たちにその趣旨を伝えたところ、翌日には山田氏から直接電話までいただく・・・といった具合に万事はとんとん拍子で進行し、ついこの日曜夕方、僕はアイリッシュさんと電話を通じて実にいろいろな長話をしながら、未だ会いもしない彼に深い友情を感じてしまったのです。82歳を直前にし、この若い新しい友人となら拓いていけそうな期待すべき未来への予感に、僕の胸は躍ります!

このページのトップへ

2009年6月3日

746 オヤノコト・エキスポ

 743号で、認知症の母親の介護に疲れ果て自殺した清水由貴子さんのことを書きましたが、『週刊朝日』先々号も、野坂昭如氏など要介護者となった各界高齢有名人の伴侶の方々の苦労談を特集していました。この種の苦労談を親しい人から身近で聞いたことがない日本人は稀といっていいほど、“高齢化”は何時しかすでに深刻な段階に達してしまったようです。

 親子や夫婦の間でも“介護疲れ”は時が経つにつれ限界に近づくわけですから、ましてや介護施設で日々“他人”である老人や障害者の面倒をみる介護士の苦労は察するに余りあり、使命感を抱いてその職を選んだ人たちの多くが悩んだ挙句離職していくのも致し方ありません。したがって制度はどうであれ、結局、要介護者を“他人まかせ”にはできません。

 この認識に基づき、僕の若い友人の大澤尚宏君が有楽町・東京フォーラムで昨年立ち上げたのが「オヤノコト・エキスポ」という珍名称のビジネス・ショウ。つまり、東京のど真ん中に高齢者や介護者の助けとなる機器・用具・サービス・・・を一堂に集め、来場者に対し参加各社の専門家がそれぞれの賢い使い方を直々に説明し、加齢の不安と介護の苦労を少しでも(出来れば大いに)軽減してもらおうと考えたわけです。

 この狙いは成功し、昨年は2日間で2万人を超す来場者で賑わいました。僕はその実行委員会委員長を頼まれましたが、委員長はやはり斯界の専門家が適任と判断して副委員長となり、昨年は委員長に渥美和彦君(東大名誉教授。医学界の重鎮)を推した効果はてき面でした。今年の開催日は7月4〜5日ですが、実行委員長は菊竹清訓君(日本建築士会連合会名誉会長)が引き受けてくれました。昨年を上回る成果を確信しつつ、よき親友を持ったことの幸せを感じています。

このページのトップへ

2009年5月28日

745 日本はデモクラシーをものにできるか

 (ウォール・ストリート・ジャーナル紙の論説執筆者で、最近ニューヨーク・タイムズ紙へ移った)エメリー・パーカーさんが北京出張の帰途に先週来日、5日間東京で忙しく各分野の要人に取材して帰国しました。かつてRapportで紹介しましたが、彼女はハーヴァード大大学院在学中(僕の50年来の親友であるエズラ・ヴォーゲル教授の指導で)北アジア論を専攻していた時代に日本へ短期留学し、その時代に僕の講義を受けたことがキッカケで、僕とも師弟関係が生まれました。

 先週土曜夜、彼女の送別会の席上、最後に挨拶に立った彼女は「(久しぶりに滞在した日本は、予想していたより活気があり、社会も安定しているように思えるが)野田先生は日本の未来に対して悲観的なのは、どうしてでしょう・・・」と冗談っぽく話しました。その後で僕は答えました。「・・・(どこの国でも最高の権力である)政治指導者には、その国で能力・人柄とも最高レヴェルの人物がなるべきだが、(敗戦後対日占領政策の柱として日本に導入された)アメリカン・デモクラシーのおかげで、日本では時が経つにつれて政治指導者の質が劣化し、しかも(国民の多くがそれに気づいているにもかかわらず)改善の見通しは全くないこと・・・」と答えました。

 同夜は岸信夫氏(自民)、鈴木寛氏(民主)といった若手政治家も同席していましたが、僕は敢えてつづけました。「各国にはその国民にふさわしい政治形態があり、とくに米国型デモクラシーは(イラクのように)導入自身が無理と思われる国もあれば、(日本のように)定着したことが国力の衰退の因となる国もある。ブッシュ共和党政権の大失敗を教訓に、国民が次は予想外のオバマ民主党政権を誕生させるようなデモクラシーは、百年たっても日本には実現しないだろう」と。

このページのトップへ

2009年5月20日

744 これを黙っていられるか・・・

 本来なら週末に書くべき原稿を、急ぎ今日(18日)書いています。先号が遅れた罪償いのためではありません。今回の民主党代表選挙で岡田氏を大差で破って当選した新代表の鳩山氏が、こともあろうに小沢氏を(選挙担当の)代表代行に起用する人事を昨日決定したと知って驚いたからです。

 すでにご承知のように、僕が“週記”として二十数年書きつづけてきたRapportで毎回取り上げてきたテーマは、国際関係から経済・経営、社会・文化、学芸・芸能にまで及んだはずですが、国内政治に関しては全くと言っていいほど言及しませんでした。関心がなかったからではありません。それに対して、僕が久しく絶望してしまっていたからです。

 竹下内閣以後の自民党支配は、(小泉時代を含め)指導者の矮小性と愚劣な政策によって、日本と日本人を全く駄目にしたと、僕は断じます。国民の多くも遅まきながらそれに気づいて、自民党の退場を強く願い、(頼り甲斐のないことは分かっていながら、ただ自民党支配の終焉だけを期待して)ここ数年最大野党である民主党支持に大きく傾きました。

 が、この党はやはり政治的未熟者の集団でした。こともあろうに、最も悪しき自民党的体質の保持者である小沢氏を代表に選んで政権の獲得を夢見た上、しかも、先回の参院選での大勝が(反自民意識の急速な高まりによってではなく)小沢代表の政治家的手腕の成果だと信じてしまったのです。

 (国策捜査よりも、時代遅れの集金術の故に自ら墓穴を掘って)小沢氏がようやく退陣した後に、新代表が先ずやったことが、小沢氏を代表代行に指名したことだったとは・・・。“代行”とは本来、責任者に何かが起こった時に設けられる役職。鳩山氏の神経は、もはやKYどころではありません。

このページのトップへ

2009年5月19日

743 究極の人生美学

 20万年〜40万年前と謂われるホモ・サピエンスの誕生以来、“死”は人類にとって最も日常的な現象であったにもかかわらず、地域と時代を問わずこれほど特別視されつづけて今日に至った現象はありません。「生ある者は必ず死す」ことは当前と知りつつも、この世に生を受けた個々人にとって、死は人生最大の恐怖、また生前その人を愛し親しんだ親族や友人にとって、人生最大の悲哀、それが健全な社会の現実でした。

 しかしこの点、少なくとも最近の日本社会には、ある種の異変が起こりつつあります。“死”の恐怖を上回る“生”の苦しみや果かなさに耐え切れず自殺する人々の数は、景気に関係なく目立って逓増しています。最近の象徴的事件は、(母親の介護に疲れ果てた結果と思われる)女優清水由貴子さんの自殺。娘の遺体の傍らで、残された(認知症の)母親は車椅子に何時間もぼんやり腰をかけたままだったとのこと・・・。

 やがて彼女のために、誰がどのような葬式をしてあげるのでしょう・・・。先日映画『おくりびと』(Rapport-740)を観ながら、近頃の日本でのお通夜や告別式の場の雰囲気の変化が、ふっと僕の心をかすめました。一見厳粛な行事の進行の過程で、参集者、時には遺族の間にさえ漂う“何かホッとした”雰囲気、それを僕の心は微妙に感じとってしまうのです。

 僕の理想は、「家族や親しい知人たちが心から悲しみ、惜しんでくれる中で颯爽とあの世へ旅立つ」こと。・・・とは重々承知しながらもついつい自由奔放に生きてきた僕も、来月は82歳。残りの人生、この理想を胸に刻みつづけねばなりません。

(僕のオフィスでは、今年は10日間というGW長期休業を実施しましたが、休業明けには、溜まってしまった仕事で予想外に多忙を極め、Rapport‐743号が一週間遅れましたこと、謹んでお詫び申し上げます)

このページのトップへ

2009年4月27日

742 タムラレッドは宝厳院の緑に映えて・・・

 団体の理事会というものは、大体が楽しみに待つものではありませんが、船井情報科学財団のそれは例外です。毎年花の季節に京都で開かれ、会が終わると妻ともども祇園歌舞練場での「都おどり」への招待があるからです。しかも先々週末の年次総会は、京大桂キャンパスに船井哲良君が寄附した素晴らしい「船井ホール」で開催されたこともあってか、理事は全員出席、会の雰囲気も例年になく華やいだ感じでした。

 それに今回の京都行きは、僕とワイフには別の目的があって、理事会の日の前日に朝早く東京を発ち、京都へ着くや否や洛西の天龍寺へ直行。宝厳院内を飾る田村能里子さんの襖絵をじっくり鑑賞するためでした。絶好の日和、心地よい微風、花見時も終わって落ち着きを取り戻した嵐山の町並みの風情、小倉山の新緑を静かに揺らし映しつづける桂川の清流・・・何もかもが憂き世を忘れさせ、日本に生まれ、年を重ねつつ世の喜怒哀楽を味わい尽くし、傘寿を過ぎていま僕は、ようやくこの国の魅力の奥深さを感じとった思いでした。

 宝厳院は広大な天龍寺境内の最奥にあり、美しい嵐山の自然をふんだんに取り入れた借景回遊式の庭園は、巧みに配された名木、名石のほか一面の苔でよく知られていますが、“タムラレッド”と呼ばれる明るい煉瓦色を基調とした能里子さんの襖絵はこの庭園の目に沁みる緑に映えて、憧れ辿り着いた僕たちをただ静かに待ち受けてくれていました。室内の広さから、襖絵「風河燦燦、三三自在」58面全てを一度に鑑賞できないのは残念でしたが、多忙を極める彼女がここ1年半を犠牲にして描きあげた力作は、他の寺に比類のない宝厳院の宝として末永く善男善女の心を惹きつけることでしょう。

(大型連休を控え、次号は5月12日付とさせていただきます)

このページのトップへ

2009年4月22日

741 永遠に理系に留まる僕の心

 理系と文系というわが国独特の人間区分法があります。最終学歴である大学や専門学校の専攻が法・文・経などなら文系、理・工・医・農などなら理系で、卒業後とくに“勤め人”になった人々にとっては、人生を大きく左右する条件になることはご存知の通りです。例えば会社や官庁では、トップないし上級幹部の役職に着くのは文系出身者が圧倒的に多く、理系出身者の大部分は定年退職し、しかも文系出身者に比し好ましい再就職の機会も圧倒的に少ないことも否定できません。

 そんなことは百も承知で理系を選ぶ若者は、何となく進学しがちな文系の若者よりは頼もしく思うのは、過去を懐かしむ僕の偏見でしょうか。僕は少年時代に“零戦”の開発責任者をしていた父親に憧れて航空技術者たらんと志し、旧制高校までは一途に理系の道を進みました。ただし、敗戦に伴う占領政策の一環として「日本の航空機の生産ならびに保有は永久に禁止」された結果進学先の工学部航空学科も廃止となり、僕の少年の夢も果かなく潰え去りました。が、結局大学は文系出身ながら、僕の心は依然理系に留まっているのです。

 ところで、わが国では最近になって、退職技術者の多くがアジア諸国へ招聘され厚遇される事実から、大学理工系への進学希望者が激減している事実までが(わが国の製造業の将来を脅かす)一連の国家的危機としてようやく懸念されるようになり、“理系重視”がしきりに唱えられ始めました。先週もオフィスに来訪したある経済誌の編集長から、この方向でのキャンペーン企画への協力要請を受けましたが、心は依然として理系に留まっている僕としては、ものつくり=製造業の再生を含め、理系の振興になることなら、何でも積極的に行動しようと、年齢など忘れて目下大いに張り切っています。

このページのトップへ

2009年4月14日

740 『おくりびと』に感動!

 一年間にわたった多摩大学長代行職をし遂げた僕が自分に贈った二週間のヴァカンスのフィナーレに、先週末は銀座で『おくりびと』を鑑賞しました。ご多分にもれず、この作品が先般アカデミー賞外国語映画賞を受賞して以来関心を高め、凱旋上映の映画館の混雑が過ぎるのを心待ちしていたのです。

 事実上の原作(青木新門著『納棺夫日記』)で“納棺夫”という職業があることを始めて知ったのみか、著者のこの職業に就くまでのいきさつとその後の心境変化にいたく興味を惹かれるとともに、その知的水準と教養の高さに驚きました。もちろん同氏は納棺夫として別格とはいえ、この本を読んで納棺夫を志望する若者は、当分増えつづけることでしょう。

 さてこの映画は、主人公が納棺夫(映画では“納棺師”)の仕事を始めた頃の心の葛藤や、それを職業として受け入れながら身につけていく独特な人生観などは原作にほぼ忠実です。ただし物語としての具体的展開は全くオリジナルで、率直に言えば、作品としての訴求力としては、(さすがに、輝かしい受賞にふさわしく)映画が圧倒的に優れていると感じました。

 邦画はかつて完全に斜陽化しながら、06年に久しぶりに興行収入で洋画を抜いて以来毎年名作が目立つようになり、海外の映画祭での受賞作品が相次いでいるのはご承知の通りです。その点『おくりびと』も、制作者が白羽の矢を立てたベテラン監督は、極めて日本的な原作に基づいて世界の(とくに欧米の)映画ファンを感動させる作品を創るべく脚本家、音楽家、俳優陣を厳選し、見事にその目的を達したのです。

 明らかに文学作品として“日記”をしたためた青木新門氏は、この映画の大成功によって自著も再び脚光を浴び、今後文学者としての道が大きく開けることは間違いありません。

このページのトップへ

2009年4月7日

739 心をよぎった実存的不安

 一仕事をやり終えたという何となく爽快な気分に乗って、先週後半、かねてからワイフが家族同様の友人と計画していた関西の旅へジョインさせてもらいました。京都のホテルに二泊して花見でもする気楽な旅と思いきや、どうしてどうして、彼女らには明確な目的と綿密なスケジュールがあって、土曜夜帰宅するや、僕は風呂も入らずバッタン、キュー・・・。

 ワイフは「生きているうちに海外のカラヴァッジョ全作品と、国内の全国宝を見ておきたい・・・」といった、僕とは大違いの人生目標を抱くだけに、この旅も西は加古川、南は奈良に点在する僕が耳にしたこともない古寺を丹念に訪ね、時間をかけて建物や仏像を観賞する、その態度には、改めて脱帽!

 彼女たちが行く寺ごとに住職の国宝や重要文化財の説明に聞き入っている間、僕はそれぞれに美しい境内の庭を散歩しながら咲き誇る花々、飛び交う鳥たちを眺めて時間をつぶしていました。そのうちに、ふと心の片隅に、「もし仕事が無かったら、果たしてワイフたちのような生き甲斐ある“人生”はあるのだろうか・・・」という実存的不安がよぎったのです。

 小説も読めば映画も見る、ゴルフもすれば山にも登る。音楽会へも芝居にも足を運ぶ。友人たちと好んで会食歓談する。・・・そういう僕をいつか同年の友船井哲良君(船井電機創業者)が大勢の仲間の前で、「あんた、趣味がたくさんあっていいなあ、わしの趣味は仕事だけや・・・」と言った時、僕はすかさず「船井君、そんな言い方は、趣味に対しても仕事に対しても失礼だぞ・・・」と冗談を飛ばし一座を笑わせました。

 が、よくよく考えると僕の趣味は何れも、仕事の充足感に支えられた“骨休め”、“気分転換”・・・の類。遅まきながら僕も、人生を打ち込むに足る真の趣味を創造せねばなりません。

このページのトップへ

2009年3月31日

738 万歳! 寺島君にバトンタッチ

 「終わったぞー・・・」と大空に向って叫びたい気持です。明日多摩大学学長職のバトンを寺島実郎君に渡します。すでに一昨年暮から第五代学長に内定していた同君の就任がいろいろな事情で遅れることになったため、昨年4月から創業学長だった僕が学園理事長の要請を受け、今日まで学長職を代行してきたのです。寺島君を推薦し、説得したのは僕ですし、自分が創設した大学の事情は十分わかっているつもりで引き受けたのですが、今考えてみると、これが僕の浅慮でした。

 13年ぶりに帰って僕が直面した多摩大の現実は、学生の質にかかわる入試倍率や偏差値からみても、また財務の状態を示す帰属収支差(企業会計でいう経常損益)からみても、僕が退任した頃に比べて余りにも落ちぶれてしまっていたではありませんか・・・。改革すべきことの多さと煩雑さを前にして、正直言って後悔はしましたが、寺島君の就任はもはや覆せないと観念するや、僕は同君就任までの“地ならし”をあらゆる面にわたり徹底的にやり抜こうと開き直りました。

 幸い古巣である多摩キャンパスの教職員の多くは、ひそかに多摩大の現状を何とかせねばならぬと考えていてくれたことが最大の助けとなり、再生のための改革は夏ごろまではゆるやかに、そして秋以降はいいテンポで進行していきました。今年になって判明した幾つかの驚愕的問題の処理も何とか解決のメドをつけ、先週金曜、法人および大学幹部全員が出席した戦略会議の席上で、僕は約1時間総括所見を披露し、つつがなく全ての職務を寺島君に渡すことができたのです。

 「年をとるにつれ、時の経過はどんどん早まる・・・」と言われ、僕もそう感じながら数十年を過ごしてきたのですが、この一年間だけは何と長かったことか、と感無量の思いです。

このページのトップへ

2009年3月25日

737 大学界の革新者、“CUBE”

 西宮と言えば、阪神間に位置する山あり海ありの高級住宅都市をイメージされましょう。ところが西宮は、今や人口50万人に達する兵庫県第三の一大産業都市。とくに阪急北口周辺は近年新しい開発が進み、関西きってのおしゃれな街へと変貌しつつあります。この地区に今春、新しい西宮の象徴とも言うべき画期的な大学が誕生します。関西の名門私立甲南大学の「マネジメント創造学部」のキャンパスがそれです。

 このキャンパスは、約2,500uの敷地の真ん中に建つ9階建て、総延床面積12,000u弱のビル“CUBE”。低層3階は広い赤レンガの外壁に白い縦長の枠つき窓を何本か配した一見古風なつくりで、その上層6階は全面ガラス張りの超モダンという外観からして特徴的ですが、一歩中へ入り各階を巡り説明を伺うと、誰もが「21世紀の大学は、こうなるか・・・」という、深い感慨を抱かれることは必定です。CUBEこそ、ハード・ソフト両面で、大学界での世界的革新者と信じます。

 この革新の総指揮者は、佐藤治正氏(甲南大教授。この新学部初代学部長)。昨年の夏、僕の赤坂オフィスに突然電話があった時まで一面識もなかったのですが、同君が慶応在学中から師事してきた加藤寛氏から「野田君に挨拶に行きなさい。CUBEをすぐ理解してくれるから・・・」と言われたとのことで喜んでお会いし、抱負を伺うや、たちまち意気投合しました。実は「将来の大学キャンパスは、都心の駅前にあるワン・ビルディングになる」というのは、僕の年来の主張でした。

 先週水曜、僕は多摩大の教職員5人と共にCUBEをつぶさに見学しましたが、現地で関係者の方々の苦心談や抱負に熱心に耳を傾けつつ、近い将来都心にワン・ビルの画期的大学キャンパスを創りたいという僕の夢は、俄然膨らみました。

このページのトップへ

2009年3月11日

736 いよいよ“空気”が問題となってきた

 5日夜、参院議長公邸の住居棟で、久しぶりに江田氏を囲んで夕食歓談しました。江田さんと大学以来親友の大高英昭君が幹事役でしたから、職業こそ異なれ還暦前後の年齢揃いでしたが、なぜか、二周りも年上の僕までお招きを受けた次第。

 折から小沢氏の違法献金疑惑が問題となった直後だけに、民主党に原籍を置く江田さんに気を遣いつつも、やはり最近の日本の政治の混迷が当夜の中心話題となりました。ただし、同氏はクロか…といった次元ではなく、国民の間にみなぎっている“空気”の読めない政党政治に堕した“日本的デモクラシー”改革の将来展望、といった次元で論議は熱しました。

 翌日、僕に届いた『中央公論』4月号の特集は、「溶解する日本の政治と社会−平成“空気”の研究」。本来ギャル語だった“KY”が、安倍内閣の頃から急に政治関連で使われはじめて以来、急に“空気”と言う言葉がマスコミで目立つようになったことはご承知の通りです。しかし、“雰囲気”と同義語に使われてきた“空気”を、日本社会(ないし日本人の行動)の本質的特性として名著をものしたのは、山本七平氏。

 氏によれば、ある絶対的な規範のもとに全てが相対化される一神教の西欧と対照的に日本では、ものごとが決まる過程で必ず、その場その場で居合わせた人々の間にあることに反対(“水”を差すの)が許されない集団心理的状況=“空気”が自然に生まれていくとのこと。「そういう臨在感は、西欧でも見られるが…」と、僕はかつて氏と議論したこともありますが、多神教の故か否かは別として、日本人が西欧人に比べ、いざという時には、大勢順応型であることは否定できません。

 その意味で、目下の日本社会の空気は、“規格外の日本人”である僕の“安らかな老後”を阻む方向へ流れつつあります。

このページのトップへ

2009年3月3日

735 時に、決行より断念こそ真の勇気

 最近何かとしょっちゅうお会いするコシノジュンコさんから、「今度私が衣裳を担当することになったマッスル・ミュージカルにご招待しますから、いらっしゃってね」と先日言われた瞬間、返す言葉がありませんでした。“マッスル・ミュージカル”、僕が全く聞いたこともなかった名詞だったからです。

  帰宅するや早速インターネットで検索してみて己を恥じたのは、これは、体操選手たちの超人的な演技を“売り”にするわが国発のエンターテインメントで、01年初公演以来すでに80万人の来場者を動員し、今年5月からは一年間の初のラスヴェガス公演が予定されていることをまで知ったのです。

  というわけで、現代研究会の友人達にも声をかけ、24日夕、代々木競技場内の(専用劇場としてわざわざ建設された立派な)「マッスル・シアター」へ出かけました。いやぁーそのスペクタクルズのど迫力!! ミュージカルと称するだけに、『TREASURE』の題名に沿った筋書きは一応あるにせよ、失礼ながら、“ジュンコさんの衣裳”以外は全て影を薄めました。

  この3日後の夜、「仁風林」に四十人の友人知人が集まり、栗城史多君のために壮行会を開きました。すでに記したように、同君はまだ若干26歳にして世界6大陸の最高峰を単独無酸素で登頂し、今年5月には最後の目標であるエヴェレストに挑みます。身長162cm、体重60kg、常に物静かで万事控えめの同君のどこにその闘志が秘められているのでしょう。

  “動”そのもののマッスル・ミュージカルも危険とはいえ、“死”は感じられません。しかし、前人未到の世界最高峰への無酸素単独行は終始“静”の行動なのに、“死”がつきまといます。この会合の締めの挨拶で僕は同君に、涙を堪えて強調しました。「時に、決行より断念こそ、真の勇気だぞ!」

このページのトップへ

2009年2月25日

734 醜悪な権力から横暴な権力へ

 一昨日の夕刊各紙は、今回のアカデミー賞における日本人監督作品のダブル受賞を大々的に報じましたが、つい一週間前中川財務・金融担当相のG7での度重なる醜態が全世界に写真入で報道された直後だっただけに、まともな日本人にとっては泣けるほど嬉しい報道でした。しかし、日本の指導層、とくに政治家は、われわれの周囲にいくらもいる敬愛すべき日本人に比べて、顔つきも言葉も服装も態度も・・・何もかも、概してどうしてあれほど不快に感じられるのでしょうか。

 かつてある友人が「日本の閣僚と同年輩の各種犯罪人の顔写真を同数用意して、外国の友人にどっちがどっちとテストしたらね・・・」という問いの答えにみんなで大笑いした後、「・・・何か悲しいね、この国を選んで生まれてきたわけじゃないのに・・・」という別の友人のつぶやきに、一同しゅんとしたことが思い出されます。ギリシャの昔から、デモクラシーの行く末は“衆愚政治”。しかし、フランス革命以来欧米各国が慎重に育てあげた近代デモクラシーと違い、第二次大戦の敗戦国日本に投げ与えられたデモクラシーは、到底「人民の、人民による、人民のための政治」に育ちそうもありません。

 昭和初期の不況期、醜悪な権力はいとも簡単に横暴な権力に取って代わられました。目下の不況が長引けば、下等民主国日本ではその歴史が繰り返される恐れは十分にあります。その典型的兆しは、例の田母神元空幕長の最近の活発な動き。近著の題名『自らの身は顧みず』は、僕の心にあの戦前から戦中へかけての重苦しい日本社会の記憶をまざまざと蘇らせました。巷の噂どおり氏が次期選挙に自民党推薦で立候補し、もし当選でもすることになれば、傘寿を過ぎた身とはいえ、いよいよ僕は祖国に別れを告げる覚悟をせねばなりません。

このページのトップへ

2009年2月17日

733 親が子に遺すべきもの

 この手紙を読まねばならない時、お父さんはそばにいられないでしょう。世界のどこかで誰かが不正な目にあっている時、いたみを感じることができるようになりなさい。・・・子供たちよ、いつもお前たちに会いたいと思っている・・・。
            チェ・ゲバラ 1965年 「子供たちへの最後の手紙」
                                    (上記映画のプログラム所収)

  昔はそれなりに苦労した息子や娘たちも、立派な社会人になった今は頼もしく、週末などやってきて団欒している時の話題の水準もなかなかのものです。とくに“父思い”の娘は、例えば、チェ・ゲヴァラが話題になると、数日後には、『チェ39歳別れの手紙』の前売り券を買ってきてくれたりします。

  そんなわけで、先週水曜午後は、この映画を見に都心に出ました。“天才的革命児”ゲヴァラの(人生最後の舞台となったボリヴィアでの)苦しいゲリラ活動の状況を克明に追うだけに、率直に言って楽しい映画ではありませんが、キューバ革命を成功させた功によりカストロの右腕として高官の地位を得た彼が、1965年突然その地位と安らかな生活を捨て、再び一戦士として何故“泥水すすり草を噛む”日々を選んだか、その理由を考えるには、この映画は必見の価値があります。

  資本主義体制下で不当に虐げられていたキューバ人民のための革命に成功し社会主義政権を確立したゲヴァラは、期待したソ連の覇権主義に失望するとともに、“体制”を問わず、自分の敵が(人民を不当に苦しめる)“悪しき権力”そのものであることを翻然と悟ったのです。その念願は適わず、67年秋“刀折れ矢尽き”た彼は銃殺され、39歳の生涯を閉じました。しかし、革命家としてのその純粋さこそ、彼が「世界で最もかっこいい男」(ジョン・レノン)として各国の若者から称えられ、憧れの的となっている所以に違いありません。

このページのトップへ

2009年2月10日

732 ローレイライ賛歌

 ローレイライ、岩山からライン川に身を投じたあの伝説の美女ローレライのことではありません。僕の最新作造語“老齢来”をカナ書きしただけのこと…。先日ちょっとしたはずみで地下鉄の階段を踏み外し、中学生の頃から登山で鍛え上げた自慢の足の左ひざをひねった途端激痛が走り、この二週間はびっこを引きひき整骨院や整形医に通いつづけました。

  地下鉄を降りてホームからエスカレータに乗り左側に立ちつづけていると、右側をとっとと元気良く上っていく人たちに何となく劣等感を抱き、改札で係員に「エレヴェータはどこに…」と控えめに聞く身を情けなく感じ、やっと地上に出た瞬間「ああ、遂にローレイライか…」と新語が頭に浮かんだ次第です。しかし、ご安心ください。治療の甲斐があってか、ようやく階段を自由に上り下りできる身となりました。

  よく考えてみると、僕もこの数年自分の年齢にふさわしい幾つかの仕事にかなり深く関わってきました。小中村政廣君が手がけた関西の超高級マンション(「アンクラージュ」)、昨年を第一回として大澤尚廣君が有楽町・東京フォーラムで毎年開催する家庭生活用特殊機器・用品展(「そろそろ親のこと・エキスポ」)、斎藤徳雄君の執念の研究開発努力が実って先般厚労省の介護指定機種に選定され、各国専門家の注目も浴びている障害者用“ウォシュレット”(「マインレット」)…、結局これらは全て、主に高齢者を対象としているのです。

  講演や原稿の依頼先・内容も微妙に変わり、最近は、とくに違和感さえ感じません。先週末仕上げた原稿(『月刊BOSS』4月号用)も、この新春早々同誌創刊20周年記念講演会での鈴木敏文・北尾吉孝両氏のまじめな話に対する僕の放言自在のコメントを取りまとめたもの。楽しみにお読み下さい。

このページのトップへ

2009年1月28日

731 「百年に一度の危機」なんて…

 先週は米国から帰国した友人にたてつづけに会いましたが、二人とも「どこへ行っても、日本のマスコミが騒ぐほどの不況色は感じなかった…」ことを強調していました。多分そうでしょう。「百年に一度の危機」とグリーンスパンが警告を発したのはたしか“リーマン・ショック”の数ヶ月前でしたが、それを聞いた時僕は、「…米国って、やっぱり若い国なんだな、僕ならどう言うだろうか…」なんて考えたものです。

  建国以来二百数十年の米国に対して、日本は律令国家成立以来千数百年の歴史を有していますが、仮に首都が灰燼に帰すほどの大きな危機と言えば、(天災だった1923年の「関東大震災」を除けば)「応仁の乱」(1467〜1477)と「東京大空襲」(1945)だけでしょう。まさに第二次大戦の敗戦直前・直後の日本こそ「五百年に一度の危機」に直面したのです。20歳前後の頃それを身をもって体験した僕にとって、当今の日本は、ただ一つを除いては、それこそ天国と言うべきです。

  その一つとは、平和と豊かさという意味での天国で暮らしている日本人の倫理、礼節、品格…と、結果としての“社会的不健康”。これらを敗戦前後の日本と比較すべき客観的尺度はありませんが、僕の主観的評価からすると、改めて考えて驚くことに、当時の痩せこけ襤褸に身を包んでいた日本人および荒廃した国土の上に息づいていた日本社会の方が、今の日本人および日本社会より遥かに上質だったと断言できます。

  今の日本の危機はこの事実を措いて他にないということは、Rapportでもすでに僕が何回も強調した通りです。ただ嘆き憤るだけでなく、僕は基本的に同じ考え方に立つ各界の友人・知人たちと“日本再生”のための様々な活動に生き甲斐を感じつつ、「五十年ぶり…」程度の危機を結構楽しんでいます。

このページのトップへ

2009年1月21日

730 人生は時にドラマのごとく…

 先週金曜夜、僕は秘書たちから「…小説か映画の世界のよう…」とおだてられそんな気にさせられた嬉しくも稀有な人生体験を味わいました。半世紀も昔の女友達と再会し、夕食を共にしながら、来し方をしみじみと語り合ったのです。

  話の発端は、昨年末僕のオフィスにかかってきた一本の電話。秘書の篠塚は、相手の慎ましさに惹かれ、思わず長話をしてしまったとのこと。何年か前、豊中市の自宅で(佐藤しのぶさんが招き手の)TV番組『出逢いのハーモニー』を何気なく視聴していた彼女は、画面に現れたゲストを見て仰天!それはまぎれもなく青春時代に知り合った男性(=僕)だったからです。懐かしさに駆られた彼女は八方電話して僕の連絡先を聞きだそうとしては何回も“個人情報保護”の壁に阻まれながら、やっと僕のオフィスの所在を探し出したのです。

  大学卒業とともに心ならずも大学院特別研究生を受諾した僕は、研究室の暗い雰囲気の中でうんざりする毎日を送っていました。そんな精神的スランプを打破しようと試みたのが「生駒山断食道場」での断食修業でした。入山してみると約30人の無粋な男どもの中に紅一点、可愛らしい女性が目を引いたのです。僕と違って慢性の胃弱を治すために入山した彼女と幸い気が合ってすぐ親しくなったのですが、修行が終わって別れた後は西と東に別れ、頻繁に会うこともままならぬまま、やがて交際は自然に途切れてしまいました。

  それでも、「夜行列車で山スキーに向う先生を新宿駅でお送りした、54年前のあの冬以来です」という彼女の驚くべき記憶には感激! ANAのパイロットだった素敵なご主人と結婚し、今やお子さん3人・お孫さん6人に恵まれた79歳の彼女と、固く再会を約束して別れた赤坂の夜でした。

このページのトップへ

2009年1月15日

729 天網恢々 疎にして漏らさず

 正月明け、「中国、“食の安全”を今年度最重点政策に…」という報道によって、昨年秋の“メラミン騒動”と時期的に重なった“サブプライム・ショック”を連想、比較しました。

  人体に有害な物質であるメラミンは微量なら健康に影響を与えることもなく、また時間の経過で毒性が高まることもないとはいえ、それをミルク食品に混入した中国の業者は明らかに犯罪者であり、法の裁きを受けるのは当然です。ただし彼らは、中国で“エリート”と言われる人々とは思えません。

  一方サブプライムローンは全て、証券化されて類別不能にはなっても、時間の経過(=住宅ブームによる急増)の中で、実質金利とリスク=毒性とが共に高まる債権です。ですから、買い手だった米国の投資銀行は毒性面を恐れ、各種の優良債券にそれを少量巧みに混合させた新金融派生商品を数年前に開発し、モノラインの保証までとりつけて販売し始めました。“ローリスク・ハイリターン”商品と喧伝しながら、やがてこれが(バブル崩壊とともに)投資家に大損を蒙らせることは自明の理だったはずです。高額報酬に釣られて投資銀行に入行し、サブプライム関連の“危ない”商品の開発に関わった金融工学の“専門バカ”どもと違って、そんな商品を発案し、完成を見越して一方では格付け機関を抱き込んで太鼓判を押させ、他方では営業マンにそれらを売りまくることを命じた連中は、疑いもなく(学歴、社会的地位、年収…全ての点で)現代米国の“典型的エリート”に他なりません。

  実質上詐欺罪に処せられるべき彼らですが、法律の不備に乗じて大金を手にとうに退社し、今頃どこかで悠々と大尽風を吹かしているでしょう。が、「天網恢々 疎にして漏らさず」。彼らはやがて怖しい“天の制裁”を受けると、固く信じます。

このページのトップへ

2009年1月8日

728 嫌な空気が漂い始めた

 幸せそうな顔も振る舞いも慎まねばならない、嫌な時代的“空気”が社会を包み始めました。山本七平氏ではなく僕自身の人生経験によれば、こういう時の日本は一番危険です。  最初にそれを痛感したのは旧制高校生だった頃、戦局がわが方に不利と明らかになるにつれて敵国に対する憎しみを煽る“空気”は濃度を増し、まともな大人たちが拳を振り上げて「鬼畜米英撃滅!」などと叫ぶ完全に理性の狂った時代には、不当に虐待された敵国の捕虜に対し「可哀そうに・・・」と口を滑らした心優しい女性は、一斉に「非国民!」という過酷な社会的制裁を受ける羽目に陥ったのです。あの時にすでに戦いの帰趨は決していたのに、冷静な判断ができなかったため、日本はその後数年にわたり実に無駄な損失を重ねました。

  ですから、「百年に一度の経済危機」などというマスコミの科白には、絶対心迷わされてはなりません。誰が考えても日本にとって有史以来最大の経済危機は、さきの敗戦直後の数年を措いて他にありえないことは、僕たちのようにそれを直接に経験した世代でなくても分かりきったことでしょう。何しろ、工場も、田畑も、道路や鉄道も荒廃しきった四つの島に集められた八千万人の同胞が、世界中から憎しみと哀れみの目で見られながら、じっと耐えて占領政策に服したのです。

  今改めて懐かしく思い返すに、当時の日本人は一様に見かけは痩せこけて襤褸をまとって哀れでしたが、誠実・勤勉・几帳面・心遣い・・・といった人間性においては、この平成元禄を何故か暗い顔して生きる日本人より遥かに魅力的でした。「世界の奇跡」と称せられた戦後日本経済の驚異的復興と成長の原動力は、エコノミストたちの屁理屈なんかではなく、当時の日本人の精神の驚くべき健全さにあったと、僕は信じます。

このページのトップへ

2009年 元日

727 新年、おめでとうございます

 久方ぶりに大波乱含みで迎えた新しい年、もちろん日本人誰もがそれぞれに苦労を背負うことになりましょうが、長期的に見てその経験の集積が必ず将来の日本を益することになると、僕は固く信じております。とくに僕のような人間は、幾つかの魅力的な目標の達成に対し、例年以上に意欲と情熱が沸き起こるのを禁じえません。諸兄姉にとっても、今年が格別に満足度の高い年でありますよう、心からお祈り申し上げます。

僕の座右の銘:
「憂きことの なおこの上に積もれかし 限りある身の 力試さん」(熊沢蕃山)。

                                                 野田一夫

このページのトップへ
このページのトップへ
copyright(C) Kazuo Noda.  All rights reserved.