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2004年6月29日
504 忘れられぬ夜
 僕の人生で今年ほど何回も誕生日を祝ってもらったことはありません。最後は22日夜、楠の大木の茂る広い庭で有名な渋谷のフレンチ・レストラン「マノワール・ディノ」を借り切るという贅沢なパーティでした。率先幹事役をつとめてくれた南部靖之君から「先生のごくごく親しい方々ばかり数十人が集まりますから、22日の夜はあけておいてくださいね…」と前々から言われていたので、子供たち主催の誕生会をわざわざ20日の日曜日に早めたのですが、台風一過の当日は百人を超す各界の友人が集まって座が盛り上がり、正に歓談に時の経過を忘れる思いでした。

 とくに印象的だった光景。参議院選挙戦がたけなわに入ろうとする時期に、竹中・金子両大臣をはじめ自民・民主両党の政治家諸兄約十名がはせ参じてくれたばかりか、得意の弁舌でそれぞれ軽妙なスピーチをほぼし終わった頃、司会の生島ヒロシ君から指名を受けた新宅正明君(日本オラクル社長)はマイクの前に立つや、「今夜は野田先生の最も嫌いな政治家と官僚の方々が大勢集まられまして…」と大声で喋ったではありませんか…。一瞬場内沈黙、一瞬間を置いて爆笑の渦。

 竹中夫人が「最後まで(国会議員になることに)反対しましたが、どうしても立候補するとなった以上は…」と“軍国の妻”を想起させるけなげな健気なスピーチをされた後僕のワイフが司会に促されて立った時は、大丈夫かなと懸念しましたが、彼女意外に泰然自若として、「長い間勝手放題にさせて参りましたので、日ごろは多分皆様にいろいろご迷惑をおかけいたしておることと存じますが、何しろ年はとっても子供のような人なので…」と。手を叩いて喜ぶ参会者たちを前に、さすがの僕もかたなしの楽しい夜が更けていきました。
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2004年6月22日
503 喜寿よ、さらば!
 今日、心身ともに絶好調のうちに満七十七歳。ご承知のごとく、昨年末から今年初めにかけてたてつづけに右手甲打撲と左手首骨折という不運に出逢い、ここ数ヶ月来リハビリに励んできましたが、そのお蔭か先週末茂木(友三郎)君と廻った千葉CC“野田”コース18番ホール(パー5)では、3オン1パットの“偉業”を達成できたほどです。幸い「偶然はこわいですな・・・」と皮肉る“天敵”八鍬(昭)君もおらず、思わぬ吉兆に上々機嫌で“喜寿”に別れを告げました。

 少なくとも今の僕は、まかり間違っても若返りなど願っていません。こう言える理由は少なくとも2つあります。一つは、僕にとって今の自分が青壮年時代はもとより昨年の自分より、知識や判断力や人脈といった全ての社会的能力に勝っていると確信できるからです。その証拠に、このところ僕の心に浮かんだ発想あるいは他人から持ち込まれた新しいプロジェクトに対する戦略的対応は、昔なら到底考えられなかったほど斬新、的確、かつ具体性があり、しばしば面白くて眠るのがもったいないほどのめり込まされるのです。

 今一つは、僕が“あの世”の存在を確信しているからです。両親やこの世で本当に親しんだ友人知人たちの多くがあの世で僕を待ちうけていると思うと、遠くない将来にその人々と再会歓談できるという期待は、死への僕の不安を大いに和らげてくれます。とくに、尊敬する父親から生前折にふれて「お前らしく生きろ!」と言われてきた僕は、あの世で再会した父親に「お父さん、僕らしく生きてきたよ!」と報告できるよう、残された人生を立派に締めくくらねばなりません。母親と並んで、「よかったな」とにっこり笑って握手してくれる父親の顔を見るのが、今の僕の何よりの楽しみです。
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2004年6月16日
502 インドに目を向けよう!
 R.V.Panditといえば、インド内外で知る人ぞ知るビッグネームです。カトリック教の家庭に生まれ育ちながら、若くして独立運動に情熱を存分に燃やした熱血漢。長じては、独立後のインドのジャーナリズムの世界での輝かしい活動成果を背景に政・官・財・学界に大きな影響力を持ち、かつ根っからの親日家として知られてきました。今回の政変で一旦首相に内定したソニア・ガンジーが就任を辞退したのは、「あい次いだガンジー家の悲劇を再現するな・・・」という同氏の切なる助言に彼女が従ったからだと言われていますし、新政権の政策綱領は同氏の考え方に沿ったものだとも言われています。

 先々週から先週にかけてそのパンディット氏が訪中の途次と帰途2回東京に立ち寄ったのに、日本では政・官・財界指導者もマスコミも(知ってか知らずでか)まともな接触があったと思われないことに、僕は大きな驚きと深い懸念を抱いています。そういえば、5月の大統領選挙でバジパイ前政権の「輝くインド」政策が(IT産業の急成長に象徴される)その目覚しい経済的成果にもかかわらず国民大衆によって否定されたという一大ニュースも、日本のマスコミでの扱いは不当に低調だったことが、改めて思い出さされます。

 数年前来日した時、インド・センター代表のビバウ君を交え会食した僕とパンディット氏は、同世代である親近感にも助けられてたちまち意気投合し、今回の東京での短い滞在中にも前後2回も会って歓談の花を咲かせ、友情を一層深めました。経営+情報+法律+会計という分野を対象に目下僕が友人たちと構想を固めつつある専門職大学院でも、僕は同氏を介して是非インドの超一流大学からIT面での全面協力を求め、それを大きな目玉にしていくつもりです。
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2004年6月9日
501 持つべきは“木馬の友”
 ホテルオークラで先週開催された「ナムコ創立50周年」記念パーティーは、創業者である中村雅哉氏の挨拶が参会者に与えた感動の度合いにおいて、実に素晴らしいものでした。

 ナムコの前身(有)中村製作所が東京の池上で発足した昭和30年、同社の社員はわずか3人で、主たる収入と言えば、横浜のデパートの屋上の片隅に頼み頼んだ末に置かせてもらった中古の自動木馬2台だけ。1回5円の料金の累積は170万円強の初年度の売り上げに大きく貢献しましたが、決算の結果は17万円の赤字。あれからちょうど50年後、後身のナムコは連結ベースで売上高1725億円、経常利益144億円、従業員数1万人を超す超優良大企業へと成長したのです。

 同社半世紀の歴史には厳然たる一貫性があります。それは“娯楽の開発”。日本経済が敗戦後の荒廃から立ち直りつつあった時期、貧しい日常生活の中でせめて子供にささやかな喜びの思いをさせたいと切望した多くの親にとって、自動木馬の果たした役割は決して小さなものではありませんでした。しかし、当時の行政は“娯楽”を全く不急不要なものと看做し、銀行の貸し付け信用は屈辱の“丙種”。「こうした不遇の時期にも、自社の事業の意義を疑ったことが無かったから、自分としては惨めな気持ちを抱いたことは一回も無かったし、会社としての足腰は格段に強くなった」と中村氏は毅然!

 来賓の祝詞の際田村能里子さんと一緒にライトを浴びた僕は言いました。「僕は中村さんとは竹馬の友ではありませんが、“木馬”を事業とされていた頃以来敬愛しあう同世代の友人であることを常に誇りにしています。・・・僕にとって一番大切な女友達である能里子さんを紹介したことは、中村さんに対する僕の真からの友情の表れと受け取ってください・・・」と。
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2004年6月3日
500 「千夜千冊」に比べれば・・
 いよいよ6月。僕が喜寿を迎える月の初めに、奇しくも記念すべきRapport―500号をお送りします。500号と言えば、古希を迎えて以来約7年近く毎週書きつづけたことになります。愛読してくれている友人から、そのことを褒められたりすると、連日それなりに激務をこなしながら、病気や怪我ではもちろんのこと長期の海外出張や旅行の際にもRapportの執筆だけは欠かさなかった自分に対し何となく誇りを感ずる一方、僕なら絶対やれそうもないことに挑戦する人たちへの敬意の念も、改めて心の中に湧きあがってきます。

 例えば、知る人ぞ知る当代きっての“文化の語り部”松岡正剛君は、予め天下に宣言して、2000年2月23日から「千夜千冊」という知的荒行をはじめました。古今東西にわたり同君が諸学諸芸の“名著”と信ずる本を毎日一冊とりあげ、毎晩それに対する所感を4000字以上の文章にまとめホームページ「ISIS 立紙篇」上で流すのです。この荒行の成就はいよいよ来月です。七月七日を満願にしたいため、最近は執筆を週3回に抑えた戦略的配慮も心憎いではありませんか。

 物書きにとっては、何を書くにせよ4000字は相当な分量。しかも松岡君は単に物書きではなく、自分の研究所を運営しながら、講演や講義、テレビやラジオへの出演、大小各種各様のプロジェクトの企画・推進・・・などで毎日忙殺される身。それでいて、またこの荒行に挑み、見事成就したわけですから、僕の毎週1回のRapport執筆など問題になりません。最近同君を深く敬愛する各界有志で「連志連衆会」なる中間法人が設立されました。推されて代表理事をつとめることになった僕は、もう一人の代表理事である福原義春氏(資生堂会長)と、同君のため目下壮大な構想を練っているところです。
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2004年5月26日
499 大地の芸術祭
 先々週「ほくほく村」構想のことを書いているうちに、「大地の芸術祭」のことを思い出しました。数年前平山知事が熱っぽくそれを僕に語った時、恥ずかしながら、僕は全く無知でした。

 この芸術祭は、新潟県の内陸部にある6つの市町村の地域活性化を目ざして行われているイベントで、地域内にある集落単位で住民有志がそれぞれに生活に密着した現代アート作品を競い合うものですが、2000年を第1回として3年ごとに開催されるので“アートトリエンナーレ”とも呼ばれています。趣旨に賛同した国内外の有名ないし新進アーティストたちも大勢いろいろなかたちで参加することもあって、芸術家や芸術関連団体のみか、広く芸術鑑賞者の間ですでに評価を確立しています。

 新潟県は、日本海に沿って北東から南西に伸びる細長い県のような印象を持たれていますが、南方の山岳地帯はくびれて相当深く関東側に食い込み、最奥にスキー場として有名な湯沢町があります。東の起点湯沢を出発したほくほく線「はくたか」号は、JRの在来線を真北へ先ず六日町辺りまで走り、そこで進路を一転西にとるや、日本海まで自社の路線上50キロをひた走ります。実はその路線の東半分が大きく横切っている地域こそ「大地の芸術祭」の舞台である「越後妻有地区」です。

 面積が琵琶湖ほどなのに、妻有は低地と高山部の標高差が2000メートルを超し、夏は蒸し暑く冬は豪雪に悩まされるという僻地。知事就任以来この地の活性化を考え考え抜いた末、芸術祭の発想にたどり着くや平山氏は一流を求めて東京の北川フラム氏に総合ディレクターを依頼、この2人のコンビで空前の芸術イベントを推進したのです。この種創造的事業にとって2大障害である「批判勢力」と「無関心層」を克服できた時、芸術祭は県から独り立ちし、地域活性化の真の起爆剤となるでしょう。
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2004年5月19日
498 公務員倫理法撲滅宣言
 多忙を極める安倍さん(自民党幹事長)を励まそうという南部靖之君の呼びかけに応じ、この日曜日の夜数十名の面々が都内某所に集まり、遅くまで歓談の時を過ごしました。この種の会合で冒頭乾杯の音頭役をすることが年毎に多くなった反面、宴たけなわを過ぎた頃ひそかに退出するのも慣わしとなりましたが、当日は珍しく最後まで居残りました。

 というのは、隣が石原信雄(元自治省次官)、児玉幸治(元通産省次官)という錚々たる元官僚だったため、たまたまはじまった「国家公務員倫理法」論議から僕が徐々に血が熱くなって行ったからです。この法律の前身は、厚生省事務次官の収賄事件をきっかけに急遽できた「職員倫理規定」(96年)。その後も公務員の汚職が続出したことから、激昂した世論におもねるお粗末な議員立法が4年前に施行されたのです。

 僕はこの法律は天下の悪法だと信じています。一件5000円を超える接待や贈与の報告とか、幹部には資産や所得の公開とかを義務付けるなどという愚かしい規定は、悪徳官僚には事実上何の制約にもならないどころか、誇りと良識ある官僚の意欲のみか倫理感の低下、更には、彼らの職務遂行にとって絶対必要な行為を不当に制約することが必至だからです。

 現にこの法律施行後も、官僚の汚職は一向に減っていません。前歴にかかわらず僕の周辺の敬愛する友人・知人の間でも、この法律への評価は散々。ならば「・・・この法律の廃止運動を起こすべきだ・・・」と僕が思わず声高に主張した途端、前に座っていた木村剛君が「私が事務局長をやります・・・」と力強い合いの手。早速石原さんと3人で安倍さんを取り囲んで趣旨を説明し、行動開始を宣言しましたが、安倍さんにっこり笑って証拠固めの写真に進んで加わってくれた次第です。
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2004年5月12日
497 NPO法人「ほくほく村」のすすめ
 “三セク”で運営されている鉄道は今や全国で約40社を数えますが、営業成績が総じて芳しくない中にあって断トツの優等生は北越急行(いわゆる「ほくほく線」)。その原因は、同線が一部のJR在来線を借りて湯沢(上越新幹線)と直江津(北陸本線)とを結ぶことにより、東京と富山・金沢など北陸主要都市間の最短列車所要時間(特急「はくたか」利用で東京〜金沢は約4時間)を達成しているからです。ということは、7年後に開通予定の新幹線が長野周りで東京と北陸の主要都市を約3時間〜3時間半で結ぶと、「はくたか」効果を喪失する同社も赤字転落のおそれは十分にあります。

 先週新潟で同社の磯部社長と昼食懇談をした際にも、話題は自然に同社の“いま眼前にある危機”に及びましたが、突然頭に浮かんだ発想を基に僕が提案したのは、NPO法人「ほくほく村」の結成でした。地図で見ると、ほくほく線には六日町から犀潟まで12の駅が一線上で結ばれています。各駅前商店街や集落の所属市町村は違いますが、その命運は全て、所属市町村の盛衰ではなくほくほく線の盛衰にかかっているわけですから、相互の利害は基本的に一致しています。

 近い将来、ほくほく線最大の黒字源は東京〜北陸を結ぶ「はくたか」の乗客が払う運賃ではなく、主に首都圏に住む膨大な数の、かつ消費力に富む人々が沿線各地域を訪れて落としてくれるオカネに移行していくべきです。が、移行は自然的推移ではありません。同じことを考えているたくさんの企業や地方自治体との競争に打ち勝つだけの知恵と努力こそが、輝かしい移行を可能にするのです。「ほくほく村」はその知恵を生み出すシンクタンクの役割を果たすとともに、「面から線へ」という21世紀型自治体の実験モデルになることでしょう。
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2004年4月28日
495・496 “自己責任”論の日本的曖昧さ
 先週主として新聞紙面を賑わせた“自己責任”論は、日本の世論が盛り上がりの割に実りの乏しいものであることを、しみじみ感じさせてくれました。拉致された例の5人の日本人が政府の警告を無視してイラク入りし、結果として起こるべくして起こった事件によって多くの人々を騒ぎに巻き込んだわけですから、被害者に責任がないとは言えません。

 ところが、今回の“自己責任”は、「かかった費用の一部を被害者(ないしその家族)に自弁させるのが筋だ・・・」という与党幹部の愚案に発する矮小な論議でした。彼らの心の中では、「被害者たちはもともと反政府的思想の持ち主だから自業自得だ」という、いかにも小物政治家らしい意地悪さとしみったれた打算が働いたことは自明です。だから、期せずして起こった欧米諸国からの轟々たる非難に対して、情けないことに誰一人何の反論もできなかったではありませんか。

 被害者も被害者です。もし被害者のうちの誰かがごう然と「私は救出など頼んだこともなかった・・・」と呟いてくれたら、論議はもっと別の次元に発展したはずでしたが、帰国するや「・・・世間をお騒がせして申し訳ございません」では、事件は昔からの“あいまいな日本的決着”で終わるしかありません。つまり、政府は(社会的制裁を受け、また非を認めた)被害者への費用の請求を諦める一方、被害者たちは反省して二度とこのような事件を起こさないようにすることでしょう。

 そのうちまた別の事件が起きて、日本人の間では“自己責任”論など忘却の彼方に遠のくはずですが、広く外国人の間では、今回の事件にかかわる政府と被害者の言動によって日本人の不可解さに対する疑念と不信感はますます深まり定着していくこと、この方が遥かに問題のはずなのですが・・・。
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2004年4月21日
494 濃さを増す国家の影

 イラクでの人質騒動は呆気なく終わりました。マスコミの過熱した報道に比し、一般国民の反応はひどく醒めていました。また、被害者の家族や支援者の興奮ぶりと、解放された直後の当の被害者たちの落ち着きぶりとは、奇妙なコントラストでした。要するに、どこか間が抜けた事件だったのです。被害者に対しては、無事を祝福するよりは、無思慮な行為に対し厳しい責任を求めたいのが、僕の率直な気持ちです。

 なぜなら、この事件を契機に、特定国ないし地域への一般人の渡航に国家的規制が強化されることが必至の勢いだからです。かねてから、強い国家権力による“秩序ある社会”を望んでいた人々にとって、今回の事件は絶好の口実となるでしょう。太平洋戦争というバカ高い国民的代償によって転がり込んできた“自由”も“民主”も槿花一朝の夢と消え去る事態が、ぐっと現実味を増してきた昨今ではありませんか。

 例えば、“カラ出張”で公金を浮かしていた警官より、卒業式で国家斉唱を拒否した公立高校教員に重い処分が下され、保険料を納めていなかった女優を大金で国民年金のPRポスターに起用した役人の責任は不問のまま、保険料の未納者にはやがて強制的な手段が取られ、有名政治家の娘の離婚を報じた「週刊文春」が、たった一人の地裁裁判官の判断で、“検閲”まで受けた上発行停止の仮処分に処せられるといった…。

 司法は究極の国家権力ですから、「週刊文春」事件は僕にとってとくにショックでした。一応高裁で逆転はしたものの、日ごろ散々親の七光りを受けている権力者の子女が、いざとなれば“純粋の私人”として法の過保護を受け、庶民は裁判官の勝手な判断で“知る権利”をいとも簡単に奪われる…。いつしか、国家の影は日ごとその濃さを増しつつあります。

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2004年4月14日
493 弔辞―暫し、さようなら

 たみちゃん! 散る桜が目だった先日の夜、君の後輩の秘書たちが集まり、僕のために「喜寿」を祝ってくれました。思いがけず小椋佳君まで仲間入りして、生の歌声をプレゼントしてくれました。あの「シクラメンのかおり」も…。
 目を閉じて甘い小椋君の声を聞きながら僕は、その場にいるべきでいない君のことを当然思い出していました。思いは忽ち四○年前にタイムスリップし、才色兼備の女子学生としてキャンパスでもひと際目立っていた君の颯爽とした姿を、僕はいつしかしみじみと懐かしんでいたのです。
 米国留学から帰国し、赤坂で開設を構想していたオフィスにぴったりな秘書を探していた僕は、ためらいもなく君に声をかけ、異常な熱意を傾け、すでに音楽の道を志していた君の説得に成功したのです。以来十数年のあの時期に僕が人生で最も忙しく働き、そして最も多彩な成果を挙げられたのは、一に君の献身的協力のおかげでした。何時までも忘れません。
 ワイフの後輩だったこともあって、君は最初から僕の家族に馴染み、子供たちはみな幼い頃から君を「たみ姉ちゃん」と呼んで懐いてきました。君はもう長年僕の家族そのものでした。その君が重い病の床に伏した時、僕たち家族は快癒に望みを託して努めて明るく振舞おうと誓い合い、二月には君の病床に集まって、賑やかに君の誕生会までしたのに…。
 たみちゃん! 昨日昇天した君を愛惜してここに集まった僕たちは、「呼び戻すことが 出来るなら ぼくは何を 惜しむだろう」と小椋君がいみじくも表現した未練をまだ断ち切れません。が、長い病苦から解放された君は、今晴れやかな笑顔で、地上にいる僕たちを見守ってくれていることでしょう。それを信じ敢えて言います。「暫し、さようなら」と。

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2004年4月7日
492 ターンアラウンド・マネジメント

 昨日東京でTMA(Turnaround Management Association)日本支部の設立総会が開かれ、推されて僕が初代理事長に就任しました。TMAは事業再生にかかわる専門家(弁護士、公認会計士、税理士、経営コンサルタント、大学教授…)約6700人を会員とする世界最大の団体で、シカゴにある本部の他、米国各州、欧州、豪州などにすでに33の支部があります。

 わが国で“事業再生”というと、「民事再生法」の手続きに入った“死に体”の企業を連想しますが、米国で使われている“ターンアラウンド”の概念は、経営不振に陥った企業の再建とか活性化とかいったもっと前向きな意味を含みます。それらを企画し実行に移すためには、状況に応じて外部の各種専門家の能力投入が不可欠です。しかも、平常時におけるアドヴァイザーやコンサルタントのように、権力を保持している経営者の補佐・助言といったかたちでなく、危機に立つ企業を(少なくとも一時的には経営者に代わって)救うという使命のもと、経験豊かな専門家が(多くの場合チームを組んで)一種の“プロジェクトX”を展開するのです。

 “ターンアラウンド・マネジメント”(TM)が経営手法として開発され普及したのは80年代、ちょうど米国経済が危機に瀕し、バブル景気に奢った日本の経営者が「もはや米国に学ぶものなし」と嘯いた時期でした。90年代に入ると、バブルの崩壊とともに出口の見えぬデフレ不況に陥った日本と対照的に、米国は経済的に逞しく立ち直りました。“米国経済再生の奇跡”にはいろいろな要因が働いていますが、TMの果たした役割は地味ながら産業人の間で高く評価されています。遅まきながら日本は、今こそTMを米国から学び、個々の事業再生の成功率を高めて経済再生の基盤を固めるべきです。

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2004年4月1日
491 公立大学維新は秋田から

 今日から89校の国立大学法人が一斉に新発足します。法人として独立したにもかかわらず、当面(下手をすると永遠に)財政を国家に依存する点で“独立”の名に反するとはいえ、教員は非公務員となり、国立大学時代と違って「教育公務員特例法」を盾に身勝手な行動が許されなくなる反面、不条理な制約から解放される点では、正に画期的な改革です。

 公立大学も非公務員型の“公立大学法人”(=地方独立行政法人)に移行すると思いきや、教育公務員特例法に拠る既得権に異常な執着を持つ教員が多いが故に、全て当面は在来のままでありつづけます。ただし本日、秋田で日本初の公立大学法人「国際教養大学」が発足します。僕は過去5年間、この大学の「創設準備委員会」の委員として、委員長(今日から初代学長)の中嶋嶺雄君に衷心協力してきました。

 6年前、文科省から秋田県副知事として出向中だった板東久美子さんが知事の代理として宮城大学学長室に僕を訪問された時、僕は一足先に県立大学長をした僕自身の苦い体験を率直に話し、公立大学に対し厳しい見解の持ち主であることを了解願った上で委員をお引き受けしました。その後、委員会では僕の意見や提案の多くが基本的に受け入れられ、在来の公立大学とは全く異質な公立大学法人の誕生をみたのです。

 十数名の公募教員採用に対し、建学の理念に共鳴した世界44カ国・地域からの応募者実に446名(内、日本人187名)。専任教員44名中27名が外国人。教員は全員が有期任用で、報酬は実績主義。学生は全授業を英語で受け、在学中の海外留学を義務づけられる。…の数え切れない革新内容は全国的に注目を浴び、初年度一般入試倍率はなんと20倍強。秋田で起った公立大学維新は、必ず全国へ波及すると信じます。

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2004年3月24日
490 頭の中を空にしておかないと・・・

 僕の先週は、何といっても隈研吾君。ある雑誌社の企画で同君と対談の機会があり、本当に久しぶりにコクのある会話のひと時を楽しみました。今や建築界の逸材としてその名は内外に知れわたっていますが、僕が約20年前旅先のニューヨークで偶然出逢った頃の同君は、明らかに“豊かな惑いの季節”の中を彷徨っていた齢30歳の無名の建築家でした。

 後で聞いたところでは、その頃同君はほとんど毎日コロンビア大学の図書館の一隅で、自負と不安、期待と失意、ほとばしる才気と欲求不満・・・に揺れる心を抱いて、20年代のマンハッタン建築の資料を読み漁っていたそうです。誇り高い未完の大器は、溢れる才能を作品の創造に投入することなく、専ら読書と思索とつれづれなる執筆に費消していたのです。若い頃の一時期のコルビジェがそうであったように・・・。

 20年代のマンハッタンと言えば、スカイスクレーパーの形成期。多くの建築家が新奇な高層ビルの建設を競い合った時代。隈君はその様を自分の住んだ80年代のマンハッタンの現状に重ね合わせ、おぞましい“建築的欲望”の終焉を予感し、切に希いました。この“欲望”の自己否定を建築家としての自分の新しい出発点にしよという使命感を胸に勇躍帰国するや、隈君の多彩な活躍の幕が切って落とされたのです。

 その後の同君の活動の成果は、何よりもその間に確立された建築家としての名声が十分裏づけてくれます。が、花形建築家としての同君の最大の特色は“寡作”、いや、少ない作品のほとんど全てが専門家の間で高い評価を受け、数々の受賞に輝いたことなのです。その理由を尋ねた僕に対する同君の答え。「新しい仕事は、頭の中を空にしておいてから取り組まないと・・・」と。なるほど、“忙”とは、心を亡ぼすことか・・・。

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2004年3月17日
489 彼は東大卒の落ちこぼれだろうか

 講演のため仙台へ向う新幹線の時間に余裕があったので、駅構内の本屋へ入って何気なく書棚の本を見ていると、『「東大に入る」ということ 「東大を出る」ということ』という変な題名が目に入り、思わず手にとって立ち読み。折角東大を出たのに、約束されたエリートコースを自ら蹴って納得した人生を生きる三人の若い“東大卒”の手記でした。

 第一章「この日本社会のムナクソワルサ」。先日『蹴りたい背中』の若い主人公の生き様にムナクソワルサを感じたせいか、興味に駆られて購入し、車中で一気に読了。三人で三章構成ですが、ど迫力の点では中島敏氏の第一章がダントツ。何しろ氏は在学中、銀座や六本木の高級クラブに若い美人をホステスに送り込む副業での大成功や、プロボクサーのライセンス取得などで名を成した経歴の持主。単なる商才に富む快男子と思いきや、手記を読み進むと、どうしてどうして…。

 「反抗精神の塊のようなクソガキ」時代から、氏は「日本社会に存在する何かムナクソワルイモノに対して苛立って」いました。こういう少年はぐれ易いのですが、一見識ある両親と祖父母に恵まれた中島少年は、“頂点に立ってからの世直し”こそ正道と思い至るや、超エリートを目指し猛進を開始。

 東大文1から法学部に進学するまでは、自信満々でしたが、公務員試験の受験勉強の最中、氏は(失恋の悩みも重なって)精神的に完全に落ち込み、初志を放棄して退学まで考えます。何とか卒業し電通へ入社したものの、三ヶ月で退社。いま市井に昂然と生きる氏は、自らへの反省を込めつくづく述懐するのです。「(東大に)入学・在学し卒業する人間(の多く)は、現在の社会・教育システムによって、自らの内部の“精神的なもの”や“独自的なもの”を最も奪われた存在」だと。

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2004年3月10日
488 長嶋氏入院について思うこと

 今回の長嶋氏入院に対する各界名士のマスコミでの発言はおしなべて紋切り型。言ってみれば、「信じられません。が、あの方のことですから必ず快癒されるはず。また現職に復帰してほしい…」といった同工異曲で、いたく失望しました。

 家でテレビを視ながらそうつぶやくと、「・・・あなたならどう言うの・・・」と(立教大学で長嶋氏と同期だった)ワイフが聞くので、「・・・年齢や体調のことを慎重に考慮せず長嶋さんを使いまくった関係者の猛省を望むとともに、退院後は(試合現場での監督などという仕事でなく)日本のスポーツ界のご意見番役として活躍なさるべきだ・・・といったとこかね」と。ワイフ憮然と曰く。「だから、あなたは誤解されるのねぇ・・・」と。

 高齢者の体力には個人差が大きいとはいえ、「何でもかんでも長嶋さん・・・」と氏のところへ仕事をもっていき、しかも必要かつ十分なサポート体制さえ整えていなかったことに対してまず徹底的な再検討を加えねばなりませんが、もし僕が長嶋氏の親友なら、快癒した場合、「お前もお前だよ」とまず本人に反省を強いるとともに、オリンピックの日本監督などという(心身ともに負担の重い)地位への復帰など、本人が望んでも懸命に止めることでしょう。それが親友というものです。

 長嶋氏の快癒を切に祈ることは当然として、氏の後任者を探すことは“今、そこにある緊急課題”です。多分関係者はすでに動き始めているはずですが(・・・でなければ、もはや何をか言わん!)、多分長嶋氏自身やご家族に配慮して、ひそかに水面下で事を運び、氏が軽症なら、代行をつけて“総監督”などお願いするといった姑息な“日本的”やり方がとられることでしょう。これほど本来目的の遂行にとって非効率的で、しかも本人にとって残酷なやり方はないと信じますが・・・。

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2004年3月3日
487 グローバル化する医療

 西洋医学では難病指定されている首の疾患にかかり、ここ数年鍼の名医に頼って病状の進行だけは食い止めてきた僕のワイフに、先週ほとんど“奇跡”と言っていいことが起こりました。ひょんなことから目下中国より来日中の気功の最高権威を紹介され、初めは本人も半信半疑らしかったのですが、何と治療を受けたその日から、それまで動かせなかった首の部分が動くようになり、傍目にも歩き方も立ち方も別人のようになってしまったのです。完治したかどうかはまだ約一月後の治療の結果を待たねばなりませんが、とにかく驚きです。

 明治維新以来、西欧的でないものは“前近代的”という名のもとに全て排斥ないし不当に軽視されてきたわが国では、医療の世界も、医学=西洋医学です。ところが、依然この分野の先進国である米国や英国では過去20年来、西欧に未知だった世界各国・各地の伝統的医学や医療を真摯に研究し、学習し、積極的に取り入れようとする動きが医師の間で次第に活発化しています。そのお蔭かここへきてわが国の医学界にも、そうした世界的趨勢に対応する動きが目立ちます。

 1998年末には日本代替・相補・伝統医療連合会議(JACT)が、また2000年末には日本統合医療学会(JIM)が設立され、両機関が今年東京で開いた「第一回国際統合医療専門家会議」の模様は、NHK総合テレビの「クローズアップ現代」で広く全国に紹介されたほどです。両機関の代表は先端医療技術の先駆者として有名な渥美和彦東大名誉教授。実は30年来の親友である僕もJACT発足以来メンバーに名を連ねてきましたが、幼い頃から病気には縁のなかった僕はこれまで会合にすら参加したことがなかったのです。今回のワイフの“奇跡”は、そんな僕にとって、意識革命の決定的契機になるでしょう。

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2004年2月25日
486 欺瞞の地方自治・地方分権

 定職が無くなって3年になるのに、暇にならないどころか、各地へ出向く頻度は一段と高まっています。主として講演で、抑えても年間150回は下りません。テーマはいろいろですが、分野では「企業経営」と「大学問題」と「行政改革」が3本柱です。よほど親しい友人でも、僕が政治家や役人に「行政改革」の講演をする姿は想像できないようですが、公務員としての経験に基づき、しかも専攻の企業経営と対比しながら自由闊達に自論を展開するためか、政治や行政の専門家の無味乾燥な話に食傷気味の人々の間で、反応は上々です。

 今週もこうした講演を2つこなすために、久しぶりに仙台へ行きますが、僕にとって講演は“業”ではなく“使命”ですから、面白さにこだわりつつも、何より情熱を込めて話します。「行政改革」を語れば当然現下の国民的関心事である「市町村合併」や「三位一体の改革」についても触れざるをえませんが、その解説や現状分析はその道の専門家に任せ、僕はその政策を打ち出した政府の集権体質に焦点を絞ります。

 維新直後から「地方分権」とは、集権国家体制を憤る在野の士が空しく叫び続けた理想でした。が、戦後成立した「地方自治法」はその名に背き、公選された地方自治体首長を中央各省大臣の下級機関に位置づけたのです。同時に中央の地方支配の手段として導入された「機関委任事務制度」は、「地方分権一括法」の施行(2000年)によりやっと形式的には消滅したものの、今強引に進められている「市町村合併」や、本来の趣旨を骨抜きにした「三位一体の改革」の実状を見れば、日本国家の集権体質が依然不変であることは明白です。

 政・官癒着の集権的国家体制、これこそ僕の終生の敵!

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2004年2月18日
485 こっちが蹴りたい背中

 「芥川賞」受賞作品が掲載されている「文芸春秋」三月号が贈られてきたので、早速、史上最年少受賞者として評判の綿矢りさ嬢の『蹴りたい背中』から読み始めました。あっという間に読み終えましたが、率直に言って、もし芥川賞受賞作でなかったら、3〜4ページで放り出していたでしょう。

 主人公の女子高生ハツは他人に打解けられない性格のためか、一緒に進学した中学時代からの友人絹代とも何となく疎遠になり、生物実験の時間にも黙々とプリントを細長く千切って紙くずの山をつくりながら顕微鏡の順案を待つといった孤独な少女。彼女はひょんなことから同じ“取り残され”組の男子同級生にな川に惹かれるようになります。といっても、にな川は陰気で風采の上がらぬ上に、典型的なオタクでかつ相当な変態なわけですから、ハツの気持ちは全く“恋”などではなく、“幼い母性本能”の発露とでも言いましょうか。

 いずれにせよ、この作品は登場人物が実質上ハツとにな川と絹代との3人だけで、舞台は学校とにな川の家と、彼がひたすら憧れつづけている売れっ子モデルのオリチャンのライヴ会場…という設計で、しかもストーリーは何の盛り上がりもなく、終始息苦しくなるほどにけだるく展開した後に、ハツが自分の足指の小さな爪を見ているにな川を感じながら「…何食わぬ顔でそっぽを向いたら、はく息が震えた」という意味深な表現で呆気なく終わってしまうのです。

 これが天下の芥川賞かと首をひねりながら、受賞者インタビューを読むと、彼女はこの作品を完成させるのに1年をかけたと知り、首をひねり直しました。同じハイティーンでも、例えば、サッカー界の星と脚光を浴びている高校生の平山相太君なら遥かに話が通じ易そうだな、と勝手に想像しつつ…。

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2004年2月11日
484 水の流れと人の身は・・・

 30〜40年以上も前に僕の秘書を20年間も務めてくれた女性が重病の床にあります。一昨年の冬肺がんの手術を受けて以来容態が思わしくなくて入退院をくりかえし、今も慶応病院に入院中ですが、見舞う度に病みやつれが進んで痛々しいかぎり・・・。ワイフの大学時代の3年後輩である上に、4人の子供たちを幼い頃から可愛がってくれて自然に僕たち家族の一員になりきっていますから、今週日曜の午後はケーキを買ってみんなで彼女の病室に集まり、「ハッピー・バースデイ・・・」を歌いました。歌っているうちに涙がこみ上げてきたので、機嫌よく何食わぬ顔つきを保つことに懸命でした。

 彼女より一回りも年上の僕は、依然として病気一つせず元気に喜寿を迎えられそうですが、昨年来たてつづけに手に大怪我をしたために、周囲からは「いい年をして・・・」とたしなめられるたびに、やや不満です。昨年11月30日夜、香港のヴィクトリア・ピークで“年甲斐もなく”はしゃいで走り回り、段差を踏み外して転倒し右手の甲をひどく打撲。「・・・一瞬ゴルフを思い出して左手をかばった…」などとうそぶいていたところ、先月末講演で仙台に行った折、親しい友人と夕食歓談をした帰路凍っていた青葉通りを横切ろうとして見事に尻餅をつき、病める右手をかばった拍子か左手首を骨折。以来ギブスをばっちりはめられた哀れな姿で街を歩いています。

 以上、今週は極めて個人的な近況報告。別に話題がなかったわけではありませんが、東京の自宅の書斎の窓越しに立春を過ぎて輝かしい陽光が冬枯れの木々に降りそそいでいるのを眺めつつ、つれづれなるままにキーボードを叩いているとこうした文章が出来上がってしまったのです。彼女のことも僕自身のことも、やっぱり、「水の流れと人の身は・・・」ですね。

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2004年2月4日
483 200億円の衝撃

 青色発光ダイオードの発明をめぐって発明者である中村修二氏と特許権を持つ日亜化学工業との間で争われていた訴訟に対し、東京地裁は発明の対価を604億円と算定し、原告の請求額200億円全額を支払うよう会社側に命じました。

 先週金曜の主要紙朝刊はこぞって第一面でそれを大々的に報じ、「衆院における自衛隊のイラク派遣の強行採決」の記事は哀れ片隅に…。後者は国の将来に大きな禍根を残すことになるかも知れぬ重要事とはいえすでに予期されていたのに対し、前者は訴訟そのものに世間的関心がなかっただけに、200億円という金額のニュース価値が実に衝撃的でした。

 一番衝撃を受けたのは全面敗訴した日亜化学工業関係者ではなく、日本産業界主要各社の経営幹部であるに違いありません。なぜなら、この判決が認められれば、“ものつくり大国”日本の企業の最重要未来戦略である“研究開発”の現行の体制それ自身が、根本的に問い直されざるをえないからです。

 いや、問い直されざるをえないのは、企業の研究開発体制を含む在来の“日本的システム”全体のはずです。地方に生まれ育ち、地方の大学を卒業して地方の企業に就職した中村氏は、ただそれだけで、同時代の同分野の技術者なら誰でも夢見る超大課題に取り組むことによって、研究開発の過程ではもちろんのこと、なんと研究開発の成功後も、不条理な苦労と屈辱の数々を経験せざるを得なかったからです。

 同氏の才能と実績を正当に評価し、それにふさわしい地位と処遇を与えたのは米国でした。いまカリフォルニア大学教授として職住とも恵まれた日々を送っている氏にとって、許しがたい相手は、昔勤めていた会社よりも、生まれ育った自分の国の不条理極まる現行の制度・慣行だと、僕は信じます。

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2004年1月28日
482 ディプロマ・ミルズ

 古賀潤一郎氏の学歴詐称は、最近の日本人の知的退廃を端的に示す事件です。同氏は女性スキャンダルで悪名高い山崎拓元自民党幹事長に対する挑戦者として、先回の衆院選挙では最も全国的に注目を浴びた候補者です。苦戦が伝えられていただけに、無理しても経歴に箔をつける必要があったのでしょうが、UCLAでの在籍とかペパーダイン大学卒業という、後日確実にばれるウソを並べ立てた神経が疑われます。

 ウソがばれた後の言動も解せません。「卒業証書は弁護士を通してたしかに受け取った」とか、(学校側が卒業を公式に否定するや)「自分自身で確かめるために渡米して大学関係者に会って話を聞く」とか、全く“恥じの上塗り”というべき言動を取りつづけていますが、その彼を現地取材するために日本からまともなマスコミ各社が驚くほど大勢の記者を送り込んで当該大学関係者にまで愚かしい質問を浴びせている様は、正に「踊る阿呆に見る阿呆…」のポンチ絵です。

 少しでも気の利く選挙参謀なら、米国の似非大学から学位を購入することを氏に勧めたことでしょう。大学設置認可は各州が行う上に総じて取得が容易な米国ですが、中でも容易な州に怪しげな大学を設置し学位を売買する業者(diploma mills)が無数にいるからです。もちろん、これらの似非大学は全米に6つある正規のaccreditation associationsの認定を取得できませんから、政府の補助金の対象にもならず、また学生には公的奨学金の受給資格がありませんし、だいいち学位そのものがまともな人々間では信用の失墜になりますが、有権者の多くに対しては“米国大卒”として十分肩を張れますし、何よりも学歴詐称の指弾を受ける怖れは全くありません。日本の民度は知的には、残念ながらその程度だからです。

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2004年1月21日
481 日本の反知性主義

 多少とも教養のある日本人なら、アメリカの知識人がよく口にするANTI-INTELLECTUALISM(反知性主義)からマッカーシズムを連想するでしょう。しかし、その人が都大路を音声ヴォリュームを最大にして走り回る街宣車の中のアンちゃんを見て“反知性主義”を連想する時、彼の教養の限界は明らかです。そんな恥ずかしい反省を僕に強いたのは、友人の田村哲夫君から最近贈られたリチャード・ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』(田村訳、みすず書房)でした。

 ホーフスタッターは、マッカーシズムをどこの国にも起こりうる一過性の社会的熱病と考えず、米国固有の一大文化的地下水脈が特殊な状況下(当時は、冷戦に危機感を募らせた人々=反知性主義者の共産主義に寛容な知識人に対する反感)で大洪水を起こしたものと解釈しています。ただし氏は、反知性主義そのものを必ずしも否定的には捉えていません。米国でも日本でも、知識人、とくに一流マスコミで発言する知識人の多くは、好んで空疎な反体制的言辞を弄しながら現体制の中で最も恵まれた生活を享受していますが、そういう輩に対して反知性主義は、庶民の立場からある意味では正当なチェック&バランス機能を果たしてきたのです。

 さらに、真摯な知識人は反知性主義の中に潜む正当性を感じとることにより、アメリカ社会に対して知識人が果たすべき本来の役割、例えば単なる批判のための批判でなく、事態解決や改善のための建設的寄与を当然の義務と考えるようになるのです。残念ながらそうした文化的地下水脈を持たないわが国では、頭でっかちの知識人と知性の萌芽もないアンちゃんとの間の社会的距離は大きく、これこそ日本に真の“民主主義”の存立は可能かの疑問を抱かせる最大の原因なのです。

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2004年1月15日
480 日本の希望 日本の脅威

 この表題は申しあげるまでもなく、寺島実郎君の近著『脅威のアメリカ 希望のアメリカ』(岩波書店刊)をもじったものです。これまでの同氏の多くの著書の中では最も薄い本ですが、今後の同氏の人生を左右することになるかもしれない最も重い内容を持つ著作のような気がしてなりません。

 この本の中で同氏は、ブッシュ政権下でのアメリカを、マッカーシズムの時代より遥かに危険な情勢にあると断じました。知米派の著者のことですから、権力の暴走=脅威は「アメリカ社会の復元力の象徴のような」市民運動や、エンジニアリング(総合戦略の設計力)における国際優位などによって破局にはいたらないだろうという希望も述べられていますが、読者への訴求力の点では、“脅威”は断然“希望”を圧倒しています。つまり言論人としての寺島君は本著によって、現在米国(及びそれに完全に追随する日本)を支配する“危険な”権力に対し、“反体制”の意思を明確に宣言したのです。

 昨年末同氏の講演を聴きながら、ある懸念が僕の頭をよぎりました。人口にせよ工業生産力にせよ外交能力にせよ、国際社会の中での自国の存在感がすべて急速に薄れていくという“希望の喪失”によって、日本には“新しい脅威”が増大していく可能性です。具体的には、経済的にも行き詰まり世界各国からもこけにされた日本では、“開き直り”というヤクザ社会風の伝統を基盤に狂信的ナショナリストが政治権力を握り、良識ある日本人を弾圧する一方世界各国からは鼻つまみとなるという最悪のシナリオです。もし、それが現実化するなら、近い将来寺島君には、言論人としての真価が問われる試練が待ち構えます。戦前の日本の狂気を体験した数少ない友人の一人として、その際僕は絶対に同君の側に立つ覚悟です。

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2004年1月1日
478・479 厳しいからこそ生き甲斐のある年

 新年おめでとうございます。90年代に入って以来のわが国は毎年経済的に厳しい新年を迎えてきましたが、今年は経済の先行きのみならず、東京が何時過激派のテロの攻撃目標になってもおかしくないという、空前の厳しい年明けとなりました。しかし小生はあえて「厳しいからこそ生き甲斐のある年」と信じ、各位のご活躍を心からお祈り申し上げます。

 小生は今年ようやく喜寿を迎えます。日本人男性の平均寿命(77.16歳)からして何時死んでもさしておかしくない年齢に達したという強みを活かし、かねてより同志の友人知人と構想を固めてきた大・中・小のプロジェクトをより一層推進していこうと、大いに張り切っている次第です。

 大プロジェクトは、東北の独立を想定し、仙台西口駅前を(首都の表玄関らしく)一新整備すること。中プロジェクトは、東京都心部に床面積約1万m2の夢のような都会型スパを開業させること、小プロジェクトは、東京か仙台の交通至便の場所に、経営+ITの専門職大学院を創設することです。規模の大小はあれども前人未到のプロジェクトであるだけに、完成までにはもちろん幾多の難題が山積しています。

 「生きている間に…」などと考えれば、年齢とかかわりなく“志”などとは無縁なのが人間の運命。だからこそ、未来がどうなるか…という不安より、未来に実現したい…希望に重点を置いて日々を生きることこそ最も人間らしい生き様に違いありません。今年もそれぞれの志を胸に秘め、その実現に希望を託して堂々と生きていこうではありませんか。

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