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野田一夫かく語りき
現代の肖像
イレギュラーな日本人
朝日新聞社「AERA」'02.8.5号より

人と人とを結び続け、常にその輪の中心にいながら、
最も忌み嫌う言葉は、「和をもって貴しと為す」。
「この言葉がこれほど国民の間に浸透した国はない。
むしろ『和をもって怪しい』でなければ」。
自ら和を飛び出し、飛び出した日本人を励まし続ける
“チアリーダー”である。

文=桐山秀樹
写真=比田勝大直

 
 今年75歳になるその男にこれまで逢った人間は、皆、口を揃えて「こんな人がいるのか」と驚く。ある日の夕刻、駐日カナダ大使館の入る、東京・青山の超現代的ビル地下の会員制組織「シティクラブ・オブ・東京」。バーラウンジに流れるきらびやかなピアノの調べをかき消すようにして、その男・野田一夫は現れた。出資企業を募りこのクラブを創立した彼に、居並ぶ経営者から声がかかる。「大学名誉学長」の肩書を持つ彼の眼光は炯々爛々、挑戦的でふてぶてしい。キリリと引き締まったその身体はいまだ大学に入学したての青年の如く初々しく、ダンディーだ。おまけに歩くスピードが街の若者にも追いつけぬほどの速さで移動する。これで彼が周囲を睥睨し、威圧するような言動の持ち主なら、まだ理解できぬでもない。ところが目の前に現れた野田は、初めて逢った人でもヤアヤアと手を挙げ、気さくで至極明るい。この本来組み合わされるべきではない異質な要素を75歳の肉体に一元化した男が、イレギュラーなジャパニーズ、野田一夫である。野田は75年間、自らイレギュラーであると同時に多くのイレギュラーな日本人を育て、元気づけてきた。これはその再生産の物語だ。
 50年前。野田は東大にいた。イレギュラーぶりはすでに芽を出していた。たとえば、いつも分厚い書籍を携えて授業する経営学者の馬場敬治の授業に出席した時、馬場はある書籍を挙げ、20年かけて書いた良い本だと紹介した。すると学生の野田がバッと手を挙げて言った。
 「20年という時間に何の意味がある。いい本を一生かけても書けぬ人もいるし1年で書く人もいる。むしろ普通の人が3年で書くものを1年で書くところに意味がある。それが経営学ではないか」
 激怒した馬場は野田に居残りを命じ、野田は東大近くにある馬場の家まで連れていかれた。待っていたのは、当時貴重なスキ焼きだった。
 手当たり次第にぶつかり続けていた野田は、やがて産業社会学の尾高邦雄に出会う。旧制高校理科を出て数学が得意な野田を、大学院特別研究室に残した尾高が、研究室で彼に「もっと統計数学を重視せよ」と指導した時も野田は言った。
 「国民所得統計や世論調査のように測定が雑なものを厳密に分析して、いったい何の意味があるんですか」
 その尾高の研究室で日本鋼管の経営分析を手伝った野田は3年後、肌に合わなかった東大を自ら出て、立教大講師に転身する。「学者」の世界に収まり切らなかった野田は、当然、学外に出て学問をすることになる。ソニー(東京通信工業)、松下電器、ホンダ(本田技研)の油に汚れた工場を訪れ、井深大、盛田昭夫、松下幸之助、本田宗一郎ら若き経営者に次々と逢っていった。
 最も親しくなった松下幸之助とは、立教で3年後、助教授に昇進した際、大阪にあるクラブ関西での雑誌の対談で逢った。既に急成長した企業の社長である松下は、野田がドアをノックすると、ソファに腰掛けて待つのではなく、途中まで歩いて迎えた。野田の名刺を見るなり松下は、「いい名前だ。お父さんは姓名学でもやっているのか?」と問うた。「物理学です」と野田が答えると、「なら、なお良い」とポンと肩を叩き握手した。秘書に聞くとそれはお世辞ではなく事前に松下が専門家に聞いて調べ上げたものだと知った。だがもし名前が悪ければ松下は褒めなかったに違いない。
「何が頼りになりますか」尋ねると松下幸之助は言った。
「それは時代の流れですよ」
 「人間、何でも長所を認められると元気が出る。その日一日僕の気分は高揚していた」と野田は述懐する。
 「たとえ愛情があって叱っても、才能ある人間は激励することによって元気が出る。これこそ生きていくうえでの経営学だ」
 当時の松下では徹底した合理主義と能力主義が貫かれていた。例えば「景気は当てになりまへんなあ」と松下は言った。
 タイミングよく工場を建て自信を持って製品を出荷しても、景気が良ければ同業他社の売れ行きもよく、差はつかない。むしろ景気が悪い時の方が必死になって頑張った分、断然よくなる。だから「景気が悪い方がやりがいがある」。「では何か頼りになりますか」と野田が尋ねると、松下は言った。「それはあなた、時代の流れですよ」。また松下では、成績の悪い部長を降格させる際も、本人の同意を必要とした。後に降格された事業部長2人に野田が問うと、「これは自分の責任だ。なのにうちの親父さんは復活の機会まで与えてくれた。なかなかできないことだ」と答えた。
 こうして戦後新たに生まれたベンチャーのみに「組織の隅々まで合理主義と市場原理が貫徹している姿」を野田は見た。その他、「出る杭を伸ばす」当時のソニーの経営や、技術開発で部下が社長に刃向かうホンダの合理主義経営を目の当たりにした野田は、「経営の要諦が経営者の人柄と天与の愛嬌にある」と知る。だがそれを数式では表せず、何より大学に解放感がない。
 悩む野田を励ましたのが、父親の哲夫だった。「人生は長い。自分の可能性をそう簡単に限定するな」と父親は言い、「大学教授臭い学者が多い日本で、お前は大学教授として野田一夫らしく生きろ」と元気づけた。
 戦前、三菱重工で零戦の設計を行った哲夫は占領政策で職を失う。だが「愚痴ひとつこぼさず、会社の命令で機密書類を『よく燃えるなあ』と淡々と火にくべる姿」が野田には衝撃的だった。さらにその翌日から母親に弁当を作らせ、図書館通いをすると、自らが実践した科学技術の歴史を研究して、80歳で上下2巻の大著として出版した。「人前で暗い顔をするな。愚痴をこぼすな。他人と自分とを比べるな」と父は言い、自らもそれを実践した。そんな哲夫を見て、野田も父のように生きようと思った。
 
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