2010年12月23日 |
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今年は平城京遷都1300年に当たり、奈良では官・民主催の大小さまざまな事業や行事が行われてきましたが、そのうち最大の知的成果の一つは、(県がとくに中軸人物として松岡正剛君に懇請し、日本総合研究所と編集工学研究所に運営を委託した)「日本と東アジアの未来を考える委員会」が一年半をかけてまとめた『平城京レポート』であると確信しています。
この遷都が行われた時期は、天皇家をめぐる権力者間の複雑な抗争が未だ尾を引いていて国内政治は混迷していましたが、東アジアには“ユーラシア・グロ−バリズム”とでも言うべき世界史的潮流が到来しており、人心の一新を希った天皇家は、正に当時の東アジアの首都のグローバル・スタンダードであった長安をモデルとして、平城京を創られました。
…と書けば、当時の日本の状況は現在の日本と何となく似ていますが、そのことを十分意識した実行委員たちは、実に広範にわたる分野の専門家からの寄稿や聴取した意見に基づき、5つの観点から「日本および東アジアの国々および地方、またそこに暮らす人々が直面している課題を整理し、共有可能な視点・考え方・方法を示すとともに、よりよい未来を開くための基軸とすべきコンセプトを提案」までしてくれたのです。
先週土曜に奈良で盛大に開催された「平城遷都1300記念グランドフォーラム」では、(「全体協議会」で正式に採択されたばかりの『平城京レポート』の発表を兼ね)県民向けの一大シンポジュウムが開催され、僕も当日出席の7委員の一人として(司会者の求めに応じ)自分の所信を披瀝してきました。ただし実は、僕はこのレポートの作成に当たっては、何の実質的貢献もしてはいません。であるだけに余計、僕は出来上がったレポートの見事な出来栄えに敬服しています。 |
2010年12月14日 |
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菅内閣の支持率は遂に2割台に下落し、民主党の支持率はそれ以下になったにもかかわらず自民党のそれもほぼ同様の体たらく…。いくら総選挙をしても、ろくな人物は現れず、結局は劣悪な政治が、日本をどんどん衰亡させつつあります。
追い詰められた菅首相は社民党に媚を売り、最近は遂に自民党との大連立まで模索し始めたとの報…、戦前世代の僕の脳裏には、(政友会と民政党、それに社会大衆党までが加わって成立した)大政翼賛会成立の悪夢がよぎります。その翌年、日本は勝算もなく、愚かな“対米宣戦布告”を行ったのです。
絶望した日本国民が右翼への誘惑に駆られて再び全体主義へなびかない方策は…と日頃考えを廻らしてきた僕ですが、先週南部靖之君から淡路振興を目指す“新農業”プロジェクトの話を聞きながら、「(現行制度に則り)三町からなる淡路島が総合特区になって“淡路共和国”を名乗り、“日本連邦”の先駆けになっては…」という構想が突然心に浮かびました。
そのお手本は同面積の島国シンガポール。過去数十年急速に経済を成長させて人口は500万人に達し、昨年は遂に一人当たりGDPでは日本を抜いた同国に比し、経済が下降しつづけた淡路の人口は今や15万人を切りました。しかし、関西経済圏に密接していて気候温暖な淡路は、やり方いかんでは、一国としては最高の条件を具備していると信じて疑いません。
日本は将来、(米国の一州以上の権限を有する)国内の自治体群による“連邦国家”になっていくべきです。先ず総合特区“淡路共和国”が、卓越した指導者のもと希望あふれる政策を続々実行に移し、国内はもとより世界各国から続々人材を結集して繁栄の道を示せば、「淡路」に習って次々に誕生していく国々が、日本を必ず力強く再生していくことでしょう。
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2010年12月1日 |
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(年齢順に)澤田秀雄、南部靖之、孫正義の三君は世間で“ベンチャー三銃士”と称せられ、創業型経営者中の代表格とされていますが、揃ってお互い気が合う上に未だ無名の頃から僕と親しかったことから、今もって会えば僕が(親愛感を込めて)“ちゃん”づけで呼ぶ仲です。その澤田君はご承知のごとくこの春以来、(九州財界の要望もだしがたく)例のハウステンボス(=HTB)再建の責任者として全力投球中です。
この努力の甲斐あり、早くもこの夏頃からHTBの業容は目立って改善されてきました。その頃、(キャンパスがHTBに隣接し、学校法人理事長の安部直樹氏が現地顧問としてHTB再建に協力中の)長崎国際大学から11月末の創設十周年記念行事の一環として僕に記念講演と上記3君の鼎談の司会のご依頼があり、(孫君は残念ながら欠席だったため、鼎談は対談になりましたが)先週無事その役割を果たしてきました。
当日は佐世保市内の大ホールに、2,400名の聴衆が集まる大盛況。過半数が長崎国際大の現役学生で、残りが大学関係者や来賓の各界名士を含む市民の方々でしたから、僕は演題『いたずらに国を憂うるなかれ』に沿い、冒頭「今日は学生諸君に対して話す…」と断った上で、「戦前と違い、今はグローバリズムの時代だ。国家の未来などを憂いながら、たった一回しかない人生を無駄にするより、納得できる国を求めて思う存分個性を発揮せよ…」と終始熱っぽく語りかけました。
後の対談では、澤田・南部両君がそれぞれ自らの若い頃を回顧し、「…当時も学生間の一般的風潮だった“就活”などに右顧左眄せず、所信を遮二無二に貫き通したことで今日がある…」という趣旨の話を面白く具体的に語って僕の提言を裏付けてくれ、会は終始熱気に包まれながら無事終了した次第。
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2010年11月25日 |
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停滞する経済とその主因である政治劣化で日本の国際的評価は下がる一方ですが、対照的な国は韓国。一昨日の北鮮軍の挑発的砲撃後の推移が気がかりですが、このところ米誌『FORTUNE』と『TIME』誌によってその経済の成果を称えられ、先日相次いで開催されたAPECとG20に対する列国専門家の評価でも、成果・運営両面で日本を圧倒しました。
日本に比し国土面積で4分の1強の韓国の現在人口は5千万人。明治以来長く日本の植民地支配に甘んじ、前大戦後は朝鮮半島の分断を前提にようやく独立を達成したものの、日本より遥かに不利な状況下でつづけられた国民的努力が見事に花開いたのですから、日本人はこの事実に照らし、自国の模範となることを、今こそ積極的に学びとるべきです。
その一例が“長城(チャンソン)の奇跡”と呼ばれる地方行政改革。長城は韓国南部の光州に近い人口約5万の郡(=町)ですが、15年前「株式会社長城郡!」というスローガンを掲げて立候補し当選した金興植(キムフンシク)氏(現韓国首相の実兄)が郡守(=町長)となるや、企業経営者時代の経験をフルに生かして行政のあらゆる面で前代未聞の改革を成し遂げ、かつては名もない田舎町であった長城は、今や全国民から躍進する国家の象徴と称えられています。
金郡守は経営者時代、氏のメンターであった張万基氏(韓国人間開発研究院会長)を通して、松下幸之助氏の思想に多大の影響を受けたとのこと。先週講演のため来日された張氏と、僕は東京と青森で3日間親しくご一緒させていただき、実に多くのことを学びました。“長城の奇跡”にご興味があれば、何とぞ近刊の『奇跡を呼びこむ、人』(趙祐鎮・梁炳武編著、悠雲舎刊)に収められた我々の論稿をご一読ください。
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2010年11月17日 |
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今春住まいを北海道駒ケ岳山麓へ移した新井満君から、「…大沼湖畔の森の中は紅葉の真っ盛りです。森の赤、山の白、そして天上に広がる青い大きな空の下を今、ヤギと豚と羊たちが歩いています。…」という一文を添え、近刊の『死の授業』(講談社刊)が贈られてきました。本書は、新潟出身の同君が母校の後輩中学生たちに対し行った(NHKテレビの番組でも放送された)課外授業の内容を文学作品化したもの。
新井満と言えば、最近の国民的ヒット曲『千の風になって』の作者として今や知らぬ人はいませんが、シンガーソングライターと自称するだけあって、歌わせれば同君は(往年のカネボウのCMソング『ワインカラーのときめき』のように)天下を湧かせるだけのなかなか味のある声の持ち主。3年前僕の傘寿の祝いの会に来てくれた同君が歌ってくれた『千の風になって』を聞いた友人知人は例外なく、最近よく聞く秋川雅史のテノールより遥かに心に沁みたといってくれています。
実は同君は大学を卒業後実に40年間電通社員として働きながら、プロとして作曲をし、歌を歌いつづけただけでなく、たくさんの小説やエッセイを書き、また翻訳もしました。とくに小説では芥川賞その他の文学賞まで受賞したわけですから、その才能の多彩さにはただただ舌を巻くしかありません。しかも、冒頭の一文から察せられるように、会社生活を終えるや、都会の世知辛い競争社会から遥かに離れた大自然の中に身を置きながら、常に旧友に思いを馳せてもくれます。
「万人にとって、人生最高の幸せとは何か」と言えば、自らの個性的才能を思う存分に発揮して生きること。そのことを、多くの人間はたまたま置かれた状況に臆して諦めてしまい、老いて悔いる。新井君の生き様は、万人の模範です! |
2010年11月10日 |
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出版不況が報じられて久しいのに、依然として毎日のように自宅やオフィスにいろいろな雑誌が贈られてきます。誌名が広くは知られてはいないとはいえ、本屋の店頭に溢れている雑誌類より遥かに読み応えがあり、かつ連載記事が楽しみなものもたくさんあります。その一つは日本航空の広報誌「AGORA」で、僕の愛読連載記事は『われら地球人』。
世界各国に移り住んで非凡な活躍をしている日本人のルポルタージュが、しとやかな名文に鮮やかなカラー写真を配した実に見事な編集で毎号8ページの誌面を引き立たせてくれます。先週届いた11月号のページを開くと、214番目の“地球人”は、何と旧友の高山正実君ではありませんか…。
55年前早稲田大学建築学科を中退した同君は、ミース・ファン・デル・ローエを慕ってイリノイ工科大学大学院に留学し、卒業後も米国に留まりました。そして、若き建築家としてさまざまな研鑽を積んだ後「…時代を映し出す建築が溢れる…」シカゴに本拠を置き、時に母校のイリノイ工科大学やハーバード大学などで教鞭をとりながらも着実に建築家としての実績を重ね、今や世界的に名を成しています。
高山君を含めこれまで『われら地球人』に登場した非凡な日本人に共通している生き様は、「日本人としての誇りを抱きながらも妙に突っ張らず、ひたすら職業的成果を挙げることによって日本および日本人の評価を高めていること」です。実はこの生き様は、日本人と限らず、何らかの動機で母国を離れ、外国で暮らそうとする人々の鑑となるものでしょう。
何から何まで国の未来に期待が持てないからといって日本を見捨てても、何の職業的能力もない日本人は、どの外国に住んでも、迷惑な存在として相手にされないのは当然です。
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2010年11月4日 |
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忘れもしない70年代末のある日、ボストンの下町を歩いていた僕は、後ろから誰かに声をかけられました。振り向くとアジア系の顔。話が通じないので英語で応答すると、「何だ、日本人か。韓国人だと思った…」と相手が笑ったことから気が合い、二人で近くのカフェに…。話が進むにつれ、彼はだんだん日本批判を始め、雰囲気は気まずくなっていきました。
今でもその時の自分を褒めたいのですが、僕は突然言いました。「君の話を聴いていると、韓国は善人ばかりの国なのか?」と。「……」、「僕の人生ポリシーは国籍を問わず、善人と付き合うことだ」と言うと、相手の顔はにわかにゆるみ、「同感だ…」と言いながら握手を求めたのです。お互いに名刺を交換し、彼は私にとって最初の韓国人の友人になりました。
最近の中国での反日デモの様子をTVで眺めながら、思い出すのは父のことです。父は軍用機の生産にたずさわる技術者でしたが、大戦の緒戦で日本軍が圧勝した直後も、「軍はバカな事を始めた。量産技術の点でも研究開発の点でも米国とは比べようもないのに…」冷静でしたが、その予言通りやがて戦局が不利となり、巷で群集が口々に「鬼畜米英撃滅!」を叫んでいる光景に出くわすたびに、「バカな奴らだ、米・英にも立派な人間はたくさんいるんだ…」と慨嘆していました。
航空力学をドイツで学び、米英両国にも友人を持った父は、country(=国=故郷=生まれ育った土地+住民)とnation state(=国家=一定の土地に主権を確立し、そこに住む人々を支配する権力機構)の違いを経験を通して冷静に区別していたのです。戦争は国家対国家の軋轢ですが、国家指導者にとっては、国民が自然に持っている(国家のために命まで投げだす)“愛国心”くらい有用な戦力はないということも…。
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2010年10月26日 |
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アレックス・カーが遂に本拠をタイに移しました。今まで日本に住む他の外国人“親日家”が次々に日本を見限って去っても、彼だけは日本に留まり、日本人が忘れ去った日本の原風景を残すために懸命に努力してくれると、僕は信じていました。しかも、彼の別れの言葉は、「日本を目覚めさせることができるのは、破産しかない」という、厳しいものとのこと。
米国生まれの彼は、幼くして軍属弁護士だった父親と共に64年に来日し、一家で横浜の米軍基地で暮らしましたが、父親に連れられて京都を旅した時、東山から望見した京都の異国情緒あふれる街並みの美しさに惹かれ、日本を母国のように愛してしまったのです。だが、長じて米国の大学を卒業した彼が日本を忘れられずまた来日して国中を旅した時には、急激な経済成長下にあった日本人は、大都市から辺鄙な田舎に至るまで、彼の脳裏に刻まれていたその“美しい原風景”を自ら惜しげもなく破壊しつつあったではありませんか…。
憤激した彼は日本に移り住み、一種の使命感に燃えて四国山中の祖谷にある茅葺屋根の古民家の修復から京都の町屋再生に至るまで幅広い活動を展開しましたが、その経営能力と多くの日本人の協力によって幸い事業は好調に推移していると聞いていた矢先、冒頭の報に僕は愕然とさせられたのです。
父親の仕事の関係で名古屋に生まれた僕は、戦前父親と京都を旅した時、カーと全く同じ体験をしました。カーが京都を初めて望見したのは60年代後半。正に戦後日本は高度経済成長の真っ只中にありながら、戦災から免れた京都は、30年前日本人少年の僕をさえ惹きつけた“日本の古都”の風情をまだ十分残していたのでしょう。今観光庁が誕生し、“観光立国”が叫ばれていますが、何か空しさが感じられませんか?
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2010年10月19日 |
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…医学部の裏手にあった大学の門を出て、ゆるやかな坂道を不忍池へ向かって歩いていた僕の心をいつも和ませてくれたあの閑静な裏道。その坂が森鴎外の小説にも出てくる「無縁坂」だと友人に教えられてからは、そこではいつも自らがその小説に出てくる大学生にでもなったかのような気持ちになり、卒業後の人生の夢をふくらませたあの青春時代…。
あれから60年余の月日が流れました。あの頃の日本は、敗戦による物心両面の危機的状況がようやく和らいで、殆どの人々が明るい未来に向って互いに助け励ましあいながら経済復興の上り坂を懸命に歩みつづけていた時代です。不忍池を過ぎるとそこは上野。まだ戦災の傷跡を残した雑然とした街でしたが、名所となった“アメ横”は朝から晩まで買い物客でごったがえし、店員の元気な声が飛び交っていました。
高度成長を達成し、「世界の奇跡」と各国から賞賛された日本が米国に次ぐ経済大国となり、庶民の生活水準も俄然上がり、すっかり整備された上野の街も戦前とは見違えるほど美しくなり、無縁坂沿いにも立派なマンションが建ち並んだ丁度その頃、さだまさし作詞作曲の『無縁坂』が大ヒットし、「母が未だ若い頃、僕の手を引いて…」とその歌を口ずさむ人たちはみんな、両親への切ない感謝の気持ちを抱いたものです。
しかし、80年代後半のバブル期のあの醜い奢りで、戦前以来の日本人の実直、勤勉、謙譲…といった美しい国民性は忽ち失われ、バブル崩壊後に訪れた長い長い経済的停滞の中で閉塞しきったこの国は、遂に「親の生死も全く気にならない」人々がひどく大勢住むという社会になり果てました。誰が名づけたのか、“無縁社会”。大嫌いなこの言葉に出っくわす度に、お祓い代わりに、僕は『無縁坂』を独り口ずさむのです。
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2010年10月12日 |
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三連休最後の昨日は鈴木弘之・コシノジュンコ夫妻と鳳琳CCでゴルフ。「土・日は仕事なので、せめて月曜ぐらいは」と思っていたところ、先週の休暇改革国民会議で偶然同席したジュンコさんから誘われ、シメタと応諾した次第。天佑神助! 前日の雨はすっかり上がり、6:45自宅で僕を拾った鈴木君運転の車がレインボー・ブリッジを渡る頃には、真っ青の秋空から朝の陽光がまぶしいほど照りつけていました。
房総半島のど真ん中にある鳳琳CCを目指し高速道を降りて鬱蒼とした森の中の道を走っていた時、運転していた鈴木君が突然車を止め、僕に窓外を指差しました。何と彼方には、木漏れ日を浴びて銀色に輝く大きな蜘蛛の巣。しかも同君は車を降り、「こんな大きな巣をつくるのは、大変だろうな」と呟きながらそれを撮影し始めたのです。さすがは写真家です。
だが、写真家として鈴木弘之の名を高からしめた被写体は蜘蛛の巣のような“自然”ではなく、コンクリート・ジャングルである都会の、しかも都会に住むほとんどの人が身を置いたことのない壮大な“工事現場”。「そこにみなぎる物質の躍動感、切迫感は並ではない。(鈴木氏の作品に見られる)こうした物量的な表現だけでも、私たちの目を釘付けにして余りあるものがそこにありはしないか」と評した峯村敏明氏は、鈴木君の作風を、繊細かつ形而上的と的確に評価しています。
鉄道にせよ高速道にせよ、大都会の中の大工事は人の寝静まった深夜に行われる過酷な労働。そうした工事現場に魅せられた鈴木君はいつか「働いている人たちは、みんな年配者ばかりでねぇ・・」と呟いたことがあります。昨日の朝の蜘蛛の巣への何気ない呟きとともに、鈴木君の“心優しさ”はいつも僕をたまらなく感動させ、同君への敬愛感を深めます。
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2010年10月4日 |
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企業の評価基準はいろいろです。これまで長らくどこの国でも売上や利益の大きさとか伸びが標準的基準でしたが、経済環境が悪化するごとに、この基準では一流(と思われていた)企業の多くが人員削減策や給料・ボーナスの減額策といった合理化を早々と実施してきたことから、メディアの批判的報道の影響もあって、わが国では庶民レベルの企業評価基準は、微妙にしかし確実に大きな変化をみせてきたようです。
新しい評価基準になったのは、社員の“働く魅力”。日経新聞は03年から有力企業を対象に「働きやすい会社」調査を始めましたが、優秀な新卒人材確保に及ぼす影響もあり、企業側の関心も年々高まっています。上場企業が対象のこの調査と違って、「自社社員、取引先企業の社員、自社の顧客、自社に関わりのある地域社会の人々・営利目的でない株主を大切にする会社」を国中から選び出して称えた『日本でいちばん大切にしたい会社』(坂本光司著、あさ出版)は08年に出版されるやベストセラーとなり、今年第2号が出版されました。
他方米国では80年代末「Great Place to Work Institute」という研究所が設立され、フォーチュン誌の協力を得て毎年全米のThe Best 100 Companies to Workを発表していますが、この運動は急速に世界に広がり、今や44カ国が毎年同じ基準で参加企業の社員意識調査を行い、有力メディアを通し上位優良企業名を発表しています。日本支部は昨年設立されて上記調査を行い、『日本でいちばん働きがいのある会社』(和田彰著、中経出版)として、これも先々週発売されました。
わが国の名経営者は昔から「ヒト、モノ、カネ」と、社員を最高の資産と考えてきましたが、今ようやくこの考えが復活し、そしてほぼ同時に、偶然世界的風潮にもなったのです。
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2010年9月27日 |
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今回の大阪地検特捜部前田検事の捜査資料改ざん事件の報道に接した途端、僕の心に蘇ったのは、あの山口判事の死です。終戦直後、少なくとも都会に住む日本人の多くは、(配給制度も機能しない中で)空腹に耐え切れず、違法を知りつつ“闇米”を手に入れるのに懸命でした。もちろん、運悪く警察に摘発されれば、それなりの刑に処せられます。そうした不運な庶民の一人だった東京在住の老婆は、地裁で禁固の刑を宣告されました。その刑を下したのが山口判事なのです。
しかし、氏も一勤め人として東京に住み、栄養不良により健康を害しながらも、米を届けようという田舎の親戚の申し出も断りつづけた末、事実上餓死しました。後に公にされた日記には、「…食糧統制法は悪法だが、法律である以上、国民はそれに従う義務がある。同僚の中に闇米に頼る者もいるだろうが、(信念にしたがった)自分の清い“死の行進”は、苦しいが気分爽快だ…」といった意味の記述さえあります。
法に従って老婆を裁いた山口判事は、被告の立場を思いやりながら、恐らく心で泣きながら判決を下したに違いありません。飢餓の時代に生きて自ら悪法と信じながらも頑なまでに法に従って命まで失った判事と、今飽食の時代にあって(もし現報道が事実なら)無実の容疑者の一生を破滅させることを知りつつ冷酷卑劣な違法行為を犯した検事、司法官と行政官の違いはあれ二人の対照的生き様は、そのまま戦前と戦後の日本人の価値観の変化を極端なかたちで示す鏡と言えます。
本事件を契機に今後、極悪人が裁判の場で続々と無実を訴える事例が当分日本社会をますます姦しく、かつ不快にすることでしょう。このような事態となれば、われわれは最早「天網恢恢疎にして漏らさず」という諺を念ずる他はありません。 |
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2010年9月21日 |
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国民が固唾を呑んで見守った先週の民主党代表選は菅氏の圧勝で幕を閉じるとともに、直後の菅内閣の支持率を大幅に高めました。この事実をどうお考えでしょうか? …僕は、一言で言えば、圧倒的多数の国民が小沢一郎氏に不信感ないし不快感を抱いていただけのこと、と考えます。つまり、菅氏の能力なり人柄を評価し信頼する国民はほとんどいなくても、「小沢首相の出現だけは阻みたい」という人々の切なる思いは予想外に強かったということが明確になっただけです。
そうした国民多数と思いを共にする僕は、今回の選挙結果にほっとしたものの、民主党への不信感、いや嫌悪感は更に強まりました。それはあの選挙での一般党員・サポーター票が菅249票対小沢51票と大差で開いたのに、逆に国会議員票は菅412票対小沢400票と僅差に過ぎなかった事実の故です。
小沢支持の民主党議員は誰も「選挙の際(金銭面で)お世話になった」とか「(人事とか政策面での)豪腕に期待する」といった(各自に好都合な)低次元な小沢氏の“政治屋”能力を強調しますが、「身近で小沢氏に接して尊敬感を抱いた」と語る人を知りません。それでも新人ないし“泡沫”代議士は哀れな連中ですが、不可解な言動を繰り返した挙句小沢支持に傾いた鳩山氏のような卑劣な人物は絶対に許せません。
かといって、明らかに国民の多くも、そして僕も自民党への信頼感はおろか、新生への期待感も抱けないのは実に悲しいこと。無知で横暴な指導者により国民が甚大な犠牲を強いられた第二次大戦の後、国民の大きな期待に支えられて発足した“民主主義”は、今明らかに“衆愚政治”の様相を呈しています。“国民の師表”とまでは言わぬまでも、せめて“まともな人物”が政治家になる仕組みを何とか講ずべき時です。 |
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2010年9月15日 |
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長く大学教員をした僕は、ヒグラシの声を聞くと今も習慣的に「今年の“夏休み”も終わった…」という寂寥感に襲われながら、読み終えた本の内容に思いを馳せずにいられません。惜しむらくは、今年は講演や会議に絡む長旅が重なって、緑陰で大著を静かに読み進む悦楽を味わう余裕はなかったのですが、他方、秋以降に依頼されている仕事の関係で読んだ何冊かの本は、僕には思いがけない知的刺激剤となりました。
例えばR・セムラーの著書。彼はサンパウロに本社を置く(実父が創業した)セムコ社のCEO。かねてから聞いていたとはいえ、この本を読んで改めて彼の経営哲学に深く共感し、世界の産業界に新時代が到来しつつあるという確信を得ました。同社はたしかに小ぶりの一コングロマリットにすぎないのですが、セムラーは今や、米国はおろか世界の企業経営者や経営専門家からも最も熱い視線を浴びる人物となりました。
学生時代にはロックに熱を上げ、卒業後はビジネススクールを敢えて敬遠した彼でしたが、破綻寸前のセムコ社に入社し、父親から経営の任を継ぐや、直ちに万難を排して旧套墨守型の経営方式の徹底的改革に着手しました。これにより同社の組織は驚異的に活性化するとともに、事業を多方面に広げつつ急速に業容を伸ばしただけでなく、彼の経営理念は“セムラーイズム”として世界的に知られるようになったのです。
世界の産業界の信望を集めた米国流ビジネススクール教育には、80年代初頭出版の『エクセレント・カンパニー』を機に批判が起こり始め、今世紀初頭出版の『MBAが会社を滅ぼす』(原題、『Managers not MBAs』)を機にその理念の根本的反省を迫られました。“セムラーイズム”がこの時流に沿い、ビジネス教育変革の強力な推進力となることはごく自然です。
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2010年9月7日 |
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先週木曜夕、足掛け8日間全走行距離千数百キロにわたった東北講演旅行から帰京し、翌3日最初の仕事は、ドナルド・キーン氏を西ヶ原のご自宅にお訪ねし、第5回「安吾賞」の意義をご説明し、正式な受賞の確認を頂戴することでした。
坂口安吾生誕の地新潟市が5年前、安吾を顕彰するためにこの賞を設けるに当たり、篠田市長から僕が選考委員長の要請を受けた時には面食らい、「文学とは関係ない」、「新潟ともとくに縁がない」とお断りしたのですが、「文学賞でも地域賞でもなく、既成権威に屈しなかった安吾の生き様を顕彰するに当たっては、時代も職業も違うとはいえ、先生に選考委員長をお願いしたいというのが委員候補者全員の希望です」と言われて何となくいい気分になり、引き受けたこの大役でした。
賞の趣旨に沿い過去4年、野田秀樹、野口健、瀬戸内寂聴、渡辺謙各氏が受賞された後の初めて外国人への授賞をキーン氏が快く受諾して下さったことは、僕にとって安堵より大きな誇りです。氏は外国人としては空前の日本古典文学の理解者、紹介者としてわが国のみか海外でもその名が知られていますが、実は古典のみならず近代文学にも造詣が深く、英文の大著『日本文学史近代・現代篇』全8巻(邦訳は中央公論社刊)の中では、安吾の作品が“戦後無頼派”文士4人のうちの一人として詳しく紹介されているということを選考委員会の席で知った僕は唖然とし、氏への尊敬を一層深めました。
1922年6月生まれの氏は僕より丁度5歳年長者ですが、お話を伺うと、今も日本と米国を頻繁に行き来され、講義・講演や執筆活動で多忙な日々を送っておられるとのこと。お見受けした限り、米国人としては小柄でお身体も決して頑健ではない氏から無言の励ましを頂戴し、お別れした次第です。 |
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2010年8月24日 |
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お盆休みをはさんでRapportを2回休んだため、何人かの方から「体調でも崩したのでは?」という温かいお見舞いまで頂戴しましたが、至って元気ですのでご安心ください。実は先週から今週にかけては、「(第5年度)安吾賞」の選考とハウステンボスの仕事で5日間東京→新潟→福岡・・・長崎→東京と存分な空の移動、今週から来週にかけては3つの講演と「(第3年度)立志挑戦塾」の仕事で7日間東京→いわき→仙台→青森→仙台→東京とマイカーを駆っての存分な陸の移動。そういうわけで、次回のRapport発送は9月初旬の予定です。
猛暑の中独りで旅をしながらたえず胸中を去来するのは、わが教え子の一人(Rapport先号にてご紹介の)三木淳君の再会冒頭の挨拶の言葉、「先生、東京は涼しいですね」の一言です。その時東京の温度は36度でしたが、彼がハノイを発つ日の現地温度計は45度を記録していたとのこと。三木君のこの発言をどう思われますか? 東京も意外に暑いと彼も感じたはずですが、昔の風変わりで怖い恩師から、「若いくせに、何でそんな当たり前のことを言うか!」と一喝されるのを懼れて先手を打ったとすれば、彼もさすが僕の弟子だと思います。
60年前大学を卒業する時、僕は自分が教師になるとは夢にも思っていませんでした。立教の教壇に初めて立った時でさえ、(大学院特別研究生を3年で勝手に辞めたために、3年分の給付金を返還する代わりに3年だけどこかの大学で教えれば返還免除となるという)ごく軽い気持ちを抱いていたのですが、東大の学生に比べて遥かに洗練されかつ清新に感じられた学生たちに対して初講義を終えた時点で、僕の職業観は一変しました。学生たちの人生に多大な影響を与える“教師”の仕事を、僕は心から誇りに思いつつ今も歳を重ねています。 |
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2010年8月4日 |
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国(country)の本来的意味は“土地”。一方、国家とは、一定の土地に主権を確立し、そこに住む人々を支配する権力機構(power system)。18世紀までこの地球上には、どの国家も支配していない土地と人々が残存していましたが、二つの大戦+“冷戦”を経た現在、国家の数は200弱に増え、南極を除く全ての土地と人々がどこかの国家の支配下にあります。
しかし、冷戦後のグローバリゼーションという時代的潮流の中で、ほとんどの国家が(自らの国家が必要としている知識や技量を持った)個人に対し開放政策をとっていますから、(ごく少数を除き)個々人は自らが最も納得できる国に移り住むことが可能となりました。つまり、国家の国民個々人に対する支配力は、昔のように決定的ではなくなったのです。
もちろん全ての個々人が国家権力から自由になれるわけではありませんが、ここ数十年来、僕の教えに影響を受けた学生の中には、それを実行に移して見事に成功している人物が何人かいます。その一人でたまたま来日中の三木淳君と、去る2日昼食を共にしつつ、暫し師弟歓談の時を過ごしました。
同君は僕が立教在任中の頃の学生の一人で、卒業後大手商社に入社し、若き商社マンとしてアジア諸国を歴訪しながらも、大学時代に教室で聴いた僕の話を片時も忘れなかったとのこと。その彼は何故かベトナムの風土と人に惹かれ、ベトナム女性と結婚して幸福な家庭を築くと、入社10年にして決然会社に辞表を出すとともにハノイ総合大学へ学士入学し、言葉と制度を徹底的に学んだ後、新事業を起こしました。
その後のベトナムの経済の急成長の中で事業は波に乗り、同君はいま世界を股にかけ活躍中です。政治家でも役人でもない日本人なら、日本国の未来なぞ憂うるのは無意味です。 |
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2010年7月22日 |
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木村剛氏、銀行法違反容疑で逮捕。氏は85年東大経済学部を卒業して日銀入行、バブル景気の頃気鋭の金融マンとして国内外で活躍し、バブル崩壊後の相次ぐ失政により日本経済が瀕死の状況下にあった98年日銀を退職して金融コンサルタントとなるや、巨額な不良債権を抱えながら優柔不断の金融機関を厳しく批判し、一躍政・官・財界で名を成しました。
02年小泉内閣が成立するや、民間から経済財政政策担当大臣(後に金融担当大臣も兼務)として入閣した竹中平蔵氏は、木村氏を重用して「金融再生プログラム」の策定にかかわらせ、後には氏を金融庁顧問に任命までしたのです。こうした出世のおごりの末か、04年氏がかかわった日本振興銀行が異例の速さで金融庁によって開業許可された際には、氏は当然世間の指弾を受けたものです。小泉内閣末期、氏はこの銀行の社長となったものの、その後の経営実績は芳しくなく、遂には、悪名高きSFGCと組んだことが命とりとなりました。
戦前東大を出て一業を起こし成功した人物を知りません。官民を問わず彼らは既成の大組織に入り年功で出世するのが、定番“エリート・コース”とされてきたのです。戦後はさすがに、東大を出ながら定番コースを選ばず、あるいはそれを捨てて起業家の道を選ぶ人物が少数出てきました。古くは「光クラブ」の山崎晃嗣(法学部学生、49年物価統制令違反容疑で逮捕)、近くは「リクルート」の江副浩正(教育学部卒、88年贈賄容疑で逮捕)、最近では共に06年証取法違反容疑で逮捕された「ライブドア」の堀江貴文(文学部中退)と「村上ファンド」の村上世彰(法学部卒)各氏が思い浮かびます。
戦後東大からは一業を起こした人物は出てきたものの、殆どが挫折しました。この原因は果たして何なのでしょうか? |
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2010年7月14日 |
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今回の参院選での与党敗北の原因を、マスコミではこぞって(菅首相就任直後の)「消費税率引き上げ」発言に帰していますが、僕は全くそう思いません。「消費税率引き上げ発言は、庶民の支持率維持にとってタブー」という俗説は、“庶民”を心の奥底で見くびる“オピニオン・リーダー”たちの無知と驕慢の典型例ですから、上記の菅氏の発言を聞いた瞬間僕は、健全な常識を持つ庶民の一人として、「…タナボタで念願の首相の座に坐れた一人のつまらぬ男が、思わず舞い上がって(筋の通った政策的裏づけはもとより不抜の信念すらないままに)ひどい失言をしちゃったな…」と思ったものでした。
世間の予想外の反発を知るや、果たして菅氏は「近々断行すると言ったわけではない」とか「自民党さんの政策も参考にして」と、忽ち腰砕けになったではありませんか。もし彼がまともな政治家なら、わが国にとって“いま眼前にある危機”の一つである「国債暴落=財政破綻=経済恐慌」を回避するために、(他の緊急政策とともに)消費税引き上げは避けて通れないものであることを、タイミングを見計らい、理を尽くし、あくまで慎重に言葉を選び、情感を込めて…庶民に訴えるべきでした。なぜなら、日本経済を今のように惨憺たる状態にせしめた責任は、いいかげんさで民主党と同レベルかそれ以下の自民党の歴代指導者たちも負うべきだからです。
今回の選挙における得票率は自民も民主も実は高すぎたと、僕は思います。「どちらがより愚かで無責任か」という投票者の空しい選択の結果があの数字になりましたが、健全な常識を持つ庶民の多くは、迷い迷った末に後味の悪い一票を投じたか、結局投票所に足を運ばなかったかのどちらか。今や日本の民主主義は事実上破綻している、と言えないでしょうか。
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2010年7月8日 |
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IT技術は日進月歩。国を問わず少なくとも大都会に住む限り、進歩をつづけるIT技術が生み出した製品やシステムの恩恵に自力であやかろうとすれば、それなりの知的努力を必要とします。ところが知的努力にはそれなりの時間がかかりますから、何と言っても、知的好奇心が旺盛で時間的余裕が十分にある若者が最優位に立つ一方、高い地位にいて年中多忙を極めている高齢者は総じて不利に立たざるを得ません。
大企業の経営者はほぼ例外なく後者の典型ですが、都合の悪いことに、業種業態に関係なく自社にはすでにそれぞれ相当な資金を投じたコンピュータ・システムが稼動しており、しかもIT技術の進歩につれ常にその改良に新規の投資を強いられているのに、専門知識の(相対的)不足から自社のIT投資の効果について評価を下せず、結果として、投資の増大とともに不安や疑念も高まらざるをえないのが実情なのです。
こうした状況はITの本場米国でも同様らしく、したがって、(コンピュータ・システムは企業の成否を左右するほどのものではないから)『ITにお金を使うのはもうお止めなさい』という題名の本(日本版、清川幸美訳、ランダムハウス講談社)が02年に発刊されるや経営書のベストセラーとなり、著者ニコラス・カーの名は経営者の間で広く知れ渡りました。
現在IT技術に関し最大の話題は“クラウド”。カーは近刊のThe Big Switch(日本版、村上彩訳『クラウド化する世界』翔泳社)で、工業化をエネルギー供給面で主導した発・送電システムの発達過程をメタファーに、「企業は近い将来、毎月決まった料金を外部のユーティリティ会社(≒電力会社)に払ってインターネットに接続し、必要情報の供給を壁のソケットを通じて受けるようになる」と巧みに説明しています。 |
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