2011年6月28日 |
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先日、菅首相の横で「・・・あと十年もつづけてください」と笑って叫んだ君をテレビで偶然見かけ、思わずわが目と耳を疑った。三十余年に亘って君に心から敬愛感を抱いてきた年長の友人として僕は、今多くの国民の非難の的となっている“死に体”の権力者に、君が嬉々と接近したことを憂うる。
退陣表明後も“居座り”に汲々としている菅首相は、君が突然“自然エネルギー開発”を表明した相前後、それまで口にもしなかった大規模“太陽光パネル”構想を急に打ち出すとともに、「再生可能エネルギー特別措置法案」提出までしようとしている。これは、果たして偶然の一致なのだろうか?
自然エネルギーの開発技術が完全に実用化されるまでには、予想以上に長い年月を要するはずだ。だから、60歳で引退を公言してきている君が全力を傾倒すべき目標は、やはり、わが国の情報基盤(=“光の道”)の完全自由化ではないのか?
政治家は概して利己的だから、君の価値は、君の人柄とか理想ではなく、君の名声と財力だ。彼らは人一倍猜疑心が強いから、菅失脚後は、自民党はおろか民主党の主要政治家も君とは社会的距離を置くだろう。そして彼らは非情だから、ひとたび君の落ち度を見つければ、躍起となって襲ってくる。これまでの人生で、僕はそうした例を嫌と言うほど見てきた。
仮に、そういう政治家を手玉にとるだけの知恵としたたかさが君にあったとしても、残念ながら最近の君の異常な忙しさは、その才能の発揮を妨げるに違いない。長年君を見つづけてきた僕には、今の君は30年前の大病以来の危機に立っているように思える。あの時の危機は単に肉体的なものだったが、今回の危機は精神にも及びかねない。“忙”の解字は「心を亡ぼす」ことだということをくれぐれも銘記してほしい。 |
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2011年6月20日 |
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今回の大震災による被害は、大地震そのものより、地震に伴う大津波とそれによる原発の損壊によって有史以来空前の規模に達することになる可能性がありそうですが、原発の損壊と津波対策に対してそれぞれの専門家が使った“想定外”という釈明に対し、実に多くの反発意見が出されてきました。
ところが、僕の手元へ先週届いた『中央公論』七月号では、ロバート・ゲラー東大教授(大学院理学系研究科)が『地震予知は不可能だ「想定外」という三文芝居』という標題で、日本の主流派地震学者を痛烈に批判しています。遠く60年代に東大名誉教授を中心とする主流派地震学者たちが、「日本で発生する地震は、広汎な(地震)観測研究を行えば、十年後には予知が可能になる」と発表して以来、科学的根拠のない“地震予知”が国家プロジェクトとなり、地震が起こるたびに予算と人員は焼け太り的に増加しましたが、(当然のことながら)何の実績もあげえぬまま今回の震災に直面したとのこと。‘78年に成立した「大震法」も“東海地震”も単なる主観的見通しだけで予算と定員増を獲得したとすると、主流派地震学者の行為は正に詐欺師に近いということになります。僕は、この論文に対する主流派地震学者の反論を切に心待ちします。
なお、『中央公論』の同じ号所収の小松正之氏(政策研究大学院大学教授)の『逃げるな! 五〇年先を見据えろ 私が反捕鯨国を論破した瞬間』も、IWC(国際捕鯨委員会)の反捕鯨支持国の代表が、「鯨は絶滅の危機にある」という何の厳密な科学的根拠もない学説に基づきいたずらに(鯨の増加による)漁業資源の危機を招来しつつあると主張する点、前記論文とともに、一部の科学者と政治・行政権力との不当な結びつきを厳しく批判しています。“科学”も一概に信用できないようです。
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2011年6月14日 |
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気分が晴れない時、どうそれを解消されますか? 僕は、芝生に寝転んだりして目を閉じ、幼い“おしん”のことを思い浮かべます。頭に浮かぶシーンは、何時も同じ…。自然に涙が滲み、そしてその涙が何時も僕の心を癒してくれます。
川の流れで自分の乗る小さな筏が故郷からどんどん遠ざかって行く時、岸辺で手を振って別れを惜しむ母親に向い「かあちゃん…」と泣き叫び続けるおしん。ふと顔を上げ高台に呆然と立ちつくす父親の姿を見つけ、思わず「とうちゃん…」と絶叫するおしん。彼女は7歳にして、「他の子は学校へ行けるのに、私だけは…」という不満も抱かぬどころか、三度の食事もままならぬ貧しさの中で心から自分を可愛がってくれた母親に、また、その母親の懇願を聞き入れず自分を奉公に出す父親にも、「娘を学校にも行かせられないことを、どんなに辛く感じているか」という思いやりまで抱いていたのです。
NHKのテレビドラマ『おしん』が放送されたのは1983〜84年ですから、若い人たちにとっては、“おしん”は「ああ、聞いたことがある…」といった程度の存在のはず…。テレビドラマ不滅の高視聴率記録を樹立しながら、今は『おしん』を視聴しようとしても、その貸DVDは近所のTSUTAYAには無く、古びたビデオテープを借りる他ない時代です。
若い人々は、おしんが味わったような“貧しさ”はもちろん、おしんが感じたような親子の“愛”さえも恐らく経験したことがないのみか、それらを頭で理解することすらできないで老年を迎えることでしょう。が、その頃の日本は、彼らが青春を謳歌した頃の日本とは経済・社会両面で比較しえぬほど惨めな国になり果てている可能性は少なくありません。
僕が今私塾を開き、若者たちとの対話に努力する所以です。 |
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2011年5月31日 |
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今や国民的課題である“原発”に関し、「存続か廃止か」の二元論で(段階的も含む)“廃止論”が優勢な世論となりつつありますが、先週旧知の新聞記者がその件で僕の意見を聞きにわざわざ訪ねてきました。「全く無関心…」という僕の答えにやや不満そうな顔をした同君に、僕はこう話しました。
「僕は原子力についてど素人だが、今更それをかじる気もない。なぜなら、どこの国にもこの道の専門家はいるが、一流の人たちの間ですら“原発”の安全性についての意見は微妙に食い違っている。今回の福島原発の損壊により、彼らのうち原発反対派の意見が逆に世論の圧倒的支持を得ているようだが、原発廃止の手順、廃止後の電力供給方式、電力料金…など具体的なことは藪の中。この状態で“民意”に動かされての成り行き政策は、禍根を残す可能性は十分あろう」と。
かつて原子力専門家の世界では、原発に反対ないし慎重論を唱えた少数派の人々は、(今や流行語となった)“原子力村”によって村八分とか陰湿な嫌がらせを受けたようですが、現在は一斉に“首をすくめた”原発推進派に代わって、反対ないし慎重派の人々は、昔の恨みを晴らすかのごとく、ここぞとばかり鬨の声を高めています。こうした推移を最近になって知るようになるにつけ、僕は「(冷厳な真理探究の徒である科学者といえども)利害や面子といった世知辛い問題がからむと“只の人々”かと“ものの哀れ”を感じさせられます。
だが、いつもながら政治家の鉄面皮には更に呆れさせられます。現役政治家の間では未だマシの方だと僕が思っていた小泉元首相は、先週地元での会合で己の自民党の原発推進策を批判し、「今後、原発依存度を下げていくべき」と主張しました。「哀れと言うもおろかなり」と言う他はありません。
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2011年5月18日 |
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佐藤しのぶさんは、僕の親友の間で不滅のマドンナ。その“母思い”は有名で、これまでいろいろエピソードを伺いましたが、残念にも母上は昨年暮逝去され、今年17回を迎えた彼女恒例の「母の日」コンサートの後開かれた「偲ぶ会」には、われわれもお招きを受けました。その席で初めて彼女から紹介された父上は、何と容姿、風貌、品格とも完璧な紳士。以下は当日の僕のスピーチの概要です。
しのぶチャンは何かにつけて母上のことを話題にするので、失礼ながら僕は、「…ひょっとして彼女は“父なし子”…」とまで思っていました。が、今日初めて素敵な父上にお目にかかり、「佐藤家では一人娘の教育は専ら母上に任されていたのだ」と納得しました。
実は僕は、何時も父親の話ばかりするので、友人たちから「君にはお母さんはいたの?」とよく言われます。その名のごとく一人息子に生まれた僕は、父から徹底して厳しく育てられましたからその思い出は尽きませんが、母の思い出はと言うと、父に叱られてしょげている僕を優しく慰めてくれた、といった地味なものばかり…。
さて、そこにおりますワイフと結婚し、生まれた子供たちが大きくなると、みんなが彼女を「お母さん」と呼ぶので、僕もある時「お母さん」と呼ぶと、すかさず返った「お母様はお亡くなりになりました」という返事に愕然…。が、それにも屈せず繰り返した結果、やがてワイフは、その呼びかけに応じてくれるようになりました。
結婚後すでに54年、子供たちは次々に巣立って、疲れて帰る家庭にかつての賑やかさはもうありませんが、“お母さん”がいることは、84歳になっても、僕の最高の癒し。佐藤家では、しのぶさんは一人娘のお嬢様にとってはかけがえのない“お母さん”ですが、しのぶチャン、あなたは現田君(ご主人)とお父上にとってもかけがえのない“お母さん”であることを、どうか忘れないでください。
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2011年5月6日 |
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日取りが良かった今年のゴールデンウィーク、僕の赤坂オフィスは10日間クローズ、秘書たちは一斉連休。自宅の書斎にこもって書類を整理したり、原稿をまとめたり、買い置いていた本や雑誌を読み漁ったりしようと計画していましたが、結局、家族や友人と会食したり、映画やコンサートに出かけたり、親しい仲間とゴルフに打ち興じたり…して、結局仕事らしい仕事は何もしないで過ごしてしまった次第。
僕の場合、原稿は殆ど自宅の書斎のパソコンで綴り、オフィスは主に会議や打ち合わせ、接客や懇談にと使い分けしていますが、どういうわけか、オフィスが開いていない休日の昼間は、仕事の能率が上がりません。たしかに、原稿作成中にふと思いついたことがあると、すぐオフィスの秘書に電話して何かを質したり、頼んだり…しますが、それより、万事僕のことを公私にわたって心得ている彼女らが“城”を守ってくれていることが、言葉で表せない僕の心の安らぎです。
僕が個人オフィスを構えてから、なんと半世紀。7回移転しましたが、全て赤坂見付周辺。すでに50人は優に超した何れも有能で人柄抜群の歴代秘書に恵まれ、僕は大学教授としては破格な幅広い活動実績を重ねました。少なくとも日本の大学教授は、大学が提供してくれる“研究室”を公私の区別なく使用することが慣習化されてきましたが、若くしてそれを疑問に感じ、拒否した己を、今も誇りに思っています。
今年84歳、普通ならオフィスなぞ畳んで悠々自適の生活に入る年齢でしょうが、僕にはその気は全くありません。人間誰もが可能性としては「明日は死ぬ身」。だから、“颯爽と生きる”とは、「達成したい人生目標を抱いて生きているか否かで、年齢は関係ない」と、僕は連休明けを待望しています。 |
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2011年4月18日(先勝) |
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先週は偶然、かねてから構想を練ってきた僕の二大長期プロジェクトが、共にその実現のための第一歩を踏み出しました。一つは、僕にとって三つ目の創業学長となる予定の「事業構想大学院」の申請受理が、文部科学省によって公示されたこと。今一つは、(目下、淡路島の“農業ベンチャー”育成に没頭中の南部靖之君の紹介で)淡路市長の門康彦氏に初めてお会いし、僕の“淡路共和国構想”(Rapport−805参照)を詳しく説明して理解を求め、熱い共感を得たことです。
“事業構想”とは、県立宮城大学の設立に当たり、僕が日本で初めて付した学部名。仙台では「東京から招かれた学長が、妙な名の…」といった程度の反応でしたが、(「“構想”とは優れたアイディアを“計画”にまで落とし込んでいくプロセスで、経営から芸術にいたるあらゆる卓越した営為の根源である」という)僕の考えを聞いて共鳴した東京の産業界の友人の一人の熱意と協力により、「(青山・表参道という)日本一の好立地条件の地に(入学定員30名という)日本最小の専門職大学院」が来年誕生することになりそうです。
果てしない経済的低迷と社会的閉塞感が象徴するわが国の“失われた20年”は、結局は政治の劣化がもたらしたもの。この状況を打破する契機にせんと僕が注目しているのが、(近く国会で可決される予定の)「総合特区」制度。小泉政権時代に制度化された“経済特区”は諸外国のそれに比べ発想そのものが矮小だった上に運用も杜撰で所期の成果を全くもたらさなかったものの、その反省を踏まえて誕生する今回の“総合特区”に僕は大きな期待をかけ、淡路全島を事実上の“共和国”として活性化させた上で将来の“日本合衆国”誕生の魁にするという、年来の志の実現を確信しています。
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2011年4月15日 |
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10日の統一地方選挙、さすがに投票率は全国平均で48%と戦後最低を記録しましたが、何と東京都知事選の投票率は58%で前回、前々回を上回ったのには一驚。僕はと言えば、どの候補者も吐き気がするほど嫌で、今回も棄権でした。
民主主義国では、選挙は国民の権利であるとともに重要な義務でもあることは重々承知していますが、僕の懸念は、国会議員選挙から地方選挙にいたるまで、立候補者の人間的質がどんどん悪化しつづけてきていることで、その原因は明白です。どんな職業でも、それに一応不満のない人は、わざわざ大騒ぎまでして政治家になる気持ちが湧かないからです。
もともと欧米の文化に根ざすだけに、日本人は欧米人に比し、民主主義の前提である選挙活動がどうも身につかないことも大きく影響しているのでしょう。いざ選挙となると、立候補者は鉢巻にたすき掛けで街宣カーに乗り、見ず知らずの人々に手を振ったり、聞くに堪えない演説をした後で集まった有象無象につくり笑いを振り撒きながら握手しまくったり、正気の沙汰とは思えぬ演技を平気でするわけです。
そこで僕の念願は、「立候補者選挙活動の禁止」と「ネガティヴ投票」の二つの制度化。前者は、「出たい人より出したい人」を実現するために、立候補者が選挙期間中悠々と海外視察に出かけたり、書斎で思索にふけったりしている間、支持者が選挙活動を懸命に行うのです。後者は、投票の際選挙民が「当選させたい人」か「当選させたくない人」かのどちらかに一票を投じられるようにすることで、立候補者の得票数は肯定の票数から否定の票数を引いたものとなるわけです。しかし、現職の政治家は絶対にこうした制度には大反対なので、残念ながら、この制度の実現はまず無理でしょう。
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2011年4月5日 |
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澤田秀雄・孫正義・南部靖之の三君は(ちょうど日本に“ベンチャー・ブーム”が起こった80年代初頭に)共に自ら創めた個性的事業を見事に成功させて名を成し、今や三人揃って50歳代の働き盛り、その上お互いが年来の友人であることから、世に“ベンチャー三銃士”と言われてきました。
30年前、孫・南部両君は創業直後の頃、僕の赤坂オフィスで初めて会い、気心が通じて友情が深まることになったため、マスコミでは僕を「ベンチャー三銃士の育ての親」などと称しますが、実に光栄な誤解! 僕の所には昔も今も気鋭の人物が集まり、談論風発し合ってきましたから、孫君も南部君もその一人だったわけで、本当に親しくなったのは、澤田君を含めて、むしろ相当成功を収めて以後のこと。つまり三君は当然、自らの創意と努力で成功をかち得たのです。
先週『エコノミスト』誌の依頼で、三君の鼎談を司会することになり、久しぶりに四人が顔を揃えました。テーマは「危機の日本への提言」(仮題)。三者三様の意見はそれぞれ説得力がありましたが、自ら放射能測定器まで携帯して(原発から20〜30`圏内の政府による)住民自主避難要請地域を視察した孫君の衝撃談は、とくに迫力に満ち満ちていました。
この地域には、(多くの官・民機関からの積極的受け入れ表明にもかかわらず)、身体が不自由であるとか、家畜や畑が心配だとか…いろいろ理由はあって残り住んでいる人々が未だ相当いるとのこと。放射能汚染の危険性は極めて高いわけで、たしかに政治や行政は、今こそ正に“強制力”を発動すべきです。「動ける人たちは(役所に)言われなくても、とうに避難しているのに…、僕は政治家や役人の頭をぶん殴ってやりたい気持ちに駆られました…」と孫君の怒り心頭!
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2011年3月25日 |
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東北関東大震災から早くも二週間が過ぎました。この間読者各位はいかがお過ごしでしたでしょうか? 改めてお見舞いを申し上げます。この葉書通信Rapportの印刷をお願いしている仙台の印刷所が被害を受けたため、ホームページ分を含め814号以降の作成を断念してきたことをお許しください。
宮城・岩手・青森に友人や知人の多い僕は、地震発生直後から数日間、誰とも電話連絡が取れぬまま、被害状況に心痛めつつ、毎朝夕何時になく、ひたすら新聞を心待ちしました。 僕だけでなく、日本人がこれほど毎日、新聞を心待ちしたことは恐らく第二次大戦勃発以来七十年間かつて無かったように思えます。ただし、事件の余りの大きさの故に、新聞社は限られた紙面に載せるべきニュースの選択に苦慮したのか、特大の見出しとか写真がやたら紙面に氾濫しつづけました。
こういう新聞紙面に毎日対しながら、僕の心中を去来したのは第二次大戦中の思い出。緒戦の日本陸海軍が南に北に華々しい戦果を挙げつづけていた(?)頃には、新聞は連日のように大本営の公式発表の要点を特大の見出しに据え、それを裏づけるような適当な特大の写真を載せるのを常としました。しかし肝心の記事に目を移すと、いくら読んでも、具体的戦況とか交戦中の現地の詳しい事情は、全く不明でした。
テレビも、同じ内容を繰り返し放送しているだけでしたが、写し出された映像の迫力は想像を絶するもので、災害の余りの残酷さとは対照的に被災者の方々の驚くべき冷静さと秩序感覚には真に頭が下がり、僕の先祖の地である東北に対する尊敬の念は一段と高まりました。外国のメディアもこの点をとくに強調しているようですが、恐らくこの災害は、長い閉塞状態にあったわが国の再建の原動力となると固く信じます。
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2011年3月4日 |
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先週土曜に仙台で講演がありましたが、実は僕にはもう一つ目的があって、前日に仙台入りしました。仙台文学館で1月中旬から開催されている「科学と文学の領域を超えて−瀬名秀明資料特集展」をじっくり見学するためです。主催者の要請で同展に飾る(友人・知人たちからの)「瀬名秀明氏へのメッセージ」として、僕は心を込めてこう書きました。
1995年のある日、僕は『パラサイト・イヴ』を読了するや否や東北大学の友人に電話し、同大学大学院在学中の瀬名君への紹介を頼んだ。その頃僕は宮城県知事から、仙台に新設予定の県立大学学長就任を懇請されており、学生に新鮮な知的刺激を与えてくれる教員を懸命に探していたからだ。あの奇抜で緻密な才能が学生に与えるはずの新鮮な知的刺激は疑わなかったが、僕が勝手に想像した作家像が気がかりで、もし陰気でオタクっぽい人物だったら、就職勧誘はしないつもりだった。だが、初めて会った瀬名君の余りに明るく礼儀正しく清潔感あふれる好青年ぶりに忽ち魅了された僕は、時を忘れて新大学に賭ける僕の夢を語り、懸命に同君を勧誘したものだ。……大学教員としての同君は満点だったが、同君にとっては多分刺激が無さ過ぎたためか、“ロボットの誘惑”に惹かれた同君は3年で大学を去った。しかし、あの鮮烈な第一印象は、今も僕の心の中に快く残りつづけている。
いつものように金曜夜には親しい仙台の友人と夕食歓談、瀬名君も出席したので、話題は当然上述の特別展。今や科学者出身の作家としてわが国の文壇で独特の地歩を確立した瀬名君の言葉で最も印象的だったのは、「研究も小説も、最初のアイディアが重要という点では全く同じ」ということ。実は、僕はこれまで幸いたくさんの創業型経営者の方々の知遇を得てお話を伺いましたが、なんと、新しい事業の成否を左右するものも「“最初のアイディア”にあり」という点で、ほぼ一致していたではありませんか。どう思われますか? |
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2011年2月22日 |
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カイロの騒乱に端を発した中近東の民衆の対権力闘争は、インターネットという情報伝達手段が持つ力の凄さを僕にもつくづく感じさせます。しかし僕は今のところ、フェイスブックともツイッターともブログとも無縁です。一面識もない人々とコミュニケイトしたい欲求も時間も無いからです。
もちろん、傘寿をとうに過ぎた今も僕は講演をしたり、雑誌に寄稿したり、時にテレビやラジオに出演したりしていますが、周囲の人々に日ごろ話している自分の考えを不特定多数の人々に対して述べるだけ…。ただ、僕の意見に共鳴し、接触してこられたのを機会に知り合い、交友を深めた方も少なくないので、対外的活動は今後もつづけていくつもりです。
政治家とか評論家とか芸能人のような“人気商売”とは全く無縁だったため、僕はこれまで対外活動に対して積極的ではありませんでしたが、その代わりというか、“天下国家の出来事”ではなく、“僕を感動させてくれる人物”には昔から人並み以上の関心があり、したがって今もマスコミの受け手としては熱心で、とくに新聞は毎日隅から隅まで丹念に目を通し、特定の“人物”の動向や実績に関する記事を熟読します。
先週なら、国際宇宙ステーションの司令官に任命された若田光一さんや今年のグラミー賞での4人の日本人受賞者の記事は当然のことながら、(日本の情報産業界でも今や知らない人のいない)米国のセールスフォース社のベニオフ会長が(日本の情報産業界でも未だ知る人の少ない)大阪の一ベンチャーへの出資懇請のため、わざわざ谷井等社長を訪れたという記事には、とくに感動しました。これらの新聞記事は、一面で毎日叩かれている首相や権力者たちの愚かしい言動にいちいち憤慨することの空しさを、静かに僕に教えてくれます。
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2011年2月15日 |
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「小笠原流礼法宗家・理事」、これは僕には最も似つかわしくない肩書きと、自他共に認めていますが、この肩書の故に僕は、毎年全国の会員が東京に集まる新年会で思わぬゲストの講話を聞き、またテーブルを共にして歓談の時を楽しめます。
今年のゲストは千住明さん。日本人独特の感性から生まれた純音楽のほか、テレビドラマ、アニメ、映画…のテーマ音楽を次々に作曲…して新進音楽家としての地歩を確立した氏は、ご承知のごとく、兄(博、画家)、妹(真理子、ヴァイオリニスト)とともに、有名な“千住三兄妹”の一人。
…という固定観念で挨拶した僕でしたから、いざ講話が始まると、出だしの、「…幼い頃“次男”であることに、慶応幼稚舎の頃には同級生が各界の有名人の子供であることに、慶応大学工学部の頃には課業に専心できずに…」コンプレックスを感じつづけたという同氏の幼・少・青年時代の率直な告白に面食らうとともに、急に親しみと関心が深まりました。
結局氏は工学部を中退し、東京芸大を志望したのですが、子供の頃から大学生の頃まで音楽漬けの生活を送ってきたにもかかわらず、3年間死ぬほどの受験勉強の末にやっと合格。…ただし作曲科卒業後進学した大学院は首席で修了したのみか、その終了作品『EDEN』は芸大資料館の永久保存作品の栄! 正に「天才は1%の閃きと99%の努力」の人生。
講話後の歓談は、「(『EDEN』は電子音楽系の作品なので)富田勲君は慶応大学の先輩ですよね…」と問いかけると、「えっ、先生をご存知だったんですか?…」といった具合に一段とくつろいだ雰囲気に終始し、笑って握手してお別れしました。帰宅して夜、富田君に電話。長話の後、「…これからの展開が楽しみ。早速彼にメールしないと…」と同君。
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2011年2月8日 |
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色白の優男で万事控えめ、積極的行動も極力控える…というタイプが最近の日本の若い男性の理想、哀れみを込めて女性たちから“草食系…”と呼ばれています。(犀や水牛はさぞ不満だろうと思いつつも)僕はこのところ、“肉食系老人”と自称し、ますます意気軒昂! 最大の好物も、テカテカのサーロインステーキですから…。しかし万事“肉食系”がいいわけではありません。例えば、かつての米国の投資銀行なぞ…。
住宅ブームに便乗した町の不動産屋が返済能力の無い庶民に押し付けたハイリスク・ローンの債権を大量に買い受け、各種の優良債権と束にして証券化した上で高度な金融工学的手法で魅力的な金融商品をつくり上げ、多額の手数料を払った格づけ機関のお墨付きを得て世界中の金融市場にばら撒いた貪欲な商行為は、“本流肉食系”にはあるまじき所業です。
しかし、その投資銀行群も“リーマン・ショック”でことごとく一応は牙を抜かれました。破綻して姿を消したもの、巨大商業銀行に買収されたもの、銀行持株会社に移行してFRBの監督下に入ったもの…と形態はそれぞれですが、何か哀れさを感じさせます。先週はメリルリンチ日本証券で、同社の大切な顧客や幹部社員を前に講演しながら、感慨無量…。
何しろメリル…と言えば、ゴールドマン…、モルガン…と並ぶ三大投資銀行でしたが、今やバンク・オブ・アメリカに買収されて、その一証券部門。ただし、メリルリンチ日本証券はメリル…社が健在の頃、例の破綻した山一證券の営業基盤を引き継ぐ形で逸早く対日進出を遂げていましたから、“肉食系”の気風を残しているはず。…当日の僕の講演を最前列で終始聴かれた同社の中山会長に別れ際のご挨拶、「やっぱり、証券会社は本質的に“肉食系”であってほしいですね…」と。
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2011年1月26日 |
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先週はニュービジネス協議会の新年会で、呉善花(オ ソンファ)さん(拓殖大学教授)の記念講演にいたく感銘しました。済州島に生まれた彼女は高校卒業後志願して4年間兵役に服した後日本に留学し、最終的には東京外語大大学院で修士課程を修了した経歴の持ち主ですが、これまで日本の出版社で20冊もの本を出版してきた傍らいろいろな会合に講師として招かれ、急速にその名を高めつつある才媛です。
彼女の講演を聴いたのは初めてでしたが、その魅力は、ユニークな人生経験に基づく興味深い話題の豊富さと、実に歯切れのいい話しっぷりにあります。当日の演題は『日本の曖昧力〜融合する文化が世界を動かす』。彼女は自分自身の留学体験として、何にでも感激した初めの1年〜1年半と、逆に何もかも嫌になったその後の1〜2年を豊富な実例を交えて語った後、この体験は自分のみか多くの対日留学生が失望、いや反日的意識を抱くようにさえなる共通要因だと強調しました。
僕自身の体験を基に考えると、初めて外国に行った場合、最初のうち人は、言葉や風俗習慣の違いによる苦労が行く前に考えていたほどではなかったことに安心する一方、現地の人々の親切も自分の気持ちの中では増幅されます。しかし、1〜2年も暮らしてその国の生活に慣れてくると、(幼少期から身についている自国の価値観に照らして)外国生活の微妙に嫌な点が何から何まで殊更気になる時期を経験するわけです。
諸外国の多くに比べ日本社会あるいは日本人の特性は“論理性より曖昧性”にあることは、何人もの外国の知識人によって指摘されてきました。大江健三郎氏のノーベル賞受賞記念講演の演題も『あいまいな日本の私』でしたが、呉女史はこの強みを対外的に説明できる貴重な人であると信じて疑いません。
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2011年1月20日 |
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父親の仕事の関係で名古屋に生まれた僕ですが、尊敬するその父親から「お前の父祖の地は、東北の美しい城下町、盛岡…」と言われて育ったため、少年の心に芽生えた東北への憧れは、中学4年で東京に移り住んで以後激動の時代を生きた僕の年月とともに次第に根を広げました。…古希近く多摩大学長を退任した後にまた宮城大学長を引き受けたのも、多分に父親が青春時代を過ごした仙台への憧れからです。
ある夜単身赴任の仙台の学長公舎で、以前は東京で笑いを噛み締めながら読んだ井上ひさし氏の傑作『吉里吉里人』に改めて目を通しながら、何故か涙が止まらなかったものです。質朴な東北人が受けた不当な屈辱と苦難の思いが、それをもちろん経験したこともない僕の血の中で突然目を覚まし、以来僕の残りの人生で、東北の比重は俄然重みを増したのです。
先週から今週にかけても、僕は厳寒の北東北へ出かけました。青森では、三村知事の念願で3年前創設された「青森立志挑戦塾」の初代塾長を無事つとめあげた僕のために、塾生や関係者の方々が大勢集まり、心温まる会合を開いてくれましたし、盛岡では当地最高級のホテルで、44年昔僕が立教に創設した観光学科の第一期生が総支配人としてにこやかに僕を出迎え、“恩師”にかえった僕は、早速素敵なステーキハウスに案内され、美味い肉と尽きぬ話に時を忘れました。
秋田には、企業経営者の方々の新年会に記念講演の講師としてお招きを受けたのですが、「せっかくお出でくださるなら、前日はどこでも一番お好きな温泉で…」という望外なお言葉に甘えた僕は、角館の北の山奥にある楽園「都わすれ」で丸一日を過ごし、心身の疲れを癒すとともに東北独特の英気を存分に体内に注入し、爽快な気分で帰京した次第です。
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2011年1月12日 |
808 |
Youth is not a time of life. …… |
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新年最初の取材依頼は「東洋経済新報社」誌から…。「連載中の『長老の知恵』でご高見を…」と言われ、「えっ、“長老”って、僕が…」と驚きましたが、「…80歳代半ばともなれば、これが世間的“敬称”か」と諦め、不承不承引き受けた次第。
この暮から正月にかけては専ら自宅で書斎の整理に専念しましたが、古い書類から突然舞い落ちた一枚の紙片。拾ってみると、懐かしや、Samuel Ullmanの有名な詩「Youth」のコピー。実業の傍ら詩を書きつづった米国人ウルマンが何と80歳の時に書いたこの作品は、本国はもとより各国の錚々たる各界要人たちに好んで詠まれ、強い影響を与えてきました。
日本では戦後、あのマッカーサー元帥が自室に飾り、あの松下幸之助氏が座右の銘にしたと伝えられたことから、広く知られはじめました。僕も40歳くらいの頃松下さんに教えられてその邦訳『青春』を読んでひどく感激するや、すぐ原詩を探し出してそれをタイプし、絶えず持ち歩いて音読を繰り返し、丸暗記してしまったものです。久しぶりのその古びたコピーを眺め、ほとんど忘れてしまったその原詩を声張り上げて読み進むうちに、体内に俄然蘇ってきた青春の血!
僕は昨年末からまたこの詩のコピーを服のポケットに入れ、それを口ずさみ始めました。「心の中のアンテナがbeauty、hope、cheer、courage、powerの知らせを受信しつづける限り、青春は永遠だ…!」と日々僕を励ましてくれるウルマンは、この詩を発表した4年後の1924年、84歳で天寿を全うしました。僕も今年は84歳、何時でも悠々とあの世に旅立てる気概を胸に、貴重な残りの人生を堂々と生きるつもりです。
憂き事の、なほこの上に積もれかし
限りある身の、力ためさん 蕃山
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2011年1月5日 |
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穏やかな新年を迎えられたことでしょう。今年は卯年。考えてみれば、昭和2年生まれの僕にとっては、多分人生最後の“年男”となるはずですから、今までのように興味が湧けば何にでも取り組むという性分を極力反省するとともに、自分自身の時間+能力の重点配分、および多くの友人・知人との多角的協力体制の構築とを、とくに心がけるつもりです。
…というわけで、友人・知人と会い語る機会には、僕が目下身を入れて取り組んでいることと、どうしても実現したいと念願していることとを楽しく話題にするつもりです。一昨日も寺島実郎・久恒啓一両君との水入らずの新年会の席で僕は早速、目下東英弥君の要請で青山表参道に創設を進めている「事業構想大学院大学」、澤田秀雄君に協力して昨年来取り組んでいる「ハウステンボス」の再建の他、(Rapport-805所収の)「淡路共和国」実現の夢を熱っぽく語りつづけました。
結果は上々! 両君の反応は予想外で、有益な助言も貰いました。とくに寺島君は「…日本再生策として“淡路共和国”は抜群の発想! 何としても実現させねば…」と大乗り気、親しい各界の有力な協力予定者の名前まで挙げて、彼らを説得する約束までしてくれたことには、実に感激した次第です。
ところで、今僕の最大の関心の的淡路島ですが、同地出身者で僕が知っている人物と言えば、僕の親友だった今は亡き阿久悠君と、僕が最も尊敬する日本人である天才的商人・高田屋嘉兵衛の二人だけ…。長い交友でありながら、故郷を語った阿久ちゃんは記憶にありませんし、高田屋嘉兵衛は自伝も遺していません。そこで、この休暇には大作『菜の花の沖』を読み、司馬遼太郎の描く嘉兵衛の人物の大きさと人間的魅力に改めて圧倒されました。今や僕には、「龍馬より嘉兵衛」。 |
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