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2004年12月24日
529 忘れえぬ「レクイエム」
 年の瀬は何と言ってもベートーヴェンの「第九」ですが、この季節には珍しいモーツアルトの「レクイエム」を聴いた僕には、今年の「第九」はなぜか例年ほど心に響きません。

 去る15日夕の東京サントリーホール。開演が告げられて観客席のざわめきが静まった中で舞台のそでからテイルコート姿の大賀典雄さんが出てこられた時、僕だけでなく恐らく会場内の誰もが、どこか危うげな氏の足取りに一瞬息をのみました。2001年北京でオーケストラを指揮中に氏が脳梗塞で倒れ、3ヶ月意識が無い状態がつづいた後に奇跡的回復を遂げ、ソニーの取締役会長などの要職は退任されながらも音楽への執念断ちがたく指揮者としての活動を再開されたことを、席を埋めていた全員が当然知っていたからです。

 が、全ては杞憂でした。聴衆には一瞥もくれずに壇上に上がるや、氏は団員たちに目配せしてすぐ「ピアノ協奏曲」(第20番)の演奏をはじめました。…第3楽章のフィナーレとともに大きな拍手が起こると、氏は今度は聴衆に向かって丁寧に深々と頭を下げた後、鳴り止まぬ拍手を背に同じ足取りでゆっくり控え室に戻っていかれました。その夜幕間をくつろぐ聴衆の間にも、何か晴れ晴れした気分が横溢していました。

 モーツアルトが死の床で作曲し、遂に未完のまま世を去ったという「レクイエム」。絶筆と言われる「ラクリモーサ(涙の日)」の出だしの美しい旋律さえも聴く者の耳に哀しく響くあの壮大な鎮魂ミサ曲、それを奇跡の生還を成し遂げた氏が完璧に指揮し終わってバトンを振り下ろした時、場内には万雷の拍手とともに表現しえないほどの感動のどよめきが起こりました。アンコールを交え何回も何回も舞台に出てにこやかに手を振る氏に、僕は思わず「大統領!」と叫びました。
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2004年12月15日
528 JRI東北の無上の挑戦課題
 年の瀬近く、今夏の(財)日本総合研究所(JRI)の東北進出は将来の東北に対する大きな貢献になる、という予感が一段と深まっています。日本のシンクタンクの先駆けと言えるJRIが1970年に創設された時、初代理事長は元東大総長茅誠司氏、初代所長は僕でした。以来「規模を追わず」、「権力に媚びず」、「時代を見誤らず」という三大方針を堅持しつつ、激しい経済社会環境の変化の中で地道な発展を遂げてきました。

 茅先生ご退任後、僕は22年間にわたって2代目理事長をつとめましたが、「理事長・所長は無給」の不文律が後継者の人選難につながることを強く気にし始めた矢先、ふと寺島実郎君のことが頭に浮かびました。新入社員時代から僕の赤坂オフィスの若手常連の一人だった同君が論壇で見事名を成したことに改めて気づいた僕は、早速同君を口説き、会社の了解もとりつけ、やっと幸運なバトンタッチに成功したのです。

 同君が理事長になって以来JRIの知名度も一段と上がったのは、実にわが意を得たりです。茅先生は歴代東大総長中唯一の東北大出身者、僕は初代(県立)宮城大学長、寺島君はかつて僕が紹介したことが縁で浅野宮城県知事と親しくなり、今は同県の顧問まで委嘱される仲…という縁もあって、JRIは今年夏仙台都心に東北事務所設置に踏み切った次第です。

 JRI東北が目下開催中の連続土曜セミナー「明日の地方自治」は幸い予想以上の盛況を収めていますが、10月のゲスト平松守彦前大分県知事は「道州制」の、また12月の北川正恭前三重県知事は「ローカル・マニフェスト」の重要性を熱く説きながら、ともに「宮城県を含む南東北だけが空白地帯である」事実を強調し、地元民の奮起を要望されました。JRI東北にとって、これ以上の挑戦課題は無いと確信します。
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2004年12月8日
527 「ぶんざ」を観劇して・・・
 ある用件で小椋(佳)君に久しぶりに電話したことがきっかけとなり、先々週土曜、同君が台詞と音楽をともに手がけた“歌綴り”と称する舞台劇にワイフと招待を受けました。場所は新宿「紀伊国屋サザンシアター」。作品は題して「ぶんざ」。“日本最初のバブル”と言われる元禄時代を象徴する人物としての紀伊国屋文左衛門の人生を主題に、同君はなんと民謡、長唄、琵琶歌、ポップス、ミュージカル…の世界から歌唱力のある歌い手をふんだんに選び、“邦流オペラ”とでも称すべき全く新しい表現形式の舞台劇を創出したのです。

 はじめは独特の節回しのせりふにも、和洋混交の音楽伴奏にも違和感があって戸惑いましたが、暫くして慣れていくと劇に魅入られ、笑ったり泣いたりしながらたっぷり2時間半を楽しみました。紀伊国屋文左衛門と言えば、天候異変で江戸にみかんの入荷が途切れた年の秋,大船を仕立てて紀州から大量のみかんを江戸に運んで巨額の富を得たという伝説が有名ですが、本来は材木商で、その人生は謎に満ちています。その謎が実は文左衛門の人気の源泉。少なくともこの劇の中での彼は個性・才覚・決断力を兼ね備えた豪放磊落な一面と、若い頃の主家の娘綾乃との結ばれぬ恋を終生忘れないで生きたような感傷的な一面を兼ね備えた実に魅力的な人物です。

 ところで、徳川五代将軍綱吉治下の日本は、政治の安定とともに経済も発展して各地に豪商が活躍し、商・官の癒着による支配層の腐敗が目立った一方、町人文化の花も満開となり、俳諧の松尾芭蕉、浮世絵の菱川師宣、浮世草子の井原西鶴、歌舞伎・人形浄瑠璃の台本作家近松門左衛門等々、煌びやかな芸術家を後世に残してくれました。それに比し「平成元禄は…?」と観劇後何となく現代を儚んだ次第です。
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2004年12月1日
526 “楽天”的になれない理由
 このひと月間に「竹中・伊藤両大臣の就任を祝う集い」で孫正義君と、「佐藤しのぶ20周年記念コンサート」後の懇親会で宮内義彦君と、また「シダワインを試飲する会」で志田勤君(シダックス会長。野村監督率いる同社の球団は社会人野球の覇者)など多くの経済界の友人と歓談の機会がありましたが、新プロ球団に関して「絶対トクをしたのは(一文も出さないで知名度を高め、会社の売り上げまで急増させた)堀江君。ソンしたのは(後出しじゃんけんや財界のお歴々担ぎだし等で散々叩かれた上に、結局100億円近い持ち出しを迫られそうな)三木谷君。漁夫の利を占めたのは(球団創設の苦労もなく、知恵の働かせ方では、来年度から黒字さえ見込める)孫君といったところが、大方の意見のようです。

 もしこれが現実ならば、仙台・宮城にとって(他の東北各地にとっては事実上無関係なので)由々しいことです。今地元として絶対に実現してほしいことを列挙すれば、?楽天は宮城球場の改修に30億円を投ずるわけですから、県は同球団の球場使用料を長期間無料にするほか、看板広告などの権利を最大限与える、?財界はいろいろ問題の多い屋根つき球場(ドームではない)建設を再検討し、その代わり地元TV局での楽天戦放映のスポンサー引き受けや年間予約席の購入など実益面で積極協力をする、?県民は(観客数が毎回一万人を越えなければ興行的に問題外ですから)雨が降ろうと寒かろうとチケットを買って球場の席で応援する、の以上3点です。

 僕はむしろ今四国から始まろうとしている“独立リーグ”を東北に根付かせたいのですが、経営体質的に劣悪なNPB各球団の中では、地道な自主努力で30年間健全経営をつづけてきている「広島カープ」だけが唯一の手本になると信じます。
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2004年11月24日
525 iPod miniを手にして
 先週木曜の日経朝刊によると、コンピュータのアップル社は来春から日本でインターネットによる音楽配信サービス(iチューンズ・ミュージックストア)を開始します。このサービスを利用するためには、同社の携帯型音楽プレイヤー「iPod」が必要です。

 実は僕は、親友の富田直美君の勧めで一足先にiPodminiを購入し、このところ毎日感心しながら使っています。記憶媒体に超小型HDD(日本製)を使っているので音の再生忠実度の低下は免れないものの、9cm×5cm×1cm重さ約100gの機器の中に、何と千曲の歌(iPodなら5千曲)が収録できるのです。

 01年秋にあのアップル社が全社を挙げて短期間で開発した“iPod”を「21世紀のウォークマン」と称して発売した時、多くの“マック・ファン”は「“iMac”人気も息切れで、遂に同社も…」と首をかしげたはず。せいぜいiMacのユーザー囲い込みのためのネット音楽配信用の携帯端末という程度に考えていましたが、以後改良を重ねて3年。iPodはどうやら、長くマンネリ化していた携帯型音楽プレイヤー市場の革命児になりそうです。

 アップル社の創業者はスティーヴ・ジョブス。彼は70〜80年代に“パソコン時代”を先駆ける“アップル?・?”、“マッキントシュ”を次々に成功させて巨万の富を築きました。が、天才的人物にありがちな唯我独尊的性格が災いして一度は自社から追放されながら、世紀末には劇的復帰を遂げたのです。

 その後“執念の成果”であったはずのiMacの予想外の不振にもめげずに開発されたiPodだけに、その操作性(クリック・ホイールによる選曲の早さと容易さ…)や品質(小型、軽量、多容量…)はもとより、何よりもそのデザインの一貫した洗練度…等々、正にジョブス率るアップル社らしく、しかも同社の歴史を塗り替える可能性までをも十分に秘めた商品に思えてなりません。
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2004年11月17日
524 大草原・満天の星・寒風
 90年代以来の奔馬のごとき中国経済の活力を何よりも象徴しているのは、上海の繁栄と異常と言えるほどの膨張。しかし、上海の突出ふりに隠れて余り話題になりませんが、各主要都市の発展も軒並み驚異的です。とくに日本の企業経営者の間で最近とみに評価を高めてきたのは大連。戦前の“満州国”の時代から、北の一大商都奉天(瀋陽)に対して大連は大港湾と先進工業。その伝統と歴史的基盤は戦後も脈々と受け継がれましたが、今やそれらは再びそして大きく花開いた観があります。

  人口はすでに600万人になんなんとする一大工業都市。中国東北部の表玄関。治安の良さと山あり海ありの自然的恵みがもたらした住みやすさ(国連の選んだ「世界500都市」の一つ)。何よりも、日本人にとって、市民の日本語普及率で中国諸都市トップは魅力。さらに市当局は、日本政府の協力も得て専門高等教育機関を設立し、日本語教育の普及向上に努め、「中日友好」を更なる発展のための戦略目標にしようとしているとのこと。そんなこともあり、日本企業の進出数はすでに約2500社。

  その大連の若き知性派市長夏徳仁氏が先週来日されたので、土曜夜に南部靖之君の呼びかけで歓迎懇親会が開かれました。数十人だけのごく内輪の会でしたが、大連市の顧問を努める大前研一氏をはじめ高村前外務大臣など政・官・財の多彩な顔ぶれが揃いました。最も印象的だったのは、一番後から駆けつけた谷村新司氏のスピーチ。不朽の作品「昴」の作詞・作曲に因んで、「じっと目を閉じて(発想を練って)いた時、(突然頭の中に)地平線まで続く大草原、満天の星空、頬をさす寒風…(という状況)が浮かびました。いつか大連を訪れて北へ大陸を旅した時、そのままの現実が…」と。心にじーんと響きました。
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2004年11月11日
523 本業から解放された今
 人間がその個性的能力を本当に発揮できるのは職業を通してだけで、職業こそは個人を社会と結びつける基本的な媒体です。しかも人間は同時に多くの職業をこなすことが困難な上に、職業的に成功しようとすれば相当時間特定の職業に没頭せねばなりません。“本業”という言葉はあっても、それに対応して“多業”という言葉がないのはそのためでしょう。

 一方、職業的成功だけで人間はその人生を楽しく生きることができません。趣味こそは個人を社会と結びつける貴重な補足的媒体であり、趣味のない人間はまず例外なく魅力のない人間と言えます。しかも、職業と違って人間は同時に多くの趣味を楽しむことができるので、“多趣味”という言葉はあっても、それに対応する“主趣味”という言葉はないのです。

 ところで、職業(=仕事)と趣味(=遊び)は極めて矛盾した関係にあります。仕事に没頭すれば遊びに割く時間は乏しくならざるをえませんが、その代わり、遊びの限界効用は限りなく逓増します。没頭するほどの仕事がない人にとっては、遊びの限界効用も限りなく逓減してしまうわけです。

 実はこのところ僕は、人生でやっとこの矛盾から解放された自分を感じています。つまり、本業が無くなったおかげで、仕事中心の生活と決別でき、講演とか顧問とか委員とか…といった自分本位で選べる仕事を遊びと絶妙に組み合わせながら、毎週を忙しくかつご機嫌で生きていられるからです。

 先週は土曜の午後関西で講演、今週火曜の午後名古屋で会議ということで、ワイフを誘い二日間奈良と京都の旅。ワイフは奈良国立美術館恒例の「正倉院展」、僕は洛北「神護寺」の紅葉がお目当てでしたが、絶好の天候にも恵まれ、京都の友人とも夕食歓談できて、この上も無い幸せを味わえました。
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2004年11月3日
522 街の賑わいと第三の客
 先週は「暖簾を守る会」という団体にお招きを受け、「仙台の活性化」というテーマで700人の聴衆を前に久しぶりに仙台で講演をしたのですが、主催者に因んで、“活性化”ではなく“賑わい”という言葉をキー・ワードに喋りました。

 総務省所管の「(財)地域活性化センター」という外郭機関があり、また実に13省庁がかかわって「中心市街地活性化法」などという法律が比較的最近つくられたように、“活性化”は、霞ヶ関のエリート官僚が行ったこともない「地方の市町村を何とかしてやらねば」という尊大な気持ちを感じさせる行政用語で、僕はあまり好きになれません。

 仙台にきまって冠せられる「静かで落ち着いた都市」と言う表現は、「少なくとも訪れた人から言われた場合は“ほめ言葉”ではなく、“さびれた都市”という意味ですよ…」としっかり釘をさした上で、賑わいの本質と創造について、僕の持論を熱っぽく聴衆に訴えかけたつもりです。

 “賑わい”には別に学問的定義はありませんが、たくさんの人が集まれば必ず生ずる現象でもありません。日本の大学にはどんなに大勢の若者が集まっても賑わいは生まれません。楽しくないから本当は来たくない人が過半だからです。お祭りやデモの群集も賑わいをかもし出すとは言えません。しかし、はやる店とかいかす街とか繁栄する都市が共通にかもし出すもの、それが“賑わい”という快い雰囲気です。

 「暖簾を守ってきた店には必ず固定客と普通客(老舗なら一見客)とがありますが、街が賑わうには楽しげに店の前を行き来する“第三の客”が常に大勢いなければならず、彼らを惹きつける街こそがその店の繁栄の基礎…」という観点から、商人による仙台の活性化を促した次第です。
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2004年10月27日
521 こんなNPBに入会したいか?
 ごく親しい仲間だけでやることになっていた竹中・伊藤両大臣の就任と慰労の会、僕たちのヨーロッパ旅行などで延び延びになっていたのを、先週やっと実行に移すことができました。はじめは新橋のさる有名料亭が会場の候補に挙がっていましたが、集うメンバーから見ても会の趣旨から見てもふさわしくないという意見が多数で、結局、いつものように赤坂の南部邸で開催。開会時間も閉会時間も不定としたのに、19時過ぎに僕の発声で乾杯をする頃には全員が完全に揃い、室内はすでにはじけんばかりの盛り上がり。…主賓の存在感さえ薄れ気味でした。

 何といっても当日の主役は、前日に「ダイエー球団の買収」を正式表明した孫(正義)君。「何で今更、あんな時代遅れな世界に仲間入りしたいの…」という僕のぶしつけな質問に、「…いや、だからこそ入っていろいろやってみたいのです。が、“他の人”のように急ぎませんよ。いい頃合と手を挙げただけ…」と同君余裕たっぷりの笑顔。安心しました。“他の人”とは多分堀江、三木谷両君でしょう。近く会う機会があったら両君には、「NPBへの入会申請を取り下げる気にはならないの…」という質問を是非ぶつけてみたいものです。

 一場選手への裏金発覚で巨人の渡辺オーナーにつづいて横浜と阪神のオーナーも辞任で呆れていたところ、この一週間に、西武鉄道をめぐる不祥事で堤義明氏が辞任、本社の巨額債務の処理で大揺れの最中に前ダイエー球団社長の高塚猛氏がセクハラ容疑で逮捕。あんな小所帯で各社がこんなめまぐるしく事件を起す業界は他に類をみません。それにしても、政・官・財・民を挙げて、しかも全て他人頼みでちんけな世界の片隅に身を置きたいと希う仙台の情けなさ、愚かさ…。
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2004年10月20日
520 ヴェネチアでの衝撃
 アテネから空路ローマ経由でヴェネチア入りした12日夕刻、何と二人のインドの友人がホテル「ダニエリ」で僕たちを待ち受けてくれていたではありませんか。昨年来ニースに在住しているパンディットさんが、たまたま日本から来ていたビバオ君(日本インドセンター代表)から僕たちの予定を聞き、一緒にわざわざ車で5時間をかけて会いに来てくれたのです。いや、懐かしさだけからではありません。インドの政界に最も影響力のある思想家であるとともに無類の親日家であるパンディットさんは、僕にどうしても訴えずにおられなかったことがあったからなのです。

 それは、正にその日日本発のニュースで世界に流された9人の若者の集団自殺に対する氏独特の懸念からでした。夕食の席でパンディットさんは何回も、「(インターネットを通してのみ知り合った若者たちが、示し合わせて同時刻に命を絶ったこの事件は)単なる偶発的な出来事ではなく、知らず知らずのうちに滅亡へ向いつつある日本社会の深刻な病理現象と認識し、指導者が一刻も早く適切な手を打たなければ、取り返しのつかないことになる…」と力説しました。

 「日本人の誰がこの事件をこれほど深刻に受け止めるだろうか」と自身を反省し、食後はロビーのコンピュータでBBCNEWSを探して読み、部屋へ帰ってからテレビのCNNの長い報道と解説を聞くうち、祖国への危機感が急速に高まりました。15日帰国して自宅に着くや否や、僕は急いで溜まっていた新聞の中から12日の夕刊を取り出しましたが、予想通りどの新聞も一面は大きく「ダイエー」で、若者の集団自殺はやや多めの三面記事扱い。情報感覚のこの国際格差こそ、日本の「死に至る病」の症状を示すものでしょうか。
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2004年10月7日
518・519 半世紀遅れの“経営学ブーム”
 十数年来議論だけが目立った「大学改革」も、ようやくここ数年具体的実施の段階にきました。とくに今年は、89校の「国立大学法人」、70校の「ロースクール」、2校の「社立(株式会社形態の)大学」がそれぞれ一斉に新発足したという意味で、日本の大学史上に特筆大書される年となるでしょう。

 そんなわけで、昨年来大学教員よりは役員や幹部・中堅事務職員を対象に“経営”を主題としたセミナーや研究集会の開催が、しかも東京や大阪だけでなく全国の中核都市でもしきりに開催されるようになりました。私立と公立2つの大学の創設と初代学長を経験した僕には、経験を過大に評価されてか講師の依頼が絶えず、その度に50年代に産業界を吹き荒れた“経営学ブーム”の時代を懐かしく想起しています。

 先週も、広島で行われた中国新聞社主催の「大学セミナー」で基調講演を行いました。“非営利”ないし“公共性”を標榜するからといって、激しくかつ複雑多様な経済社会環境の中を逞しく生き抜くためには、大学も卓越した成功企業を徹底的に研究した上で独自の戦略と管理体制で勝負すべきだという、いわば当たり前のことを現実に即して力説した次第です。

 (本号が届く頃は、僕はエーゲ海を行く大型観光船に乗っているはずです。かねてからごく親しい友人夫妻4組と一緒に計画していたギリシャの船旅が実現したので、一同で盛り上がって乾杯を繰り返していることでしょう。4日夜イスタンブールを出航し、テッサロキニ以外は、ミコノス島、クサダシ(トルコ)、ロードス島、サントリーニ島、ナフブリオンとほとんど毎朝入港下船しては終日観光して廻るという恵まれた日程です。11日最後の入港地アテネで皆さんと別れてワイフとベニスへ向い、3日ばかり遊んで15日には帰国する予定。今回はパソコンを携帯しない予定なので、来週のRapportを失礼します。お許しください。)
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2004年9月29日
517 内野席がら空きの白熱戦?
 東京のマスコミ紙面や画面では、最近まで全く登場しなかった“宮城”と“仙台”が、連日報道の的になりつづけています。例のライブドア・楽天両社のプロ野球新球団設立拠点争いをめぐってですが、ただここへ来て、“内野席がら空きの白熱戦”といった実態も垣間見え、いたく気になります。

 ことの発端は、ライブドアから拠点地話を持ちかけられた球場主の浅野知事が急遽上京して堀江社長と会食懇談・意気投合し、記者会見の席でライブドア社に熱い歓迎メッセージを送ったことにあります。が、その後楽天の三木谷社長からも仙台進出の要望が出るや、知事の態度は明らかに豹変し、「どちらかを決めるのはNPB。県はあくまで両社に中立…」と表明したことから、双方のつばせり合いが始まりました。

 最初に堀江氏と会った時知事は、仙台進出を希望する後発企業のあることなど毛頭思わなかったでしょうが、本来なら当然、仙台がプロ野球の本拠地となって宮城のみか東北一円の経済を末長く潤し、地域民を楽しませるための条件をあらゆる角度から検討し、その条件を確実に満たせることを慎重に見極めた上で、特定企業に歓迎の意を表明すべきでした。

 ところでこのところ、県営宮城球場の老朽化した惨状が嘲りを込めて東京のマスコミに何回も報ぜられます。誰の負担にせよ、こんな球場をプロ野球の客を呼べるまでに補修するには相当な時間とか金がかかるはずですが、県側にはきちんとした腹つもりはすでにあるのでしょうか。「市民が盛り上げて誘致したわけでなく、市民は本当にうまくいくのかと懸念している」といった記事(大滝東北大学教授談。9月24日毎日新聞朝刊)など読まされると、東京のプロ野球ファンの気持ちはやはり期待から疑念へと大きく傾いてしまうのです。
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2004年9月24日
516 長野県栄村と新潟県村上市
 学長業を卒業しても講演依頼は一向に減りませんが、自由の身になったので、講演を兼ね訪れてみたい所を訪れ会いたい人に会うという日程を組み、ほぼ毎週旅に出ます。先週は新潟で講演を終わると、西へ県境を越えて信州の栄村を訪ね、同年輩を相知った高橋彦芳村長と夕食歓談痛飲して意気投合!翌日は一転北東に向って、遙か山形県境の町村上へ。

 高橋氏は地方の現実に無知な上に横暴な中央権力に対する挑戦者として、基礎自治体関係者の間で令名を馳せています。僕は宮城大学長時代に県下の市町村に頻繁にお招きを受けた際、首長や幹部職員から永田町(族議員)→霞ヶ関(各省官僚)→勾当台(県政・官)と連なる“中央集権”の愚かしく許しがたい実態を存分に聴かされました。差し障りを怖れてこれらは一般に密やかに語られる中で、高橋氏は「スジの通らぬ補助金はいらない…」、「アメとムチで他町村との合併に走らない…」と公然と権力に立ち向う頼もしい人物です。

 旧い城下町で雅子妃の先祖の地と…、憧れて村上を訪れた旅人の多くは町並みの俗化に失望したことでしょう。だが6年前、名産鮭商品老舗の跡取りである若き吉川真嗣氏が建設省(当時)主導の道路拡幅事業に危機意識を強め、独自の“町屋再生”を提唱して動き始めるや、市民の共感協力の環は急速に広がり、町の景観もすでにかなり変わってきました。

 「…最近劇的に変わった所は、(東京の)六本木と(新潟の)村上。前者は地域の旧い景観と住民を根こそぎ変えたが、後者では昔からの旧い景観を再現させて町の魅力を取り戻そうという運動によって(景観の前に)市民の意識が大きく変わった…」と某新聞は報じましたが、吉川氏に会い誼を深めた今の僕には、その記事の言外の意が痛いほど分かるのです。
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2004年9月16日
515 己より優れた者を部下とし…
 アンドルー・カーネギーの墓碑には、「己より優れた者を部下とし、共に働く業を知れる者ここに眠る」という賛辞が、誇り高い多くの後輩たちの敬愛の念を込めて刻まれているとのことです。半世紀前僕自身がドラッカーの『現代の経営』を翻訳していて感激し訳出したのですから、終生忘れることのできない言葉です。ところで、9月に入ってからの講演5回のうち3回も、僕は聴衆に向ってこの言葉を投げかけました。かつてなかったことであり、また講演のテーマも内容もそれぞれ大きく違っていたのに…。なぜなのでしょう?

 仕事に追われず日々旅に明け暮れた8月中、毎朝ゆっくり新聞を読みながら僕は、三菱自動車、東北文化学園大、社会保険庁、関電…といった機関で次々に発覚する不祥事に、改めて日本が当面している危機の本質を痛感させられました。自民党橋本派、NHK、UFJ、北海道警…と、公私の色合いこそ微妙に異なれ、何れもわが国では国民の範たるべき機関の不祥事はキリがありません。しかも、これら機関の責任者たちの言動は全て、とうてい心ある後輩の範たりえません。

 「失われた十年」とは、ふつうバブル景気崩壊後の経済的損失を意味しますが、経済は所詮もろもろの現象や事件の集約的結果に過ぎないとすれば、日本が過去十数年間に失い、いや現に今も失いつづけている根源的損失は“精神の退廃”だと信じます。精神の健全な社会とは、家庭なら子が親、学校なら生徒・学生が先生、職場なら部下が上司…が死没した後に先人を追想し、「自分の充実した人生は、親、・先生・上司…による人間形成のお蔭」と心から感謝するような社会のこと。カーネギーの墓碑は、まぎれもなくそうした健全な時代の息吹を僕に伝え、それへの憧れを一入募らせるのです。
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2004年9月9日
514 二つの同友会
 今年も夏休み明けの初仕事は、仙台での「中小企業家同友会」の通年勉強会の開幕講義。宮城大学長になった翌年からはじめましたから、今年で7回連続になります。毎年「…予見力が無いことこそ人間の強み。成功者は例外なく未来に高い理想を設定し、知恵と努力を傾けて志を遂げようとするが、常人はいたずらに未来への不安におののく…」といった持論を具体的実例に即して力説してきたつもりでしたが、その僕に今年依頼された演題は何と『これからの日本はどうなるのか』…。「僕の言うことなど信用しないこと…」と前置きして自由奔放に喋りまくれたので、実に愉快な2時間でした。

 ところで“同友会”と言えば、東京に住む人々の多くは間違いなく「経済同友会」だと思うでしょう。経済3団体の一つで、とくに“知性派財界人”の集まりというイメージが定着しています。仙台に移り住むまで僕の認識も全くその範疇内にありました。仙台にも経済同友会の支部はありますが、“大企業”がほとんどない土地ですから、会員の大半は中堅企業経営者や支店長連。“知性派”というイメージが東京ほど巷間に定着していないとはいえ、活動が“天下国家”を指向しがちなことは、さすが経済同友会らしいといえます。

 そのため当地では、厳しい中小企業経営の足下を見つめつつ実践的な哲学を身につけ、諸問題解決の手法やノーハウを学び、互いに励まし合い協力し合う…ことをモットーとしたもう一つの“同友会”も確かな存在感を保持できているようです。この同友会の会員数は今や全都道府県4万人になんなんとしていますから、宮城での会員との接触が親密になるにつれて全国各地の中小企業経営者との楽しい交友の輪も自然に広がり、僕の人生の豊かさを大いに増幅してくれるのです。
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2004年9月2日
513 長旅してはじめて分かること
 台風必至と旅程を2日早めて帰京。ワイフと二人でこれほど長い期間国内を旅した経験はありませんが、それだけに、下記の諸点を含めいろいろと多くのことが学べました。

 まず、各地で五つのホテルに泊まりましたが、日本のホテルはハード・ソフトとも一泊や二泊の旅行客向きにつくられかつ運営されているため、三日も同じホテルに宿泊すると厭き厭きしたことです。少なくとも欧米を旅行した限り、こうした気持ちに駆られたことはありませんから、比較的長期の滞在客への対応が、今後の日本のホテルの課題と思われます。

 第二に、観光地として喧伝されているところでは、だいたい失望させられたことです。例えば武家屋敷の津和野とか水郷の柳川は今のままではしょせん一過性の客相手の水商売。国内外を問わず名だたる観光地は、名声を確立して繁栄しているレストランや料理店と同じく、例外なく高いリピータ比率を維持しているという事実を肝に銘ずるべきでしょう。

 その点第三に、長府町(下関市)の武家屋敷には感銘を受けました。津和野と同じく長府の武家屋敷は白壁と練り壁の違いこそあれ、今も昔の面影を十二分に残していますが、違いは前者が単なる歴史的遺産をやたら有料で見せつけようとする商魂がいたく気になったのに対し、後者はそこが町の高級住宅地としての佇まいを保ち、センスのいいレストランや喫茶店が点在している上に、建物が国宝である功山寺まであることが、われわれをいたく喜ばせてくれたのです。

 最後に、五日間滞在した博多の活力には感銘を新たにしました。今もって三百を超す屋台が毎日早暁まで営業していることは、街に人が繰り出すということ。十時には盛り場にも人通りが絶えてしまう仙台を思わず考えさせられました。
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2004年8月25日
512 新しい人生の胎動
 喜寿を終えて始めて迎えた今年の夏休みも終ろうとしていますが、僕の心は例年になく弾んでいます。7月末から約40日間のスケジュールの中に僕は仕事らしい仕事をほとんど入れず、専らワイフと一緒の国内各地の旅行計画をふんだんに入れました。東北の旅から帰京したのが8月10日。その夜は東京湾上に屋形船を浮べて親しい友人たちで竹中(平蔵)君の参議院議員当選を祝うや、翌朝には東京を離れて京都、神戸、倉敷…とゆっくり旅をつづけ、今福岡に滞在しています。

 僕が東大の研究室から立教に赴任したのは1955年、満27歳を目前にした春のこと。心ならずも大学人の道を歩み始めた僕でしたが、振り返ってみると、丁度半世紀の間僕は思いもかけず大学人としては異例に波乱に富んだ、そして良かれ悪しかれ多忙極まる人生を送ってきました。健康に恵まれたこともあって、大げさに言えば春夏秋冬、昼夜を分かたず仕事、仕事に追われた毎日をそれなりにエンジョイし、それなりに納得してきましたから、夏休中ですら、仕事に関わりのない休日の入る余地はほとんどなかったのです。

 恥ずかしながら今ようやく僕は、「人生は仕事だけでない」ということを実感しています。国内外には行ってみたい場所も、読みたい本も、鑑賞したい芸術や芸能も、そして本来会って交友を深めるべき人々も無限だということは自明の理ですが、そのことを自覚して生きてこなかった自分を改めて反省しています。「月日は百代の過客にして、行きこう年もまた旅人なり。…」という『奥の細道』の芭蕉の句は若い頃からそらんじていましたが、この年までそれを“エクリチュール”できなかった自分を情けなく思う反面、残りの人生の新しい胎動を、僕はいま本当に力強く感じています。
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2004年8月15日
510・511 盲目的な愛国者たちへ
 終戦後59年。日本は確実に戦前の息苦しい社会に回帰しつつあります。そのことをマスコミに書くと、幾つか必ず抗議が寄せられるのが何よりの証拠です。空しさを感じながら、どんな手紙にも僕は以下のような返事を書き送っています。

 「…身についた言葉、味、自然、人、風俗…とともに、生まれ育った国を愛さない者はおりません。しかし、愛する国を支配している権力機構=国家をどれほど信頼するかとなると人さまざまです。自分にとって現体制が有利だと考える人々や、盲目的に国家権力に従う人々を除いては、国を愛するが故に国家の行動=政治×行政に常に厳しい目を向けることは、極めて当然のことと考えます。

 終戦時18歳だった小生は、敗戦の荒廃の中で、突然崩壊した国家権力の無知と横暴を痛感するとともに、あの輝かしい戦後日本の復興と成長の過程で、戦前・戦中の日本社会のあの息苦しさを幾度となく悪夢のごとく回想しました。今の日本人とくに若者には、戦後復興期から高度成長期にかけての日本人の解放感に満ちた逞しさが全く感じられません。この7月中旬内閣府が発表した世論調査の結果では、今の日本は安全・安心な国と“思わない”人は半数を超えました。

 この十年来、国家が国民に牙を剥く時代がまたやってきそうな気配が小生には次第に強く感じられますが、国家がこうした調査を行い、その結果をありのままに発表してくれる間はまだ幸いです。“表現の自由”が辛うじて保たれている間だからこそ、小生は機会あるごとにそのことを率直に世に訴えつづけるつもりです。貴殿には、気に食わない意見を述べた人間にいちいち腹をたてるより、むしろ異見に耳を傾けるだけの度量と冷静さを心から期待いたします。…」と。
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2004年8月4日
509 女友達礼讃
 28日夜定刻少し前にアークヒルズ37階のクラブに着くと、支配人がすぐ僕の一番好きな北東角の個室に案内してくれました。ドアは閉まっていて内に人の気配が全くしなかったので、「僕が一番だ!」と大声を出しながら開かれたドアに足を踏み入れると、どっと歓声があがってギョッ…。タケオ(椎名武雄)の周りをしのぶちゃん(佐藤しのぶ)、文恵ちゃん(草柳文恵)、壇ちゃん(壇ふみ)、敦子さん(遠山敦子)4人の美女がとり巻いて、みんな満面の笑顔と拍手で出迎え…。

 先般のRapportで「今年ほど何回も誕生会を開いてもらったことは…」と書きましたが、ヒラマッちゃん(平松守彦)とタケオが「まだまだ…、最後を楽しみにね…」と一月遅れで開いてくれた深い男の友情のこもった会でした。ただ、肝心のヒラマッちゃんからその日の朝大分から僕の自宅に電話があり、「突然椎間板ヘルニアに襲われて車椅子の身、…」と沈痛な声。また、アキラ(高島章)は遅れて出席ということで、期せずして冒頭は男女のバランスが大崩れしたのです。

 プリマ・ドンナのしのぶちゃんには、その昔某カラオケクラブで「青い珊瑚礁」を歌わせたり、文恵ちゃんには、僕が兄事した父上・草柳大蔵先生のお葬式の直後「これからは僕がお父さん代わり…」と勝手に胸を叩いてみせたり、いつか東京からの新幹線で偶然出会った壇ちゃんとは、名古屋まで談論風発しつづけ、同じ車両に乗っていた友人から後で「僕の存在には遂に最後まで目もくれなかった…」とぼやかれたり、文部省課長時代の敦子さんには(やがて大臣になられる予感すらないままに)会議の席上で文部行政に散々文句をつけたり…、素晴らしい女友達に対して、それぞれ「恥ずべきことの多かりし」自分を改めて思い起こさせられた夜でした。
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2004年7月28日
508 男のロマンいま直島に実る
 いま世界で最も注目されている日本建築界の鬼才・安藤忠雄君が、やがて同君の代表作の一つになるに違いない「地中美術館」を、瀬戸内海の直島(岡山県)に完成させました。去る17日に内外から多数のゲストを迎えて華やかに行われたその内覧会に僕もお招きを受け、その前夜は久しぶりにワイフと「ベネッセハウス」の客となりました。

 岡山に拠る超優良企業ベネッセコーポレーションの若き創業者福武総一郎君は、80年代後半誰にもその計画を諮ることもなく、この島の南端に位置する風光絶佳の海岸と森65万坪を買収しました。そして92年、その中核となる施設「ベネッセハウス」(室内にも庭園にも現代アートの作品をふんだんに配した豪華なプティホテル)が安藤君の設計で完成したのを機に、雄大な芸術プロジェクトが本格的に開始されたのです。

 サイトスペシフィック・ワーク(特異な才能を持つアーティストを内外から招いて“直島オリジナル”な作品を制作させベネッセハウスに展示する…)、「家プロジェクト」(美術館に近い本村の旧い民家を改修し、個性的アーティストに空間そのものを作品化させる…)などの企画が次々に実施に移されてきましたが、「地中美術館」もその最重要な一環です。

 “地中”と称するだけあって、延床面積800坪のこの美術館にはほとんど建築的外観はありませんが、山上の地中に巧みに創られた各室には外光がふんだんに降り注ぎます。外光によって一段と引き立たつ展示作品を一つ一つ鑑賞しながら館内を歩いていた僕の心に、突然、安藤君を囲み親しい友人たちと時を忘れて芸術談義を楽しんだ13年前の夜の思い出が懐かしく浮かび上がるとともに、福武君の男のロマンに対する深い敬愛の念も、改めて沸々と湧き起こってきました。
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2004年7月21日
507 「夫・橋田信介との29年」
 参院選が終わるや、気象庁が突然関東甲信越地方の梅雨明けを宣言しました。天気の予報が狂っても誰も気にしませんが、「現有議席を下回るようなことがあれば…」と言っていた自民党幹部たちが、一様に口を閉ざして何もしないとなると、国民の自民党いや政治家への信用は一層低下していきます。

 そのせいか、この一週間テレビに映る小泉首相の顔から迫力がめっきり衰え、姿から“オーラ”が完全に失せました。この点だけは、「求心力を失った総理は“死に体”…」と言っていた青木氏(自民党参院幹事長)の予言は的中したようです。最近、その哀れな小泉首相をテレビで見るたびに、僕は何故か橋田信介さん(イラク武装グループに襲撃されて亡くなった例の戦場カメラマン)の魅力的笑顔を思い出します。

 …などといっても、ご当人に会ったこともなく、ただマスコミ報道だけで一方的に敬愛感を強めてきただけですが、社会的には総理大臣などとは対置されるべき一介のフリーカメラマンとはいえ、その生き様と人柄は知るにつれてますます心温められ、感銘を深めざるをえないのです。同氏に関する記事の中で、どうしても捨てがたく切り抜いて座右に置いているのは『夫・信介との29年』(「週刊朝日」今年7月9日号)。

 旧家に生まれ、家族の反対を押し切って妻となった幸子さんが、信介さんとの苦労と波乱に満ちた、しかし生き甲斐そのものの人生をさりげなく語った記事で、読む度に胸が熱くなります。選挙報道で埋まっていた先日の新聞の片隅に、目の手術に成功したモハマド少年が彼女に付き添われて帰国したという記事が載っていました。信介さんの念願は見事にかなえられました。イラクと日本との親善にとって、橋田夫妻は自衛隊より遙かに心に残る貢献を果たしたと信じます。
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2004年7月14日
506 『雪』から『良寛』への千夜
 松岡正剛君が知的荒行「千夜千冊」を遂にやり遂げました。Rapport-500号でも書きましたが、古今東西そのジャンルを問わず“名著”に値すると信ずる本を毎日一冊とりあげ、それに対する所感を3000〜5000字にまとめてウェブサイト上で次々に千夜にわたり発表するという空前絶後の快挙です。同君が誰にも予告することなくこの荒行を開始したのは2000年2月23日、最初にとりあげたのは『雪』(中谷宇吉郎)。

 「…以降、休むことなく毎日1冊の本を取り上げ続け、2001年5月25日にはメルヴィル『白鯨』で300冊、2002年3月19日にはジャコメッティ『エクリ』で500冊を突破。このころには、“前人未踏の知の千日回峰”という評判とともに、空前絶後のブックナビゲーションとして話題沸騰。さらに2003年6月には大友克洋『AKIRA』で800冊、そして昨年宮沢賢治『銀河鉄道の夜』で900冊を達成。現在、「千夜千冊」は月間20万アクセスを誇り、インターネットで何を検索しても「千夜千冊」が出てくるといわれるほどに。…」(ISIS立紙篇)

 この荒行成就の日を七夕に合わせるため、同君はわざわざ最終段階での発表ペースを週3回程度に抑えましたが、満願の日の前夜、僕ら親しい友人たちはわざわざ那須の「二期倶楽部」に集まりました。翌朝やってくるはずの松岡君を慰労かたがた心から祝福するためです。夕食での話題はもっぱら『オデュッセイヤー』(ホメーロス)につづく千夜のことで、各人がそれぞれに勝手な憶測を披露して席は大いに盛り上がりました。翌日午後みんなの歓声に迎えられて松岡君が到着しました。隠しおうせぬ疲労の表情の中に何とも言えぬ安らぎを感じとった僕には途端にピンと来るものがありました。そうです。千夜は同君が心酔して止まない『良寛』だと…。
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2004年7月7日
505 観光の日本的特色
 6月最後の仕事は、第28回「ワールド・パートナーシップ・フォーラム」での基調講演でした。外務省と国際交流基金の協力の下に、各都道府県が順番に各国の大公使や令夫人をゲストに迎えて地元の各界指導者との知的交流を図るのが目的で、今回のホストは群馬県、開催地は草津で、僕の演題は「観光の日本的特色」。ほとんど全大陸にわたる国々から赴任中の大公使をはじめとする外国勢と、小寺群馬県知事や中澤草津町長をはじめとする地元の政・官・財・学界の日本勢の双方を納得させる内容に頭を使いました。

 観光(tourism)に関し最近の日本で最も歴然たる事実は、アウトバウンド(日本人の海外旅行者)とインバウンド(日本へ来る外国人旅行者)の異常なまでの格差。例えば日本人の海外旅行者の数は過去十数年来急増して、今や年1600〜1700万人、旅行支出の総額は最近で年約300億ドル。これに対し外国人の来日旅行者の数は漸増してきたとはいえやっと年500万人、しかもその70%は最近経済発展の目覚しいアジア諸国からの旅行者で、旅行収入は年約30億ドル。この事実は一体どこに起因するのかが、僕の講演の内容でした。

 要するに、わが国には(他国のように)政・官・財指導者の観光に関する誤った認識から適切な国家戦略が欠如している上に、観光関連業者の時代感覚も経営能力も一般に洗練されていないため、国内の観光地は(主に外国旅行で)“目の肥えた”日本人にすら徐々に敬遠されつつあります。国内の受け入れ態勢も全く整っていないくせに、“観光立国”とか

“Visit Japan”キャンペーンに乗っかって、総理大臣までテレビのコマーシャルで「是非、日本へ!」などとニヤつくさまは、正に田舎芝居の座長さながら。もう見るに耐えません。
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