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2011年12月20日

845 世界も日本も波乱含みだが…

 (先号文章中、7.5 haは7.5万haの誤植です。お詫び申上げます)

 今年も最後のRapportをお送りできて、本当に幸せです。

 今年の世界の焦点は、中東と欧州。1年前のチュニジアの“ジャスミン革命”を契機に民衆の反乱=「中東の春」はエジプト、リビアに広がり、秋には遂にカダフィまで殺されて止まるところを知らず。更に他の中東諸国にも波及していけば、近い将来パレスチナ問題、イランの核開発、石油供給等にも関連して、90年以降の世界の均衡すら崩壊させかねません。

 当初「中東の春」の進展を積極的に支援してきた主要EU諸国にとって、今や変貌する中東は大きな政治的・経済的不安材料ですが、それよりも焦眉の急は自身の経済問題。リーマンショック後俄然顕在化し始めた一部EU諸国の財政危機がEU全体の金融危機から、下手をすると世界恐慌、あるいはEUそのものの実質的解体にまで発展する気配濃厚。こういうわけで、来年の世界は政治的にも経済的にも大波乱含みです。

 さて日本は? 3・11直後は、災害の激烈さと対照的な被災者の冷静さ・忍耐強さ・思い遣り精神といった日本人の徳性が世界の賞賛の的となり、支援と激励が殺到しましたが、その後はとなると、原発損壊に基づく思わぬ放射能汚染処理を含め政治の無能が天下にさらけ出され、復興最中に(5年間に6人目の)“どじょう”総理が誕生する始末。スイスIMD恒例の世界各国政府の競争力調査では、対象59カ国中50位に転落したのも当然のこと。今年度末の“国の借金”も遂に千兆円を超し、“財政破綻”説も俄然真実味を増しつつあります。

 こうした1年でしたが、僕は直接的には、3度目の学長を務める「事業構想大学院大学」の新設を確定させる一方、間接的には、「淡路共和国」発足の具体的目途をつける等、終始健康かつ元気溌剌で、充実した日々を過ごした気がします。

 皆様がよき新年を迎えられますことを、心より祈りつつ…。

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2011年12月13日

844 プノンペンの三日間

 ここ数十年、日本に住んでいる日本人から“覇気”を感じさせられることはほとんどありませんが、幸い、海外に住むか拠点を置いて活動している日本人の中には、有名無名を問わず、大志を抱いて意気軒昂たる人物が少なくありません。先般、米国で活躍中の八木保氏(Rapport-840)をご紹介しましたが、今回は、カンボジアの財閥と組んで総面積7.5ha(東京都の半分)の原野を農地化するという壮大な事業に情熱を燃やしている加茂政志氏をご紹介せずにはおられません。

 加茂氏が僕の大学の後輩の勧めで赤坂オフィスを訪ねてきたのは、つい半年前。初めは上記の事業の説明を聞いて、さすがの僕も半信半疑でしたが、八月に来日されたカンボジアの副総理および政府高官たちとの夕食懇談の場で、加茂氏の同国での存在感の大きさを確認させられて気持ちが変り、(同国で気候最高の)12月の同国訪問のお誘いまで何となく受諾してしまいました。・・・日はいつしか過ぎ、僕は忙しい日程をやりくりし、先週4〜6日プノンペンの出張を果しました。

 いやー、その滞在中の忙しかったこと、僕は加茂氏同道で昼間は副総理、財務大臣、文部大臣・・・を訪問、会談する傍ら、プノンペン大学(同国の“東大”)およびノートン大学(同じく“慶応”)で数百人の学生に特別講演・・・。終わると毎晩、政・官・財の要人たちと夕食歓談。こうした日程をこなすうち、僕は急速にカンボジアがたまらなく好きになりました。深刻な内戦により東南アジア諸国の中でも経済成長に遅れをとったものの、平坦肥沃な国土(日本の約半分)、と(その数日本の一割弱ながら)聡明で勤勉な人々によって、カンボジアは近い将来素晴らしい国になることは必定。人生をこの国に賭ける逞しい加茂氏に、僕は本気で協力する気になっています。

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2011年12月6日

843 亀井さんの『蝶に魅せられて』

 父の仕事の関係で名古屋に生まれ、中三までそこに住んだ僕ですが、父から「先祖の地は、美しい城下町・盛岡…」と言われつづけたために、東北への憧れは幼い頃に芽生え、年とともに強まりました。多摩大学学長の任期を終えた後、宮城県知事の要請を受けた僕が、古希の身で県立宮城大学長を受諾し勇躍単身赴任したのも、その憧れの故に他なりません。

 生まれて初めての一公務員の身で在来の公立大学の旧弊を打破する仕事は、思わぬ苦労の連続でしたが、「よそ者の学長は失望して東京へ帰りそうだ」という噂が流れるや、経済人を中心とする仙台の友人・知人たちは、なんと「野田一夫ファンクラブ」まで結成して僕を励ましてくれたのです。しかもその会は、僕が任期を終えて帰京して以来十年後の今も、時に仙台を訪れる僕のために暖かく開催されつづけています。

 先週、そうした仙台での友人の一人亀井昭伍氏から、蝶生態写真集『蝶に魅せられて』が贈られてきました。同氏は仙台の代表的企業「カメイ株式会社」の相談役。同社の淵源は、明治中期に亀井文平氏が塩釜で起こした小売業ですが、以来仙台を拠点に業容を拡大し、戦後は東証一部上場を果たしました。その間5代の社長は、一貫して亀井家からです。

 同じく“同族系”上場企業で社長を勤めたとはいえ、井川意高氏の“カジノ狂い”の愚劣さに対し、亀井昭伍氏の“蝶狂い”のいかに優雅なことか…。しかし『蝶に魅せられて』に目を通す時、人は亀井さんの長年にわたる蝶への関心が、単なる優雅な趣味の領域を遥かに超え、並の学者では到底比肩しえないほどの鋭い観察眼と長年の努力、そして何よりも“蝶への限りない愛情”により、見事な研究成果として実ったことに感動を覚えます。「亀井さん、本当におめでとう!」

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2011年11月29日

842 “清武の乱”は“読売の春”の兆しか

 ご承知のごとく、読売巨人軍球団代表兼GMだった清武英利氏が、18日同球団から解任されました。これは、一週間前同氏が記者会見まで開いて同球団取締役会長・渡邉恒雄氏の越権をあからさまに批判した時点で、多くの人々に予想されたこと。ただ、球団側が当日の公式説明でわざわざ「清武氏はあまりにひどい…」という長嶋茂雄氏(同球団終身名誉監督)の談話まで付与したことは、同球団の自信欠如を表わすとともに、長嶋氏は(確信を持って言明したのか否かにかかわらず)これによって、過去の輝かしい名誉を汚してしまった感はまぬかれません。

 渡邉氏が新聞発行部数世界最高を誇る読売新聞社の社長となり読売グループのドンとして君臨し始めてからもう10年以上になりますが、巨人軍の運営にはそれ以前から深く関与しており、あたかもプロ野球の盟主は巨人軍であるかのごとき横柄な言動は、何回も世間の顰蹙を買いました。もともと政治記者だっただけに、各時代の政治指導者、とくに自民党首脳とは親交があり、このことは当然のことながら財界はじめもろもろの既成権力の指導者たちが(その心中は別として)俗な意味での“天下我唯独尊”の同氏に擦り寄る所以です。

 さて、一刀のもとに切り捨てられた清武氏は、かつては熱血漢の社会部記者としての血が蘇ったのか、「法に訴えても…」と極めて強気ですが、対する渡邉氏は「…もう10人もね。最高級弁護士を用意している。…俺は法廷闘争で負けたことはないから」(朝日新聞11月22日朝刊)と報道陣の前で嘯いたとのこと、何と言う驕慢な科白…!「もの言えば唇寒し…」の読売グループ内にも、渡邉氏のいや増す“老害”への反発は次第に高まりつつあるとのこと。“アラブの春”を称える読売新聞の社内に、“読売の春”は何時訪れるのでしょうか?

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2011年11月22日

841 日本に再び“右翼の時代”到来の予感?

 いよいよ27日には大阪(府知事・市長)ダブル選挙。一地方選挙が今回ほど全国民の関心の的となる原因は、言うまでもなく、大阪都実現を目指して府知事を辞職し、市長選に打って出た橋下徹氏の強烈な存在感に尽きます。氏の主張は日を追って過激化し、単に大阪都の実現のみならず、自らの率いる大阪維新の会により「今や完全に堕落した日本の政治・行政体制の刷新を」と怒号することで、単に民主・自民両党のみか共産党までを敵に回す珍現象が出現している状態です。

 まことに痛快! ですが、僕は、橋下氏の当選とともに、俄然日本社会の“空気”が大きく右にぶれることを懸念します。言うまでもなく、“空気”とは故山本七兵氏が喝破した「空気が許さない」という日本人独特の判断基準で、ひとたびその空気が社会を支配すると、日本の世論はたちまち一方へ大きく偏るからです。僕は少年時代に「大政翼賛会成立(1940年)」直後と、青年時代に「マッカーサー元帥率いる連合軍進駐(1945年)」直後の二度この“空気”の激変を直に体験しています。前者は「米・英に屈するな!」へ、後者は「民主化礼賛!」へ、社会の空気は驚くほど簡単に変わりました。

 橋下氏はイデオロギーを明確に打ち出してはいませんが、その発言から左翼的思想は全く感じられない反面、(氏の出自なども加味して)既成権力(保守政党、財界、富裕層…)への反感は相当なものと思われます。“失われた20年”はつづいていて日本経済は依然停滞している上に、政治は完全に混迷しています。さらに、中途半端に終わった小泉内閣の「構造改革」によって生じた貧富の格差は、一般庶民の被害者意識を予想以上に高めているはずですから、日本社会の空気は、何かを契機に大きく右へぶれる可能性は、今や十分なのです。

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2011年11月15日

840 NO DETAIL IS SMALL

 日本人グラフィック・デザイナーとしては現在世界的に最も知名度の高い八木 保氏が帰国中です。先週金曜、南青山で開催された新著『THE GRAPHIC EYE of TAMOTSU YAGI―八木 保の選択眼』の出版記念会に僕もお招きを受け、氏の古い友人である佐々木啓之君(トゥモローランド社創業社長)から直接に八木氏を紹介されたのみか、この日曜午後には、八木氏の米国人友人たちも一緒に横浜三渓園見学に同行しましたが、車の中では隣の同氏と話が弾み、翌日また二人で昼食懇談するほど親しい仲になってしまった次第です。

 80年代初め八木氏は六本木のAXISビルにあった浜野商品研究所のアートディレクターとして働いていました。折からアジアへの進出を目論んで来日したダグラス・トンプソン氏(エスプリの創業者)はAXISビルに痛く感動してそこに同社の東京店をオープンさせましたが、その際そのグラフィックを手がけた八木氏の才能にほれ込み、帰国するや「今のような状態で忙しく働いていると、君は腐ってしまう…」という文面の手紙で八木氏をサンフランシスコのエスプリ本社に招いたことが、“世界的デザイナー八木”誕生の契機となりました。(以上、上掲書中の関康子氏のAbout Tamotsu Yagiより)

 当時2,000人の社員を擁したエスプリ本社に只一人の日本人として入った八木氏は、英語は全く喋れなかったにもかかわらず、その卓越したgraphic eyeと努力と人柄の故に、忽ち頭角を表わして「EspritにYagiあり」という評価を確立し、やがて世界的に名を成したのです。正に「英語ができてもバカはバカ」(成毛真氏)の逆を行った痛快な成功例! 斜陽化に突き進むこの国に生まれ、自らの人生の未来を危ぶむ全ての青年に、僕は言いつづけるでしょう。「八木氏を見よ!」と。

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2011年11月8日

839 日焼けは幸福を呼ぶ

 「先週はほぼ一週間、家族と久しぶりにハワイで…」、と書き出すと、「この国家存亡の時期に、何をのんきに…」と厳しい批判を受けそうな今の日本社会のピリピリした“雰囲気”。だが、余りにも全てが昔と変わっていないワイキキのホテルのプールサイドの寝椅子に横たわり、ひたすら目を閉じて穏やかな陽光を浴びていた時、僕は、無実の身で不当に長い間収監されていた自分がようやく解放されたような幸福感に浸されました。そこでは何と、TPPも財政破綻もセシウムも…全てが、遠い昔の苦く懐かしい思い出と化してしまったのです。

 実は、今度のハワイ行きに当たっては、近刊を予定されている自著のため、僕は長文の原稿を仕上げるという仕事を抱えていました。が、使い慣れていなかったワイフのノート型パソコンを持参したのが間違いの因で、幸いにも(?)仕事は全然はかどらず、結果として何時もの自分らしく、「別に、殺されるわけではない…」とすぐに気持ちを切り替えた僕は、ハワイ滞在の五日間をゴルフに水泳に、ショッピングにドライヴにと、完全な家族向けヴァケーションにしました。結果は上々、家族は大喜び、僕は真っ黒に日焼けして意気軒昂!

 ハワイへ出発の直前、「事業構想大学院大学」の設置が文科省により正式に認可されたとの報に接しました。僕を何故か尊敬してくれている東英弥君(「宣伝会議」社会長)の要請を受け、昨年来僕が着々と進めてきた「日本一魅力的な立地(青山・表参道)の、日本一ユニーク(“事業構想”?)で、日本一小さい(入学定員、30名)専門職大学院がいよいよ来春開学し、僕は人生三度目の“初代学長”に就任する予定です。来年85歳の僕は恐らく、「日本最年長で、日本最多回の、日本で最も日焼けした学長」と言われるでしょう。楽しみです。

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2011年11月1日

838 大王製紙事件の一つの見方

 大王製紙の前会長が同社の子会社から使途不明の巨額融資を繰り返し受け、それを遊興費に乱費していたという事件が世間の注目を集めています。背任事件に発展しそうですが、僕は同氏が東大法学部出身者だということに注目しています。

 東京大学は日本初の大学として、明治10年開学しましたが、昔の江戸幕府の教育・研究機関を土台として明治国家により創設されたため、開学時点から“官”的気風が強く、法・理・文・医・薬の5分野で発足したものの、新興の明治政府の要望に応える若手エリート官僚を毎年輩出することになった法学部の世間的評価が断然高まりました。産業の発展とともに台頭してきた大企業からの若手エリート社員への要望に応えるかたちで明治末に設置された経済学部・経済学科および商学科(昭和37年、経営学科と改称)も、法学部・政治学科から分離されて生まれたわけで、法学部はこれら全ての源です。

 したがって、東大法学部ないし経済学部の学生の多くは、その時代の一流官庁ないし一流企業に悠々就職するのが常道で、卒業後自分で事業を起こして苦労する者は“脱落者”か“変人”、同族会社に将来の社長候補として入社する者は“同情される果報者”と考えられてきました。何れにせよ、学校時代の優等生としてのエリート意識が災いし、社会人としての人生を歩みはじめると、世間的常識や経験、あるいは人間的魅力の乏しさから、(既成権威を背負わない限り)多くは不満な人生、時には悲劇的人生の主人公への道を歩みました。

 そういう意味で、大王製紙前会長は東大法学部卒の一典型ですが、同様の先輩には、敗戦直後の「光クラブ」事件の山崎晃嗣氏(法学部在学中に自殺)から最近の「日本振興銀行」事件の被告木村剛氏(経済学部卒)まで多士(?)済々です。

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2011年10月25日

837 「忙中閑あり!」と張り切ったものの…

 国際映画祭と言えば、国際映画製作者連盟(FIAPF)公認のカンヌ、ベルリン、ヴェネチアで毎年開催される映画祭が歴史的に“三大…”として連想されますが、これらと並んで近年は、とくに長編を対象とした後進の5つの国際映画祭も世界の映画ファンの注目を集め始めました。十月はその一つ「東京国際映画祭」(TIFF)の季節。友人の依田巽君が08年にチェアマンになって以来、僕にも招待状が送られてきます。

 今年のオープニングは先週土曜の夕方〜深夜。ドレスコードは“フォーマル”、しかも「グリーンタイ晩餐会」ということで、男性の出席者には今年も黒地に緑の水玉模様の蝶ネクタイとポケットチーフが事前に届けられてきました。そこで、月曜締切りの原稿で追われている身でしたが、「忙中閑あり!」と、これらを着用したタキシードに身をつつみ、浮き浮きと会場のToHo Cinemas六本木ヒルズに出かけた次第。

 公式オープニング作品の英国映画『三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船』は、例のアレクサンドル・デュマの原作を元にしながらも、CG技術を駆使した徹底的な3Dアクションもので、それなりに楽しめましたが、何しろ上映に先立ち、依田君はともかくとして、その後野田総理、枝野経産相の挨拶に始まり、わざわざ来日した本作品の関係者にいたるまで挨拶が次々に1時間以上つづいた上、遅れて始まったディナーも来賓挨拶やら紹介が長引き、最後の(とくに長広舌を振るった)古川国家戦略担当相の挨拶の後の乾杯が終わった頃はすでに9時近く、疲れた僕は、早々に失礼しました。

 招待客向けの会合は、客本位の運営を心がけるべきですが、日本では、その会合成立に貢献した会社とか団体、あるいは影響力を持つ政治家などへの過度の配慮、納得できません!

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2011年10月19日

836 『悔しかったら、歳を取れ!』

 仕事に遊びに忙しいのは毎週のことですが、先週はさすがの僕もRapportをまとめる時間的・心理的余裕さえありませんでした。が、今後の僕の生き甲斐を更に盛り上げてくれることになるはずの2つの仕事をやり遂げた気分は格別です。

 具体的には、15日と17日に淡路と東京で行った講演と関係者の方々との熱い交流。前者は淡路青年会議所主催の(淡路・洲本・南淡路三市長による)パネルディスカッション『淡路はひとつ! 未来の淡路島のために』に先立つ僕の基調講演『日本を変える淡路島』と三市長との歓談、後者はACCJ(在日米国商工会議所・Growth Strategy Task Force)主催の研究会での僕のプレゼンテーション『閉鎖国家・日本の工業化とその限界』と上記task推進メンバーたちとの意見交換です。

 この二つの講演と関係者の方々との会合はどちらも、僕がこれからの人生でどうしてもやりとげたい大事業「母なる国(“国家”ではない)日本の再生」に深くかかわります。前者は(先般法制度化された総合特区制度を手がかりに)究極的には淡路島を事実上の“共和国”化し、“連邦国家・日本”形成の端緒とすること。後者は、(米国政府まで強い関心を示した)坂中英徳氏の“日本型移民国家”を実現させることです。

 こんな日々を送る僕に、僕が過去に書いたものや喋ったことを丹念にまとめてくれた上で、それを単行本『悔しかったら、歳を取れ!』(仮題)として出版したいと提案してきたのが幻冬舎。昨年同社刊行の贅沢雑誌『GOETHE』が4〜6月号で僕をとりあげたのが機縁。この題は、同社の有名な創業社長・見城徹氏が僕との歓談中、僕の冗談を出版人独特の勘で「それ、頂き!」と心に決めたとのこと。何かやけくその怒声のようで、どうしたものかと、目下決めかねています。

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2011年10月3日

835 蒼穹を目指しつづける人

 先週火・水曜両日は福武(總一郎)君の招きで、ワイフと久しぶりに直島のBenesse Houseで休養。朝高松桟橋で出迎えてくれた福武君は、直島までのクルーザー(空海U)の運航も、午後のヘリコプターによる瀬戸内海周遊も全て自身で操縦して僕たちを驚かせた上に、(外国から大切な客が滞在中でしたが)夕・朝食時ともゆっくり歓談を尽くしました。

 同君が創業したベネッセ・コーポレーションは、教育や介護分野を中心に今やグループ全体で年商5千億円の大事業体となり、依然着実な成長をつづけていますが、各分野の経営責任を次々に頼もしい幹部に大幅に委ねて03年会長に退いた同君は、09年には代表権を返上して住居もオークランド(ニュージーランド)に移し、直島で始めた年来の夢=“芸術による地域起こし”という前人未踏の試みをいよいよグローバルな視野で推進すべく、動き始めたと言えましょう。

 92年ベネッセ・ハウスの開所式にお招きを受けた際には、率直に言って僕は、それは事業としてよりは福武君の趣味であるコンテンポラリー・アートの作品展示場だと感じましたが、04年安藤忠雄の名を一段と高からしめた(クロード・モネの“睡蓮”の大作展示で有名な)「地中美術館」開館の際お招きを受けた際には、Benesse Art Site Naoshimaは必ず世界でも稀な芸術的事業として成功すると確信しました。

 そして今やArt Siteは遂に直島を超えて周辺7つの島へ拡がり、やがては瀬戸内海全域に拡がっていくでしょう。東京の権力と虚栄と強欲を嫌って岡山へ本社を構え、趣味は他人と争う必要のないハンググライダーから初め、ヘリコプター操縦から今は最上級グライダーへと、ひたすら蒼穹を目指しつづける福武君。その壮大な理想は僕の胸をも高鳴らせます。

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2011年9月26日

834 快晴の韓国での三日間

 先週僕は、台風15号の本州縦断・席巻を的確に予測していたかのごとく、20〜22日を快晴の韓国で過ごしました。  例の“震災義捐金百億”で韓国でも一段名声の高まった孫正義君についての新刊書(『孫正義―恩人たちが語る孫正義』、現文メディア刊)が最近日韓両国で同時出版されましたが、光栄にも僕も恩人の一人として寄稿させられたため、著者の津久井樹里さんと共にソウルでの出版記念講演会の講師としてお招きを受けました。樹里さんは韓国のジャーナリズムで活躍中の韓国人女性で、ご主人の津久井氏は日本人です。

 上記講演会のほか、京畿大学での学生への講演とか「国民の精神的支柱…」とまで称える人々もいるキム・ドンギル博士との夕食歓談とか…日程が朝から夜遅くまで詰まっていて、久しぶりの訪韓を楽しむ余裕はありませんでしたが、いろいろな人々との会話の中から、主に日本のマスコミを通して何となくつくられてしまっていた僕の現代韓国像にはかなりの偏りがあったことを、深く反省させられました。

 例えば、(国民の約半数が住むソウル圏は国境から至近のため)北朝鮮の存在はそれ自身が韓国にとって重大な軍事的脅威であることはもちろん認識していましたが、仮に(完全に同一民族で成り立っているといっていい)北朝鮮が自壊して“大韓国”が誕生することも、保守派であるとリベラル派であるとを問わず、大部分の韓国民にとってはまた別の悪夢であることを知らされ、複雑な思いに駆られました。

 ここ十数年の韓国経済の急成長と、それを裏づけるかのごとき国民的活力は、何より芸能やスポーツ界での韓国人の輝かしい活躍によってこよなく象徴されていますが、どこの国にも、他国民には知られざる悩みがつきまとうようです。

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2011年9月12日

833 アドリア海で想ったこと

 去る5日夕、ひとしお切なく響いた汽笛とともにSILVER WIND号が埠頭を離れ行く時、デッキの高みから夕映えに美しく照り輝くザダール(クロアチアの古都)の街並みを眺めながら、さすがの僕も甘い感傷に襲われました。その夜船はアドリア海を遡上して翌早暁最終停泊地ヴェネチアに到着し、十日間にわたったわれわれの今回のクルーズは終りました。

 “われわれ”というのは、僕夫婦のほか澤田秀雄、庄司正英、南部靖之三君夫妻。三君とも業種は異なれ一業を起こし、ないし担って間もない三十歳前後で僕と知り合って以来ほぼ三十年の仲。相互に気の合う三君は有難いことに親子ほど歳の違う僕を何故か共通のメンターとして慕いつづけてくれた関係で、十年ほど前から「…お互い仕事に追われ過ぎなので、夏のヴァカンス・シーズンを利用し、少なくとも数年おきに大型客船で旅をしながら、短期集中野田ゼミを…」という大目的のもと、“地中海クルーズ”プロジェクトは始まりました。

 これまでの三回で、地中海からエーゲ海・アドリア海にわたる沿岸の主要都市を海から訪れることはできましたが、さて次はとなると、毎日夜航海・早朝到着を繰り返しながら十日間も旅し甲斐のある都市を訪ねられる地域が、この広い地球にはほとんど存在していないのが、僕たちの次の悩みです。

 “究極のレジャー”と言われる“大型客船の旅”ですが、これを本当に楽しむためには、上記の問題の他、@船の規模・設備・サービス、A期間・季節・天候、B船客の年齢層・タイプ・教養度など、いろいろな条件の合致が前提となります。その点今回の旅は、幸い諸条件が幸運にもほとんど全て満たされ、それだけにわれわれは全員旅の疲れをいささかも感ずることなく、8日午後勇んで帰国することができた次第です。

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2011年8月26日

832 続『人生、これからや!』

 大学教授生活55年。僕の“教師冥利”とは何といっても、教え子の人生に与えた良き影響を確認できた時。その一例。  

先日、突然サム田渕君の来訪を受けましたが、用件に入る前「私の人生は、学生時代に先生の『…人生で自分の個性を一番発揮できる国はどこか、よ〜く考えろ…』という一言で決まりました」と言われて驚きましたが、彼はその一言をとことん考えた末、卒業と同時に渡米の決意を固めたとのこと。

 フロリダ州立大卒修士として同州政府に職を得た彼はその才能と人柄を認められて幾つかの要職を歴任した後、約30年後世界最大の開発シンクタンクの日本担当部長兼フロリダ州経済開発局日本代表に抜擢されて晴れて来日(=帰国)し、以来米国時代に身につけた知識・技術(例えばPPP=官民連携方式)をフルに生かして大活躍。今年春には国連経済委員会PPP推進委員会常務理事にも任命された稀有な国際的日本人。

 目下日本では自然エネルギー・ブームですが、太陽・風力発電には多くの技術上の問題がある上に、「雇用を生み出せない」という決定的欠陥があり、田渕君は(すでに欧州では普及している)木材ペレット利用の発電方式の普及にも使命感を抱き、嬉しいことに、昔の恩師の意見を求めに来たのです。

 僕はすぐ林野庁の末松林政部長のところに彼を伴ったところ、同氏はすでに木材発電方式に深い理解を持っておられたのみか、(国民が日頃意識していない“日本の誇るべき資源”=)森林保全のためにも、その実現の契機を模索中とのこと。その時僕の頭に浮かんだのは、親しい村井宮城県知事の顔・・・。そこで超多忙の知事のアポを頂いた上、22日僕は田渕君を伴って仙台へ! 案の定、村井知事は大乗り気で具体的検討を約束されました。84歳、人生今が最も充実した毎日です。

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2011年8月15日

831 『人生、これからや!』

 盆休み前後は僕にとって、毎年講演も会合も原稿依頼も…一時途切れ、納涼船とか花火見物とか避暑地でゴルフとか…日々遊びに費やしがちな時期。しかし今年は立秋以後猛暑がぶり返したこともあり、ひたすら自宅にこもって書斎を片付けたり気の向いた本を読みふけったりして過ごしました。

 昨日は『人生、これからや!』(PHP研究所刊)を一気に読了。著者は(小篠順子と書くと「誰だろう」と思われるでしょうが)誰でもご存知のコシノジュンコさん。有名な世界的デザイナー三姉妹の次女であるジュンコさんが、自分たちを育て上げた母親(綾子さん)の思い出を愛情と尊敬を込めて語りあげたものですが、誰でも読み始めたら引き込まれ、読み進むに連れて元気を鼓舞されるのは必定。この10月から放送開始予定のNHK朝ドラ『カーネーション』の主人公は正にこの小篠綾子さんということもあり、一読をお勧めします。

 僕はどういうわけか、コシノ三姉妹の中でジュンコさんとは実にいろいろな会合でご一緒になり、その言動に惹かれるうちに親しくなり、ご紹介を受けたご主人の写真家・鈴木弘之氏ともお会いした瞬間に気が合い、今や夫婦同士の親しい仲。その関係で先日都心のホテルで開催された豪華な出版記念会にもお招きを受け、お土産に本書を頂戴した次第です。

 若くして夫に戦死されながら、家業を女手一つで支えつつ娘三人を全て独立した職業人に育て上げた母上のことは、ジュンコさんから折に触れ伺っていましたが、本書を読み改めて、日本女性としては稀な彼女の逞しい行動力と自由奔放な発想力の源泉が、日本の母親としては稀な綾子さんの教育方針の賜であることを納得した次第。因みに、80歳を過ぎて「人生、これからや!」を口癖にした母上に、僕は心から共感!

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2011年8月2日

830 持つべきは心優しい“異友”

 僕の赤坂オフィスを初めて訪れる人は必ず、実物まがいのシェパードの置物を見て驚きます。この犬は、友人たちが4年前僕の「傘寿の会」を盛大に催してくれた時津川雅彦君が友情を込めて担ぎ込んでくれたもの。広尾の自宅では適当な置き場所がなかったためオフィスに飾ったのですが、置物とはいえ時とともに愛情が湧いてきて、折あるごと頭をなでてやったりしているうちに、飼犬のような気持ちになりました。

 先日津川君と電話でお喋りをしながらそのことを話すと、早速やって来て、大喜び…。しかもその日赤坂で天ぷらを食べながら僕がさつま芋に特にこだわると、「黙って、来て下さい」と、昨日は同君が行きつけの銀座の天ぷら屋へ招いてくれました。この店名物の特大さつま芋の天ぷらの季節期限が7月末日だったのを、わざわざ主人とかけあい、一日延ばして招待してくれたのです。同君のそういう気遣いの心憎さ…。

 ところで、俳優は概して有名になると、商売上その思想とか好みを表明したがらないようですが、津川君が例外的なのは、彼のブログを追って見ると明らかです。ここ数ヶ月は、大震災に対する民主党の政治家の対応に対する不満と怒りが目立ちますが、京都出身の同君の「東北地方は冬寒く、雪に閉ざされ、家族団結して、ひっそり家に籠り、耐えて暮す。『我慢』と『助け合い』の心が、育まれる雪国! 世界を感動させた、東北の精神こそ、日本人の原点」といった“東北人”に対する思いやりは、先祖を東北に持つ僕の心を和ませます。

 東北を舞台とする新作に目下取り組んでいる津川君が仙台入りする22日、僕は偶然所要で村井宮城県知事にお会いすることになっていますが、その折同君を伴って知事にも紹介し、交友の契機にすることを、今から楽しみにしている次第です。

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2011年7月26日

829 わが国家、愚かしい閉鎖主義!

 毎週のように講演をしている僕の特典は、来場者との間に生まれる人間関係。先週も、坂中英徳氏(移民政策研究所所長)の来訪を受けました。「息苦しい“閉鎖国家日本”の現状を打破しよう!」という僕の意見に共鳴されたとのことでしたが、頂戴した著書(『日本型移民国家への道』、東信堂刊)を一読したところ、この道の専門家だと知って恐縮した次第。

 法務省在職中一貫して在日外国人政策と取り組まれた氏は、05年東京入国管理局長を最後に退官され、(今後半世紀間で一千万人の移民を受け容れる)という明確な目的を掲げ研究所を設立されました。氏の提言にはマスコミも反応し、また多数の自民党議員が参加する議連も氏の意見に沿い『日本型移民政策の提言』まで作成したとのことですが、民主党政権の誕生以降、残念にもこうした動きは今や完全に停滞中です。

 実は、何とその日、ある友人が是非紹介したいと僕のオフィスに伴ったのが、一人のイラン人、ナメグ・メヘルダード氏、44歳。例のイラン革命後のイスラム共和国体制の中で、欧米的自由主義思想を抱く者は徹底的に粛清の対象となり、若きインテリだった同君も英語の本を所持していただけで逮捕され、1年半の刑務所暮らしを余儀なくされたとのこと。出所後彼は祖国を脱出し、エジプト→トルコ→タイを経て難民として来日し、レストランの皿洗いを手始めに苦労を重ねた末に、ようやく自分の店を持つ身分になった有能な努力家。

 この間16年。ごく些細な不祥事にも神経をとがらせながらひたすら申請をつづけたにもかかわらず、日本国籍を取得するには恐らく未だ1〜2年はかかるとのこと。いかにも知的で人柄の良さそうな同君を前に僕の心中には、愚かな閉鎖体制をつづけるわが国家に対する怒りが、改めてこみ上げました。

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2011年7月19日

828 石川遼と「なでしこジャパン」

 政治、経済、社会…国内外のニュースがこぞって低調で不興な今の時代では、ワクワク感をかきたててくれるのはスポーツのみ…。先週は全英オープンで、期待された石川遼選手が14オーバー(147位)というひどい成績で予選落ちをしましたが、ドイツで開催された女子サッカーワールドカップでは「なでしこジャパン」が驚異的に勝ち進んだ末に、決勝戦では、(僕も早暁からテレビ上で応援した甲斐あり)劇的な勝利を収め、われわれ日本人を感激させてくれました。

 石川選手は、幼少より恵まれた家庭環境の中でゴルファーとしての天才教育を受け、高校生にしてその天賦の才を発揮しました。が、恐らく本業を捨てて息子のマネージャーに徹した父親の世俗的欲望が災いし、名を成すとともに(例えば20社に及ぶコマーシャル専属タレント契約等といった)副業の負担の過重からか、近年成績のばらつきが目立ち始めました。全英オープンはもとより、それ直前に国内で行われたトーナメントの際にTVに映し出された同君の疲れ果てた表情が、何よりも克明に同君の不調の因を伝えていました。

 一方、米国と違ってわが国では女子サッカーは、同じプロでも男子と対照的にマイナー視されたため、「なでしこジャパン」のメンバーですらこれまでほぼ全員が無名でした。選手層も薄く、待遇・施設など練習を積むための諸条件にも恵まれず、マスコミも近寄らず、それだけに、本当にサッカー好きな選手たちが毎日真剣に練習に打ち込むことができたはず…。しかし今回の偉業で「なでしこジャパン」を取り巻く経済的・社会的環境は一変するでしょう。願わくは監督も選手たちも、「艱難汝を玉にす」の七文字を厳に忘れ賜うな!

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2011年7月12日

827 日本人の底知れぬ憂鬱

 先週親しい産業界の友人たちと夕食しながらみんなで楽しく盛り上がっているうち、話が政局に移るや途端に雰囲気が一変しました。そして、一人がため息まじりに「…UFOでも舞い降りてあいつを地球の外に拉致してほしいね…」とはき捨てるように言った途端、後は菅首相への批判が一斉に噴出し、やがて誰かの「お開きにするか!」の一言で、何となく白けた散会となりました。多分、このところ日本のどこでも毎日繰り返されている典型的事例に違いありません。

 日本がいかに落ちぶれたと言っても、菅氏がその日本のリーダーにふさわしい器だと思っている人は今や絶無に近いはずです。こんな程度の人物でも、若い頃から派手な市民運動家として名前を売りつつ社会民主連合から立候補を重ねてやっと衆院議員に当選するや、その後は自民党の凋落の狭間を縫いつつ巧みに合法的なステップを踏んで遂に民主党結成時には幹部党員となり、同党の愚劣極まる派閥争いの末に、遂に総理の座を射止めたわけです。しかも、総理としては何の実績も残さぬ反面余りにもずさんな失点を重ね、普通の人なら当然自ら職を辞すはずのところ、大震災という奇禍まで利用して総理の座に居座りつづけている無神経さ…。

 戦前の日本は、政党政治の劣化を利して権力を握った軍閥が無謀な戦争により国民に甚大な被害と苦しみをもたらしました。敗戦後の日本は、占領軍が強制した“民主革命”が意外に効を奏して国民の活力は回復し、「世界の奇跡」と称せられたほどの経済成長を達成しました。今の日本は、民主主義の宿病である“衆愚政治”に侵され、国民は完全に意欲喪失気味です。「俺の後に、誰かいるのか?」という菅首相の高笑いこそ、心ある日本人の底知れぬ憂鬱の根源でしょう。

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2011年7月5日

826 ジュリエットからの手紙

 丁度ひと月前、53年連れ添ってくれた僕のワイフは、スポーツ倶楽部のプールサイドで滑って右腕を骨折しました。急な知らせで帰宅した時、ギプスをして肩を落とした彼女の姿を見た僕は呆然自失…。幸い娘が以来母親に付きっ切りになり、僕もなるべく家に居て看護を手伝ったりした甲斐あり、ワイフはようやくゆっくり散歩できるほどになりました。

 先週ワイフが珍しく『ジュリエットからの手紙』を見たいと言うので、梅雨晴れの土曜午前、娘も誘って僕たち三人は渋谷BUNKAMURAのLE CINEMAへ。「お母さん、お父さんと昔旅したヴェローナを思い出したいんでしょう…」などと娘にからかわれて初めて,「そうか、ジュリエットとはあのシュエィクスピアの…」と気づいた次第でしたが…。

 この作品の主人公はジュリエットではなく、気品漂う英国の老婦人クレアと知性美に輝く若き米国人女性ソフィ。この二人を結びつけたのが、ソフィがフィアンセの故郷ヴェローナに旅して名所「ジュリエットの家」を訪れた時、その石垣の狭間の奥にあった若き日のクレアの手紙をたまたま見つけ、ジュリエットの名で心を込めて書き送った手紙でした。

 この手紙をロンドンで受け取ったクレアはすでに未亡人でしたが、半世紀の昔画学生として北イタリア滞在中熱い恋に落ちながら結婚に踏み切れなかったロレンツォへの思いに目覚め、何としてもひと目会いたいと、自分が育てあげた甥のチャーリーを伴って急遽ヴェローナにやって来ます。

 結局、妻に先立たれていたロレンツォはクレアと、ソフィはチャーリーと結ばれるという典型的米国映画だったとは言え、僕は大いに感動しました。辿った人生は僕たちとは違っても、この老夫婦が到達した“安らぎ”に共感しつつ…。

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