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2006年12月25日

633 ハノイの夜、教え子と…

 先週末から今週始めにかけ、三男の豊と一緒にヴェトナムを旅してきました。ハノイで僕たちを待ち受けていたM君と久しぶりに杯と皿を重ねながら歓談の時を過ごした夜は忘れえぬ思い出です。M君は約20年前僕の立教時代の教え子。僕の自宅に遊びに来ていた時、ほぼ同年齢の豊と知り合って意気共鳴して友人となり、今は事業でも密接に協力し合う仲。

 卒業後大手商社に就職しながら、M君は期するところあって3年後脱サラするや、ヴェトナムの名門大学に再入学して徹底的に同国語と経済を勉強した後、現地の女性と結婚して事業家としての道を歩み始めた異色の日本人。当時の日本はバブル景気の真っ只中にあり、他方ヴェトナムは末期的社会主義経済下で沈滞していましたから、同君の行動は友人たちをも驚かしました。が、若き商社マンとしてアジア各国を巡りながら未来を見据えた彼の眼に狂いはなかったのです。

 バブル崩壊後今日までの日本と対照的に、90年代に入り大転換を遂げたヴェトナムは、今やアジア各国の中でも最も活力に富んだ新興経済国。M君の事業は多角的に発展する一方、殺到する日本企業の多くが同君にコンサルタントを依頼するほかはない状況です。…夢中で歓談しているうちに、ふとM君が「先生が授業中におっしゃったひと言が僕の人生を大きく変えました」と、急に真面目な口調で洩らしました。

 「…選んで生まれてきた国ではないのだから、日本にこだわり過ぎるな! その代り、卒業後の“人生の活動舞台”をどこの国にするかには、徹底的にこだわれ!」と、M君に言ったとは、もちろん全く覚えていませんでしたが、いかにも僕が学生にかけそうなハッパ…。ほろ酔い機嫌で、教師としての冥利と責任を改めて感じさせられたハノイの夜でした。

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2006年12月12日

632 いじめ社会が無くならないのに

 “熱しやすく冷めやすい”のは戦前戦後を通じて日本人の度し難い国民性ですが、「学校でのいじめ根絶熱」は予想外に長引いています。国会議員から評論家やタレントにいたるまで、あたかも自分は生来いじめ心を抱いたことがないかのごとく意見を述べているのには、むかむかさせられます。「出る杭は打たれる」という諺が天下衆知の日本は“いじめ社会”として定評があり、“最も日本的ジャーナリズム”とされる一般週刊誌などはいじめ記事をネタに成り立っているのに、それを出版している大手新聞各社が聖人顔して“いじめ撲滅”キャンペーンをしていること自体、まことに笑止千万…。

  学校とは「生徒や学生が卒業後社会人として生きていくために必要なことを教えるべき場」ですから、かりに学校で“いじめ”の経験の無いまま卒業した純粋無垢な若者がいたとすれば、彼らを社会に送り出すことは、牧場育ちの子羊を猛獣のたむろする草原に放つようなもの。僕は“いじめ根絶熱”など所詮は一過性と考えていますが、かりに学校でのいじめが根絶されたとすれば、社会人になって始めていじめにあった若者の自殺率は現在の若者のそれとは比較にはならぬ高率のはず。その時の責任を今からはっきりしておくべきです。

  …かといって、僕は最近相次いで起こった中学生の自殺を問題視する必要なしと主張する気もありません。子供とはいえ自殺には複雑な要因が重なっているのに、短絡的に学校の責任を問い、その結果教員はいじめ発生に戦戦恐恐として本来の教育をないがしろにすることの愚を主張したいのです。つまり、よほど悪質ないじめ以外、大人は子供の世界に介入すべきでないというのが、僕の信念。今こんな意見をマスコミに発表すれば、僕へのいじめはいかばかりでしょうか…。

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2006年12月6日

630・631 ひたむきな韓国に感銘!

 先週木曜夕刻韓国から帰国しました。今回の訪韓の主目的は、火曜にテグ(大邱)で開催されたASPA(アジア・サイエンスパーク協会)10周年記念大会での記念講演でしたが、僕には久しぶりの韓国だけに、行きたいところ会いたい人が多く、早朝から深夜まで実に多忙な4日間でした。帰ったら李日本サムソン社長と懇談することになっていましたから、とくにソウル郊外にある「人力開発院」などは入念に視察し、幹部の方々の意見を聞く必要があったのです。

  過去約十年間のサムソンの驚異的成長はすでに天下衆知ですが、その成長の原動力を同社首脳は「人材第一主義にあり」と、あらゆる機会に言明してはばかりません。それを裏づけるものが同社の誇る国内12ヵ所の教育施設で、その総本山「人力開発院」は500人の宿泊施設を持ち、毎年新入社員は25泊26日間の入門教育、また管理職から役員までは毎年1〜3週間合宿して幹部教育を全員が受けるのです。金副院長の話を伺っているうち、僕の心にあの高度成長時代の日本の産業界の様相が懐かしく蘇ってきました。どの企業も社員教育に努力し、経営者は社内外の研修や海外視察で新しい知識の習得に懸命だったあの頃のことを…。

  帰国する日の朝、泊まっていたホテルでたまたま開催された(社)人間開発研究院の勉強会にゲストとして出席し、またまた感銘。朝7時から始まる月例会に政・官・財・学・マスコミ…各界の錚々たる人物数百名が顔をそろえ、講師(当日は李ソウル市長)の話を聞いた後、熱っぽい討議を戦わせるのです。終わってから主催者の張会長と歓談するうち意気投合し、2月にはこの集会の講師を依頼された次第。来年は僕にとって、韓国が新しい活動の舞台となりそうです。

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2006年11月22日

629 日本は恵まれすぎてきた

 増えつづける米国の人口が先日遂に三億人を突破。一方、日本の人口は昨年来減少をつづけ、今世紀半ばには、日米の人口比率は1対4に広がることが確実視されています。

  そこで第一問「日米の人口比が1対2だった時期は?」。国家形成の条件が対照的に異なる日米ですが、第二問「国家として日米の決定的共通点は?」。日米が工業国家へ向け本格的に乗り出したのは、前者は明治維新の成立(1868)後者は南北戦争(=Civil War)の終結(1865)ですが、第三問「当時の日米の人口比は?」。…答え・第一問「1910〜1990」。第二問「二十世紀における二大経済成長国」。第三問「1対1」。

  いかがでしょうか? とくに第三問は東大の学生もハーバード大の学生も答えられなかったという愉快な思い出があります。日本人はたしかに自虐的な国民で、自国が今日のような経済大国になれたのは(米国に比べれば比較にならない)大変な苦労の結果だと思っていますが、現実は大違い。

  米国が先進ヨーロッパ諸国より遅れて工業化を志した頃、極度に労働集約的であった工業にとって最大の戦略資源は労働力でした。国土に比しこの資源に恵まれなかった米国は「世界中からの移民の調達」という空前の政策により人口を急速に増やしたのみか、事業家たちが自然に苦労して開発したmanagementと呼ぶ独特の社会的skills(20世紀に入ると、technologiesに進化)が移民労働に伴う@困難な意思疎通、Aコスト高、B仕事の不確かさ…といった三重苦を克服し、国土大国としては世界初の工業化に成功したのです。

  それに比べ日本は? 来週はじめ韓国で開かれる国際会議でのキーノート・スピーチを、僕はこんな話から入って行こうと思っています。その後のことは次号でまた…。

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2006年11月14日

628 捲土重来を期す天才、西和彦

 7日夕、僕のオフィスで西和彦君と月刊経済誌「BOSS」の対談をしました。主題が“失敗”と聞いて編集者に、「彼のような天才に失敗なんか語らせるのは野暮よ。若い頃の彼の輝かしい成功と世界的貢献を日本人はもう忘れているんじゃないの…」と言いながら、僕はNewsweek誌(10月18日号日本版)の特集記事「世界が尊敬する日本人」を開いて見せました。

  「ご覧なさいよ。100人のうち日本で有名な現役経営者は一人も取り上げられていない。取り上げられた経営者二人のうち一人は西君。嬉しいね…」と言い、デーナ・ルイスが書いた記事のことを早口に喋りまくりました。「パソコン、いやウィンドウズを立ち上げるたびに、私たちは西和彦に感謝しなければならない」で始まるこの一文は、西が「IBMのOSを手がけるよう、机を叩いてビル・ゲイツを説得した」といった挿話や「ケイ(西)は一番僕に似た人間だ」というゲイツの感想まで交え、終始温かいタッチで同君を紹介しています。

  西君は学生時代にパソコン時代の到来を確信して出版社を起こし、雑誌『アスキー』でパソコンブームを煽りつつ事業を拡大する一方、直接かけた電話だけで意気投合したゲイツの信任を得て、マイクロソフト社の極東担当副社長となり、同社では空前の業績を残しました。やがてゲイツと喧嘩別れしてアスキー社の社長に収まるや、バブル景気に乗って事業を広げ、やがて自社の店頭公開に成功。その時彼は何とまだ32歳、上場時の会社社長として最年少記録を達成したのです。

  バブル崩壊で資金的に窮したアスキー社の社長を退いた後、世間は早々と同君に“失敗者”の烙印を押したようですが、どっこい。当年50歳のこの天才は意気軒昂。目下画期的な新事業を構想中とのこと。「BOSS」次号記事にご期待下さい。

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2006年11月7日

627 さすがはコシノジュンコさん!

 世界的に著名な写真家グレゴリー・コルベール氏が先週来日。水曜夜南部靖之君が彼のために開いた晩餐会では、久しぶりにお会いしたコシノジュンコさんが右隣で、歓談三昧。

  彼女がとくに感激して話してくれたのは、約二年前金沢駅前に開館した金沢21世紀美術館と蓑豊さんのこと。「建物も素晴らしいけど、何と言っても館長の蓑さんの“子供たちとともに”という理念ね…」と言われた時、これまで訪れた欧米の美術館内の情景が僕の頭をかすめました。どこに行っても、先生と一緒の元気な子供たち…、なのに、彼らは微笑ましくはあっても、少しも迷惑には感じられなかったものです。

  かつてNYのメトロポリタン美術館の雰囲気に魅了されるや、すぐに美術館側と交渉してそこでファッション・ショウを開催させることに成功した人の着眼点はさすがと感銘!「金沢では最近、子供に勧められて美術館に来る親が増えたのですって…。蓑さんには必ずお会いになってね…」とのジュンコさんの言に従い、翌朝早速館長室の蓑さんに電話を入れました。が、あいにく大阪に出張中とのこと。が、30分もしないうちに大阪の蓑さんから、僕に電話がかかったのです。

  それから十数分。お互い一面識もないのに、何とその会話の楽しかったこと…。「近いうち、必ずお会いしましょう」と電話を切った後のすがすがしい余韻。世の中にはこれから巡り会う魅力的人物が沢山いる、と改めて実感…。蓑豊氏。41年金沢市生まれ。慶応大学文学部卒業(美術史専攻)後渡航。トロントの美術館で学芸員を経験した後、ハーバード大学大学院美術史学研究科で博士号取得。以後、モントリオール、シカゴなどの美術館で東洋部長を歴任して帰国。大阪市立美術館長を経て現職。コシノ・ジュンコさんに感謝しています。

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2006年11月1日

626 校長の自殺もまた“いじめ”

 小・中学校の“いじめ自殺”と高校の“必修漏れ”で、いまや日本の教育界は大揺れです。遂に、必修漏れ高校の校長の中から自殺者が出ました。必修漏れは全国にある何百の高校であったわけですから、明らかに一校長の責任に帰すべき事件ではありません。ところが、個々の地域では、問題の発覚した高校に対し、文部省や教育委員会といった“権力”の側からのみか、学生や父兄といった“被害者”の側から毎日のように不条理な圧力が学校側にかけられるようですから、この自殺もまた一種の“いじめ自殺”と断じるべきです。

  小・中学生のいじめの被害者がいじめられた生徒にあることは確かですが、その直接の責任が学校にあるとは到底思えません。まず直接の責任者はいじめた同級生(稀な例として教師)およびその親(弱い者いじめを卑怯とする、また、いじめられている同級生を庇うことを正義とする倫理感を子供の心に植え付けられなかったことにおいて)に他なりません。

  もし、いじめを知りながら適切な処置をとらなかったなら、学校側にも間接的責任はありますが、必修漏れの場合と同じく、いじめが特定の学校に限らず全国の学校で日常的に起こっているとすれば、責任は(例えばいじめ自殺などによって)社会的に特定化された学校の校長より、現行の教育制度、具体的には、制度の上に安住している教育委員、文科官僚、文教族といわれる政治家=権力の側の方が遥かに重いはずです。

  彼らの大部分は教育現場の経験が無いくせに、問題が起こると、やたら高飛車に現場を批判したり、中央へ呼び集めて訓戒したり、責任感は全く欠落状態です。昔の悪代官そのままのこういう様をみせつけられる度に僕は、「戦後の“民主化”とは一体何だったのか」という空しい思いに駆られます。

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2006年10月25日

625 棚田を愛しんだ木村尚三郎

 18日木村尚三郎君逝去の報に接した途端、あの独特の愛嬌ある笑顔が心に蘇りました。僕より年下で専攻分野は違っても、同じ大学人としては何故か気が合って長くつき合ってきました。ヨーロッパの話となると相好をくずして、該博な知識を尽きることなく面白おかしく披瀝してくれたものです。

  いま手元に、同君最後の著作『ヨーロッパ思索紀行』(NHKブックス)があります。先日僕が辿った“聖地巡礼の道”の出発点ヴェズレーに関してはオベルジュ「エスペランサ」の名物シェフのムノー、また山あいの町コンクに関しては、サントファ聖堂の今は亡きコーレ神父…といったように現地で知り会った印象的人々とのエピソードを綴るといった、余人には真似できない紀行文がいかにも木村君らしいのです。

  同君は小泉首相が設置した「観光立国懇談会」で座長をつとめましたが、一方で多忙の中「棚田学会」という極めて異色な学会の会長を引き受けるなど、Visit Japan !と彼が胸を張って外国人を招きたかったのは、どこの有名観光地でもなく、僻地の山村にひっそりつくられた棚田のような“日本の原風景”だったに違いありません。ちょうどわれわれがヨーロッパの田舎を旅し、名もない山村の風景に魅せられるように…。

  棚田に象徴される日本の原風景と言えば、断トツは越後妻有。新潟県が北川フラム君に依頼してその地で00年に始めた「大地の芸術祭」は、回を追うごとに国内外の芸術家および愛好家の関心を高め、第3回の今年は50日の開催期間中に何と35万人の来場者が押しかけました。嬉しいことに財政面もボランティア部隊+自主営業努力+県外からの資金協力で県の負担は大幅に軽減し、ユニークさとスケールとで世界無比のこの催しが完全に民間人で推進される日も遠くありません。

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2006年10月18日

624 骨折なんかに負けてたまるか

 この半月左腕をサスペンダーで吊ったまま、不自由な生活に耐えています。自慢にならない話なので努めて伏せてきましたが、その間もその姿でいろいろな場に出たためか、口コミで知った友人の労いより冷やかしの電話が相次ぎ、変心!

  半月余り前、僕はフランス中部の田舎をご機嫌で旅行中にル・ピュイという小さな町で、雨中坂道を下っている時突然石畳で滑って尻餅…。左ひじを打った途端左腕に猛烈な痛みが走り、起き上がっても到底歩けませんでしたから、ワイフに左腕を数回思い切り引っ張らせてからスカーフの三角巾で腕を釣ってもらい、痛みをこらえてまた歩きだしました。翌日夕刻アルビという小都市に着き、病院で骨折と診断されましたが、急遽帰国もままならず、本式のサスペンダーで左腕を固めて、残り5日間の旅を無事終えた次第です。

  帰国するや、成田から直接順天堂大学病院へ行き、レントゲンを撮った後ようやく本格的治療を受ける身となりましたが、事の顛末を聞いた医師は、「普通なら、失神するか腰が抜けて立ち上がれないはずですが…。痛みと不便に耐えて、よく一週間も旅を…」と感心の面持ち。そして僕のサスペンダーをはずし「手を伸ばしてブランブランと前後左右に振ってみてください」と。その怖かったこと、痛かったこと…。

  さらに「無理にお勧めしませんが、先生のような身体も精神も強い方には、手術とかギプスといった処置より、サスペンダーで吊ったまま、時々はずして手をさっきのように振りつづける最新療法をお勧めします。骨のつき方は多少遅れても、関節のためにはそれがずっといいのです」と。僕は迷うことなく応諾し、その日以来、「骨折なんかに負けてたまるか…」と毎日気合を入れ颯爽と生きています。乞心配ご無用!

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2006年10月10日

623 野田秀樹と坂口安吾

 第一回「安吾賞」受賞が野田秀樹氏に決まり、その発表会が嵐の6日午後、ニューオータニで盛大に催されました。選考委員長として篠田新潟市長の後を受けて立った僕は、多数の候補者の中から野田氏が満場一致で受賞者に選ばれた経緯を手短に話すと、「私の意見は、お手元の資料をご一読ください。早速、本日の主役もう一人の野田さんにバトンタッチします」と3分で降壇。我ながらスマートな裁きと、自己満足。

  「私のような人間が選考委員長を務める『安吾賞』は文学賞ではありえない。篠田新潟市長によると、安吾的生き方をした人物を顕彰したいとのことだから“生き様賞”とでもすべきだろうか。文筆の人安吾は、好んで時の通説や権威に挑戦した。もっと重要な点は、多くの人に共感を引き起こさせて、通説や権威につきものの“奢り”や“うさんくささ”に一撃をくらわし、時代に新しい風を吹き込んでくれたことだ。安吾賞は国籍・年齢・職業…を問わず、正にそういう生き様を示す人物に贈られる賞である」というのが僕の一文です。

  その後、新潟放送の女子アナを相手に野田氏が語った言葉は、実にウイットと含蓄がありました。戦後日本演劇界が生んだ鬼才として、劇作・演出・俳優のほか劇団経営まで見事にこなし、しかも成功の極にあった「夢の遊民社」を93年電撃解散して単身ロンドン留学、10年の成果を問う最初の現地公演の失敗に屈せず執念で今年遂に評価を獲得…といった生き様こそ、安吾賞にこの上もなくふさわしいものといえます。

  しかも誕生日が安吾の死から10ヶ月後である氏は安吾を敬愛し、自らを「安吾の生まれ代わり」と公言して幾つもの安吾原作の作品を手がけてきました。これほどふさわしい受賞者が来年も見つかるか、これだけが、今僕の贅沢な悩みです。

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2006年10月3日

621・622 異端の源流を求めて

 予定通り土曜午後帰国しました。今回のフランスの旅は、僕には以下3つの目的がありました。@ブルゴーニュからボルドーまでそれぞれの土地のワインを日替わりで味わいながら、代表的オベルジュに泊まってフランス料理を堪能すること、A十年前ワイフと北西スペイン最果ての街サンティャゴ・デ・コンポステーラへ辿ったあの“聖地巡礼の道”、そのフランス側ルートに点在する魅力的な町や村を訪ね歩くこと。

  B実はこれが一番僕の好奇心をそそることになったのですが、ここ数年(キリスト教“聖杯”伝説を追う小説)『ダ・ヴィンチ・コード』で俄然世界の知識人の注目を集めている“異端”の源流をこの旅を通し自分の感覚で確かめること。その意味で、旅がヴェズレーから始まったことは因縁でした。この町の名を高からしめてきたものは何と言っても、正当なキリスト解釈にとっては扱いの難しいマグダラのマリアの遺骨があると長く噂されてきた「聖マドレーヌ寺院」の存在です。

  かつて娼婦だった彼女は改心してキリストに仕える身となった、というのが正統派の解釈です。が、実の彼女は可憐な女性でキリストに寵愛され、主が十字架に架けられた時にはすでにその子を身ごもっていたためエルサレムから南仏に逃れ、キリストの血はフランス王朝につながったと信ずる人々もフランス中心に今も根強く存在しつづけているのです。今回立ち寄った幾つかの教会に祭られた“黒いマリア”にも、抱く子はキリストとの間に生まれた子だという説さえあり、異教徒とはいえ僕の好奇心が異常に高まったのは当然でした。

  “聖地巡礼”や“十字軍”といった社会的熱病にシオン修道会やテンプル騎士団といった異端の秘密結社がどう関わったか、今後僕なりに納得のいく解を求めたいと思っています。

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2006年9月20日

620 ミクシィ・ショック

 14日、東証マザーズでのミクシィ上場劇は圧巻でした。買い注文が殺到して売買が成立せず、取引終了時の気配値が公募価格の約2倍まで上げたのはともかく、PERがヤフーの上場時の記録を破ったのには驚きました。つい先ごろ三木谷氏(楽天)や堀江氏(ライブドア)が「ポータルでヤフーに迫る」と息巻いていた頃、すでに検索エンジンの分野ではWeb 1.0からWeb 2.0への地殻変動が起こっていたのです。ネット取引にしても、当事者同士が検索エンジンを通し直接行うのが普通な時代の到来を、SNSの急成長が暗示しています。

  Web2.0と言えば、この事象を平易に面白く解説した梅田望夫氏の『ウェブ進化論』(ちくま新書)がベストセラーをつづけています。佐藤優氏がそうであったように、梅田氏は僕が“何としてもじかに話を聞きたい日本人”の一人なのですが、シリコンバレーに住んで余り帰国されないため、僕の念願はまだ満たされていません。氏は慶応の工学部卒なので、同書の中に出てくる先輩財界人とは間違いなくわが友椎名武雄君と思い期待しましたが、全く面識なしとのことでガッカリ…。どなたか梅田氏を親しくご存知なら、是非ご紹介ください。

  Rapportも僕のホームページに公開して5年になりますが、日常の忙しさから管理を人に任せているためたえず不都合が生じ、読者からお小言を頂戴することも再三です。いずれSNSに登録して自己管理しようと考えていた矢先、わが国のSNS利用者はすでに延べ1,100万人(日経)、ミクシィ会員だけで570万人と知ってびっくり。今の世の中、少しでものんびりしていると時代から取り残されると、つくづく感じています。   

  …とか何とか言いながら、20日~30日中仏ブルゴーニュ地方の田舎をワイフと“のんびり”旅してきます。来週のRapportは10月3日号との合併号となります。

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2006年9月14日

619 香港から帰って

 先週末は会議のため香港へ飛び、PENINSULAホテルでご機嫌な3日間を過ごしてきましたが、現地の経済はほぼ完全に活況を取り戻した感があり、3年前SARS騒動で巷から人影が消えた瀕死の街は、今や幻にすぎません。都心のオフィスビルのテナントは、軒並み契約更改時には2〜2.5倍の値上げをオーナーから請求されると、戦々恐々とのこと…。

  日曜夜関空経由で直接入った大阪都心の賑わいも、泊まった(格式が違うとはいえ)ホテル日航のサービスも活力では香港には比すべくもないというのが、偽らざる実感。日本経済はバブル崩壊後の長い不況からようやく立ち直りつつあるとはいえ、香港のように瀕死の大病から短期間で健康を取り戻す“少年のような体力”を失ったことは否定できません。

  皮肉なことに“老化”といえば、大阪での僕の仕事は月曜午後関西大学で開催された「『カレッジリンク型シニア住宅』創設記念シンポジウム」での基調講演。“カレッジリンク”とは大学と高齢者施設をハード・ソフト両面で結びつけて相乗効果を狙った米国発の新事業形態です。こんなテーマで人は集まるのかという僕の懸念は杞憂に終わり、登壇して驚いたことに広い会場をほぼ埋め尽くした聴衆の数、約400人。

  なるほど、経済はようやく立ち直ったとはいえ、その間わが国では高齢化と少子化が急速に進んだ結果、多くの老人は余生をいかに過ごすかで悩み、多くの大学は入学志願者の減少に対してどう対処するかで苦慮する現況なのです。90年代以降政府がやっつけ仕事で実施した高齢化対策や少子化対策が10年も経たないうちに事実上破綻したわけですから、“終身利用権”つき有料老人ホームも“二階建て方式”の専門大学院も賞味期間は、瞬く間に切れて当然なのです。

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2006年9月6日
618 佐藤優氏のひと言

 先週水曜佐藤優氏に会い、語り、たっぷり1時間講演を伺い、深い感銘を受けました。覚えておられますか?数年前の例の“ムネオ騒動”の時、鈴木議員に付け入る外務省きってのロシア通、絶えずウラでよからぬことを画策して両国の実力者を動かす“外務省のラスプーチン”と仇名される怪人物…という氏のイメージは、短期間で世間に定着しました。

 氏が02年春背任などの容疑で逮捕され、昨年2月東京地裁で懲役2年半(執行猶予付)の判決が下った頃、恥ずかしながら僕は、まだマスコミがつくりあげた悪意に満ちたその虚像をそのまま信じていました。翌月(人知れず氏が書きつづった手記)『国家の罠』が新潮社から出版され、たちまち論壇の話題となると、僕はすぐそれを一読して衝撃を受け、己を深く反省しながらも、一度ご本人からお話を伺い、(失礼ながら)“人物”を確かめたいという気持ちに駆られ始めました。

 僕のこの願望を叶えてくれたのは、旧友針木康雄君。雑誌『財界』編集長を辞めてユニークな経済誌『BOSS』を創刊した快男児(現在、同誌主幹)です。佐藤氏が512日ぶりに保釈されるや、長年の雑誌編集者独特の勘と持ち前の男気から、同君は当時四面楚歌の佐藤氏に接触し、徹底的に“真実”の追究をはじめました。この男気に深く感動した佐藤氏は、自分への戒めを解いて針木君の依頼に応じ、今回の講演を引き受けたとのこと。今や論壇の寵児となった佐藤氏なら、多分講演会の講師として毎日引っ張り凧だと、誰でもと思うことでしょう。だが、氏は静かに言いきったではありませんか…。

 「(印税や原稿料に比べ)割りの良すぎる講演料で堕落しそうな己の弱さから、講演は原則として全てお断りしています…」と。このひと言で、僕は佐藤氏の人柄に惚れこみました。

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2006年8月28日
617 BAY QUARTER就航

  やったぜ、北山孝雄君! おめでとう。ユニークな街づくりで実績と定評がある北山創造研究所が総合プロデュサーとなり、横浜の三菱倉庫跡地に十数年執念を燃やしつづけて完成させた斬新な大型ショッピング・モール「ベイクォーター」が、去る24日遂に開業しました。開業2日前の夜行われた内覧会にお招きを受け、何となく浮き浮きした気分で東横線で向いました。
 
  横浜駅の真東、そごう百貨店の裏手にある橋を渡りかけると、もう眼前に、水辺にその華やかな姿を映すBAY QUARTERの景観が目一杯に広がります。まばゆいほどの照明に彩られ海に向いゆるやかなカーブを描く7層のテラス空間は、およそビルとか建物という名詞のイメージとはかけ離れた、そう、地中海かカリブ海のいかす港町に停泊中の豪華客船さながらです。

  ですから、橋を渡って3階から館内に入る客の気分は、まるで特等船客…。エスカレータで結ばれた各階の総床面積は約2,000坪、軒を連ねる各店舗はそれぞれにアート、音楽、映像、を競い合う一方、どの階にも海を隔てて横浜の街の夜景を楽しみながらそぞろ歩きできる広いテラスがつくられています。

  しかも嬉しいことに、随所に素敵な緑とすわり心地のいいベンチが配されているではありませんか。もう一つ特筆すべきは、風。あの夜も、絶えずどこからともなく吹いてくる何ともいえない快い微風によって、昼間のうだるような都会の残暑に辟易させられた来客の誰もが、どれだけ心癒されたことでしょう。

  …と書いていると、客が何もお金を使わないうちに満足して帰ってしまうのではないかと、テナントの立場からいささか心配にさえなります。しかし、そこは街づくりのプロである北山君のことですから、理想に走って採算を忘れるはずはありません。横浜の新名所BAY QUARTERの繁栄を心から祈ります。

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2006年8月22日
616 映画『蟻の兵隊』を観て

  小泉首相は8・15靖国参拝を遂に実行しましたが、それに先立ち彼が側近に語った「ブッシュが止めても(靖国に)行く…」という言は、日本の元首にしては実に恥ずべき失言(=本音)として歴史に残るはずです。日ごろ最も気にしている人物の名を思わず明かすことによって、彼は“ブッシュのポチ”という悪意に満ちた仇名を自ら認めてしまったからです。せめて「天皇が止めても…」とでも言えばよかったものを…。

 かねて十分予想されたこの参拝にそれほどのニュース価値はないと思っていた僕だけに、マスコミの内容なき過剰報道には食傷しました。とはいえ、国論は(太平洋戦の評価、戦争責任、対中・韓関係…に関して)今や完全に二分されました。少子高齢化、産業空洞化、資源・環境条件、社会的退廃…長期的に解決を要する難問題が山積している中で、60年も昔の負の遺産処理をめぐって角突き合わせつづける国民に、明るい未来を拓く力など期待することは到底無理そうです。

 …というわけで、日本人であることに一入空しさを感じた先週、僕は今話題の映画『蟻の兵隊』(池谷薫監督)を観に渋谷へ出かけ、戦中を生きた残り少ない一日本人として涙を拭いました。この作品の主題は例の「日本軍山西省残留」(敗戦後軍の命令で中国山西省に残って中国内戦を戦った日本軍兵士のうち、生き残って帰国した人々に対して政府が贈ったのは、“逃亡兵”の屈辱のみ。しかも、その軍司令官は中国国民党と密約を交わし、兵士残留と引き換えに戦犯容疑を免れた上、早々と帰国したことが露見)、主役は人生を棒に振ったあげく祖国に裏切られた残留兵奥村和一さん(80)。もしこの映画を小泉首相が観て、戦争被害者たちの悲痛な叫びを聞いてもなお、彼は依怙地に靖国参拝をつづけるのでしょうか…。

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2006年8月11日

614・615

首相が靖国参拝をしようとしまいと…

 先週木曜夜はリック(Richard E. Dyke)から声がかかって久しぶりに来日したキャシィ(Catherine C. Lewis)と有楽町の外人記者クラブで夕食歓談しました。今から30年以上前、二人ともハーバード大学大学院生の時代、僕が所長をしていたシンクタンク(財)日本総合研究所で研究員として1~2年一緒に仕事をした仲間です。親友エッズ(Ezra F. Vogel=「Japan as No.1」の著者として知られるハーバード大教授)に頼まれ、卒論指導を兼ね日本総研に迎えたのです。卒業後米国に留まったキャシィは大学教授として、また日本に戻ったリックは米国とアジアを結ぶITベンチャー経営者として、ともに国際的に大活躍をしているのは頼もしい限りです。

 で、その夜最も熱い話題の主となったのは、何と、当時二人と最も親しかった僕の秘書の一人。思えば、彼女が先年死の床に伏し長期入院した折、リックは多忙の中毎週のように彼女を見舞って励ましてくれました。一方、葬儀のため来日できなかったことを悔やんだキャシィは真剣な顔で「今度来日した時、どんなことがあっても彼女のお墓のある富士霊園へ連れていってください…」と…、あの夜、僕は本当に感激しました。当代の日本のように人の心の荒みきった社会では、このような心根の優しい二人の存在は、正に干天に慈雨…。

 人は誰も選んである国に生まれきたわけではありませんから、生まれ育つにつれ身についてしまう本能的ナショナリズムを極力理性で統御すべきです。我が首相は悲しいかな、それが全くできない人のようです。来週はまた8月15日がめぐってきますが、首相が靖国参拝をしようとしまいと、僕は絶対に「国と国との関係より個人と個人との関係を大切にしながらこれからも生きていこう」と、改めて己に誓っています。

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2006年8月1日
613 仙台の素晴らしい友人たち

 先週木曜夜、講演で久しぶりに仙台入りした僕のために、各界の親しい友人たち50人余りが雨の中都心の「ホテル江陽」に集まり、「野田一夫ファンクラブ」なる会合を開いてくれました。仙台を去ってすでに3年にもなる僕に対する多くの旧友の温かい友情には、感謝の言葉もありません。

  ちょうど学長になって2年目の99年秋、大学改革をめぐる考えと進め方の対立から、僕と一部県幹部との関係がギクシャクし、僕が退任するのではないかという噂が仙台の巷に流れたようです。この時僕(の立場を擁護したとは敢えて申しませんが)を激励しようと地元政・財・学…各界の友人・知人がきゅう然と集まって創設し、今回と同じホテルに集まったのが第一回「野田一夫ファンクラブ」でした。

  何しろ、古希を過ぎて単身赴任し、「21世紀にふさわしい公立大学」建設のため朝から晩まで孤独な戦いを懸命につづけていた僕だっただけに、この会合は正に砂漠で突然緑のオアシスに招じ入れられた嬉しさでした。賑やかに僕を迎えてくれた“ファン”の方々の前で挨拶に立った時には、思わず胸が一杯になりましたが、負けず嫌いな僕はそんなそぶりもみせず、「…一夫と名のつくファンクラブは、長谷川一夫、舟木一夫につづいて、多分三つ目のはず…」などという冗談を言って一同を笑わせたのも、懐かしい思い出です。

  春から秋にかけての仙台行きの今一つの楽しみは、半日で18ホールを優に回れるゴルフ。レッスン・プロとアッシーと用具保管者の三つを率先果たしてくれてきたのは富田秀夫君(元宮城リコー社長)。素晴らしい友人たちの住む仙台ですから、頼まれなくとも、何かをしたい気になるのです。

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2006年7月26日
612 The Mature Mind
 村田裕之君(先般僕の後を継いで財団法人社会開発センター理事長となった)が近く翻訳出版する予定のThe Mature Mindの監訳者を依頼され、久しぶりに“洋書”に接しました。「人の脳機能は年をとるにつれて低下するどころか高度化しつづける」というのが本書の最も特筆すべき主張です。

  一老人の自慢話ならただ一笑に付せられるだけでしょうが、米国の老人医療の最高権威が長年の研究成果を基に本書を世に問うたとすれば、“老化”が気になる人々にとって、これ以上の福音はないと言えましょう。僕はこの本を読みながら、随所でひどく共鳴し力づけられました。実は僕自身も還暦を過ぎた頃から、「なぜか、自分が年とともにどんどん賢くなっていく…」という意識を確実に深めてきているからです。

  例えば相談なり依頼を受けた時、相手の言いたいことを考 えられぬほど早く察知できるようになりましたし、何をすべ きかについて自信をもって助言できるようにもなりました。それのみか多くの場合、助言したことを進めるために協力してもらうべき人まで紹介できるようにさえなったのです。

  自慢や自惚れととられることを嫌ってこれまで言わなかった自分の“老成メリット”を、僕はこれから積極的に多くの人に語ることにします。本書の中で年齢・性別・経歴…を問わず実に多くの年長者が自信を持って語る経験、教訓、信念、抱負…に僕の心が、決定的に突き動かされた結果です。

  わが国では目下世界各国に比類のない速さと度合いで“高齢化”が進展しつつありますが、この不可避の時代的趨勢を “憂慮”から“希望”に転換するために、本書は高齢者個々人はもとより各界指導者にとっても大きな歴史的役割を果すことを信じてやみません。本書訳本の刊行はこの秋です。
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2006年7月13日
610・611 チンギス・ハンの国を旅して
 13日早朝モンゴルから帰国しました。昨年暮ある会合で隣の堺屋太一君から、「近く日経新聞でジンギスカンの連載小説をはじめることになっていますが、彼の母国モンゴルが来年建国800年を迎えるので一大イベントを推進中です。一度ご一緒しませんか…」とお誘いを受けたのがきっかけでした。

 草原の英雄ジンギスカンの侵攻の尖兵役は精鋭無比の騎馬隊。ただし、広大な地域を移動しつづける厖大な数の騎馬隊を長期間にわたって秩序正しく統御するためには、驚くべきロジスティクスと情報技術が開発され駆使されたというのが堺屋説。ウランバートル郊外の大草原を舞台に当時の軍装をした大騎馬隊が大勢の観衆の前で実戦さながらの見事な組織的動きを演じて見せるのが、上記の一大イベントの目的です。

 企画から資金にいたるまで日本側が責任を負い、それに対してモンゴル政府が(多数の軍人の参加などで)協力してプロジェクトが実現したわけですが、招待客として数日間行動を共にさせていただき、実行委員会最高顧問堺屋君と同委員長澤田秀雄君(HIS会長)の努力に改めて深く敬服した次第。

 この努力の賜物である勇壮な騎馬隊スペクタクルは、一日おいて11日にウランバートル市内の大スタジアムで盛大に開催されたナーダム(国民的スポーツ祭典)とともに、貧しいながらも明るい未来を確信して生きる国民の逞しさ(敗戦直後の日本人のそれ)を十二分に僕に感じさせてくれました。

 滞在中2日間はウランバートル郊外の大草原に出かけ、のんびり馬を走らせたり、寝転んで雄大な自然をぼんやり眺めたりしながら輝かしい陽光を存分に浴び、ハーブの香り漂う大気を胸一杯に吸いました。…とくにする事もないのに、全く退屈しない…という、至福の時の流れに身をまかせて…。
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2006年7月5日
609 今こそ、坂口安吾なのだが…
 担当医からようやく会議出席を解禁され、仕事初めに1日は「安吾賞」の記者会見で新潟を往復してきましたが、選考委員8名のうち新潟と縁のないのは、やっぱり僕だけ。

 その僕が委員長である理由を篠田市長は「先生の生き様は極めて安吾的…」と言われたことに責任を感じ、この数ヶ月改めて安吾の作品を読み直し、またその事暦を検討してみましたが、似ているのは「納得できない“権威”がのさばることに黙っておれない」気性に基づく言動だけ、とくに似ていないのは、僕にはもろもろのコンプレックスを原動力とする反発心が決定的に欠けていることだという結論を得ました。

 安吾は故郷の中学を落第で退学させられる時、机のふたに「余は偉大なる落伍者となっていつの日か歴史の中によみがえるであろう」と彫って上京しました。新進作家としてやっと文壇に認められた昭和初年、絶世の美人として知られた女流作家矢田津世子への激しい片思いに懊悩したあげく、酒場のマダムと同棲してデカダンスの生活に浸りました。

 国粋主義が支配した戦時中に「必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい」(『日本文化私観』)とか、一億総懺悔でまだ皇居前でひれ伏す人々が多かった終戦直後、「天皇制が存続し、かかる歴史的カラクリが日本の精神にからみ残って作用する限り、日本に人間の、人性の正しい開花はのぞむことはできないのだ」(『続堕落論』)とかに見られる激烈な警世の言は、彼の天性をその劇的人生が育んだもので、僕のような単純な人生では到底及びのつかぬもの。

 このことを十分心得た上で選考委員長の職責を果たすつもりですが、豊かさと精神的退廃の極にある今の日本で該当者を見つけることの困難さを、改めてつくづく感じます。
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