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2006年6月28日
608 名をこそ惜しむ美学を
 ご覧になりましたか? 26日朝NHK総合テレビ番組が紹介した韓国の若い女性イ・ヒアさん。生まれつき両手の指が二本しかなかったのに、幼い頃から母親は彼女に一日十時間にも及ぶピアノの練習をさせたお蔭で今ではどんな難曲もこなせる腕前になり、現在は大学で作曲を専攻しているとのこと。各地でリサイタルも開いていて、目下来日中…。

  たった十日間声を出せないだけで、“無言の修行”などと称した自分を恥ずかしく思います。しかも、この間主にやったことと言えば、書斎を整理しながら目についた本を読み漁っただけ…。ただ、喋れないだけで人間は外出をためらうようになるもので、その分マスコミ情報などをもとに、家にいて存分に思考をめぐらす時間的余裕は与えられました。

  例えば、福井日銀総裁の「職責を全うしたい」という発言が「職に留まりたい」という個人的感情の発露でないとしたら、氏は自分でなければ果たせない職責の内容について堂々と国民に意見を述べてほしいものです。また、一部財界人や政界人の「彼のような人材を失うことは国益を損なうもの…」という発言は、福井氏が自ら辞任を表明した時に、それに否を唱えるとか翻意を促す際に使う言葉のはずです。

  …と思われませんか? 論理的にも倫理的にも当然のこの道理に誰も気づかないのは、今日の日本の精神的衰弱の表れ。僕が直接会った印象では、福井氏は温厚、実直、慎重な人物。村上氏は丁度その逆。その村上氏から持ち込まれた話を“高い志”と受け取った(?)のは、福井氏の一生の不覚。こうなった以上、福井氏を心から敬愛する僕としては、氏が潔く身を引かれ、有象無象がどう騒ごうと動ぜず、「名こそ惜しむ」武士の美学を実践されることを希うのみです。
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2006年6月22日
607 無言で過ごす誕生日
 終日無言で今日79歳の誕生日を過ごしています。19日に赤坂の山王病院で声帯ポリープの手術を受けましたが、術後一週間は発声を厳に禁じられているためです。

  毎年春先には花粉症が喉にでて声がしゃがれる僕ですが、今年はなかなか治らないので専門医に診てもらったところ、小さいポリープが発見され、「…“少年のような声”を取り戻されたいなら…」という医師の軽妙な勧めに心動かされ、生まれて初めて入院、手術、全身麻酔を経験した次第。

 手術の日取りが決まったのは一月以上前で、会う人ごとにしゃがれ声の弁明かたがた、近く手術する予告とともに例の“少年の声”をしきりに強調したお蔭で、この手術は僕の友人知人たちの間で一種の興味を呼ぶ話題として広く語られるようになってしまったようで、これまで既に何人もの友人知人が僕のしゃがれ声を聞いて「もう、手術終ったの…」と怪訝そうに訊ねるのには、いささか困惑と後悔をしてきました。

 ところで、手術は終りましたが、手術中はもちろん、術後も痛みはなかったのみか、(声帯は喉の奥にあっても、食道を飲食物が通る時は自動的に遮断されることすら知らないままに)その日の夕食を初めはおっかなびっくりしながら結局は全部平らげた…等々、今回の僕の体験などとてもお話しする価値もありませんが、一週間の会話厳禁という“痛みなき痛み”だけは、僕にとって想像もしなかった辛い経験です。

 今も平松(守彦)さんからの電話をワイフが受け、渡された受話器の向こうから「おーいノダちゃん。少年の声でカラオケを楽しみにしてるよ…」という懐かしい元気な先輩の声に対しただうなずき頭を下げる自分のもどかしさ、惨めさ。今回の手術が僕に課した最大の修行の機会と信じています。
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2006年6月13日
606 嘆くまい、明日は明るく
 先週のマスコミは毎日“村上”と“畠山”で明け暮れました。二人の犯罪容疑は、片や株式のインサイダー取引、片や小学生死体遺棄。犯罪の舞台は、片や東京の都心の中の都心、片や東北の田舎の中の田舎。主役は、片や東大卒・元経産省官僚のエリート、片や恵まれぬ境遇に育ち、離婚して定職もない中年女。…と考えていくと、容疑者が日を相前後して逮捕されたという偶然を除いては、二つの事件には一見何の関係もありません。が、別な考え方はできないものでしょうか。

 先月来両事件に対するマスコミ報道が正にシンフォニーのクレシェンドのように次第に世論を盛り上げていく過程で、村上は時に笑顔で冷静を装いながら努めて己の行動の正当性を主張し、畠山は終始不機嫌な表情でマスコミに対し己の無実を一方的に訴えました。この二人の言動に日々接しているうちに僕は、彼らこそ今の日本を生きるに最も適した人間なのだと確信するに至りました。今や日本は、貧しくとも清く明るく懸命に働く人々や、地位や富を得ても奢らず高邁な理念を追いつづけるといった人々に、世間が感動はおろかさして関心すら示さない状態にまで乾ききってしまったのです。

 人情とか自省の念が欠落した人間によりまともな人間が不幸・不快を強いられる不条理。この現状を憤り嘆く一部識者の言すら空しく感じられる中にあって、なぜか、あの坂口安吾の一喝だけが重みを増します。「…戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間は…堕ち抜くためには弱すぎる。…」。敗戦時には想像さえしえなかった豊かさの中に生きて、家族の愛や友の情が改めて深く僕の心に沁みる今日この頃です。
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2006年6月6日
605 県は自ら助くる者を助く
 去る31日、青森市で開催された「地域政策トップフォーラム2006」で、昨年にひきつづきコーディネータをしてきました。この春先三村知事から直々の要請があり、やや強引に日下(公人)君に記念講演を引き受けてもらったおかげで、旧友二人で東北の新緑を愛で、温泉に浸かり、四方山話に存分に花を咲かせた上に、帰途仙台では、村井知事はじめ各界の友人の方々による歓迎の夕食歓談。本当に楽しい旅でした。

 青森と言えば“ねぶた祭”。この祭は「青森人の元気は一年に一度だけ爆発する」と言われるほど熱気に満ちていることはよく知られていますが、三村知事は就任以来、この“元気”が年間を通じて発揮できるような青森を実現すべく各種の政策を懸命に実施してきておられますから、『日本人の底力』といった著書などを通じて悲観論者を痛快に切り捨ててきている日下君は、この上もなく力強い存在に違いありません。

 平松前大分県知事に兄事してこられた三村知事は、平松県政の理念と手法を可能な限り踏襲しようとされています。多彩な平松語録の中で僕の一番好きな言葉は、「県は自ら助くる者を助く」。慣習化した“お上依存”の愚を排し、氏は県民に対し“自立自尊=自存”を強く求めました。その具体化こそが、今では世界的に有名となった「一村一品運動」なのです。

 「国家が何をしてくれるかを求める前に、国家に何を貢献しうるかを自らに問い給え…」、50年前米国留学中の僕は、若きJ.F.ケネディの大統領就任演説に感動し、何時の日か日本の首相から同じ感動をと希ったのですが、結局…。平松さんは稀有の指導者的資質を持つ人物と信じられたからこそ、財界人を中心とする「平松守彦を総理にする会」は、氏が東京を去った後も実に四半世紀以上にわたり綿々と続いたのです。
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2006年5月31日
604 安易に愛国心を唱えること勿れ
 加藤周一氏が不定期で連載している小論『夕陽妄語』は、僕には朝日の夕刊紙面で最も読み甲斐のある記事です。先週水曜の主題は藤田嗣治で、加藤氏は嗣治の作品の中に異常に自画像が多いことを、彼自身のアイデンティティーへの不安によると推定した上で、第二次大戦勃発に伴い帰国した彼が戦時中軍の要請で描かされた“戦争画”(加藤氏はそのジャンルそのものを否定する)には「戦争讃美も、軍人の英雄化も、戦意高揚の気配さえない」にもかかわらず、戦後日本の世論は彼を戦争協力者として非難し、結局母国からフランスへ追い返してしまった非情と不条理を暗に批判しています。

 この記事を読みながら僕は、長い思想的葛藤の末に自ら“異邦人”の道を選んだ詩人金子光晴を好んで語る松岡正剛君のことを思い浮かべていました。ちょうど翌日の木曜午後銀座の東京資生堂ビルで、久しぶりに松岡君を囲む集い「椿座」がありました。『方丈記』の鴨長明の落魄の哲学を同君から聞きながら、僕は今度は光晴のことを考えていました。

 松岡君が先年の教育TV「人間講座」の中で光晴に因んで引用した「父母に棄てられたる子は、家を支える柱石となり、国人に棄てられたる民は、国を救う愛国者となり、教会に棄てられたる信者は、信仰復活の動力となる」という内村鑑三の言葉は、僕の心にまだしっかり刻まれています。教育基本法の改正に絡み、いま“愛国心”が俄然国民的課題となっています。生まれ育った国を愛することはごく自然な人間の情ですが、この情は“本能”に近く“愛国心”とはとても言えません。この情を自らの知性と教養で思索しつくした後に生まれてくるものなら、強い信念もまた深い迷いも、僕は人間の精神的所産として同等の敬意を払うでしょう。
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2006年5月24日
603 寛斎が葵祭を?
 先週金曜僕の赤坂オフィスで、現代研究会の有志と山本寛斎君を囲み昼食歓談しました。若くしてファッション・デザイナーとして名を成した同君ですが、このところプロデューサーとして次々に話題性のあるビッグ・イヴェントを手がけ、華麗な転業かと思われていますが、さにあらず、もともと芝居や映画の衣装担当からデザインの道に入っただけに、作品そのものも手がけたいという欲求が高じて、自然にイヴェント・プロデューサーに重心がかかってしまっただけです。

 最近では川淵日本サッカー協会会長の依頼を受け、W杯の日本代表チームをドイツに送る盛大奇抜な壮行イヴェントを県立埼玉スタジアムで開催したことがマスコミに報じられましたし、映画監督としての最初の作品『アボルダージュ 行くぞ!』がベルリン映画祭に出品され、専門家の注目を浴びたそうです。この作品は沈滞しきった日本社会を活性化しようという使命感に燃えた同君が一昨年広く産業界各社の支援を得て武道館で開催した同名のイヴェントを土台にしたものですが、その関係者の一人として鑑賞した僕は、「日本よ、元気を出せ!」という同君の熱い願望に心から感動しました。

 寛斉節を聞きながら思い出したのは、この春イタリア旅行の途次フィレンツエで観たイースター・パレード。街を練り歩く男性の逞しさと女性の優美さ、両者に共通する立派な姿勢、誇りに満ちた顔つき、そして何よりも楽隊の奏でる勇壮なマーチによって何倍も増幅され発散される“元気”…、何から何まで僕が先週京都で観た葵祭には全く欠落しているものばかり。完全に観光化しながら今や“死に体”化した葵祭は、今こそ寛斎君のような人の演出で活性化を図るべきです。
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2006年5月16日
602 京都はいいが、葵祭はね…
 15日は葵祭。京都三大祭の中でも、最古の歴史を持つこの祭を今年こそ観んものと、僕は名古屋に転勤した長男夫妻まで誘い出し、その日の来るのを待ちに待っていました。天も我に味方し、予報では終日雨天の日曜も快晴。昼前に京都入りし、食事が終るや、ワイフは予定通り「大絵巻物展」を鑑賞に国立博物館へ。晴天に心変わりした僕は、一体どこへ…。

 快い初夏の日差しに誘われ、ホウガンノキを観ようと独り北山の府立植物園へ。そこではこの南米の珍木を、10年の苦労の末に花を咲かせ実を実らせることに成功したと、いつか新聞で読んだ記憶があったからです。…巨大な温室の一隅に念願の珍木は淋しげに一本だけ立っていました。本来20〜30mにも育つ大木で、1mに及ぶ花序には直系50cmもの実をつけると聞いていましたが、僕が見上げたその木は痩せて10m足らず。見上げると、30cmほどの花序の先に直径7〜8cmほどの茶色の砲丸がぶら下がっていました。それでも、僕は、各地から集められた国宝を鑑賞してホテルに帰ってきたワイフと同じように、その夜満足感に満たされて寝入りました。 

 いよいよ翌日。天気晴朗。開始30分も前に京都御所に着き、所定の席に座って説明書に目を通し始めるや、場内に中年の男のだみ声が響きわたりました。何とその声でお節介にも、葵祭の沿革を語り始めたのです。早く終わらないかという願いも空しく、この声は遂に行列がわれわれの前を通り過ぎるまで耳を悩ましつづけ、しかも、次々に眼前を歩いていく人たちは老若男女とも、華麗な古代衣装とは対照的に、顔つきも、姿勢も、歩き方も…全てが侘しく、見ている僕は「葵祭はもう2度とご免!」と何回も心の中で絶叫していました。
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2006年5月9日
601 19番ホールでの歓談
 今年のGWも僕は一切遠出せず、遊んだり、片付けものをしたり…で過ごしましたが、終わった今、こういう時間の貴重さを改めて強く感じています。とくに印象に残ったのは、最近とかく疎遠になりがちだった青山浩一郎、池田茂、富田直美三君を誘ってのゴルフ、いや、上がったあとの19番ホールでビールを飲みながら思わず時を忘れた歓談の味…。

 青山君(米国野村総研社長を経て多摩大教授)曰く。「…上場企業約1600社(除金融)の06年3月期の利益総額中トヨタ一社で9.3%、5社で25%、31社で57%。要するに財政的には、70%が赤字の250万(株式+有限)社への外形標準課税などより、優良大企業を増やす方が遥かに得策なわけ…」。

 池田君(NTT‐ME社長を経て情報通信ネットワーク産業協会専務理事)曰く。「…“ネット・ベンチャー”株の時価総額が実体経済への貢献を反映しているとは到底思えないが、他方IT産業とは言え、日本の場合主流はかつての大手電気・通信メーカーの新興事業部門であるため、この部門出身の人材がトップの座に就くことは難しいし、就いたとしても、他部門の理解と協力を得るには大変な苦労があるようで…」。

 富田君(Picture-Tel,Japan社長を経てOpsware,Japan社長)曰く。「…多彩なITビジネスが生まれ活動しているが、実は、この仕組みを支えるインフラとも言うべき膨大なサーバー類・ネットワーク機器類を適切に管理統制する仕組みは全く出来ておらず、確かな耐震構造基準すらなく様々な建物が勝手につくられている状態。ネットスケープ社の創業者の一人であるマーク・アンドリーセンはそこに着目し、同社の天才集団を引き連れてOpsware社を起こしたのです…」。
 杯を交わしつつ、僕たちはこんな話題に熱中していました。
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2006年5月2日
600 民主主義の衆愚化
 帰国後仕事に遊びに目の回るほど忙しかった10日間が過ぎましたが、この間いろいろな機会に一番話題になったのが、先日の千葉七区の衆院補選。民主党が公認した元キャバクラ嬢の26歳の高卒女性候補が当選し、自民党が公認した前埼玉県副知事で、東大法卒、ハーバード大MBA、元経産省エリート官僚の47歳の男性候補が落選した例の選挙です。

 僕の友人の間では、当選した太田和美さんには誰も一面識もなかったのに斉藤健君とは僕を含め旧知の仲が多かったせいか、いかにも陳腐化したかにみえた小泉+武部型選挙方式への批判から、(人物・識見よりは変わった経歴からくる話題中心の)マスコミ主導のお祭り騒ぎ選挙への慨嘆まで、例外なく落選した斉藤君を惜しむ声が圧倒的でした。

 斉藤君は経産省時代から面識がありましたし、僕が埼玉県立大学の運営委員をしていた頃副知事となって委員の一人に加わったことから、会うたびに「そのうち、ゆっくり…」と言っているうちに自民党の選挙戦略に組み入れられてしまったのでしょう。同君はその経歴からくる華やかさとは対照的に実直かつ暖かな人柄で、およそエリート的気負いとか冷たさをイメージさせる人物でないだけに実に残念無念…。

 デモクラシーは今日では最高の政治形態として世界に普及しており、これを否定する国(=全体主義)は危険な“ならず者”国家の烙印を押されています。が、実は民主主義の実態は国によって大きく異なり、ひどい国は民主主義の前提である基本的人権すら保証されていない状態。しかも、比較的うまく機能している国でも、大衆迎合の世論操作によって政治家の質が低下する点、古代ギリシャでは衆愚政治として疎んぜられていた事実は、常に銘記すべきでしょう。
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2006年4月26日
599 坂口安吾とエド・マロー
 帰国後の初仕事は、土曜午後の船井情報科学振興財団の理事会。今年は会場が京都で、「都おどり」まで鑑賞できるというので、浮き浮きした気分で朝の新幹線に乗り、座席で新聞を広げると、何と坂口安吾の写真と大きな特集記事。安吾の出身地新潟市が彼の生誕百周年を記念して「安吾賞」を創設し、僕が初代審査委員長を引き受けることになった経緯はすでにご承知の通りで、以来この手の記事は見過ごしません。

 この特集の中で文芸評論家の川村湊氏は「…徹頭徹尾、批判者であり、糾問者であり、反対者であった安吾は、戦中も戦後も時流や大勢に抗い、…「世間」や「社会」や「国家」に刃向かってみせた」という意味で、彼の生涯の「宿敵は(日本の)ナショナリズム」だったと主張されていますが、これを読みながら僕は同時に二つのことを思い出していました。

 一つは昨年突然安吾賞の委員長を依頼された時の「…先生の生き様が極めて安吾的なので…」という篠田新潟市長のひと言。僕はその“殺し文句”で、柄にもない役を引き受けてしまったのです。今一つはつい先週木曜シベリア上空の機内で観た最新アメリカ映画(ジョージ・クルーニー監督)の幕切れで、去り行くエド・マローが静かに、毅然とテレビ視聴者に向って吐いたひと言「グッドナイト&グッドラック」。

 マローは50年代初めマッカーシーによる“赤狩り”の嵐が全米に吹き荒れた時、職を賭してそれに抵抗した人気TVキャスター。安吾は軍閥の支配下、日本人が盲目的愛国に駆り立てられる中で、堂々と自国を批判して心ある人々に反省を求めた文人。国を異にしても、不当な国家権力が凶暴化した時こそ、それぞれの人の本当の生き様が試されるのです。
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2006年4月14日
598 トスカーナで思う祖国
 紺青の空を背景に、見渡す限り緩やかに起伏する牧草と小麦の丘の緑、点在する蒼い森、白い羊の群、色とりどりに咲き競う花々…。品よくくすんで見える集落の赤茶けた屋根瓦、ひときわ風景を引き締めてくれる教会の塔、城や館跡…、やわらかな日差し、快いそよ風、小鳥のさえずり…。

 イタリア人さえ憧れる早春のトスカーナの旅から、予定通り20日に帰国しました。この季節にこの地をワイフとのんびり旅することなど僕にとって長年かなわぬ夢に過ぎなかったという想いが絶えず胸中を去来し、仕事に追われた現役生活の制約から解放された喜びに満たされていました。

 日毎に訪ね、泊まったのはもちろん都市でしたが、これまで来たことのあったシエナとかフィレンツェといった大都市の懐かしい街並みや壮大な建築物より、今回が初めてのピエンツァとかモンテリッジョーニといった中世の名残りの色濃い小さい城塞都市の素朴で重厚な雰囲気と、何よりも街はずれのどこからでも遠望できるトスカーナの豊かな田園の息をのむほどすばらしい景観が今も忘れられません。

 それにつけても、わが祖国は…。戦災で壊滅した東京や大阪が、戦後日本の奇跡の経済成長過程で逞しくも乱雑無頼につくり出した都市景観は致し方ないとしても、せっかく敵国の配慮により空襲を免れた京都や奈良までが愚かしくも心無い都市化により“古都”としての面影を失ってしまったことは、そのほかの歴史ある地方都市が“空洞化”により瀕死の状態にあることと共に、悔やんでも悔やみきれません。

 では田舎はとなると、60年代以来の農業衰退で少子高齢化は進み、田畑も里山も荒れ、かつて心ある外国人から世界一と賞賛された田園風景も今は幻。噫!VISIT JAPAN。
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2006年4月7日
596・597 夢で会いましょう
 去る28日、田島義博君があの世に旅立ちました。かつて林周二さんとの共著『流通革命論』で名をなした日本のマーケティング界の創始者の一人で、長く学習院大学教授をした後学習院院長の要職をつとめたため、生粋の大学人だとお思いの方も多いでしょうが、もともとはマスコミ育ち。小生がまだ立教大学助教授として旺盛な執筆活動をしていた頃、『マネジメント』誌の若い編集者として知り合って以来の仲でした。

 お互い日本の大学特有の暗く尊大でしかも不毛な“アカデミズム”に反発して気が合い、今年も恒例の奥住正道さんの新年会で同席歓談したばかり…。田島君とかぎらず、僕のような年になると旧友や親友がどんどんあの世に行ってしまうので、あの世がひどく身近く感じられ、どうせ近々また会えると思うと、昔ほど別れを悲しんだりもしなくなりました。

 快眠は僕の特技ですが、何時の頃からか、僕には夢の中でだけの行きつけの倶楽部があって、いろいろな仲間が集まります。目覚めてみると死んだ友人もいたのですが、嬉しいことに夢の中では生死は関係ありません。毎晩倶楽部にいるわけではないので、「今晩は行けるかな…」などと考えるのも寝る前の僕の楽しみの一つになっています。先日は最近暫く会っていない斉藤精一郎君とその倶楽部で出会いました。そのうち、田島義博君も必ずひょっこり現れるでしょう。

 …といった儚くたわいもない楽しみだけでは折角生きている意味もありませんから、定職を返上して以来、この世でまだ行ったことのない所を求め、旺盛に旅を楽しみはじめたわけです。この7日から20日までトスカーナを中心に中部イタリアを旅します。今回もコンピュータを持参しませんので、来週のRapportを休ませていただくことをお許し願います。
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2006年3月31日
595 インド観の再点検を…
 先週は東京財団の講演会で、森尻純夫マンガロール大学客員教授の講演「インドを知る、インドと組む」を聞き感銘。その余韻覚めやらぬ数日後、来日したヴィバウ君から「大事な相談があるので、是非お会いしたい…」の電話があったことから、すでにインドに住んで十数年の森尻氏に僕のインドの友人を紹介するという、だいそれた役割を果たしました。

 日本では今やインドと言えばITのみ。この十年IT産業がインドのGDPを急増させてきたことは事実ですが、ソフト面に偏るIT産業では、波及効果の点で工業化へのトリガーにはなりえないばかりか、インドは伝統的国民性に基づく社会体制から、指導者が重化学工業国家を指向せず、むしろITとバイオを生かした農業開発によって、農業先進国を目指す。こうした指摘は、僕が抱くインド観に正にフィットします。

 現在インドのIT産業従事者100万人に対して、農業人口7億人。これまで続けられた農業近代化の成果だけで、人口11億人のこの国の食糧自給率は既に130%。将来は更に高まる見込みですから、21世紀の世界はいやでもインドに頼らざるを得ないでしょう。…となると、先般訪米したシン首相に対してブッシュ大統領が破格の待遇をし、まだ核拡散防止条約に加盟していない国に原子力平和利用の援助を申し出た意味も理解できます。日本各界指導者の何たる外交感覚の鈍さ!

 たまたま会った佐藤尊徳氏(『経済界』編集長)にその話をすると、「ヴィバウ君が滞在中に是非対談を…」ということになり、「待てよ、多分まだ森尻氏が日本にいるなら、彼こそ対談の相手にふさわしい」と思い電話をすると、何とつながったではありませんか。と言うわけで、近日発売の『経済界』によって、各位の抱くインド観の再点検をお勧めします。
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2006年3月22日
594 何と言ってもマクラとサゲ
 相変わらず講演の多い僕ですが、先週末は異常に重なりました。木曜午後銀座でリコー三愛グループ主催の講演、金曜13時半〜14時半日本橋マンダリン・ホテルで日本経済新聞社主催の講演(を済ませてから千葉に移動し)15時半〜17時ちばぎん総研主催の講演と、すべて演題の異なる三つの講演を済ませて赤坂のオフィスへ帰り着いた時の気分は、実に爽快!

 昔から職業として講演をしているつもりはなく、依頼があっても、「どこが主催」・「誰を相手に?」・「なぜ僕に?」の3点を確かめ、気が動かないと引き受けません。そのため、会場へ向かう時はいつも意欲満々ですし、メモ持たず立ったまま大声で90分も喋ると、身体にもゴルフでハーフ回った程度の運動にもなります。講演の演題だけは意識していますが、内容は聴衆に向いながら創造していくことから、いわば題名だけあって楽譜のない演奏、台本の無い芝居みたいなもの。

 つまり僕の講演は、その時かぎりの即興作品。当然出来不出来が生まれますが、それは自分の調子より、聞き手の反応によることの方が多いのです。聴衆の目を見つめながら語りかけると、その反応は敏感に伝わります。反応がいいとこちらはだんだん乗せられて、思いがけない発想が頭にひらめき、語調も滑らかになって、万事が好循環になります。しかし何と言っても大切なのは、落語でいうマクラとサゲ(=オチ)。

 先ずとりとめもない話で会場の雰囲気をほぐし、その日の聞き手の好みなどを確かめながら徐々に本題に入っていき、…頃合いをみて気の利いた言葉を入れて終わる、このコツは昔大学生時代、“オチ研”の連中と通った寄席で学んだもの。つまらぬ講義を見限ったお蔭で、若い頃に身に着けた業が意外に人生で役立ったと実感できるのは、皮肉な余得です。
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2006年3月15日
593 改めて思う、持つべきは友
 友人はありがたいものだと改めてつくづく感じ入りながら、たった今仙台から帰京し、書斎でこの文章を打っています。

 年明け早々津川雅彦君から突然「三月中旬『グランパパ』第18号店の出店で仙台に行きますから、久しぶりにお会しましょう…」と電話が入りました。僕がまだ宮城大学長として仙台にいると思っていたようですが、とにかく楽しい話なので、早速仕事をつくり、日時を今日のお昼と決めたのです。

 折角彼が仙台のために来るのに、相手が東京からやってきた僕だけでは勿体ないので、仙台の親しい友人知人たち十名ほどで同君を囲む寛いだ昼食歓談の集いを思い立ち、誰よりも先ず当地財界きっての映画通である青木(譲)さん(東日本興業会長)にご相談したところ、快諾されたばかりか、会場まで決めてすぐ何人かの方に声をかけてくださいました。

 僕の方からもというお勧めで何人かにお声をおかけしましたが、村松巌前仙台商工会議所会頭、勝股康行七十七銀行相談役ほか錚々たる仙台の名士が多忙な時間を割いて応じて下さり、お蔭で幹事役の僕が席順にはいささか頭を悩ましたものの、会は大いに盛り上がり、お開きにするのがもったいないような雰囲気でした。会の後津川君の満足顔を見ながら、何かと苦労ばかりが多かった県立大学長だったが、それなりにやった甲斐もあったと、独り納得できた次第です。

 それにしても、津川君の多才!“有名人の副業”の例に漏れ、彼のグランパパは開業後28年を経てますます発展中。しかも、彼は奇才マキノ正博の甥だけあって、当年66歳にして今度は勇躍映画監督業に乗り出し、僕は先日その第1作『寝ずの番』の試写会を鑑賞してきました。ただしこの作品は、ご家族にお勧めできるとは到底思えませんので、念のため…。
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2006年3月7日
592 ワイキキで去来した思い
 1日成田からハワイへ発ち、今日午後帰国しました。3月4日古希を迎えるワイフのために子供たちが彼女の好きなハレクラニ・ホテル5泊の豪華プレゼントをしてくれたおかげで、父親の僕まで、ヴァケーションの恩恵にあずかれたのです。

 まだ子供たちが若かった頃、「素敵な嫁さんや婿さんを貰って、みんなで海外旅行しよう…」と吹いた親の夢は、いざ4組の夫婦ができてみると、仕事や育児の現実で遠のきましたが、子供たちの暖かい愛情は僕たちの胸に今深く沁みます。

 子供たちを代表して三男が多忙な日程をやりくりし、嫁と幼い孫2人まで引き連れ、週末だけ僕たちと過ごしてくれました。終日子供たちの面倒を甲斐甲斐しく見る嫁の姿から、昔4人の子供たちを育て上げた妻の苦労を今更ながら推し量り、感無量の思い。何しろ我が家では1964年から70年までに、息子3人と娘1人が立て続けに生まれたのですから…。

 ところで6年ぶりのハワイは、雨季というのにホテルというホテルは観光客で溢れ、街中もビーチサイドも建設ラッシュ、商店街の賑わいは正に消費ブーム。世界一の債務超過国である米国は辺境のリゾート地まで好景気を謳歌し、世界一の債権国日本はバブル崩壊後すでに15年を経て、いまだにデフレ懸念の不況から脱しきれず…、というやりきれぬ思いが、6日間のワイキキ滞在中、僕の念頭を去来していました。

 ここ十年来米国政府は(ニクソン・ショック以来の)ドル為替本位制を逆手にとり、超黒字国日本等からドル預金ないし債券購入の形でほぼ無際限に還流する資本を経済成長政策に直結させ、大成功させました。これに対し日本政府は、折角企業が稼いでくれた貿易黒字を自国の経済発展のために有効活用する戦略性を全く欠いており、真に情けない限りです。
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2006年3月1日
591 メンタとは心を開ける賢人である
 mentorという英語があります。普通の和英辞典では「よき助言者」などと訳されていますが、ギリシャ伝説のオデッシウスが出征するに当たり後事を託した人物メントールを語源とするだけあって、相当な社会的地位にある人が、ここぞという時に助言を求める“賢人”のこと。日本でも、政治家とか企業経営者とか芸能人が心酔していて何かと相談を持ちかける人物の名が時々週刊誌などに報ぜられますが、大抵は素性不明な坊主か祈祷師などで、首をかしげざるをえません。

 他方、欧米と限らず西欧文化の影響を受けたアジア諸国でも、一流政治家や大企業経営者の多くは、優れたメンタに恵まれており、メンタが誰であるかを知るだけで、その人の知性と教養が計り知れます。例えば、何度かRapportで書いたインドの僕の友人R.V.パンディット氏はメンタとして定評がありますが、祖国を外から眺めるためにニースに住み、また、絶えず旅して国内外要人と自由な交友を温めています。

 その彼が先週は来日していたので、月曜赤坂「Taj」で昼食歓談し、今回忙しい日程の合間にわざわざ靖国神社を視察したことを知り驚かされました。「神社そのものは外国人がとやかく言うべき施設ではないが、遊就館だけは…」と言った彼が別れ際に、旧知の福田前官房長官から今回頼まれて記し、手渡したという詳細な提言8項目を僕にもくれました。その最後にも、同館の展示は(外国人から言えば)どう見ても「帝国主義的戦争の賛美」に他ならないという忠告が。

 暇つぶしに彼が靖国神社へ行くはずはありません。北朝鮮問題にせよイラク援助にせよ、好みの官僚とか政治家の意見だけを頼りに独断専行して泥沼状態に陥った小泉外交は、メンタなき孤独な指導者が国民にもたらした典型的人災です。
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2006年2月22日
590 人情が溢れていた頃
 会議、講演、結婚披露宴があって、先週後半は3泊4日の大阪滞在。木曜が丸一日空いたので、晴れたら京都で冬の庭園巡りでもしようと楽しみにしていたところ、あいにくの雨。

 そこで、…と思い出したのが、新井満さん絶賛の邦画『ALWAYS−三丁目の夕日』。ホテルの近くでは上映しておらず、わざわざ天神橋六丁目の古びたビルの5階にある、わびしい場末の映画館を探し求めて…。これが良かったのです。この映画の背景は昭和33年、僕が31 ̄2歳の頃の東京の架空の典型的下町、狭い路地にひしめくように駄菓子屋や町工場や小料理店…が立ち並ぶ「夕日町三丁目」。しょせん都心の豪華な映画館の周辺にふさわしい情景ではありません。

 スクリーン上に大写しにこの町が現れた瞬間、僕の心にまず言いようもない懐かしさを呼び起こしてくれたのは、その町並みではなくそこに住む人々の生き生きとした顔つき、わけても路地を走り回る子供の数の多さとほとばしる元気さでした。しかし、フィルムが回るにつれて僕が幾度となく感動し、そのたびに昔を懐かしんだのは、親子の愛・町内に住む人々の間の絆・見知らぬ人同士の気遣い…、一言で言えば、全編を通してふんだんに溢れでていた人情でした。

 昭和33年といえば、戦後復興を達成した日本人が“豊かさ”を目指してひたむきに生きた時代。“電気”冷蔵庫と“白黒”テレビが庶民の高嶺の花だった経済的には本当に貧しい時代。が、そこにはまだ“人情”という貴重な精神的“豊かさ”が溢れていたことを、その時代に生きた誰が気づいていたでしょうか。いま溢れるような経済的豊かさの中で鬱々と楽しめない多くの日本人にこの映画は、“豊かさ”の新しい意味と日本人の将来目標を、婉曲かつ的確に示唆してくれるのです。
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2006年2月14日
589 ホリエモンへ託す一縷の望み
 早いもので、ライブドア社が突然日本放送株35%の取得を発表してから1年になります。これを機にホリエモンが一躍時の人としてマスコミの脚光を浴びた途端、僕の皮膚感覚は彼の顔・服装・態度・話し方…すべてに拒否反応を示しました。要するに、その若さと華々しい成功に比して、余りに全てが野暮ったく、“うざっこく”感じられたからです。
 やがて「カネで動かない人はいない」といった彼の人生観に接し、僕の魂の中には、彼に対する敵意に近い嫌悪感が定着しました。だからこそ、昨年秋の総選挙の際、そんな彼を“刺客”の一人として担ぎ出し邪魔者を除こうと策した自民党首脳を、僕は一生軽蔑しつづけます。今年一月末ホリエモンが逮捕された直後の小泉首相ならびに側近たちの見苦しい弁解は、僕の愛する日本を支配している権力者たちが、どれほど低劣な知性と倫理観の持ち主であるかを天下に示しました。
 ところで、拘置所入りしたホリエモンに検事の取調べが始ってからすでに三週間。先に逮捕された子分たちとは対照的に、彼は罪状否認をつづけ、調書の署名にすら応じず、それどころか、くじける様子もなく、差し入れられた書籍で読書三昧の独房生活を送っている…という報道から、僕はいまホリエモンという人物に一縷の望みを託しています。
 彼が不利を承知で否認を押し通し、重い判決に対し控訴もせずに刑を終え娑婆に再び立ち戻った瞬間、これまでとは全く違った顔つきと態度で「皆さん、実は…」と自身の長い間の人生演技を告白した後、日本という国の経済、金融、政治、行政、教育、司法、マスコミ…全てがいかにでたらめであるかを体験に基づき暴露しつくし、最後に「残りの人生はもっと納得できる国で過ごすつもりです」と席を立ったなら…。
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2006年2月8日
588 素晴らしい逝きざま
 この月曜、正午からホテルニューオータニで行われた永谷嘉男さんの「お別れ会」に伺いました。受付を済ませて会場に一歩足を踏み入れた途端の驚き。あの広い「鶴の間」の中は調度備品一切が無く、向こう三面の壁は天井まで真っ黒なカーテンで覆われ、正面にしつらえられた三層の壮大な花壇の上方に、懐かしい永谷さんの顔写真が飾られていました。
 キャッチフレーズ“お茶漬けの味”で日本国中の庶民に喜ばれ親しまれた永谷園。衆知のごとく、永谷さんはこの会社を起こされ、苦労を重ねて超優良企業に育てられました。…が、氏の人柄はそれこそ春風駘蕩、軽妙洒脱、傍にいるだけで心が癒される人間的魅力に溢れていました。その氏が数年前ガンの手術をされた日の夜、心細く寂しくてたまらず、病院のベッドで奥様の手を終夜握りつづけておられたといったエピソードは、氏の人間的魅力を一層ひきたててやみません。
 帰り際頂戴した現社長であるご子息名のご挨拶文とともに、永谷さんが生前に今日の日を予期し心を込めて自筆で書かれたお礼の一文が添えられていました。帰宅してそれを開き、「…家族や友人達との別れは辛いところもありますが、限りある身、亡き父や母や義父母、あまたの亡き友人達の世界え旅立つもよき頃合いかと思っております。長年の御交誼を心から感謝し、ご来会を重ねて御礼申し上げます」と読み終えた時、僕は思わず胸が一杯になり、涙をこらえきれませんでした。
 文にも字にも何の乱れもありませんから、お元気だった頃に書いておかれたものでしょうが、一点の怖れもない氏の心境に感動させらされました。僕も来年はもう80歳。現世で知り合った最も魅力的な人永谷さんは、遠からず来世に旅立つはずの僕のために、この上もないお手本を示してくれたのです。
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2006年2月1日
587 僕もうずるまちで暮らしたい
 北山孝雄君から『このまちにくらしたい うずるまち』(産経新聞社刊)が贈られてきました。正直言って、最近これほど僕の感性を柔らかく熱く刺激し、若い頃の懐かしい日本への憧れの念を高まらせ、そして、体内から情熱がほとばしり出るほどの強烈な使命感を心に授けてくれた本はありません。
 本書はとある実在の田舎町の紹介本でないことはもちろんですが、架空の町をテーマにした日本文化論でもありません。いや本は本でも、そのコンテンツからすれば写真集とか絵本と言ってもいいほど文章の占める比率は少なく、しかも少ない文章は、それにぴったりの写真や絵に因んだ美しい詩のように、著者の意を心憎いほど読者に伝えずにはおかないのです。
 久しぶりに電話で話を交した旧友が、彼の住む、山懐に包まれ静流川が貫く人口1万の小さな町から寄こした一通の手紙から始まる点、本書はまるで小説のようですが、この手紙に魅せられた著者がこの町を訪ね、町民の日常の暮らしを文と写真と絵とで丹念に紹介したという想像の産物が、この本です。
 読みながら僕の脳裏から、川又三智彦君のまだ少年のような笑顔が終始消えませんでした。同君は国家権力によるあの不当な「総量規制」の打撃から遂に完全に立ち直り、今や生涯を賭ける仕事として、東伊豆岸に「昭和三十年村」という“テーマ・ヴィレッジ”の建設に取りかかろうとしているのです…。
 北山君も川又君も僕の古き良き友…、と思うまもなく、手はひとりでに受話器へ。こういう時はファクスや“メール”は絶対だめで、やっぱり肉声。しかも至心神に通じ、両君とも奇跡的にオフィスに居たではありませんか。江副みどりさんや佐倉住嘉君や中村桂太郎君にも声をかけ、僕たちは近日中早速集まり、理想の町づくり実現に向け鉄壁の協力体制を敷くつもりです。
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2006年1月25日
586 憂国の情抑えがたく…
 官僚に対する国民の敬意と信頼が地に落ちて久しい感がしますが、少なくとも1960年代までの中央官庁、わけても通商産業省(現在の経済産業省)官僚の中にはいかに英知と憂国の情を兼備した人材がいたかは、同年の僕の友人城山三郎君の名著『官僚たちの夏』が見事に物語ってくれるとおりです。
 その中に颯爽と登場する若手官僚のモデルと言われたのが平松守彦さんです。僕が偶然氏と出会い、すぐ意気投合し、兄事することになったのは、氏が初代電子政策課長をされていた60年代末でした。後年郷里大分県の知事として長く八面六臂の大活躍された後に今や齢80歳を超えた平松さんの英知と憂国の情は、幸いいささかも衰えていません。
 昨年来平松さんは旧知の山口昭男岩波書店社長と何回も話し合われたあと、年末には阿久悠・佐高信・椎名武雄・城山三郎・筑紫哲也・遠山敦子・壇ふみ…各氏に「相集って国情を論じ、進んで世直しのために結束し行動しよう…」と自ら直接に呼びかけられ、弟分の僕には、何とその会の世話人まで引き受けてくれとご依頼が…、いや命令が下ったのです。
 先週17日夕、赤坂の僕のオフィスで開かれた第一回会合の出席者は上記10人のうち7人(残り3人からは熱いメッセージ)。折りしもその前夜例の東京地検によるライブドア社への強制捜査が抜き打ち実施されたわけですから、一同による憂国の論議はいやが上にも盛り上がらざるをえませんでした。
 ホリエモンを時代の寵児に祭り上げたマスコミは掌を返してその悪を暴きたて、彼を絶好の“刺客”として利用した自民党首脳は一転白を切り、彼にあやかってボロ儲けを試み大損した輩は当局をなじる…、その浅ましき様はまさにホリエモンさながら…。我々はもうとても傍観者ではおれません。
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2006年1月18日
585 『曽根崎心中』と『愛の流刑地』
 歌舞伎は昨年末「世界無形遺産」の宣言を受け、かつ中村鴈治郎が二百数十年ぶりに上方歌舞伎の祖坂田藤十郎を襲名することになったため、今年は新春大歌舞伎のティケットを諦めていました。が、庄司正英君の友情に助けられ、夫婦4人でこの日曜、超満員の歌舞伎座の上演を楽しめました。
 有り難や、演目の目玉は『曽根崎心中』。扇雀以来の当たり役とはいえ、当年74歳の藤十郎が「お初」に扮し、息子の翫雀扮する「徳兵衛」を相手に濃厚な男女の仲を自然に演じきれるものかと懸念しましたが全くの杞憂に終わり、僕は大いに泣かされて目をはらし、帰りの街頭では恥ずかしい思い…。
 観劇中僕の脳裏に浮かんだのは、何と『愛の流刑地』。締めくくりようもなく日経朝刊にだらだらと連載がつづいている渡辺淳一のあの不倫愛欲小説。実は僕は昔から彼の愛読者でした。不倫をあたかも純愛のごとく表現できる稀有な文筆力を持った作家として、長く尊敬の念すら抱いていたのです。
 日経への彼の連載は80年代の『化身』、90年代の『失楽園』以来ですが、今回は性愛描写だけがやたら露骨だった半面、文学性は急減…。となると、社会性はもともと絶無なだけに読者の不評は高じ、すでに次の連載を堺屋太一君に頼んだ編集部でも、早く何とか終わらせたいと困っているとのこと。
 『失楽園』の場合も、明らかに締めくくりに窮した作者が不倫の主人公たちに選ばせた性愛の果ての死は、読者にとっていかにも不自然かつ醜悪な“情死”。これに対し、徳兵衛とお初が曽根崎の森で選んだ死は、観客にとって余儀なく切なく哀しい純愛の果ての“心中”。同じく中年を過ぎた人気作家の男女関係の関心の置き所の差に、300年を隔てた元禄と平成の日本人の倫理観、いや美意識の違いを痛切に感じた次第。。
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2006年1月10日
584 “インド・ブーム”の真っ只中で…
 新年をいかがお過ごしでしたか…。僕は暮れから正月にかけての6日間のインドの旅を満喫してきました。インド人の若き親友ヴィバウ君が僕たち夫婦を南部靖之君一家と一緒に招いてくれたおかげです。濃厚な旅程全てを(多分)自らがつくり、配下の全組織を動員してそれを実現させたのみか、あの多忙な身を割いて6日間僕たちにフルにアテンドしてくれた同君の篤い友情に対し、ただただ感謝あるのみです。

 現在でも自宅で働く使用人が35人という名門の長男に生まれた彼は、大学を卒業するや海外留学を志し、スタンフォード大と東大両大学院情報科学研究科に見事合格したのですが、?(同国での常識を破って)東大に進学して(“トロン”の開発で名を成した僕の旧友)坂村健君の直弟子となり、?9年前業を終えるや、(当時“バンガロール”に象徴される同国でのIT産業熱をよそ目に)帰国せず東京に「インド・センター」を設立して日印両国の関係強化を人生の目標と定め、?日本の各界で広くかつ深い人脈をつくった彼にやっと巡ってきた今回の“インド・ブーム”を絶好の機会として、いよいよ政界へ進出して人生目標の実現に取りかかろうとする逸材です。

 以上僕が極度に簡略化してご紹介しただけで、30代の若さでヴィバウ君のような壮大な人生計画を着々と実行に移している人物が少なくとも今のわが国にはいない、という事実が必ず皆さんの憂国の情を刺激するはずです。維新から明治前半にかけての日本は、人口は今の約四分の一、国民の平均寿命は今の実質半分であったにもかかわらず、政・財・官界のみならず各界に雲のごとく逸材が活躍したことを想い起そうではありませんか。帰国早々小泉首相の年頭所感を聞き、僕は一日本人であることを、つくづく恥ずかしく感じました。
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2006年1月元日
582・583 新年所感
 元気に生きて、また新しい年を迎えることができました。

 新しいことが好きな僕は、すでに予定されていることからそれこそ想像を絶することまで、いろいろな出来事をつぎつぎに生起させ現実化させてくれる新しい年を迎えるのを、毎年楽しみにしてきました。

 新しいことは、嬉しいこと楽しいことばかりではありません。今年も僕にとって悲しいこと辛いことがたくさん起こるでしょう。しかし、これら二つはどちらかが無ければ経験することができないという意味で、実は一つのことの両面だと僕は考えることにしています。

 それ故、悲しいこと辛いことにぶつかっても決してくじけたりいじけたりせず、そのことこそが嬉しいこと楽しいことの真の味わいを僕に教えてくれるのだと、自分に言い聞かせてむんずと取り組みます。

 かといって、自分が「憂きことの なおこの上に積もれかし 限りある身の 力試さん」と詠んだ昔の武士ほど強い意志を持って生きてきたか、と問われると残念ながら、簡単に首をたてに振ることはできません。

 78年の人生で、悲しいことの悲しさ辛いことの辛さをそれなりに体験してきただけに、今年もできるだけ嬉しいこと楽しいことの実現を目指し、思う存分頭と体を使うつもりです。

 今年もより一層のご交誼をお願い申し上げます。
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