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2007年12月25日

680 クリスマスに贈る美談

 先週金曜午後都内のホテルで今年度の「安吾賞」の発表会が行われました。以下、受賞者野口健君にまつわる逸話…。

  ご承知のごとく同君は、世界七大陸最高峰の最年少記録保持者としてより今やエヴェレストや富士山の清掃隊長として広く知られる若き登山家。当日は主催者の篠田市長と選考委員長の僕の挨拶の後同君の軽妙なトークショウのほか、昨年の受賞者野田秀樹さんや元環境大臣小池百合子さんのお祝いの言葉が続くなど、会場は大いに盛り上がりました。

  その夜帰宅すると「週刊新潮」の記者から電話があり、同誌連載の「墓碑銘」でとりあげる衛藤瀋吉さんについての取材依頼。たしかに衛藤さんと僕とは、80年代以来「大学改革」の積極的推進者としての昵懇の仲だったのですが、それより、氏なくしては今日の野口健は生まれ得なかったわけですから、僕は何か因縁めいた感に襲われた次第です。

  野口君はエリート外交官の子として米国で生まれ、各国を転々として育ち、結局日本に帰るや高校時代には落ちこぼれ、暴力事件で停学まで経験してやっと卒業。が、とうてい進学は無理と諦めていた彼は、当時亜細亜大学が打ち出した「一能一芸」入試制度に救われます。この制度は衛藤学長の決断の産物だったのみか、実に氏の心が込められていました。

  (高校時代から植村直己氏に傾倒して登山を始めた直後でしたのに)野口君は「在学中に七大陸最高峰登頂」を約束して何とか入学を果たしたものの、登頂に先立つ資金のメドがたたず苦慮していた時、それを知った衛藤氏は野口君を学長室に呼んで励まし、その場で自分自身の200万円まで手渡したとのこと。最近の師弟関係では稀にみる美談ではありませんか。謹んで衛藤さんのご冥福をお祈りいたします。

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2007年12月18日

679 マンガ専門大学の誕生

 斑目力曠君から「渡辺豊和先生(そのユニークな作品と言動によって、建築界では有名な建築家)がマンガを専攻分野とする大学の創設構想を目下推進中なので、野田さんに会いたがっておられる…」という申し入れを受けていたので、先日CCTで斑目君も交え、昼食懇談の機会を持ちました。

  僕が子供の頃、漫画と言えば田河水泡の『のらくろ』に代表されるように、内容も表現形式も単純な子供向けの“読み物”でしたが、戦後、とくにここ数十年来のマンガは劇画、ゲーム、アニメ…と領域を拡大し、その複雑な内容と表現形式によってあらゆる年齢層に多くの愛好者を持つ芸術分野、いや一大産業(推定市場規模5,000億円)へと進化しています。

  『日経ビジネス』12月3日号の特集「ハリウッド日本アニメを呑む」によると、日本のポップカルチャーである各種“マンガ作品”は、すでに米国はじめ世界各国の“コンテンツ・ビジネス”の製作者から顧客までを広く魅了して“クール・ジャパン”の名を確立し、専門家からは「自動車の次の日本の戦略的輸出産業」に擬せられるほど。だが残念にも現実は、同号の副題「技術一流、商売二流」に留まっています。

  この状況を知ってか知らずか、最近日本各地の大学でマンガ学部・学科設置の動きが目立ってきていますが、マンガ専門大学構想は世界で初めてのはず。だからこそ僕は、渡辺さんの夢の実現には最大の協力をするつもりです。日本の大学の経済環境が厳しさを増す中、新大学の創設を志す方々は予想外に多く、僕が相談ないし協力要請を受けているケースだけで、上記を含めて目下5件に及んでいます。今後数十年のうちに、現在800校近くある大学の半数が消滅し、約100校の大学が新設されていく、これが僕の切なる希望的観測です。

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2007年12月11日

678 傍観し慨嘆するだけでは済まない

 先週木曜、旧友の堤清二君と久しぶりに歓談する機会を得ました。ある雑誌の鼎談で、平松(守彦)先輩もご一緒でしたから座は最初から盛り上がり、所定の2時間があっという間に過ぎ去った気がします。話題は終始同君がペンネームの辻井喬名で最近出版した『新祖国論』(集英社)。この本で同君は、「僕をしきりに表現に動かしているのは、時代が(戦争の方へとか、主権在民でない方へとか、・・・)悪い方へ傾きはじめているという危機感である」とその執筆動機を「まえがき」で述べ、最終章の最後を、こう結んでいます。

  「現在、権力が考えている政策は、海外に向けては国を開き、国内的には民衆の権限を可能な限り押さえ、有無を言わせない安定を確立してしまうことのように見える。しかも、その政策を(センセーショナリズムとセンチメンタリズムを身上とするメディアの世論形成力を徹底的に動員することにより)民衆を味方にして断行しようとしているようだ。…そこで僕らは、本来は民衆の希望に合致するような主権在民と平和思想を武器にして、統一戦線作りに乗り出すべき時期にきているのではないか。・・・」と。

  同年の友人故城山三郎君は、戦時中18歳にして愛国の情もだしがたく、徴兵猶予を返上して特別幹部練習生として海軍に志願入隊しました。同じく堤君は、戦後民主化に向かって歩みだした日本に忽ち反動の気配が生まれたと察知するや、戦うべく大学生の身で一時は共産党へ入党したとも伝えられた情熱家でした。戦後60年、城山君も堤君も僕も全く対照的な人生を歩んだとは言え、祖国の現状を傍観し慨嘆するだけでは済まない思いは完全一致。残りの人生、僕は広く同志を糾合し、横暴な権力と戦う決意を新たにしています。

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2007年12月4日

677 JapAnglo-Saxon capitalism

 先週末発売されたロンドン『エコノミスト』に、久しぶりに日本に関する大型特集(20ページ)が掲載されました。表題は「Going hybrid」で、最終章は題して「JapAnglo-Saxon capitalism」。要するに、不透明な日本の近未来を論ずるに当たり筆者T.Standageは、今や“世界一の自動車メーカー”トヨタが誇るハイブリッドカー「プリウス」の成功になぞらえ、日本の企業(=経済)の運営も旧来型と英米型とのハイブリッドになっていく公算は高く、しかもそれを生かして立ち直った日本が世界から再び評価される可能性を示唆しています。

  実は全く偶然ですが、先日始めて友人愛用の「プリウス」に乗り、その乗り心地の快適さはともかく、その環境負荷+燃費の低さを聞かされて、改めて感銘を受けていました。半世紀以上の歴史を持つというハイブリッドカーですが、各国の自動車メーカーがその実用的開発に乗り出したのは、つい80年代の石油危機以降のこと、その中でトヨタが独自の技術を積み重ねた末発表した「プリウス」は目下のところ世界で一頭地を抜く存在ですが、トヨタだけでなくホンダを始め国産各社の開発努力の成果も世界で高く評価されています。

  異常気象とそれに伴う災害が世界的となるとともに、環境問題の解決に対してようやく各国の指導層のみか一般庶民までが強い関心を持ち始めた現在、ハイブリッドカーだけでなく、大気や水質の汚染防止、廃棄物処理とリサイクル、クリーンエネルギー、森林・河川・海洋の環境保全…といったいわゆる“環境産業”の分野で日本企業の活躍が目立ちます。上述の特集も日本のこの面での貢献に大きな期待を寄せていますが、日本の将来に対し概して悲観的な僕としては、その消極的姿勢を日本通の外国人からじっくり諭された思いです。

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2007年11月27日

676 問題あれば商機あり

 大手企業の大部分は東京や大阪の都心に本社を置き、また、有名大学の大部分は首都圏や関西圏の好立地の場所にキャンパスを構えています。しかも、新人の採用に当たって大手企業は有名大学卒を優先し、逆に就職に際して有名大学の学生は競って大手企業を志望します。日本的特色の一つです。

  僕から見れば、大手企業の多くは必ずしも魅力的な就職先とも思えませんし、有名大学の卒業生の多くは必ずしも企業人としての適性の持ち主でもありませんが、なぜか大手でない企業の多くも有名大学卒を求め、また、有名でない大学の学生の多くも大手企業への就職を求めます。結果として起こってくる人材配分の不均衡は、隠れた国家的問題のはず。

  政治も行政もマスコミもまだそれに気づいていませんが、「問題あれば商機あり」で、この絶好の“ニッチ・マーケット”を誰かが開発すると密かに思っていたところ、先日遂にその一人を井上吏司君がわざわざ僕の赤坂オフィスに連れてきてくれたのです。山近義幸氏、46歳。山口県に生まれ育ち、高校時代大きな挫折を味わった後広告代理店などに勤めつつ事業意欲に燃えて一業を起こしたのですが、その目的は、(恐らくご自身の痛切な経験を基にしての、恵まれぬ経歴の若者に対する)就職および採用支援事業。氏の才能と努力は時代の要求に見事に合致して、事業は大成功を収めました。

  氏の著書『内定の達人』は中四国では例の『面接の達人』(中谷彰宏著)の売上を超えたように、西日本を主に事業を展開してきた氏は、いよいよ関心を東京に向けるようです。お招きを受け、先週木曜夕、氏の事業(現株式会社ザメディアジョン)創設20周年感謝祭へ出席して乾杯の音頭をとりましたが、会場の熱気に企業の迫力を痛感した次第です。

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2007年11月20日

675 「都わすれ」の夜はふけて…

 6日間にわたる東北への講演と会合の旅の最終地点は秋田。14日午後秋田市郊外の国際教養大学で「トップ諮問会議」、その夜(武家屋敷の町)角館郊外の山あいの宿に場を移しての懇談会、ともに仲間は中嶋嶺雄学長のほか明石康(元国連事務次長)、塩川正十郎(元財務相)、辻兵吉(秋田商工会議所名誉会頭)と僕の4人のみでしたから、会議では侃侃諤諤、懇談会では和気藹々、尽きない話題と会話に完全に時を忘れました。

  宮城大学長をしていた頃寺田知事のご依頼でこの大学の創設準備委員になった僕は、委員長の中嶋君に協力して革新的大学の創設を目指し、開学後もトップ諮問委員に名を連ねています。しかも嬉しいことに、@授業は全て英語、A学生は少数で全寮制、B世界各国の大学と提携し、在学中に留学体験…といった試みは世間で予想外に高い注目を浴び、今や入試倍率、偏差値、就職内定率…で格段の評価を得ています。

  今度の東北の旅のハイライトは、何といっても最後の夜。一業で名を成した4人の人物と歓談の時を過ごし友情を深めえたこととともに、歓談の場となった宿の想像を絶する素晴らしさも挙げねばなりません。暗く狭い山道を車で30分も登りきった場所に突然出現する別天地、その名は「都わすれ」。 9室しかない温泉旅館とはいえ、全室が超一流旅館並みの内装・設備を整えている上に、24時間こんこんと湧き出る露天温泉の内湯つき。ラウンジや食堂の垢抜けたインテリアセンス、その徹底したもてなしぶり、その多彩な料理の旨さ…。

  この2月フジテレビの「ザ・ベストハウス123」で、究極の穴場温泉宿最高位になったことは当然と頷けます。夜がふけ、会が終わり、自室に戻って独り温泉に浸かりながら、僕は暫し都を忘れ、陶然と東北の漆黒の闇と対していました。

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2007年11月13日

674 素晴らしいチョン・ミョン・フン

 僕が最も敬愛するオーケストラ指揮者は、韓国人のチョン・ミョン・フン。ご承知のごとく、彼は欧米各国の一流オーケストラやオペラ劇団の指揮者を歴任し、また無数の輝かしい音楽賞を受賞したほか、その社会貢献によりユネスコから“THE MAN OF THE YEAR”(95年)、母国政府からは最高位の文化勲章『金冠』(96年)を贈られている程の人物です。

  昔から僕はその力感と繊細さを兼備した指揮ぶりに魅了されていたのですが、数年前、偶然その暖かくかつ開放的な人柄に直接触れて以来、一段と敬愛感が深まりました。六本木の旧全日空ホテル(現インターコンチネンタルホテル)のロビーで友人と雑談をしていた時、彼が横を通りかかったので、思わず声をかけたのですが、見ず知らずの僕の顔を見つめるや、彼はニッコリ微笑んで会釈を返してくれたのです。

  そのチョンさんの先週金曜夜のサントリーホーでの公演に合わせ、僕の米国人の親友リック・ダイクが、公演後「マエストロ・チョンを囲む懇親会」を設け、僕とワイフを招待してくれました。ごく少人数でテーブルを囲むうちとけた集いでしたから、僕は今度はチョンさんとじかに歓談の時を過ごし得ただけでなく、意気投合して二回も肩を抱き合いました。

  しかも何とその翌日、彼は「月曜日に帰国する前に、もう一度僕と会って話したい」と、わざわざリックに電話連絡をしてきたとのこと。あいにく僕は東北に講演に出かけてしまっていて残念にも再会はできませんでしたが、チョンさんとは今後必ず友情が深まると確信しています。日本にも許しがたい日本人がたくさんいる以上、僕は国籍と関係なく敬愛できる人物を友とし、その友情を基に国と国との友好関係に少しでも貢献したいと常に心がけています。

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2007年11月7日

673 頼もしい日本人もいる…

 雪を戴いた高峰は神々しく、どこの国でも何時の時代でも、人々の崇敬の的です。しかし、その山々の頂上を極めることは容易なことではなく、相当な知識、経験、技術…を身につけた人々が“登山家”として名を成す所以です。

  今日の日本で最も有名な登山家の一人は野口健君でしょう。ボストン生まれの帰国少年。16歳でモンブラン登頂。25歳で「七大陸最高峰世界最年少登頂記録」達成…と若くして輝かしい実績を残しましたが、彼をさらに有名にしたのは、エヴェレストに堆積したゴミを回収すべく率先“清掃登山隊”を結成し、環境問題に一新紀元を画したことのはずです。

  この実績の故に、先月中旬行われた今年の「安吾賞」選考委員会では、数十人の候補者の中から同君が圧倒的な支持を得て、昨年の野田秀樹君に次ぎ2代目の受賞者に内定。僕は先週末委員長として世田谷の同君宅を訪ね、受諾の確認をいただくとともに、初めて同君と歓談する機会を得ました。

  僕も大学時代は「スキー山岳部」に所属していましたが、何しろ敗戦直後のこととて、海外遠征など夢また夢。せいぜい日本アルプスの山々に登頂した程度ですが、当時は高山に“ゴミの山”ができるなどとは夢にも思っていませんでした。

  同君の後を継ぐ日本人登山家は、多分栗城史多君。若干25歳。野口君も成しえなかった「七大陸最高峰無酸素単独登頂」を志し、すでに残すは南極のヴィンソン・マッシーフとアジアのエヴェレスト二峰のみ。ただしこの二峰に関しては現地の制度上“単独”は許されないため、目下画期的計画を推進中。我が友近藤昌平・澤田秀雄両君はすでに同君を支援していますが、昨日僕は赤坂のオフィスでもう一人の友、藤田潔君に同君を紹介し、新たな協力をお願いした次第です。

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2007年10月30日

672 暫しさようなら、秀さん!

 20日夜、中村秀一郎氏逝去。彼は地道な実証研究に基づいて陳腐化していた中小企業論を革新し、またシリコンヴァリーに発した“ヴェンチャー”の先進性を逸早く日本に伝えた学究として名を成しましたが、僕には、最愛の友“秀さん”。

  40年前、知性と品格と優しさを秘めたその笑顔に魅せられて以来、僕は何時かこの人と一緒に仕事がしたいと念願しつづけましたから、20年後多摩大学創設の依頼を受けるや、好機到来と、中村学長を夢見つつ真っ先に彼を訪ねたのです。

  当時彼は専修大学の看板教授だったのみか、マスコミでも大活躍の身でしたが、僕が滔々と喋った構想をじっと聞いた後、「君の構想に共鳴した。但し、学長ならお断りする…」と言って、何とその場で学部長就任を応諾してくれました。

  その瞬間、僕は多摩大の成功を確信しました。果たして多摩大は、初年度の入試倍率33倍という大記録で発足したのみか、教学・経営両面で打ち出した数々の革新的施策によって、一躍「大学改革の先進モデル」として脚光を浴びたのです。

  多摩大の創立期の成功は、その大半を彼に負っています。確かにその間僕は学長でしたが、対外的業務に追われつづけた僕に対して、学内業務を適切に裁き、学内の人心を見事にまとめた彼こそ、実質的な学長に他ならなかったからです。

  退任を翌年に控えた秋、僕は彼を粘り強く説得して、遂に次期学長就任を承諾して貰いました。が、その直後、病魔が突然彼を襲いました。そして、彼を敬愛する多くの人々の願いも空しく、和子夫人の涙ぐましい介護の甲斐もなく、十数年の闘病生活の後、彼は遂に帰らぬ人となったのです。25日の告別式での弔辞で、僕は最後に「散る桜、残る桜も散る桜」の一句を借り、あの世の秀さんに暫しの別れを告げました。

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2007年10月23日

671 「清らかな厭世」の意味

 敬愛する先輩の平松(守彦)さんが上京される際に“招集電話”があると、僕は余程のことがないかぎり時間をあけることにしています。先週火曜はホテルオークラで朝食を食べながら「21世紀の会」(平松さんを座長とする勉強会)の打合わせをするはずでした。が、前日の夕方突然異例の緊急電話。

  「ノダちゃん、今晩何とかならんかね。(田中)真紀子さんと佐高(信)君とで鼎談するはずだったが、彼女に急用ができたんで予定を変え、男3人で飲もうじゃないか…」。というわけで、僕もすぐその夜の予定を変え、心躍らせて新橋の「良の家」(“大分ふぐ”の専門店)に出かけて行きました。

  …佐高君も「21世紀の会」の会員であることから、飲むほどに酔うほどに話はどうしても物故会員である城山(三郎)君や阿久(悠)君の追想になりました。佐高君は稀有な精神的純粋さを保持した城山君を人生の師と仰ぎ、師の死後は相次いで追悼書(最新刊は、内藤克人氏と共編の『城山三郎 命の旅』、講談社)を出版しています。その佐高君に対し当夜僕は、こんなことを言った気がします。「僕たちには城山君の理想を実現する使命があるよ。が、高邁な理想を実現するには、城山君は余りにも精神的に純粋過ぎたんじゃないの…」と。

  酔い心地で帰宅すると、新潮社から阿久君の最後の著作『清らかな厭世』が贈られてきていました。奥様のご配慮に感謝しつつ早速手にとってページをめくると、「純で利口で真っ直ぐで献身的で 裏切らず 人間にはどれも無いね」という文言が目に飛び込んできました。瞬間、僕はふと思ったのです。

  「彼も城山君に劣らず純粋な精神の持ち主だったが、城山君が毛嫌いした人間の所業までも敢えて否定しない“諦観”があったからこそ、あの多彩な作品は生まれたんだ…」と。

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2007年10月17日

670 遠来の友が蘇らせてくれたあの頃

 三つ年下の米国の親友、エッズ(E・ヴォーゲル・前ハーヴァード大教授)が来日中です。短く多忙な滞在日程の合間に先週土曜昼食を共にし、久しぶりの歓談に時を忘れました。

  彼と東京で始めて会ったのは1959年でしたが、翌年夏僕がMITに着任して早々、ボストンの僕の家にやってきたある東大教授を僕の車に乗せてイェール大学まで送った時、先方で待っていたのが彼。その翌年彼がハーヴァードへ移ったのが契機となり、以来ニックネームで呼び合う仲となったのです。

  当時仲間たちの間では比較的地味な存在だったエッズが俄然輝いたのは、忘れもせぬ79年、例の『ジャパン・アズ・No.1』の出版。高度成長によって経済大国となったわが国が、戦後最大の国難といえる再度の石油危機を持ち前の技術力と団結力によって何とか克服し、G7サミット会議を東京で初のホスト国として開いた年。国中にあのジュディ・オングの「魅せられて」のきらびやかなメロディーが流れていたあの頃…。

  題名そのものが日本人の心をくすぐったばかりか、「G7出席者の必読書」などとまで喧伝され、邦訳書が一大ベストセラーとなったのは当然ですが、当時の日本は世界注目の的だっただけに、各国でも翻訳されるや彼の名は忽ち広がり、世界無比の“日本の語り部”として引っ張り凧となりました。

  当の米国でも十数万部のベストセラーとなった本書でしたが、当時雑貨から自動車までの凄まじい輸入日本製品の氾濫に直面していた米国人の反応は複雑でした。とくに、危機感と偏見の強かった政財界指導者や学者たちの批判や反感は、直接的にも間接的にも彼を相当悩ませたに違いありません。

  当時に比し明らかに衰退したかに思える日本の未来を、彼が相変わらず暖かく楽観的に語ったのが、忘れられません。

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2007年10月10日

669 友の友を友としていくために

 いつか誰かに読まれると思わずに日記を書く人はいないでしょう。古今東西の有名人の日記の多くは、(後に編集出版されて)歴史的資料や文学作品として高い評価を受けてきました。それでも昔の人は、自分の日記が他人に読まれることにためらいを感じたようですが、現代人となると、私事や私見を公開することにむしろ積極的意味を感じており、それが“自分史”とか“ブログ”のブームの素地となったはずです。

  ところで、20余年つづいている僕のRapportは「日記の代わりの“週記”か?」と問われれば、答えは「yes&no」。人生記録としてではなく、親しい友人・知人向けの手紙として書いているという点でnoですが、毎日ではさすがに書く材料に窮する日があるが故に毎週という点でyesなのです。そう言えば、ジッドにしても荷風にしても、日記を読むと、書き記すほどのことがなかった日は多かったようで、意外です。

  Rapportは僕が開発したメディア。中年になって交友範囲が広がり過ぎ、交友を暖めつづける時間の絶対的不足対策に、「自分の最新最大の関心事は何で、なぜ感激しなぜ憤慨しているか…」を毎週一方的に書き送りつづけてきたわけです。それともう一つの大切な目的は、最近知り合った素晴らしい人物について報せること。希望されれば、僕の友人たちにもその新しい友人を紹介したいという求めがあるからです。

  先週は僕のオフィスで、近藤昌平君から登山家の栗城史多君(世界五大陸の最高峰を単独登頂し、あと二大陸を目指す頼もしい日本青年)を、また「イタリアワインの会」で、英正道君(元イタリア大使)からダリオ・ポニッスィ君(オペラ演出家として有望なイタリア人)を紹介されました。友人を交え両君との交友を深めていくことが、僕の生甲斐です。

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2007年10月3日

668 キャンヴァスはいつも真っ白

 戦後生まれの、花形産業の一つは民間テレビ放送。「その興隆に最も貢献した人物は?」と問われれば、識者なら少なくとも吉田秀雄と小谷正一の名は挙げるでしょう。で、吉田氏は「現在の電通の事実上の創業者」と言えば誰しも納得しますが、小谷氏はとなると、説明はそう簡単ではありません。

  戦前大阪毎日新聞の無名の一記者だった小谷氏は、終戦とともに、彼の事業センスを買う上司や先輩の命や引きで、混乱期のマスコミの世界で特異の才能を存分に発揮しましたが、その彼は40歳の働き盛りで毎日新聞社に突然別れを告げ、同志と相計り自分の夢を自由に事業化すべく、53年東京に潟宴Wオテレビセンターなる会社を設立しました。

  何とその年、わが友藤田潔君は大学卒業に当たり、マスコミ業界のことも小谷氏のことも知らずに同社を受験したのです。初の新入社員の面接に自ら当たった小谷専務のお眼鏡にかない入社を果たした同君でしたが、入社後は小谷氏の人物に忽ちほれ込み、その膝下で短期間のうちに仕事の進め方のみか人生観にまで大きな感化を受けることになります。

  60年に若干31歳で独立して現在のビデオプロモーション社を設立した同君は、以後半世紀間主として民間テレビ放送界を中心に事業を拡大してきました。衆知のごとくこの間テレビ番組の低俗化が急速に進行してきた中で、プロゴルフ『マスターズ』の生中継、『モーツアルト』の7時間特番放送、長期放送シリーズ『世界遺産』…などで低俗化の波に懸命に抗しつづけたところに、藤田君の真骨頂があります。

  先週金曜、近刊の一書向けに藤田君と対談を行った際、僕はその標題を『キャンヴァスはいつも真っ白』にしたら、と考えました。その理由を知りたければ、同書をお楽しみに…。

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2007年9月26日

667 竜馬も海舟もいない

 何という偶然…。各紙朝刊が「自民党の新総裁」を大見出しで報じた日、歌舞伎座で『竜馬がゆく・立志篇』を観賞しました。ワイフと共に井上吏司氏ご夫妻からお招きを受けていた秀山祭大歌舞伎昼の部の最初の出し物だったのです。

  申すまでもなく司馬遼太郎の代表作を原作としたものだけに、坂本竜馬と彼の思想と行動に決定的影響を与えた勝海舟と二人の人物像が舞台で殊更に素晴らしく演じられることは予想していましたが、いざ幕が開いてからはそんなことは一切忘れ、久しぶりに芝居の面白さに引き込まれました。

  いや、無我夢中で観劇しているうちに、僕は思いがけず憂国の情が鬱勃と心中に湧き出てくるのを感じたではありませんか…。とくにこの芝居のクライマックスとも言える第三幕「勝海舟屋敷」で、海舟が竜馬を怒気鋭く説き伏せる場面では、幕末の日本の危機的状況に思いを寄せつつ、泣きました。

  前の日のテレビでも翌日の新聞でも、福田氏は「自民党は一つにならねば…」としきりに強調していました。対する小沢氏はあの顔で「誰が総裁になろうと、自民党を追い込む…」と粋がってみせました。ともに党あって国なく、今や日本の指導者には、国がおかれている危機感が全く感じられません。

  少なくとも芝居とはいえ、海舟から世界地図を見せられ「…藩などにこだわっていては」とたしなめられた竜馬は、土佐浪士を名乗った己を恥じ、ひたすら倒幕攘夷にはやった己の未熟さに翻然と目覚めます。しかも逆に年長の海舟は、「…幕府などにこだわらず」と説く竜馬の言に、擁幕開国を当然のこととしていた己の尊大さを翻然と悟ります。人物!

  国は弱小だったとはいえ、幕末の日本に人物はいました。世界有数の経済大国とはいえ、今の日本には人物がいません。

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2007年9月18日

666 統合医療へ高まる期待

 「…幼い頃から病気ひとつしないまま、元気に80歳を迎えた。還暦を過ぎた頃、君の友情ある説得で生まれてはじめて人間ドック入りした検査結果がオールAだった時、君は言ったじゃないか。『あなたが偉いんじゃない。全てはDNAのおかげ。祖先のお墓へ行って御礼を言ってきなさい…』って」。

  季刊『JACT』の最新号での渥美和彦君との対談冒頭の僕の言です。渥美君は人も知る東大医学部最年少教授の記録ホールダー。若くして心臓外科医を目指しながら戦後東大に先端医療施設センターが開設されるとともに臨床医の道を断念し、退官まで日本の高度医療技術の開発に指導的役割を果たしてきた東大の名物教授中の名物教授で、僕の40年来の親友。

  その同君が退官後異常な熱意で取り組んだのは、“西洋医学”とその他の国々の伝統医療との統合。欧米諸国はもちろん明治以降の日本でも医療の主流を占めた西洋医学は、治療の前提として、諸病の原因の学理的究明に重点を置きます。一方、多くの国の“伝統医療”(わが国なら、鍼・灸、漢方、整体…)は病気の理論的解明よりは、長い経験に基づく有効な治療に重点を置いて広く庶民の信頼を得てきました。

  西洋医学の最前線にいただけに、渥美君は「学理に偏り過ぎて専門分化の甚だしい西洋医学では、もはや人間全体を診ることは不可能…」という危機感に駆られ、各分野の同志を糾合して98年「代替・相補・伝統医療連合会議(JACT)、00年には「統合医療学会」(JIM)を設立し、目下それぞれの理事長、会長の要職を引き受けて八面六臂の活躍中です。

  統合医療は個々の患者のためのみか、いわゆる予防→健康医学をも包含することにより、医療費増大という現下の国家的難題の解決のためにも、無上の対策として期待されます。

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2007年9月11日

665 大学改革の不毛

 新学期の9月、何か新鮮な気持ちで教壇へ…、ということのない秋口の物足りなさ。そうです。社会人として心ならずも大学の世界に入った僕が、その中で半世紀を過しえたのは、教師という職業にひどく生き甲斐を感じつづけたからです。これは恐らく、日本の大学教員としては稀有な例でしょう。

  日本で大学教員となる人間の大部分は研究者志望で、結果として学者意識が考えられないほど強く、それが災いし(“研究”を理由に)教育をいかにおろそかにしてきたかは、卒業生なら僕を含め誰でも経験したはずです。要するに、学生を知的に魅了できるような授業もできなければ、人生観の形成に影響を与えられるような人格も持たず、しかもろくな研究実績も無いというのが、日本の大学教授の平均像なのです。

  全世界の大学との比較なぞ無理ですが、僕に関しては、半世紀前に2年間在籍したマサチューセッツ工科大学(MIT)を思い浮かべれば、研究・教育両面で日本の一流大学なぞ足元にも及びません。MITは当時も今も年間収入の過半が研究収入であり、ノーベル賞受賞教授は各学部にざら(現在の60名弱は、戦後日本の受賞者総数の6倍弱)。授業料収入は全体の15%ほどですが、教育への力の入れ方は頭の下がるほどで、ノーベル賞受賞教授でも、教室では実に熱心な教員なのです。

  日本では、大学の多くが“教育”というものを全く軽視しながら、“最高学府”としての社会的地位を保持してきました。この許しがたい状況への怒りこそ、大学人として僕を“大学改革”へ駆り立てた原動力です。今週の毎日新聞『エコノミスト』誌が「問答有用」で僕を取り上げましたが、現役を退いて久しい僕が依然として「大学改革の実践者」であること、そのこと自体が、日本の大学改革の不毛を物語っています。

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2007年9月4日

664 8月の自由、貴重な教訓

 社会人になってからそれこそ初めて、僕はこの8月一杯を、(ご承知のごとく、Rapportまで休筆宣言して)自由気侭に過ごしました。その間、べつにブラブラして暮らしたわけでなく、オフィスでは溜まっていた仕事を次々に処理し、久しく会えなかった友人を呼び出して旧交を温め、大いに読書をし、文章も書き、家族との旅も楽しみましたから、第三者には、炎暑の夏を日々ひたすら元気に、忙しく過ごす老人に見えたに違いありません。

  だが僕はこの一ヶ月、週間スケジュールをつくらず、気の向くままに日々を送りました。その生き方を貫いた結果として、ヴァカンスと日本の成人の“夏休み”との本質的違いが、単に期間の長さだけでないことを、実感で理解しました。つまり、思索や構想と呼ばれる知的努力の効果を高めるためにはもちろんのこと、家族や友人との愛や信頼を深め、維持するといった情的充足のためにも、スケジュールに追いまくられる多忙さほど注意すべきものはないということを、齢80歳にしてやっと悟ったのです。

  典型的な成果と言えば、一ドイツ人建築家との友情の深まり。日本の古民家の美と構造に魅せられ、わざわざ来日して新潟の山村に住み、無残に老朽化した農家などを一つ一つ譲り受けては、見事なデザインセンスで快適な住まいへと変身させつづけているカール・ベンクス。この7月新潟で開催されたある会合に隈研吾君と一緒に講師として招かれた時(Rapport-661)、彼に偶然巡り会って好感を持ったので、(8月上京するという彼に)「来月なら何時でも…」と言ったことが縁で、彼は2週続けて赤坂の僕のオフィスに来ました。僕は時間に縛られることなく、彼と思う存分しゃべり、酒を酌み交わし、食事を共にして意気投合したのです。もし、“8月の自由”が無かったなら、僕たちは、ただ名刺を交換しただけの仲として一生を終っていたに違いないでしょう。

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2007年8月1日

663 魅力的指導者の欠落

 この一週間は、日本中が参院選一色、選挙前マスコミはこぞって安倍首相の失政を報道しつづけ、結果はご承知のごとく、自民党の完全KO! ただ不思議なことに、選挙後マスコミは民主党の“勝利”をほとんど称えませんし、安倍首相の早々の“続投宣言”を厳しく批判しながらも、小沢内閣の出現を熱烈に待望することもないではありませんか…。

  日本人の多くはこの事実をはっきりとは認識してはいないながら、何となくそのことを感じとってはいるはずです。具体的に言えば、「この際安倍首相はノー。しかも、自民党には首相として期待できる人材は絶無。では(仮に政権交代があったとして)小沢首相はノー。しかも、民主党にも首相として期待できる人材は絶無…」。そうです。国家にとって最高権力である国政における魅力的指導者の決定的欠落、いやその前に(それを必然ならしめた)国会議員の人間としての質の平均的低下こそ、今日の日本の薄ら寒い現実です。

  …などと慨嘆する自分を愚かしいと反省しながら、ふと今は亡き好漢鶴田浩二を思い出しています。赤坂のとある酒場で彼と肩を組みながら「何から何まで真っ暗闇よ…」と歌ったのは、もう30年も昔のこと。売れっ子で超多忙な身でありながら、毎年戦友たちの遺骨を探しに南方に出かけていた彼は、「…泥の中から拾い出した遺骨を、一つ一つさすりながら綺麗な水で洗い清めて…」と言いながら、とめどもなく涙を流すのでした。将官級の人たちに関しては、そのような心をうたれるエピソードを聞いた記憶が全く無いことから勝手に推察するに、魅力的指導者の欠落は、戦前戦後を通じて変わらない日本国の悲しい宿命的特性なのでしょうか。

(夏季休暇のため、Rapportの執筆を8月一杯休ませていただきます)

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2007年7月24日

662 再評価されるヨーロッパ

 19日夜時事通信ホールにて開催の「日総研フォーラム」で、冒頭の主催者挨拶。この催しは、寺島実郎君が(財)日本総合研究所理事長に就任した6年前に同君の発意で始められたもので、必ず同君が最適のテーマとゲストを選び、自らがコーディネートして年1回行ってきたもので、今年のテーマは「世界新潮流と日本の立ち位置― ヨーロッパの行き方に学ぶ」、ゲストは木村伊量(朝日新聞前ヨーロッパ総局長)、藤原帰一(東大大学院法学政治学研究科教授)両氏でした。

  戦後イラクの混迷とイスラム国家の台頭、ブッシュ政権の落日とともに到来した米国一極主義の終焉、中国等後進大国経済の急成長が加速した環境問題、エネルギー大国ロシアの出現による新たな国際的緊張、マネーゲーム化した資本主義の象徴としてのホットマネーの奔流…と世界の全ての国が多かれ少なかれ様々な難局に当面し、また指導者がその打開能力を問われている中で、“EU”という人類空前の大事業の困難を一つ一つ克服して成功に導きつつあるヨーロッパ主要諸国の行き方は、したたかさにおいて確かに一段と注目を浴びているようです。言われてみれば成る程と感じる副題の効果か、出席者は予想外で、同ホールが満席となる盛況でした。

  「戦後“冷戦”で影を薄めながら、共産主義の崩壊後は政治面でも経済面でも急速に国際的存在感をも高めてきた…」(寺島)、「民主主義一つをとっても、単一でおしつけがましい米国型と違って多様な価値観の共存を容認しながら実質的定着度は高い…」(藤原)、「“官”と“私”の中間に市民の社会参加によって新しい“公”の活動領域を大きく広げつつある…」(木村)ヨーロッパは、いま自らの行方を懸命に模索する日本にとって、何よりの示唆を与えてくれそうです。

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2007年7月18日

661 再び、主題は旧友

 先週号は二人の旧友を主題にしましたが、実は同じ週に奇しくも、もう二人の旧友との忘れ難い出会いがありました。

  水曜午前、来日中の原丈人君が多忙な日程を割いて僕の赤坂オフィスに来訪。同君はまだ55歳の若さですが、慶大法学部を卒業直後渡米、スタンフォード大学の経営学大学院、同工学部大学院終了後、80年代はじめからシリコンバレーを拠点としてベンチャー・キャピタリストとして活躍し名を成した逸材。その輝かしい実績により、片や国連や米国政府の要職、片やわが国の政府委員や財務省参与なども引き受け、それこそ世界を股にかけ八面六臂の活躍中の身です。

  当日は同君を囲み二人の友人も交え昼食歓談。話題は専ら同君の近著『21世紀の国富論』(平凡社)。誰よりもシリコンバレーを知る同君は、今世紀初頭のネットバブルの崩壊やエンロンの破綻が象徴する株価第一主義が米国の産業基盤を融解化させたのみか企業経営者のモラルをも荒廃させたと断じた上で、新しいポスト・コンピュータ産業の展開を可能ならしめる技術開発の担い手となることによって、日本が再び世界の脚光を浴びることに熱い期待を懸けています。

  土曜朝、建築家の隈研吾君と新幹線で越後湯沢へ。「大地の芸術祭」開催地の現況を視察した後、十日町市で「ほくほく線開業10周年記念事業」としての公開討論。隈君は当地にユニークな作品を残しており、僕はご承知のごとく04年以来長野新幹線の金沢延伸に伴うほくほく線の赤字転落の(当地のみか新潟県全体に及ぼす)危険性に警鐘を鳴らしつづけてきた人物ですから、会場は満員。難局到来の百論より窮地を脱する具体的戦略を鋭意検討し、関係者が緊密な連携を保ってその実施に全力投入すべき時と熱く訴えました。

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2007年7月11日

660 この週の主題は“旧友”

 “日々是好日”と生きる大人物とは対照的に、僕のように常に幾つかの人生目標を持ち、その達成に生き甲斐を感じる身には、一週間というものは、何故か実に“個性的な時間単位”として振り返れます。だからこそ、こうしてRapportという名の“週記“を書きつづけられるわけで、“日記”となると、さすがの僕もお手上げの日が生まれるのは必定。古今東西の有名人の日記を読むと、つまらんことを記した日が相当交じっており、誰しもと思わずほくそ笑むものです。

  さて、僕のこの一週間の主題は“旧友”。9日国際文化会館で小林規威君(慶応大学名誉教授)の新著出版記念会がありました。同君は今から約50年前、僕がMITで仕事をしていた頃にハーヴァードのビジネス・スクールに来ていて知り会って以来の旧知の仲です。前々から頼まれていたスピーチで何を話そうかと考えながら出席したのですが…。

  冒頭発起人の一人として(車椅子に乗って現れた)加藤寛さんが挨拶の中で、「…(米国留学から)帰国した頃の若き小林さんは、有能な上に英語が抜群なため、同僚の間ではひどく評判が悪かった…」と一座を沸かせたので、それを受けて僕は、(慶大関係者が多いのを十分意識して)「…“出る杭は打たれる”の日本で、とくに大半が劣等感に悩む大学教授の世界では、有能な人材はとくにいじめに会う。が、さっきの加藤さんの話を聞くと、『慶応よ、お前もか!』とがっかり…。今度生まれるなら、日本は真っ平。やはりイタリアだね…」と発言。参会者から拍手喝采を受け、意気揚々!

  思えば、寛さんとの交友は院生時代からすでに60年以上、その彼から(まだ元気溌剌な僕にと)回されてきた某大学の再生プロジェクトに、僕は今異常な意欲を燃やしています。

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2007年7月3日

659 日本人であることの憂鬱

 僕はよく「選んで日本に生まれたのではないのに…」という思いに駆られます。日本人であることの幸せ、喜び、誇り…よりは心苦しさ、恥ずかしさ、鬱陶しさ…を意識しがちなのは、前者が、不幸な境遇にある国民に思いを馳せて相対的に恵まれた日本人の日常を漠然と感ずるような時であるのに対し、後者は、罪もない外国人が心無い日本人によってひどい目に会わされたことを知る度に痛切に感じるからです。

  先週は一日本人である僕の心を暗くしたニュースが相次ぎました。一つは例の従軍慰安婦決議案が米国下院外交委員会で可決されたことです。この決議案のつくられ方には多分に政治的偏向があることは確かでしょうが、従軍慰安婦は売春を職業とする女性であったとか、日本軍=政府は慰安婦を公式に認めていなかったなどという主張は、共に僕には空疎な強弁に思えます。戦前・戦中の時代の異常な日本人および日本社会を想起すると、「強制的に従軍慰安婦にさせられた中国人女性はいなかった」とは、僕にはとても信じられません。

  今一つは、英語教師として来日した娘を殺された英国人夫妻のニュースです。この猟奇殺人が起こってからすでに3ヶ月。警察の懸命な捜査にも関わらず、殺人現場である自宅から捜査官に追われて逃走した容疑者はまだ杳として姿を消したままです。再度来日したこの老夫妻が記者会見の席で思わず涙を拭った姿をテレビ画面で見た時、娘を持つ身の僕も我慢できずに貰い泣きしました。英国にも日本にも昨今はこんな事件は日常茶飯事で、被害者の親族の悲しみは同じだとはいえ、せっかく大きな夢を抱いてやってきた外国の若い女性が日本で遭遇した悲劇に、日本人の一人として僕は彼女にも彼女のご両親にも殊更な同情と責任を感じてしまうのです。

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