2005年12月21日 |
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このところわが国の経済指標が押しなべて好転し、政策当局もいよいよ本格的景気回復宣言の気構えを見せている最中、先般発表された10月の完全失業率は0.3ポイント悪化して4.5%。これに関する専門家たちはコメントの違いをおちょくった先週の某週刊誌の記事には、思わず笑ってしまいました。
曰く「…景気が上向いたために、今より割りのいい仕事に転職しようとする自発的失業者が増えたため…」(総務省の担当官)、曰く「景気回復はまだ末端まで浸透せず、零細業者の廃業などで失業者が増えたため…」(シンクタンクのエコノミスト)、曰く「失業者の捉え方に問題がある。これまで非労働力として労働力調査から除外されていた潜在失業者が(何らかの理由で一斉に)職探しをはじめたため…」(大学教授)。
戦後の日本では、統計学的手法やコンピュータの発達に支えられて社会現象の数量化(計量化)が急速に普及し、行政や企業経営はじめ各分野で広く利用されてきています。しかし、主として計測手法が依然として幼稚な段階にとどまっていることから、計量的アプローチに頼ることによって、現象の本質が見極められなかったり、時には誤って認識されたりすることさえざらではありません。これには正に要注意です。
日本の社会科学界で俄然計量的アプローチが盛んになったのは、戦後のアメリカニズムのおかげで、そのためどの分野でも、理系出身の学生が過大評価されて大学研究室に残される比率が一時期高まりました。僕自身も志望先の工学部航空学科が廃止になったためやむなく文系へ転科した“ポツダム文科生”の一人ですが、計量的アプローチに関わって以来、社会現象の本質的価値は、例えば“理想”とか“倫理”といった絶対に数量化不可能な部分にあると信じて疑いません。 |
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2005年12月15日 |
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「勝ち・負け」とは本来、競技スポーツであれ賭け事であれ遊びのゲームであれ、個人・チームを問わず争う者同士が?相手と?ルールと?判定基準とを認めあって戦うからこそ、双方納得のいく決着がつくもの。それ故に“フェア”ということが何よりも重視されるとともに、真剣に戦った場合ほど、勝敗の決着後は(個人的感情を抑えて)お互いを称えあうことを、洋の東西を問わず美徳としてきたはずです。
ところが、最近の流行語“勝ち組・負け組”の「勝ち・負け」は、上記の本来的定義と関係ない単なる比喩に過ぎない上に、“勝敗の美学”といったものを全く顧慮することなく、逆に、同じ社会の一員でありながら勝者は敗者を蔑視ないし無視し、敗者は勝者に対して劣等感ないし敗北感を抱くのを暗黙のうちに当然としているようで、甚だ不快です。
昨年の『負け犬の遠吠え』(酒井順子著、講談社)につづいて、出版会では今年は『下流社会』(三浦展著、光文社新書)がベストセラーになりました。前著の“負け犬”とは「未婚、子ナシ、三十代以上の女性」のこと、後著の“下流”とは「単に低所得というだけでなく、総じて生きる意欲が乏しい人々」のこと。どちらも、主題は社会的“敗者”です。
察するに、この主たる購読者は、自分をまだ社会的勝者ないし敗者であるとは思っていないとはいえ、何となく“敗者”に転落する不安の中で生きている人々。とすれば、今の日本では、社会的な勝敗、優劣、上下…といった分類の中間に存在する“中流階級”の人々の多くが、自己努力で社会的に上昇していく自信、希望、意欲を失いつつあるともいえます。
分極化による社会の崩壊に対し唯一の緩衝機能を果たす階級の消滅、これぞ、日本の「今、眼前にある危機」です。 |
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2005年12月15日 |
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娘を誘いワイフと3人で初冬の京都を旅してきました。洛南の毘沙門堂や法界寺から洛北の宝筐院や愛宕念仏寺まで三日間に約20の寺院を回ったのですが、伝えられていた今年の冬到来の遅れは予想以上で、お天気に恵まれたこともあって、名にし負う都の錦秋を十分に堪能できて幸せでした。
ワイフは仏、娘は絵、僕は庭と、関心の違いはもとからですが、仏像へのワイフの探究心はもちろん、娘の絵画の素養も何時の間にか相当高まっていて、昔のように僕が親父の自尊心を満たしながらいろいろ解説する機会はほとんどなくなり、逆に二人の説明に「なるほど、なるほど」と納得しながらついて回ったというのが、喜ぶべきなのか実感です。 例えば旅の最初の日の夕暮れ、「…お父さん、もう一つ寄って行くわよ。ここまで来たら、やっぱりリンパの源泉をもう一度確かめないとね…」と娘が言った時、「リンパって…?」と正直僕には、何のことか分かりませんでした。
連れて行かれたのは、三十三間堂わきの養源院。あの俵屋宗達の象の杉戸絵のある小さな寺。「で、何でそれがリンパ…」と娘に聞くと、娘はさりげなく「ああ、リンって、尾形光琳の琳よ。光琳の影響は日本画で明治以降までつづいたけど、光琳は宗達の画風を確立した人だから、琳派の元祖は結局宗達ってわけでしょ。私はむしろ宗達の絵が好き。グラフィックデザイナーたちの間で、いま宗達の評価は国内だけでなく海外でもどんどん高まっているのよ…」と満点の解説でした。
翌日細見美術館の店で偶然見つけて買った『琳派の美術』(仲町啓子他著)によると、“リンパ”とは60年代に生まれ、今では日本美術愛好家の間で海外を含め広く使われるようになった用語とのこと。娘に知識欲を刺激された旅でした。 |
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2005年11月30日 |
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鹿児島空港を17時30分の便で発って、目黒の自宅についたのが19時45分。待っていてくれたワイフと食事してから風呂に入り、「よっこらしょ」とベッドに横になったのが21時。ついさっきまで2日間一緒だった友人一人一人の顔を思い浮かべ、満ち足りた気分で眠りにつきました。
先週末は休めないゴルフの会が重なってしまいましたが、僕が年長故に会長をつとめるDel-Quee Club会員有志の鹿児島遠征を優先しました。20年前来、薩摩っ子の快男児是枝伸彦君の「ゴルフをするなら祁答院。コースは広々、食事絶品、プレー後露天ぬる湯の温泉に浸かって眺める満天の星最高…」という20年来の勧誘を果たして、気分上々でした。
考えてみると、絶好の会合シーズンだったせいか、今月は久しく会わなかった友人の多くに再会して旧交を約しえただけでなく、何人かの思いがけぬ人と始めてめぐり会い、歓談しながら今後末永い交友を確信することもできました。
例えば、篠田新潟市長尽力の「(坂口)安吾賞」審査委員会では猪口孝さん(中央大教授。夫人の邦子さんが“刺客選挙”で当選し、直後入閣)、寺島実郎君主催の「北陸路の食を満喫する会」では川嶋辰彦さん(学習院大教授。秋篠宮妃紀子さんの父上)。お二人ともマスコミを通して、何となく“とっつき難そうな学者”という印象を抱いていましたが、実際には、挨拶を交わした途端に気心が通じ、話題が多いため思わず時の経過を忘れてしまうほど魅力あるお人柄…。
親しい友人が増えるにつれ何時しか交友範囲が限られて(新しい友人は自ずとできにくくなって)いく…、この人生最大の矛盾の唯一の解決策は、「よき友はよき友に紹介し、共に楽しむ」こと。お互いこの鉄則の実践を心がけましょう。 |
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2005年11月22日 |
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シダックスの創業者・現会長の志太勤さんをご存知の方は多いことでしょう。20年前僕が初代理事長を勤めた(社)ニュービジネス協議会の現会長であり、またご長男(シダックス社長)もご次男(シダックスアイ社長)も僕の多摩大学の大学院卒であるなど、僕たちは深い縁で結ばれています。
その志太さんの年来の夢は、人も知る“ワインづくり”。故郷である中伊豆に高原農地数万坪を買い求めるや、そこに葡萄の木を植えたのが1989年、丁度僕が多摩大学を開学した年でした。その話を聞いた時、失礼ながら、「えっ、その葡萄でワインを…?」と耳を疑いましたが、今になって、僕は自分の浅慮を深く反省しています。シダワインは年毎に種類を増やしながらその味を急速に向上させていき、いつしかわが国ワイン業界でも注目される銘柄となってしまったからです。
「原料の不利を技術で補ってきた」と同君が説明するように、その夢と情熱に共鳴して集まった経験豊かな人材の懸命の努力が、不可能を可能ならしめたのです。同君が日本のロバート・モンダビになることも、今では冗談とは言えません。そんなわけで、先週渋谷シダックスビレッジで催された「シダワインを試飲する会」も各界の紳士淑女で大賑いでした。
同じテーブルの堺屋太一君とグラスを手に大いに歓談しましたが、話題はいつしかモンゴル!広く知られるように、同君の夢はチンギス・ハーンの墓探しで、そのためあの多忙な身ですでに5回もモンゴルを訪れています。来夏は夫人(画家として有名な池口史子さん)同伴でまた同地へ旅すると聞くや、隣にいたわが妻には目もくれず、「それじゃ、僕たちも同行するからね…」と固い握手を交わしました。この約束が、シダワインの酔いのなせる一夜の戯れとならぬことを……。 |
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2005年11月16日 |
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先週末彼が逝去したことを知った時、まず僕の頭に蘇った想い出は、彼と山登りした日のことです。まだ彼の足が達者だった40年も昔、ロッキー山麓にあった彼の山荘に泊まって、朝一緒に裏手にあった峰に登りました。大柄なためか僕より足が遅く、30分も歩くともう「休もう」と言うのです。一休みしている時、彼はいきなり僕の前にしゃがみこむや木の枝で○、真ん中に点を書き、「これは何だと思う」と聞きました。
答えようもなく首をひねると、彼はニヤリと笑って、「○は会社で、真ん中にある点は社長だ」と言います。ますます分からない風をすると今度は真面目な顔をして「会社だけでなく、役所でも軍隊でも、組織図は全て山の形をしているだろう。てっぺんにいるのが社長であり大臣であり将軍なのだが、これは危険なことだ…」と山腹の経営論が始まりました。
「さっき山荘を出てまだ間もないが、眺望はこんなに開けた。だから、組織図のてっぺんにいるトップは、自分が部下の誰よりも周辺を一番よく見渡せると思っているはずだ。だが、実はそうではない。彼らは壁に取り囲まれて外界が一番見えにくいのだ。とくに大きな組織は厚い壁だ…」と言いながら、彼は木の枝で○の縁を何回もこすりつづけたのです。
もう半世紀前僕が監訳した『現代の経営』がベストセラーとなったことがきっかけで彼と親しくなり、彼もまた日本の産業人や学者の間で広く知られる存在となりました。彼の著作はことごとくが日本で訳出され、どれもが出版部数で米国を凌駕しました。その後僕の関心が去ったためそれらをほとんど読んでいませんが、上記のエピソードだけは、あの日のロッキーのさわやかな緑と空とともに、最も忘れがたい彼とのgood old daysの想い出として僕の心に刻まれています。 |
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2005年11月9日 |
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三島由紀夫の『サド侯爵夫人』が上野の東京国立博物館内で4日から公演中です。この上演の照明を担当された石井幹子さんから「…お二人で」と初日のご招待を受けましたが、ワイフには先約があったため、かねてから“娘”と勝手に自慢している(草柳)文恵君を誘い出して鑑賞してきました。
三島氏とさしで話したことはありませんが、会議などで何回か一緒になりました。その自信に満ちた断定的な語り口からは特段の説得力もカリスマも感じられず、過剰な自意識を持つ“天才”特有の近寄りがたさだけが今も思い出されます。このため、氏の作品には今まで全く興味のなかった僕です。
たくさんの氏の戯曲の中でも最も有名なこの作品について氏自身が、「…舞台の末梢的技巧は一切これを排し、セリフだけが舞台を支配し、イデエの衝突だけが劇を形づくり、情念はあくまで理性の着物を着て歩き廻らねばならぬ。…すべては、サド夫人をめぐる一つの精密な数学的体系でなければならぬ。…」と正に述べているように。実質優に3時間を超す上演舞台は、5人の女優の息つく間もない鋭い会話のみ…。
果てしなくつづく甲高い会話に食傷した僕の頭にふと、同年の作家藤沢周平のことが浮かびました。東北の田舎に生まれ、師範学校を卒業して中学教師となりながら結核を患って職を辞し上京、貧乏勤めをしながら書き綴った作品が中年を過ぎてやっと直木賞受賞…、何から何まで三島と対照的なこの作家の描く人間の、あのつつましさ、静けさ、哀しさ…。
で、翌朝は新宿に出て映画『蝉しぐれ』を観ました。『たそがれ清兵衛』には遠く及ばぬ作品でしたが、ひそやかに恋しあう文四郎とふくとの会話を聴きながら、三島の“理”より藤沢の“情”に遥かに惹かれる自分を再確認した次第です。 |
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2005年11月2日 |
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先週は3泊4日、日下公人君と一緒にワイフ連れで東北の旅を楽しんできました。…と言うといかにも優雅ですが、実はこの夏親しいある団体から僕に「日下先生と2都市で対談をお願いできないだろうか…」という依頼を受けた際、「多忙を極めている日下君に仕事を持ちかけるのは気が引けるから、紅葉の季節に“奥さん孝行”しませんか…と誘ってみよう。きっと喜んで応諾してくれるはずだから、ついでに対談では…」と提案し、予想通り実現したのが今回の旅でした。
実は僕もこのところ地方での講演や会議は、かねて訪ねてみたかった場所とか会いたい人とかの楽しみで行くのがほとんどです。その点、今回のように親しい友人としかもワイフ連れで旅をできるのは最高です。かつて長銀調査部はユニークな人物を集めて高い評価を受けていましたが、日下君はその中心的存在でした。経済企画庁に出向して国家政策の策定にも関与した経験も買われて、以来多くの政府審議会の委員も歴任しています。80年代末多摩大学を創設するに当たり教授を頼んだら、嬉しいことに、「野田さんが学長なら…」と二つ返事で引き受けてくれたことが忘れられません。
東京財団会長、あるいはファンの層の実に厚い講演者ないし執筆者としての日下君は広く知られていますが、同君はその人柄と見識の故に、多くの政財界要人のこよなき話し相手でもあり助言者でもあります。つい先日も小泉総理に招かれて今後の構造改革の焦点について意見を求められたとのこと。別れぎわに「それじゃ、お元気で…」と何気なく肩をたたいた時「…その肩の肉の落ち方に驚いた…」といった日下君の一言で、珍しく、小泉首相に深い同情を感じた次第です。 |
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2005年10月26日 |
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新潟市が来年創設する「安吾賞」が、先週からいよいよ動き出しました。坂口安吾は新潟が生んだ異色の作家だけに、審査委員は猪口孝氏(中央大教授、夫人は最近の衆院選で“刺客”として名を馳せた邦子さん)や新井満氏(芥川賞受賞作家)など、僕を除いて全て新潟出身の名士ばかり5人。
この夏篠田市長から委員長就任の要請を受けた時、「新潟にも文壇にも縁の無いので…」と最初お断りしたのですが、「文学賞ではなく、職業を問わず“安吾的生き様”で世に感銘を与える人物を顕彰するのが目的です。先生は新潟のご出身ではありませんが、その生き様が極めて“安吾的”であると関係者の意見が一致したので、ぜひお願いしたい…」と言われ、何となくいい気持ちになり、引き受けてしまった次第です。
坂口安吾は国粋主義が支配的であった戦時中に『日本文化私観』なる一文を発表し、桂離宮の簡素美や茶の湯の侘び寂びなどを賛美する日本文化崇拝論者を完膚なきまでにこきおろしましたし、敗戦直後の退廃した世相を嘆く識者たちに反発して『堕落論』を発表し、「…(人間である以上)義士も聖女も堕落する。…(それを防ぐことで)人間を救うことはできない。(個人も国も)堕ちる道を堕ちきることによって自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である…」と喝破しました。
何れも各時代の正統派(orthodoxy)に対する激烈ながら説得力のある批判であったために、青春の最中にあった僕は、目から鱗の感銘を受け、また熱い血が騒ぐ興奮を覚えました。僕もたしかに異端の人生を歩んできましたが、その度合いは安吾に比すべきもありません。それだけに、きわめつきの「安吾賞」受賞者を探し求める責任を、改めて強く感じています。 |
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2005年10月19日 |
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先週火曜夜、素晴らしい講話を聴きました。話し手は小宮山宏東大総長、場所は僕の赤坂第一オフィス(=アドホック)、催しは民主党の若手参議院議員藤末健三君主催の勉強会。
藤末君は東工大を出て通産省に入り、MITに官僚留学して帰国後退官、東大助教授となりながら昨年の参院選に出馬して見事当選を果たしたという当年41歳の異能の人物。通産省時代に小宮山氏と、そして東大時代に僕と知り合うなど各界に旺盛に人脈を広げ、しかも、一度できた対人関係を大切に保持するという、エリート経歴には珍しい健気さの持ち主。
立候補する前から僕が同君に言われていた「必ず当選してみせますから、当選したら、各界の若手人材を集めた勉強会を先生のオフィスで開かせてください」の約束通り、3ヶ月周期で開かれてきた勉強会が、先週回ってきたわけです。
小宮山氏は化学システム工学×地球環境工学の分野の第一人者ですが、第28代東大総長に選出されただけあって、単なる学究ではなく、広い視野・経営管理能力・リーダーシップといった人間的資質を兼ね備えた稀有な人物との定評。
冒頭、省エネ技術の分野でいかに日本の水準が今や世界に冠たるものかという事実を具体的に説得されたあと、小宮山氏は「省エネのみならず実に多くの個々の分野で知的卓越性を実証しているにもかかわらず、日本が現代的諸課題の解決では成果を挙げえない」現状を嘆き、“知の構造化”によってヒート・アイランドや生ごみや高齢化といった(21世紀の世界共通の)課題を先駆けて解決すべきことを強調されました。
最後に、大学における“知”の専門分化の凄まじさを告白されて、(率先東大の“知の構造化”実現に努力を払うので)「よろしく…」という結びの言葉も、実に心憎い限りでした。 |
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2005年10月12日 |
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目下巨額の負債を抱えて再建途上のサンヨー電機、同社の会長・CEOに野中ともよさんが先般就任したことは、ご承知の通りです。僕のオフィスにいた才媛の一人と彼女が大学時代の学友であったことから、実は僕はもう20年以上前に彼女と知り合い、会えば「ともよちゃん」と呼び、(たとえご主人の前でも)肩を抱き合う(キザですが…)仲です。
愛くるしい性格ですから、各界に彼女のファンは一杯います。先月末、その中でもとくに親しい友人数十人が、彼女を激励しようと、都内某所で小さな集いを持ちました。集いは堺屋太一さんや安倍晋三さんの楽しい挨拶で始まり、大盛況の数時間後、僕が音頭をとった万歳三唱で無事終わりました。
が、先週土曜香港へ向う機内で日経新聞を開くと、「経営方針での見解の相違」でサンヨー電機副社長・CFOの古瀬氏が突然辞任したとの記事、週刊文春をめくっていると、消極的再建策を好まぬ野中会長の意向で東京都心の高層ビルに同社が豪華な新東京本社オフィスを開設し、またご主人が経営するコンサルタント会社との間に不明瞭な取引契約が進行中であるという内部告発的記事に出くわし、心を痛めました。
古瀬氏は(多分メインバンクとの徹底討議の産物である)現行の「再建計画」とりまとめの総責任者でしたから、同氏が去ったあと、野中会長を中心とする経営陣は、現実に実行可能な「新再建計画」を早急に策定せねばなりません。この作業は容易なこととは思えない上に、その時期に社内外に野中会長・CEOへの不信・疑念が広くはびこっていくとしたら、計画の実行には致命的な障碍になることは確実です。
心を痛めるだけでなく、正しく実態を把握した上で直言を躊躇わないこと、それこそが真の友情の証と観念しています。 |
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2005年10月5日 |
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一週間の地中海クルーズを終えて一行とローマ空港で別れた後、ワイフと2人で3日間主にカラヴァッジョの絵に惹かれてローマ市内の美術館・教会を経巡り、29日にご機嫌で帰国しました。ちょうどチュニスに入港した9月22日、ふと「ああ、プラザ合意からもう20年…」と思ったのですが、ローマから乗ったアリタリア航空の中で久しぶりに読んだ毎日新聞の中でも、プラザ合意の連載記事に出くわしました。
ヨーロッパを旅するたびに“ユーロ”が通貨として力をつけていくのを感じ、わが“円”がもどかしく思えてならない僕には、プラザ合意の屈辱が忘れられません。当時貿易赤字の累積で窮地に立たされた米国を救うために集まった4カ国の首脳に対し、米国は合意内容を自国に有利にすべく不当な圧力をかけたのですが、一番抵抗していいはずの日本だけが米国の圧力に屈し、結果として行った過剰な為替介入と低金利政策によって、あの忌まわしいバブルが誘引されたのです。
目下僕は、売れっ子のライターである若き友人桐山秀樹君が執筆中の新著『経営者の60年』(講談社刊予定)のために、各章の前文となる戦後経済小史を楽しみながら書いています。この標題の“経営者”は敬愛する同年の友人船井哲良君。船井電機の創業者としてすばらしい企業を育て上げた船井君が、この春どういう風の吹き回しか「そろそろ社史か伝記でもまとめておくべきか…」と何気なく僕に漏らしたことがきっかけで、「誰も読まない分厚い社史とか、自慢話に終わりがちな伝記はやめて、面白くて重厚な画期的伝記×社史をまとめておかれるよう」にと、筆者に桐山君を推薦したのです。
推薦者として責任を痛感するとともに、何かと波乱に富んだ戦後60年を30ページにまとめることに苦心する日々です。 |
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2005年9月20日 |
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9月に入るとともに、例年通りやたらと会合が多くなりました。「“忙”とは、心の滅ぶこと」と昔から折りあるごとに他人様には偉そうに説教してきた手前、なるべく顔を出さないようにしているのですが、それでも先週など、大きな原稿の締め切り期限も迫っているのに、家で夕食した日はたった1日しかない状態。そんな僕を皮肉ってか、旧友藤田潔君が、『一秒の世界』という変わった題名の本を贈ってくれました。
僕たちが今93m2の空気を呼吸しているたった一秒間のうちに、地球が太陽の回りを29.8km進んでいることはともかくとして、252トンの化石燃料(大型タンクローリー63台分)が費消され、テニスコート20面分の(5100?)の天然林が消失していくために、地球の平均気温が0.00000000167℃上昇し、グリーンランドの氷河が1620m3溶け、710トンの酸素(140万人の人間の一日の必要量)が減少し、人口は2.4人増えるのに、5歳以下の子ども48人が汚染された水や食糧で下痢になり、0.002種(7分で1種)の生物が絶滅しつつある…。
この本のページをめくりながら、気づかないうちに過ぎ去っていく時間の重みを改めて実感させられ、「これからは、一秒も無駄にしないぞ!」と、改めて己に言い聞かせもしました。三日坊主? その点今週は絶対大丈夫。一週間地中海をクルーズしているからです。南部靖之君に頼まれ、パソナの中堅幹部の洋上研修ということで、月曜夕ジェノアから乗船してバルセロナに直行し,帰路マヨルカ、チュニス、バレッタ、パレルモを経てローマまでの船中、海を眺めながら毎日若い経営者諸君を相手に存分に講義を楽しめる身分です。
そんなことで、パソコンは携帯して行きますが、ネット事情が不明なため、来週のRapportは失礼させていただきます。 |
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2005年9月15日 |
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総選挙に明け暮れた週末が終わって、日本国民の多くが“宴のあと”のような何か物憂い気分に浸っている感があります。マスコミはこぞって「自民党圧勝」を強調していますが、実は、最も自民党的な体質の色濃い(郵政民営化法案)“反対派”議員たちが古巣から叩き出された挙句に軒並み落選したという意味では、旧自民党が壊滅したのです。痛快!痛快!…。
ただし、自民党推薦のお墨付きと比例代表で当選を保証された“刺客”のマドンナたちが続々バッジをつけて総裁の周りにはべるとなると、彼女たちほとんどを皮膚感覚的に受け入れられない僕には、旧自民党を“ぶっ壊した”小泉氏が圧倒的な国民の支持を受けて、何か気持ちの悪い新自民党を誕生させる予感がします。生まれ育った日本は、やはり僕には本質的になじまない社会風土を保ちつづける国のようです。
…といった雑談を月曜午後、赤坂オフィスに僕を訪ねてくれた平澤創君と楽しく交わしました。同君は92年に20歳代半ばの若さでその名のごとくIT関連のベンチャー(株式会社フェイス)を起こして成功し、01年に東証一部上場を果たした以後も、音楽配信ブームに乗ってますます業績を伸張し、その功により昨年は最年少で藍綬褒章の栄に輝いた人材。
ところで同君は、僕の三男豊と大学の級友だったとのこと。昨日初めて知って僕は驚いたのですが、実は同君も豊が僕の息子だとは知らず、先日偶然それを知って驚いたとのこと。奇しき縁を感じながら、ふと、孫正義君や福武総一郎君や南部靖之君…が僕の赤坂のオフィスに来て未来を語った懐かしい昔が思い出されました。年齢差はますます開きますが、これからは僕の赤坂オフィスを、もう一度20代,30代の気鋭の起業家たちに開放しようと改めて決意した次第です。 |
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2005年9月6日 |
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社団法人ニュービジネス協議会が発足したのは20年前、つまり1985年9月です。旧知の通産省の若手がやってきて、「新しいタイプの創業経営者を組織化したい…」と言った時、「そりゃ無理だよ。だって、彼らは群れたがらないからね…」と一笑に付しましたが、結局「歓談を通して交友を広げ深めながら、知識と見識を高めていくというのならね…」と、親しかった経営者に順次声をかけて創設にとりかかりました。
公益法人を設立するわけですから、万事僕の思い通りにはいきませんでしたが、初代理事長を引き受けざるをえなくなった時点で、入会予定の方々に対し、僕の人生観や生き様を知っていただきたいと始めたのが「Rapport」でした。それは発足を機に打ち切りましたが、数年後多摩大学の設立準備に取りかかった際、同じ趣旨で復活させました。これは設立以後にかけて、たしか300号ほどつづいたはずです。
今のRapportはもう十年も前、とくに気の合った創業経営者たちに声をかけて「現代研究会」を創った時に、また復活しました。その後僕は宮城大学長として仙台に住みましたが、東京に住む仲間たちの顔を思い浮かべながら毎週Rapportを書き送るたびに、表現しがたい懐かしさに浸ったものです。
第三世代Rapportも今や566号。この間読者は僕のホームページ掲載分を含め急増しましたが、現代研究会の仲間は亡くなったり引退したりして段々減りました。時の経過より時代の厳しさを改めて感じます。昨日僕は現代研究会の全仲間たちに、先月出版されたばかりの『1985年』(吉崎達彦著、新潮新書)を贈りました。本屋の店頭で目にし、題名そのものにひどく懐かしさを感じて買ったのですが、読んで、これほど面白くかつ為になった本は最近なかったからです。 |
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2005年8月31日 |
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エズラ・F・ヴォーゲルといえば、かつて『Japan as No.1』の著者として日本はもとより世界にも広くその名を馳せたハーヴァード大学教授(現名誉教授)ですが、僕にとってはお互いエッズ、カッズと呼び合う親友中の親友です。
50年代末に東京で偶然知り合った時から、すぐ気心が通じました。その後僕が60〜62年MITのフェローとしてボストンに滞在中に彼がイェール大学からハーヴァード大学に移籍してきたことから交際が再開し、同学の仲間が大勢いる中でも、何故か僕たちの友情だけはどんどん深まりました。
その頃は二人で雑談を楽しむために毎週のように昼飯を共にしたものですが、“割り勘”をした記憶は全く無いという、アメリカ人の友人としては珍しい仲です。
友人同士はニックネームで呼び合うのはアメリカの好もしい習慣ですが、僕たちのEz & Kazは共に余り無い呼び名で、しかも一緒に発音すると滑稽感があるため、「いつか大学教授を廃業したら、二人でかけあい漫才でもしながら各地を巡業しようぜ!」などとよく冗談さえ言いあったものです。
先週はその彼が久しぶりに来日したので、土曜夜、目黒雅叙園の一室で、昔僕が紹介したことのある現代研究会のメンバー十数名と彼を囲み夕食歓談しました。飲むほどに酔うほどに、われわれの話題がどうしても(アメリカのでなく)日本の将来に収斂していくのに、本来一番発言していいはずの彼は、ただニコニコ笑ってそれを聞いているだけでした。
彼のホテルとの往復の道すがら、車の中で彼がいかにも心もとなげに何回も「日本はどうなるのかねぇ…」と口にしたことが、改めて思い返されます。彼ほど真剣に日本の将来を憂いている日本人は、今果たして何人いるのでしょうか。 |
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2005年8月24日 |
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総選挙を控えて世論を気にしたのか、小泉首相が15日の靖国参拝を断念してくれてほっとしたのも束の間、造反者への大物“刺客”の一人としてホリエモンに出馬要請をしたと知った時には、さすがに開いた口がふさがりませんでした。
ホリエモンという人物には一面識もありませんが、最初テレビに映し出されたその時点から、何と言うのでしょうか、彼の容貌・身なり・物腰・振る舞い・話し方…全てを僕の皮膚感覚が受け入れを拒み、彼の発言内容に対して今度は僕の理性・倫理観・教養・趣向・信条…全てが反発しました。
人間の好き嫌いがはっきりしていると自他共に認める僕にとっても、彼は久しぶりに日常的意識の中に登場してきた超“嫌な奴”と言えます。彼の饒舌の中から察せられる人生観は金銭至上主義で、「金で動かぬ女」はかつてなく、「働きのわりに稼ぎの少なかった父親」は哀れな存在なのです。
ですから、彼の出馬を聞いた自民党の大物“造反派”議員の「世の中何でも金で解決できると思ったら間違いだ」という発言を聞いて、思わず吹き出しました。それは立党以来半世紀の歴史の中で自民党が、その輝かしい実績の中でつくり上げてきた“誇れない”体質そのものへの批判だからです。
球団買収、テレビ会社乗っ取り、そして今度の立候補…等々、ホリエモンの天才的自己顕示欲と売名能力は、日本人誰もが認めるところ。加うるに彼は、自民党の非公式の党是を人前で臆面もなく披瀝できる自信と度胸と無神経の持ち主です。
こういう“傑物”に逸早く目をつけ、招き、忙しい時間を割いて会い、歓談し、頼み、激励したとは、さすがに「自民党をぶっ壊す」と絶叫しながら総裁となり党を救った人物だと、改めて小泉氏に深い(=不快)敬意を表する次第です。 |
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2005年8月15日 |
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先週は、何と言っても“郵政解散”。参院での法案否決を受けて内閣を解散した後の記者会見では、小泉首相の久方ぶりのまじめな語り口と決然とした態度がとくに印象的でしたが、郵政民主化を含む一連の構造改革の達成を心から願う僕の心には逆に、氏への疑問と懸念が一段と高まっていきました。
郵政民営化は小泉氏が政治家として頭角を表わしてきた時代からの一貫した主張であり、したがって首相に就任して“構造改革”を打ち出した氏が、それを構造改革の総仕上げと位置づけて実現に意欲を燃やすことは、まことに理にかなったことです。ところで、失礼ながら同氏は、ご自身が主張している郵政民主化、ひいては構造改革の具体的な内容を指導者としてどれほどはっきり把握しておられるのでしょうか?
記者会見でも氏は力を込めてくどいほど「民にできることは民に」とか「郵政の仕事は国営でしかできないのか」とかいった、現行の政官財癒着の“社会主義体制”に反感を募らす庶民が喝采するようなフレーズを連発しましたが、もしあの法案が可決されても多くの日本人が望むような郵政民主化への途はほぼ閉ざされたことは、すでに昨年来自民党内反対派の圧力で徹底的に骨抜きにされた法案の中身から明らかです。
つまり小泉氏の改革手法は、これまでの他の構造改革と同じく、実質よりも形式重視で、どんな実質が大切なのかは誰にもさっぱりわかりません。そうした空しい改革への情熱をワン・フレーズで吐露する時の氏の自己陶酔的顔つきの異様など迫力! 変人と称されるこの異様さで、氏は多分今日8月15日には靖国神社に参拝してアジア諸国の国民の多くの怒りに油を注ぎ、日本国内の世論を完全に分裂させることでしょう。内外の荒海の中を、日本丸果たして何処へ…。 |
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2005年8月10日 |
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日経朝刊の「経済教室」が内外の専門家の“都市の未来論”を目下シリーズで連載していますが、僕にはどれも今ひとつ納得できません。職業分野を異にするとはいえ、知性や感性を重視する人たちにとって都市ことに大都市こそが創造性を十二分に発揮できる場だという点は、多くの筆者が指摘しますが、それを可能ならしめるために最も必要な条件、すなわちインフォーマルな交流の増進機能については誰も言及しないからです。
先週土曜夕、赤坂の僕の新オフィスに、石井幹子(照明デザイナー)、草柳文恵(キャスター)、渋谷恭子(編集工学研究所社長)、林文子(ダイエー会長・CEO)、湯川れい子(作詞家・音楽評論家)といった才媛5人が集まり、松岡正剛・武藤順九両君を囲み夕食歓談しました。この集いはもともと、イタリアで名を成し目下帰国中の武藤君を、同君の国際プロジェクトを率先支援してきている石井・湯川両氏が励まそうというためのものだったのですが、武藤君が「…親父さん(=僕)が今度創ったわれわれのたまり場(=Ritrovo)でやりましょう。松岡さんの活動もそこに拠点を置いていますよ…」と提案した結果、「正剛さんにも声をかけて…」ということになったのです。
cerchio di vento、連志連衆会、現代研究会という3中間法人本部の共同オフィスであるリトローヴォは小さい空間ですが、利用法と予算両面をにらみ、3法人の代表を兼任する僕が頭をしぼってデザインしました。当所の誇る最高のインテリアは、東宮御所の緑を前景とする新宿高層街の遠望。あの日、ホテルオークラのケイタリングが設えた食卓を8人で囲み、沈み行く真っ赤な夏の太陽を眺めながら杯を合わせて飲んだ赤ワインの味は、尽きぬ知的会話の楽しさとともに、東京がまぎれもなき大都会であることを改めて僕に実感させてくれました。 |
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2005年8月3日 |
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デジタル化はグローバリゼーションと並ぶ世界的潮流ですが、世界のIT産業界企業群の競争的研究開発努力によって、変化は予断を許さぬ速さで進行中です。一方政治は既得権、行政は法律という本質的に時代遅行的な力に頼ろうとするために、デジタル化の進歩の方向から外れた妙な行動をとりがちです。時代の先を見て国益を損なわない政策を立案・実施する見上げた政治家や官僚もいますが、むしろ、時計の針を逆に回そうとする政治家や官僚が圧倒的なのが問題です。
数年前総務省がアナログ方式によるテレビの地上放送を2011年で打ち切るという計画を発表し、直ちに行動に移した際、僕はそれを日本の政治・行政としては珍しいほど先見ある果断の措置だと評価しました。先週総務省の情報通信審議会は、光ファイバー網の通信を活用しての番組放送の容認を答申しましたが、驚いたことに、目的は地上デジタル放送の難視聴対策で、光回線による送信が放送地域の範囲内でしか視聴できないという条件が答申につけられ、総務省はそのための技術開発を政策的に進める意向とのこと。笑止千万!
終戦直後に制定された放送法は、その後改正が重ねられてきたとはいえ、民放が県単位の免許事業であることは不変で、とくに地方局は規制の煩雑さよりは遥かに多くの特権を享受してきました。したがって、IT技術の進歩から当然帰結される光ファイバー網の放送への全面活用に対しては業界団体を通して執拗な抵抗を試み、業界を庇護する立場の総務省の官僚や業界の厚い支持を受けてきた政治家は、姑息な手段を用いて正に時計の針を逆に回す所業に出ようとしています。さすがに産業界の一部からは、現行の放送免許制度の抜本的改正を求める声があがっているとのこと。正に、理の当然! |
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2005年7月27日 |
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人を連想するでしょう。ところが実は、絵から抜け出たような淑やかな麗人。僕は長らくミワちゃんと呼んできましたが、今やすっかり宗家ぶりが身についた彼女に対し公の場でこの呼称は社会的儀礼に反すると思い、人前では半ば不承不承に「小笠原さん」と呼ぶことにしています。その彼女のお蔭で先週水曜夜、林文子さん(ダイエー会長兼最高経営責任者)から西本智実さんのコンサートのお誘いを受けました。
世界でも稀な女性指揮者としての西本さんの活躍は聞いていましたが、まだ指揮ぶりに接したことがなかった僕は、“小笠原さん”をエスコートし胸ときめかして紀尾井ホールへ。ステージに勢揃いした楽団員の間で音合わせも終わった6時30分、袖から黒一色の立て襟テイルコート風の素敵な服装で彼女が颯爽と現れると、客席のざわめきはぴたりと止み、一瞬して万雷の拍手。ニコリともせず観客に会釈をして彼女は指揮台に立ち、団員に目配せして両手を少しく動かすと、プッチーニの妙なる調べが静かにホールに流れ始めました。
客席から見る彼女はもちろん後姿ですが、その指揮ぶりの余りのなまめかしさに、僕は最後まで完全に心を奪われました。そのなまめかしさが、テイルコートに包まれた細身の身体を彼女が絶えずしなやかにくねらせることから生まれると、僕は最初から思い込んでいました。が、休憩後モーツアルトの交響曲を聴いていた時、突然「そうだ、手だ!」と気づいたのです。二匹の蝶が戯れるように動く彼女の白い官能的な手を凝視しつづけることで、甘美な旋律は僕を快い陶酔の世界に浸らせてくれました。こういう音楽鑑賞の仕方を初体験させてくれた女性の友人に、僕は心から感謝しています! |
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2005年7月20日 |
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先週赤坂の僕のオフィスに武藤順九君がひょっこり現れました。ローマ在住30年の同君から「イタリアはどうでした?」と聞かれたので、「…今度は主に小都市ばかりを回ったが、どこも日本のような市街地の空洞化といった様子は全く見られなかったね…」と答えると、同君は事もなげに「家族と地域社会の絆が日本と比べられないほど強いからですよ…」と言って笑いましたが、正に僕が思った通りでした。
僕の旅行中にマスコミが報じた国立社会保障・人口問題研究所の最近の試算では、これからの日本は、東京ですら急速に老いゆく運命にあるとのこと。過去数十年間東京は全国から若者を吸引しつづけてきたにもかかわらず、高齢化の速度は全国平均を遥かに上回り、2030年の老齢人口は現在の2倍(約925万)に達するとのこと。この趨勢などどこ吹く風とこのところ都心ではバブル期さながらに大型オフィスビルやマンションの建設ラッシュがつづいていますが、この結果近い将来、多くのオフィスビルやマンションは空洞化し、東京も活力の無い寂れた都会に成り果てることでしょう。
先々週の土曜横浜市大で開催された公共選択学会全国大学の統一テーマは「地域社会と大学」。冒頭基調講演に立った僕は、イタリア旅行の生々しい印象談も織り交ぜながら“非経済”的要因の経済効果を強調し、わが国で現在専ら政治+行政主導で進められている地域活性化政策を批判しました。「いかに財政資金を投じて街並みを整備したり住民の流出防止策を講じても、頼るべき家庭もなく地域社会への愛着もない人々には、そうした政策は全く効果が期待できないはず。地域社会への大学の役割は、何よりも先ず、この事実認識からスタートすべき…」というのが僕の結びでした。 |
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2005年7月12日 |
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「長旅の疲れもあろう…」というわが秘書篠塚君の心遣いで先週の予定は最大限緩やかに組まれていたにもかかわらず、過ぎてみれば、結構忙しい一週間でした。いろいろありましたがやはり特筆すべきは、鏡割りのご依頼を受けて出席した7日夜の帝国ホテルでの廣田和子さんの出版記念会でしょう。
一般的知名度は別として、いやしくも教育を通しての国際交流を語る場合、日本人として彼女の名前をはずすことはできません。米国の大学での実のある長い留学成果とか日本人では初の米国TOEFL理事就任とかいったことよりも、帰国後自分自身の体験と信念に基づいてユニークな教育機関(ネバダ・カリフォルニア大学国際教育機構Japan=NIC)を開き、過去18年間に実に6千人に及ぶ日本の若者を留学生として米国の大学に送りだしてきたこと、これは文部(科学)省の官僚や日本の大学関係者の自戒を促すに足る貴重な実績です。
彼女が世間的にいって幸せな人生を送ったとは決して言えません。離婚も経験されている上に、手塩にかけて大切に育てあげたただ一人のお嬢さんを娘盛りの最中に交通事故で失くしてしまわれました。この言いようのない不幸をよく克服し、彼女は「入学基準は“気力値”」を掲げるNICに集ってきた若者一人一人をわが子のごとく愛し、励まし、導いてきました。落ちこぼれ、不登校児、引きごもり…と言われた若者のどれほど多くがNICのおかげで奇跡のように生まれ変り、希望を抱いて米国の大学に巣立って行ったことでしょう。
本の題名は『きみは変われる!─夢をもって世界にはばたこう』(草思社刊)。今では、東大を蹴ってまで志望する若者もいると言われるほどになったNICをめぐる数々の感動の物語が、本書の中に満載されています。ご一読をお勧めします。 |
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2005年7月5日 |
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今日午前、真っ黒に日焼けして帰国しました。何しろイタリア北東部の小都市を忙しく旅した10日間も、その後5日間のんびり滞在したフィレンツェでも、毎日が晴天の猛暑つづきで、輝かしいイタリアの陽光をふんだんに浴びたのです。
すっかり年中行事化してしまったワイフとのイタリア旅行ですが、今年のお目当ての一つは、ヴェローナの夏の夜のアリーナを華やかに彩る恒例の野外オペラの観劇。ワイフが春先からインターネットで初日席の確保に努力した甲斐あって、満天の星空の下で最高の場所に座って本場のオペラを味わいました。しかも当夜の演目は、僕には格好の『アイーダ』。
ただしワイフと違い僕の方は、予め読んでおいた筋書きを懸命に思い出しながらの観劇ですから、途中でいろいろなことが頭に浮かびます。ラダメスとアイーダの悲恋を眼前にしながら、僕が何を考えていたと思われますか? 何とわが友阿久悠が作詞・三木たかしが作曲したあの『北の蛍』のこと。
ちょうど日本を発つ直前に聴いた松岡正剛君の「連塾」第8講『八荒次第─日本の百辞百景』のフィナーレの森進一の絶唱「雪が舞う 鳥が舞う ひとつはぐれて夢が舞う…」が、演歌嫌いのはずの僕の心にも強烈な印象を残したのです。同じ悲恋でも、「独りぼっちが好きだよと 言った心の裏で泣く」(『悲しい酒』)にも通ずる日本人特有のじめじめした情念は、イタリアのオペラの主人公には全く無縁と思われます。
悲劇にもじめじめしないわけですから、日常生活におけるイタリア人の闊達さは、引きごもりや集団自殺に象徴される暗くて閉塞的な今の日本人とは正に対照的。都会の中心街だけでなく場末でも、また小さな辺境の町の広場でも実感できる健康な賑わいこそ、僕たちにとってこの上ない癒しです。。
僕は航空機の技術者だった親父を心から尊敬しています。親父は半生を投じた仕事を終戦とともに奪われ失業しましたが、僕たち家族は父から溜息や愚痴をただの一度も聞いたことはありませんでした。還暦を過ぎていた父は、「今まで忙しくてできなかったから…」と言いながら独学で科学技術の歴史と取り組みはじめ、20年をかけて大著をまとめたのです。
「歳を重ねただけで 人は老いない 夢を失ったとき はじめて老いる」というウルマンの言葉を、親父は自ら僕に実証してくれました。来週は僕もいよいよ78歳。子供たちのために、それを実証してみせる責任を感じ、意欲満々です。 |
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