2003年12月24日 |
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受話器をとると、あの懐かしい…大きい…元気な声。「せんせー、しのぶでーす。昨晩ありがとうございました。どなたも応えてくださらなくて、わたし困ったなあと思いましたが、先生の一声で場内の雰囲気がすっかり変わりました。…関西から帰ったらまたご連絡しまーす。元気くださーい!」。
恒例の佐藤しのぶさんのクリスマス・コンサートは今年も大盛況でしたが、何と言っても話題は彼女が歌ったシャンソン数曲。それも曲目が「オー シャンゼリーゼ」などポピュラーなものばかりだったこともあって場内が盛り上がった時、突然しのぶちゃんがマイクを手に観客席に降りてきました。前列の客から次々にしり込みされた後、僕たち夫婦を目ざとく見つけた彼女がにっこり差し出したマイクに僕がすかさず「ステキ…」と叫ぶと、幸い場内はどっと沸きました。
しのぶちゃん+ご主人の現田茂夫君と僕たち夫婦との仲はもう何年になるのでしょうか。最初に知り合った時、彼女はすでに「日本が生んだ世界的プリマドンナ…」と称せられる存在でしたが、あの大きく元気な声は、明るく伸びやかな態度とともに以来全く変わっていません。もちろん僕たちに対してだけでなく、しのぶちゃんは周りの誰にでも同じように接し、みんなに元気を与えてきてくれたはずです。
その彼女から「…元気くださーい!」と言われた途端、僕の気分は満悦状態…。受話器を置いたあとも、心はいつまでも高揚していました。あの朝彼女は僕に、最高のクリスマス・プレゼントを贈ってくれたのです。嫌な事件が国内外にこれだけ頻発すれば、人の心が憂鬱になるのは当然ですが、だからこそわれわれは彼女のように、折に触れて友人知人に温かい心のプレゼントを届けることを心がけましょう。 |
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2003年12月17日 |
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フセインは捕まっても、自衛隊のイラク派遣は合憲か…大義に適うか…隊員の安全は…といった議論だけ延々とつづいています。多くの国にとって平和とは、守るべきものを守るために血を流して獲ちえたものとして歴史的に戦争と重なる“重い現実”ですが、戦後の日本人にとって平和とは、敗戦の結果として与えられた“軽い状況”です。それに多少理屈をつけた現憲法が、占領軍の強力な指導のもとそそくさと公布されたことも否定できぬ事実…。ですから、至上価値だったはずの“平和”も、いざそのために血を流すか否かの現実に直面するや“束の間の虚構”であったことがようやく露呈され、日本は今や百家争鳴の社会的崩壊状態と言っていいでしょう。
トルストイの『戦争と平和』が思い出されます。この大作の背景はナポレオンの侵攻によって衝撃を受けるロシアの貴族社会ですから、主人公のほとんどは豊かさと長い平和の中でやんごとない生活を送っていた人々。若い頃それを読んだ僕の印象に残っているのは、主人公の一人が戦傷を負って大空を見上げた時とか、もう一人が捕虜として苦しい行軍を強いられていた時に、それぞれに天啓のように感じた“悟り”です。この世の富とか権力とか野心とか栄華とか…貴族社会で至上価値とされていたものの空しさに目覚めたのです。
紛争地に行く自衛隊員も報復テロを懸念する一般国民も、これまでの長い暖衣飽食の生活だけは失いたくないと改めて感じていることでしょう。が、予期される最悪の事態が発生した時、日本人は“戦争”とは何かを再び思い知らされるとともに、“平和”とは「戦争はやめましょう!」と叫べば維持されるほど生易しいものでないことも思い知るはずです。日本人には今、「平和とは何か」が真剣に問われているのです。 |
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2003年12月10日 |
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『Japan as No.1』の著者として広く知られているエズラ・ヴォーゲル(ハーバード大学教授)と僕との交友はもうほとんど半世紀に及んでいます。僕が1960〜62年にMITのフェローとしてボストンに住んでいた頃、年齢も近かった上にお互い新婚時代だったこともあってワイフを含めての交友が深まった結果、ほとんど毎週のようにお互いEz!・Kaz!と呼び合いながら会食や歓談を楽しむ親しい仲になりました。
彼は人柄が抜群ですから、ハーバードへ留学した日本人学生とハーバードの学生で日本への留学を希望する米国人の多くが、彼の世話になったはずです。彼の配慮は行き届いていて、例えば米国人の教え子の関心が産業とか経営ですと、所属先がどこであろうと必ず僕に世話と指導を頼んできます。お蔭で僕には過去40年来、優秀な米国人の教え子が続々生まれることになりました。日本人と違って米国人教え子は、卒業後の活躍の場を積極的に海外に求めます。例えば、先週香港で僕を楽しみに待っていたエミリー・パーカーも、帰国してハーバードの大学院を卒業するや、WALL STREET JOURNAL社に入社し、志願して香港駐在となったのです。
別れ際彼女から「先生の講義を思い出しつつ書きました…」と渡されたASIAN WALL STREET JOURNAL紙(10月15日号)の論説「Japan Can’t Afford to Be an‘Island’Nation」をホテルの自室で読みながら、僕は暫し教師冥利に浸りました。帰国した僕を待ち構えていたのは、何と来日中のEz…。エミリーのことを僕から聞いてニコニコしながら、彼はふっと「Kaz、松下村塾のような学校をつくって、日米の架け橋にしたいね…」と漏らしました。素晴らしい発想!彼こそ適任! われわれは絶対にそれを実現させねばなりません! |
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2003年12月5日 |
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孫正義君と南部靖之君は傍目で微笑ましいほどの親友同士。もう四半世紀も昔に僕を介して知り合ったためか、僕はよく人から両君の比較人物寸評を求められますが、その度に「類い稀な秀才と奇才」と答えます。「奇才とは…?」という質問に僕が「奇才の奇は好奇心の奇です…」と答えると、相手が何となく納得できない顔をして黙ってしまうのは愉快です。
「産業界に孫君ほどの秀才を見つけるのと南部君ほどの奇才を見つけるのとどちらが難しいか?」と問われると、僕は迷わず答えるでしょう。「もちろん奇才の方ですよ」と。日本では最近子供でも好奇心を失ってしまいますが、齢50歳を超えてもいささかも衰えを見せぬのみかますます“スケール・アップ”する南部君の奇想天外は、僕さえ巻き込む勢いです。
いま南部君が夢中になっているプロジェクトも、最初は「冗談にも程がある…」と冷たくあしらったのに、いつしか喜寿も近い僕が逆に積極的に片棒を担ぐ始末。南部君に誘われるままに先週から今週にかけて香港を電撃視察してきたのも、元はと言えばそのプロジェクトのためです。北京政府のきつい統制下に置かれた香港、この春のSARS禍で大きな経済的打撃を受けた香港…十数年ぶりに訪れる香港に対して抱いていた僕の懸念は見事に吹っ飛びました。
香港! ダウンタウンのあの独特の喧騒はもちろん、THE PENINSULAの風格も、レパルス・ベイの“慕情”も、サイクンの海鮮料理の味も全く変わっていませんが、それでいて、街行く人々の服装や表情も、超モダンなホテルも、高層アパートの林立も、夜を彩る豪華絢爛なイルミネーションも僕の心を奪い去りました。誰よりも香港を愛する南部君は今では日本の“香港化”を夢見ています。そして僕もいつしかその気に…。 |
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2003年11月27日 |
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先週金曜、文部科学省は全国66大学の法科大学院の開設を認可しました。が、難関の司法試験の合格率の高さで広く知られている(株)「伊藤塾」(東京・渋谷)と組んだ龍谷大学は、不可でした。その提携が不可の原因だとする新聞の解説を読んだ途端、僕の心に蘇ってきた思い出がありました。
先月末新聞の夕刊が「株式会社形態の学校の設立を政府が構造改革特区で認めた…」と一斉に報じた日の翌日、僕は毎日新聞社主催の「大学改革」セミナーで基調講演をしました。その際、同じく講師だった文部科学省の審議官にその話を持ち出すと、彼は言いにくげに「…ええっと、あれは設立申請を認めただけでして…」と言ったのです。呆れました。学校設立の申請は文部科学省にするわけですから、同省が「ノー」と言えば、株式会社立学校は認められないのです。
今や天下周知の高収益企業であるトヨタの役員・社員の所得や社内経費の使い方を知るだけで、営利は“私利私欲”の対極にあることは誰にも分かるはずです。トヨタだけでなく国内外のまともな企業は、それぞれに高邁な企業目的と経営理念を掲げていますが、利益とは、それを実現するために絶対必要な条件に過ぎないのです。今日、まともな企業の営利活動には、それなりの倫理性があるというべきです。
したがって、現行の日本政府や地方自治体をはじめあらゆる“公”的機関が国民の税金を浪費しながら赤字まで垂れ流している現状において、「研究や教育は“公”のやること。営利法人にはまかせられない」という文部科学省の見解は、営利に対する幼稚な偏見であるとともに、“非営利”に対する全く愚かな幻想にすぎません。果たして“非営利”には、どんな倫理的根拠があるというのでしょうか。。 |
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2003年11月19日 |
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入社数年後さっさと脱サラした僕の3男は、結婚披露宴など催事の企画・運営を兼ねた新業態のレストラン業を起こしました。あれから早くも10年。店は全国の主要都市に毎年1店のペースで増えて、やっと年商50億円の中堅企業。比較的スローな出店ペースで、一つの店が完全に立ち上がるごとに人材・信用・ノウハウ等を着実に蓄積させていった結果といえますが、忘れてならないのは、彼の幅広い交際の予期せぬ結果である第三者からの“機会”の提供です。
現在彼の事業の中核となっている東京広尾の「羽澤ガーデン」と京都木屋町の「The River Oriental」も、そういう“機会”の産物。前者は戦後久しく料亭として使われていた戦前の満鉄総裁の邸、後者は夏の“床”で有名な加茂川べり最大級の木造4階建の料亭「鮒鶴」でした。ともに大正期に建てられ、建物の老朽化とともに営業が行きづまった物件を友人が彼に「やらないか・・・」と勧めてくれたものです。彼はこれらの建物を大改装して“東南アジア風”を基調としたレトロ調の洗練された空間とし、リーズナブルな料金で誰もが食事と会話の時を楽しめるレストランに再生させました。
その彼に昨年また、友人を通して、京都東山の高台寺前にある「旧竹内栖鳳邸」転用の話がオーナーからあり、1年半の工事を経て今月7日に「The Garden Oriental」としてオープンしました。何しろ京都への観光客なら必ず立ち寄る(清水寺への)二年坂・三年坂入り口にある1300坪の由緒ある大邸宅。その視察を兼ねて、この日・月・火曜の三日間、ワイフと京都へ。先日オーストラリア行きをドタキャンした南部靖之君も週末には深沢旬子さんら賑やかな女性達を誘って合流し、大勢で古都の晩秋を心ゆくまで楽しみました。 |
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2003年11月12日 |
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6日夕刻シドニーから帰国し、翌日午後東京から仙台へ。3週間ぶりの帰仙を待っていてくれた友人3人と夕食歓談。8日は別の友人と2人で早朝からスルーで名取GCで軽くワン・ラウンドを回ったあと、迎えの車で気仙沼へ。夜は懐かしいこの地の知人十数人が、フカヒレ寿司で有名な「旭寿司」で僕のために歓迎会。料理良し、地酒良し、人情さらに良し。
9日はホテル「望洋」にて終日「野田一夫地域経営塾」。2年半前僕が宮城大学長を退任の報を聞くや、鈴木気仙沼市長は県内3市6町の首長一同と浅野知事に面会を求め、僕の退任を慰留するよう嘆願書まで提出しました。退任の意志が固いと知った鈴木市長から僕に提案されたのが、上記私塾の開設でした。何と男冥利に尽きる友情! 塾長就任を快諾した僕は、市長が選んだ塾生市民に講義するために、毎年春秋二回喜んで気仙沼を訪れるようになったのです。
毎回一流ゲストを迎えますが、今回のゲストは『森は海の恋人』(文芸春秋社刊)の著者として一躍全国に名を馳せられた畠山重篤氏。流麗な文章にもかかわらず氏は単なる作家ではなく、40年の経験をもつ牡蠣養殖業者。父祖が元々山林業を営んでおられたことから、若くして養殖を始めるや、氏は森と海の密接な生態関係に関心を抱き、独自の方法で研究を進め、現在では牡蠣養殖のために(というより海の動植物の健全な生育のために)河川上流域での落葉広葉樹の植林運動に精力的に取り組む注目のエコロジストなのです。
京都大学は地球環境の総合的な科学研究を進める目的で、最近学内に「フィールド科学教育研究センター」を設立しました。先週7日行われた創設記念シンポジウムでの基調講演の講師は畠山氏、そのテーマも「森は海の恋人」でした。 |
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2003年11月6日 |
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ジャカランダの便りに誘われて、早春のオーストラリアへ。先週金曜朝、7回目5年ぶりにシドニー空港へ到着。清水祐子・かほる姉妹がにこやかに出迎え。姉は僕の(財)日本総合研究所理事長時代に、チーフリー・タワー(シドニー湾頭に建つ南半球一美しい超高層ビル)の開発プロジェクトのため十年間松下グループに出向してシドニーに在住。妹はナチュラル・セラピーの勉強のため数年来シドニーに留学中。
今回は目下“アグリ・ビジネス”に首ったけの南部靖之君も同行予定でしたが、急用で断念したため僕だけの独り旅。しかし旅程は変えず、到着するや否や待機中のヘリに飛び乗り、午前はブルー・マウンティンズ(シドニーの西にある有名な観光地)、午後はハンター・ヴァレー(シドニーの北にある有名なワインの里)への強行日程が始まりました。折り悪しく、強風強雨の最悪の天候で、時にベテランのパイロットも尻込みするほどでしたが、隣に座った僕が終始激励するという、実にスリルにとんだ初日でした。
街づくりそのものが洗練されている上に、美しい海と豊かな緑がその魅力を引き立ててやまないシドニー。今回約一週間、西、北、南へと周辺に足を伸ばしてみての感想は一言。「これぞ、税金を払って住む価値のある最高の都市!」
ブルー・マウンティンズは、一部が世界遺産になっているだけに天下の絶景。この地を愛する人々によってつくられた高原都市でもある。各家庭がそれぞれにガーデニングを競うかのごとく沿道の景観はみごと。特にフラワー・フェスティヴァル中は圧巻。ハンター・ヴァレーは、オーストラリア・ワインの発生地から自然に形成された一大ワイン・リゾート。ナパ・ヴァレーのような華やかさはないが、リゾート地としての質感は一流。サザン・ハイランドは、広大な放牧地を背景に、多くの牧場主たちのリッチなカントリー・ライフが特徴的。その生活の一端を体験したければ、僕の2泊したホテル「ミルトン・パーク」が絶対のお薦め。 |
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2003年10月29日 |
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去る24日政府は、構造改革特区で株式会社形態の学校設置を認めるよう求めていた3地方公共団体(東京都千代田区、大阪市、岡山県御津町)に対し、その申請を認めました。教育界ではこれは画期的な出来事です。これまで文部科学省は、「営利目的の企業は公の性質を持つ“教育”を担うべきでない」とかたくなに反対しつづけてきていたからです。
この理由は、一般国民には通用しません。僕も4年間地方公務員をしてみて痛感しましたが、役人は一般に、“利益”というものに対し幼稚な固定観念を抱いています。営利を私利私欲と混同しているのです。例えばトヨタは毎年膨大な利益を計上する会社ですが、その経費支出は堅実無比で、社員はもとより役員の報酬も実につつましいもの。まともな会社は例外なく高邁な理念を掲げて活動しており、営利は究極目的ではなく、その目的達成のため絶対必要な条件にすぎません。
役人はどうでしょう。中央官庁から都道府県にいたるまで、傘下にある数え切れないほどの天下り先特殊法人や外郭機関を含めて、明治以来と言っていいほど時代遅れの考え方と制度に基づいてつくられる毎年の予算を、およそ「費用対効果」など気にもせずに日々費消し、しかも気の遠くなるような累積債務を更に増大しつづけています。彼らには国民の支払った税金に対する責任感が全く欠落しているのです。
同じ24日の夕刊は、東京の区立小学校教諭が児童に対する強姦未遂容疑で逮捕されたと報じました。教員のわいせつ事件は昨今ザラですが、逮捕者のほとんどは国・公立学校教員です。一方、私立学校も“公”益法人立で株式会社に比し、多くの公的特権を享受しています。こんな状況で、学校教育は一体なぜ“公”に独占される理由があるのでしょうか? |
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2003年10月22日 |
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政治権力を振りかざして公務員のクビを無理に切ることが現行法上不可能であることから、「藤井総裁が開き直れば事態の紛糾は必至」という先号の僕の読みは、不幸にして的中しそうです。本来なら多分今頃は、自民党の“大ボス”と言われる輩があの手この手を使って水面下で嬉しげにうごめいているはずですが、小泉首相はこれまでほとんどの大ボスに散々不義理をしてきた上に、政界は目下選挙戦で与野党の議員とも他人のことなどかまっておれない状況…というわけで、藤井問題の急転直下一挙解決はまず望み薄です。
そんなことは十分予測可能なはずなのに、つい先々週までマスコミは、“悪代官説”に立脚してこぞって藤井解任を煽り立てていました。実は藤井氏が居直る腹を決めたのは、この悪代官説だったと信じます。石原国交相に辞表を提出すれば、世論を喜ばせ石原氏の名を高めて決着はついたでしょうが、藤井氏の名は“平成の悪代官”として歴史に刻まれます。これは(その真意はともかく)「薩摩出身で、地位には未練は無いが、名誉は何としても守りぬく」と豪語する藤井氏にとっては、死にきれないほど最悪の選択。「たとえ裁判に訴えてでも…」という窮地まで追い込んだことで、石原氏もマスコミも窮鼠と化した藤井氏に鋭く噛まれたかたちです。
藤井氏と対照的に、突然辞任を申し出て全マスコミによる愛惜の嵐を巻き起こしたのは、阪神タイガースの星野監督。「人間にとって大切なのは引き際…」という言葉は余りにありきたりですが、藤井氏の退任問題だけでなく中曽根・宮沢両長老政治家の引退問題で世間がしらけきっている時だけに、ひと際新鮮なニュース。周辺の慰留に動かされることなく、男の花道を悠々と去っていく美学を貫いてほしいものです。 |
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2003年10月15日 |
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道路公団藤井総裁の問題がくすぶっています。親藤井の扇国土交通相を長く不問にしておいて、更迭後は後任に反藤井の石原氏を起用した小泉首相の狡さに嫌気を感じつつ、僕は今日の事態を予想しました。首相は自分が直接の加害者にならずに済むと踏んだのでしょうが、古手のボス官僚藤井氏を政治力で簡単にクビにできると考えたのは誤算でした。
悲しいかな、首相は若くして父親の政治地盤を受け継いだ二代目で、“組織人”の経験がなく、ましてや、戦後に官僚が自分たちの保身のために考え考え抜いて創りあげた制度・慣習の恐るべきねちっこさなど分かっていないようです。かく言う僕も、県立大学長という名の公務員を経験するまで、官僚組織特有の体質や官僚独特の価値観などには無知でした。
公務員という意識のなかっただけに、学長に就任するや否や僕は、県の不条理な制度や慣習を、いや時には県政そのものを公然と批判しはじめました。途端に県幹部の僕に対する態度は豹変しました。が、僕の場合は折りあるごとに、「ばかばかしいから辞めたい」旨申し入れましたから、逆に当局は、僕に何の制裁も加えられなかったのでしょう。
そういう意味で、藤井総裁を批判して左遷された片桐幸雄氏や、小泉首相のイラク政策に反対しつづけた結果レバノン大使を(退職の形で)解任された天木直人氏は、僕とは大違い。プロパー官僚のお二人は、自らの言動がもたらす事態を十分予知しつつ“正義”を世に問い、しかも不当な制裁に対して“開き直る”ことさえ潔く自制したのです。宮城県では、女子学生へのわいせつ行為で懲戒免職された大学教授の不服申し立て審査が延々と続いていますが、願わくは、藤井氏の官僚的開き直りがかくも愚かしい事態に至らぬことを・・・。 |
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2003年10月8日 |
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思いがけない出来事で、楽しみにしていたワイフとの今年のヨーロッパ旅行を断念したため、先週は終始東京に留まり、旧友を呼び出して会食歓談したり、興味にまかせて本を読み漁ったり、久しぶりにゆったりした一週間を過ごしました。いやそれのみか、最近稀にみる貴重な知的衝撃までも…。
赤坂にある僕のオフィスには毎日沢山の郵便物が届きますが、僕が東京にいる時間が限られてきた上にいつも時間に追いかけられているため、開封さえできないものも少なからず出てきます。だが、先週僕はほとんど毎日オフィスへ行き、全ての郵便物に目を通しました。その一つが国際交流基金日米センターの 機関紙「NEWSLETTER」夏季号。
何気なくページを開いた時、「東洋人と西洋人の法意識」という小論の表題が僕の目を惹きました。筆者は加藤雅信氏(名古屋大学大学院法学研究科教授)。日米センターから研究助成を受けて3年間にわたって実施された日・米・中三国の国際比較調査の所見を随筆風にまとめた一文です。
「友人間での貸金返還訴訟に躊躇を示す割合が最も高かったのは米国人、最も低かったのは日本人」といった意外な所見などを挙げながら、結論として同氏は「米国人の訴訟好き」が日本人の偏見に近いとともに、法意識に関する限り、日・中間の距離は日・米間より近くはないと述べておられます。
僕が大学院時代親しく接した川島武宜先生のことを加藤氏も触れていますが、先生の名著『日本人の法意識』の骨子は、日本人の契約観念が欧米人に比べて前近代的だということに尽きます。加藤氏の一文を読みながら、「果たして川島説が観念論だったのか、それとも戦後の日本人の意識が大きく変わってしまったのか…」と大いに考え込まされた次第です。 |
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2003年10月1日 |
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「現代研究会」は僕の親しいそして古い友人経営者たちでつくる会です。先週金曜日は場所を定例の「シティークラブ・オブ・東京」からホテル・オークラの「ラ・ベルエポック」に移して昼食懇談会を開きました。が、いつもどおり和気藹々ではじまった会は、後半は思いがけず固い雰囲気の議論の場となってしまい、折角の料理も無惨や台無し。嗚呼!
原因は明確で、話題が「天皇」に及んだことでした。多分日本人の大部分がそうであるように、天皇は日常的な存在ではありません。戦前は(現人神として)「神聖にして侵すべからざる存在」でしたから当然として、戦後(自ら「人間宣言」をされて)「国家の象徴」となられてからも、一般国民からの社会的距離はそれほど縮まったとは到底思えません。日本人はそれぞれの天皇像を勝手に心に抱き、無意識のうちにそれにひどくこだわる結果、他人の天皇像には狭量となります。
日本の歴史は、各時代の権力者の天皇擁立の歴史です。個人的にはどんなに天皇に崇敬の念を抱いていても、天皇を擁立している権力に抗する者は全て“逆賊”の名を冠せられて攻撃の対象となりました。その際、天皇に近い権力者は非情なほど狡知に長け、一方手を下す末端の部下たちは狂信的な天皇崇拝者たちであるという構図は、最悪の時代です
あの日も、天皇に間近く接し相当時間親しくお話をした経験の持ち主は、僕だけだったはずです。「これほど穏やかな方はいない」という天皇像が、敬愛の念とともに以来僕の心に定着しています。同時に僕の心には、天皇の「人を疑われることなどありえないないほどの穏やかさ」に対する深い懸念も定着しました。日本社会の息苦しさの根源は天皇を殊更にタブー視することにあるように思えてなりません。 |
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2003年9月24日 |
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何かにつけて有名人を叩く軟派マスコミの注目を浴びながら、なぜか常にその攻撃の外に置かれがちな人物がいます。すぐ心に浮かぶのはビートたけし、長嶋茂雄、石原慎太郎の三氏。それぞれ若くして芸能・スポーツ・文学の世界で出色の実績を示したわけですが、彼らに匹敵する実績の持ち主は多数いても同じようには遇せられないところを見ると、やはり圧倒的に大衆受けのする天賦の性格の故でしょう。
彼らの実績を僕は誰よりも高く評価しています。ただし、人物は好きになれません。輝かしい実績に無意識のうちに舞い上がってしまったのか、あるいは取り巻きがどうしようもなく甘やかせてしまったのか、自分の分野以外の事柄に対するずっこけ発言を乱発し、大衆受けしたことによって、反省や自戒の気持ちを完全に失ってしまったように思えます。
それでも、たけし・長嶋両氏の場合は活動の範囲が芸能とスポーツに限られていますから、ずっこけ発言は“お笑い”で済みますが、石原氏となると、文壇を飛び出し久しく“権力の座”にいるわけですから、ずっこけ発言は必ず“暴言”として深刻な社会的、時に国際的波紋を広げることは、最近の“テロ容認”発言などでご存知の通りです。
その意味で、同氏の大衆的人気は、日本が再び破滅に導かれていく可能性と常に同居しているのです。この危険な人物の素性を徹底的に探った本、『てっぺん野郎』が最近講談社から発刊されました。題名はきわもの風ですが、ノンフィクション作家としては当代一流の佐野真一氏の力作で、読み応えは抜群。「才たけた湘南の我がまま息子」という世俗的イメージに幻惑される限り、石原氏のただならぬ“夜郎自大”性は理解できないことを、本書は存分に教えてくれます。 |
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2003年9月17日 |
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阪神タイガースが遂に18年ぶりの優勝! テレビが星野監督の胴上げを放送した時、僕はむしろ球場を埋め尽くしたファンの大歓声に感激しました。阪神が広島から劇的勝利を収めたのは2時間前…。彼らはその間横浜でのヤクルト・横浜戦の結果をじっと待ち続けていたわけです。その夜道頓堀に自然に群れ集まった恐るべき数の人、人。関西の街という街で未明までつづいた大衆の熱狂と「六甲おろし」の大合唱…。
“虎キチ”とはよくぞ言ったもの、僕も彼らに劣らぬ虎キチ。それも65年を超す…。関西と無関係な僕ですが、子供の頃叔父に連れられはじめてプロ野球を観た時、敵方であったにもかかわらず、当時は“ダイナマイト打線”と名をはせた“若トラ”のど迫力に魅せられ、たちまちファンになってしまったのです。しかし、戦後若トラが“ダメ虎”化したおかげで、僕はどれほど多くの空しい時間を費やし、何とも言えぬ不安、苛立ち、失望…あらゆる不快感を味わったことでしょうか。
万年下位の例年はもちろんのこと、85年の優勝の年も今年も同じです。お手元の辞典で「はんしん」をお引き下さい。「阪神タイガース」など見当たらない代わりに、まず目立つのは「半信半疑」と「半身不随」のみ。つまり、「強いか弱いかさっぱり分からん」と「投手と打者の出来がまるでチグハグ」という体質は、名が背負ったこの球団の宿命と言えます…。
余りの不甲斐なさに、もちろん幾度も見捨てようと決意しましたが果たせず、結局最近は、「この疫病神こそ(人生のままならぬことを戒める)僕の守護神」と自分に言い聞かせるのみ…。つらつら人生を振り返り、ほぼあらゆる点でうまくいったと思っている僕なのに、悔いが残るのは唯一つ。阪神タイガースのファンになってしまったこと…。嗚呼! |
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2003年9月10日 |
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国立大学の一斉独立行政法人化を控え、わが国マスコミでは、再び「大学改革」論が花盛り。そのあおりを食って、もう現役を離れて数年にもなる僕にまで引きも切らず講演や取材や出演や執筆の依頼があります。講演や取材や出演はその場で済みますが、原稿の執筆となるとそうはいきません。“戦前派”の悲しい性で、ライターをつけてくれるといっても、あとの訂正や補筆の手間を考えて自分でワープロを叩く方を選んでは、“原稿の役”で苦闘を重ねてしまうのです。
この夏のその成果は、近く自由国民社と朝日新聞社から相次いで出版される本の一章を飾りますが、『学長の職責』というタイトルの後者は、『大学改革は教員改革』の前者に比べ分量では十分の一程度なのに、苦労の実感では前者以上でした。信じられないほど限られた字数の中に、必要最小限の内容を盛り込む苦心が未だに忘れられないのです。それに比べると、後者は字数の上だけでなく時間的にも余裕があったせいか、ひたすら出版を楽しみにしておれます。
後者では、今日の大学改革論の錯誤を強調しました。「大学改革」が国民的課題となってからすでに十数年は経っています。当初は、過剰な研究者意識に起因する「ダメ教員」と卒業だけを目的とする「ダメ学生」、つまり、「大学の“レジャーランド化”=わが国高等教育の危機」の克服に大学改革の焦点がありました。だが昨今は、曰く「大学ベンチャー」、「ロースクール」、「トップ・サーティーズ」、「TLO」…、要は、意欲のある教員でいかに大学の収入を増やすかが論議の焦点です。数知れない無能無気力の教員の存在によって大学に失望し向学心を失っていく多数の若者、これこそ日本の大学にとって、不朽の改革課題に他ならないと信じて疑いません。 |
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2003年9月1日 |
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大学での講義といったものを別にしていわゆる講演となると、僕の場合現役を退いたここ数年でも回数にして年150回程度、相当な頻度だと我ながら感心しています。大会場で千人を超す聴衆を相手の講演となると、回数は多くありませんが、そんな時には、壇上に立った瞬間血湧き肉踊り、マイクを握って大声で喋り始めると、一種の陶酔感に駆られることはしばしばです。多分政治家はこの陶酔感が忘れられず、政治の世界から足が拭えなくなってしまうのだと、ひそかに推察するゆえんです。
先週金曜午前は有楽町の東京国際フォーラムで開催された「ITC Conference 2003」で、全国から集まったITコーディネータの方々に『日本的経営と知』というテーマで基調講演をしました。主催団体であるITC協会の会長河野俊二(前東京海上会長)、今回の会合の実行委員長高梨智弘(日本総合研究所理事)両君はともに長く親しい友人なので、責任を感じただけでなく、久しぶりに約千人の聴衆を前にしたために、壇上でまた血湧き肉踊り、喋り終わった時の達成感は一入でした。
ところで、現在わが国の情報サービス産業の売上げ規模は10兆円強ですが、地域別にみると東北は2,500億円弱で、比率にして2.3%。当日協会から頂戴した資料によると、現在ITコーディネータの有資格者は全国に(コーディネータ補1,083名を含め)3,509名、そのうち東北の比率は2.5%。当然とはいえ、二つの統計数字は東北がわが国のIT後進地域であることをはっきり示してくれます。しかも情報産業の売上高を一従業員ないし一事業所当りで比較すると、東北の劣位は更に決定的です。
が、ITコーディネータの関東集中度63%というのも異常な現実。そこで僕は、東京と1時間半で直結している仙台を“鶏口”的情報サービス拠点とすべく、目下戦略を練っています。 |
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2003年8月26日 |
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梅雨明けとも台風一過とも無縁にひたすら太陽から遠ざけられつづけた、日本人にとってまことに散々な夏もはや終わりに近づきました。が、講演の比較的少ない盆休み前後の2週間に大小4つの原稿を引き受けていた僕にとっては、この異常な悪天候は仕事の効率を上げるのには大いに役立ちました。おかげで仕事の合間に四国に飛んでワイフと阿波踊りを見物したり、東京ドームの大観衆に交じって息子と阪神―巨人戦を観戦したり、遊びの面でも結構収穫があったのです。
それに、天は我に味方してくれたのか、今年の阿波踊り5日間のうち雨の降らなかった最初の2日間だけが僕の徳島滞在日でしたし、阪神―巨人3連戦のうち僕が張り切って出かけた16日の夜だけ、昨今不調の阪神が宿敵巨人に完勝して僕の溜飲を下げてくれました。逝く夏を振り返る時、粋な着物にみの笠を深々とかぶってしなやかにあでやかに舞う女性たちの姿や、野次にもピンチにもいささかも動ずることなく巨人の中軸打者をばったばったと三振にとった若き阪神のエース井川の凛々しい風貌が、今も僕の脳裏に鮮やかに蘇ります。
雨の思い出も意外に悪くありません。書斎でワープロを打ちつづけながら、ふと手を休めて窓外のそぼ降る雨を見つめていた時、心に「降る雪や 明治は遠く なりにけり」という句が浮かびました。昭和を代表する俳人中村草田夫の名句です。旧制高校時代、贅沢にも僕はこの先生から「国文学」の講義を受けながら、仲間といたずらをしかけては先生を困らせたものです。とある日、級友の一人が黙って手渡してくれた一冊の本、『中村草田夫句集』。驚いて手に取って開くと、すぐ目に飛び込んだ一句、「学校は 顛病院(※)のごと 秋深く」。終生忘れられません。
※顛(てん)病院とは今の精神病院のこと |
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2003年8月14日 |
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テレビの人気時代劇番組『水戸黄門』を視聴していて分かるように、“お上”に弱いのは昔から日本人の悲しい性です。しかし地域差も大いにあって、同じ日本人でも東京都民に比べると宮城県民の弱さは本当に歯がゆくなるほどです。政治と行政の癒着をめぐるスキャンダルが性懲りもなく起こりつづけるゆえんでしょう。その中にあって毅然と“お上”に物申す人々もいることは、まことに心強い限りです。
宮城県庁の官官接待、カラ出張、情報隠し…を次々に暴いて全国に名をはせた「仙台市民オンブズマン」はその最たるものでしょう。代表をつとめる弁護士の小野寺信一氏は先日の朝日新聞(7月1日朝刊)で、長年にわたって降り積もった膨大な「官」の既得権は「…議会が個別利権の代弁組織に成り下がり、監査委員は…機能不全に陥って(しまった以上)、…議会の改善のためには、市民が財政監視活動に立ち上がる直接民主主義を強化するしかない」と語っておられます。
こうした意見にひそかに賛意を表する県民は僕の知っている範囲でも大勢いるのに、いざオンブズマンを表立って支援しようということになると、引っ込み思案の人がなぜか多くなるのがこの土地の特徴なのです。仙台市民オンブズマンの事務局長である庫山恆輔さんの人柄にすっかり惚れ込んでいる僕は、宮城大学長を退官した直後支援団体である「タイアップグループ」に率先入会し、今ではオンブズマンの方々と実に楽しい付き合いをしています。
仙台市民オンブズマンは今年で結成十周年を迎えますが、その記念に8月30・31両日には仙台国際センターで「全国市民オンブズマン大会in仙台」が開催されます。愛読者各位が一人でも多く参加されることを心から期待します。 |
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2003年8月7日 |
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梅棹忠夫先生が雑誌『図書』に「知的生産の技術について」と題する連載を始められた頃から、早くも40年近い歳月が流れようとしています。読者からの予想外の反応に励まされた先生は、その後この連載記事の内容に綿密な補筆訂正を加えられた末に名著『知的生産の技術』(岩波新書、1969年)を出版され、日本の知識人の間に大きな衝撃を与えました。
知識を効率的に獲得し、保持し、利用する…方法の開発といったことなど、明治時代(いやそれ以前)から多くの日本の知識人では、まともに検討されたことすらなかったからです。先生のこのご本は、(全く皮肉なことに)大学を除く広い分野の知識人の間に絶大な影響を与え、考え方のみか実用の面でも豊かな実りをもたらしました。例えば、ここ数年立てつづけにビジネス書部門のベストセラーの偉業を達成した久恒啓一君(宮城大学教授)の「図で考える」発想と技術もまた、その起源を辿れば梅棹先生に行き着くのです。
先生を始祖と仰ぐ人たちで自然に創られていった勉強会や研究会は無数にありますが、その代表的なものは、今や全国組織のNPO法人にまで発展した「知研」(知的生産の技術研究会)です。梅棹先生が当初から顧問であることはもちろんですが、光栄なことに僕も数年来顧問として名を連ねています。そしてさらに嬉しいことに、今春の全国総会で、久恒君が理事長に選出されてしまったではありませんか…。
先週金曜夜は「知研」仙台支部の集まりにお招きを受け、『出逢う』というテーマで講演をしました。過去四十年以上本業もどきに講演をつづけてきた僕にとっても前例ないテーマでしたが、幸い聴衆の反応は上々…。理事長を擁する支部会員となるとさすが元気さが違うと、頼もしく感じた次第です。 |
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2003年7月31日 |
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日頃は仕事に追われ読書のままならない僕にとって、旅行は読みたくて買い込んでおいた本を消化するための無二の機会です。折から「夏季セミナー」の季節で講演旅行がつづき、読書量は急上昇中。最近自国を考えさせた3作品と言えば…。
先ずは、ベテラン金融ジャーナリストの執念漂うノンフィクション、『巨大銀行沈没』(須田慎一郎著、新潮社)。主題は日本最大のメガバンクみずほホールディングス出生の秘密とそれに起因する関係者たちの疑惑に満ちた動きですが、著者の舌鋒は鋭いだけでなく「…私たちは万感の思いをこめて、日本の全上場企業の七割と取引関係のある怪物銀行の沈みゆく様を見届けなければならない。そしてそれは…そのまま日本経済の将来を暗示している…」と限りなく暗いのです。
ところが、フィクションとなると、暗さはこんなものではないことを思い知らせてくれるのは『太陽の黙示録』(かわぐちかいじ著、小学館)と『廃用身』(久坂部羊著、幻冬社)。前者は昨年から雑誌「ビッグコミック」に連載が始まり人気沸騰中の劇画の集成本1と2。日本の東西で驚天動地の大地震が同時発生して都市も農村も壊滅しただけでなく、崩壊した琵琶湖を境に列島は分断され、政治・行政能力を失った日本国は米国と中国に分割統治されることになる、というのがこの長編作品の出だし。…劇画独特のど迫力は抜群ですぞ!
さて後者は、「脳梗塞などの麻痺で回復の見込みのない手足(=廃用身)を切断することで老人を再生させる」という破天荒な医療を開発した専門医の遺稿と(その出版を手がけた)編集者の注釈という様式をとった破天荒なミステリー小説。こちらも老人だけに、ひたひた気味の悪さを感じつつも、「日本国も遂に廃用身切断による再生しかないのでは…」と。 |
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2003年7月24日 |
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東京で過ごす時間の魅力は、何と言っても日毎に受けられる“知的刺激”の圧倒的な量です。国籍、性別、年齢…は違っていても、何かの職業分野の第一線で颯爽と働いている人々が毎日のようにオフィスに訪ねてきたり、会合で一緒になったり、あるいはホテルのロビーなどで偶然でくわしたまま近くの椅子に座りこんだりしたり…して話がはずむと、共通の話題があればもちろんのこと、たとえ第三者が聞けばたわいのない雑談であろうと、それらが僕にとっては、直接間接摩訶不思議な知的刺激となって精神を活性化してくれるばかりか、原稿や講演の新鮮な材料となったり、新しいプロジェクトを起こす貴重なアイディアになったりするのです。
去る16日夜の赤坂南部邸での集いなどは、正にその最たるものと言えましょう。要するに、南部(靖之)君からは「お時間さえ許せば、何時でもいいですから、来てくださいね…」と何回も念を押されていましたが、定刻は何時なのか、何が目的か、誰が来るのか…といったことの詳細は、多分僕を含めて誰にもよくは知らされていなかったのです。しかし七時過ぎに行ってみますと、やがて安倍官房副長官や孫正義君たちも現れて大テーブルを十数人で囲むことになり、「日本のIT技術を急進展させるためのインドの一流大学日本校設立」に関して侃々諤々の議論がはじまったのです。が、1時間もして帰る人は帰ると、まるで打ち合わせていたかのごとく、堺屋太一君や木村剛君など来る人が来て席に就き、いつしか主題は「農業を最先進産業にするための破天荒なアイディアと戦略」となって、また侃々諤々の議論がつづきました。
…赤坂の夜は更けても、知的刺激のやりとりで精神がすっかり活性化したのか、全員の顔は輝きを増すばかりした。 |
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2003年7月16日 |
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東京で過ごす時間の魅力は、何と言っても日毎に受けられる“知的刺激”の圧倒的な量です。国籍、性別、年齢…は違っていても、何かの職業分野の第一線で颯爽と働いている人々が毎日のようにオフィスに訪ねてきたり、会合で一緒になったり、あるいはホテルのロビーなどで偶然でくわしたまま近くの椅子に座りこんだりしたり…して話がはずむと、共通の話題があればもちろんのこと、たとえ第三者が聞けばたわいのない雑談であろうと、それらが僕にとっては、直接間接摩訶不思議な知的刺激となって精神を活性化してくれるばかりか、原稿や講演の新鮮な材料となったり、新しいプロジェクトを起こす貴重なアイディアになったりするのです。
去る16日夜の赤坂南部邸での集いなどは、正にその最たるものと言えましょう。要するに、南部(靖之)君からは「お時間さえ許せば、何時でもいいですから、来てくださいね…」と何回も念を押されていましたが、定刻は何時なのか、何が目的か、誰が来るのか…といったことの詳細は、多分僕を含めて誰にもよくは知らされていなかったのです。しかし七時過ぎに行ってみますと、やがて安倍官房副長官や孫正義君たちも現れて大テーブルを十数人で囲むことになり、「日本のIT技術を急進展させるためのインドの一流大学日本校設立」に関して侃々諤々の議論がはじまったのです。が、1時間もして帰る人は帰ると、まるで打ち合わせていたかのごとく、堺屋太一君や木村剛君など来る人が来て席に就き、いつしか主題は「農業を最先進産業にするための破天荒なアイディアと戦略」となって、また侃々諤々の議論がつづきました。
…赤坂の夜は更けても、知的刺激のやりとりで精神がすっかり活性化したのか、全員の顔は輝きを増すばかりした。 |
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2003年7月9日 |
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先週仙台で開催された「宮城県韓国商工会議所50周年」の祝賀会は、ゲストに内外の韓国人要人のほか日本人政財界指導者も顔を揃えて実に盛大でした。懇親会に先立ち、僕が『独断と偏見の韓日関係論』と題する記念講演を行いました。通常は講演の事前準備など全くしない僕ですが、さすがに今回は韓国史の国定教科書(邦訳)を購読するなどしたおかげで、韓国に関してはかなりの知識が身についた気がします。
単一民族の純度において日本人より高い韓国人ですが、歴史的に見ると、大陸と地続きであったために絶えず外的の脅威と侵攻にさらされ易かった上に、それも一因となって国内の政治的統一が難しく、結果として、一足先に国内統一を達成した日本からも再三にわたって故なき侵攻を受け、国民の間に反日感情が醸成されていったことは当然です。が、大和朝廷成立直後とか、天下統一後の相次ぐ秀吉による出兵は何れも失敗に終わったのに対し、明治維新後の韓国支配は、その帝国主義的意図と統治方法によって韓国民の心を決定的に傷つけたことは、今更ながら悔やまれてなりません。
問題は今後です。両国関係が生まれて以来、日本がこれほど活力を失った時代はありません。日本の人口はあと数年で減少に転じると、高齢化問題を引きずりつつ世紀半ばには1億人を切ることが確実視されています。一方、現在すでに7千万人(北朝鮮を含む)の韓国の高齢化率はまだ6%台。人口増加は健全に進行中なので、日韓関係の主導権を徐々に韓国が握ることは自然の勢いです。将来韓国が日本の失敗を他山の石とし、国(民)と国(民)より、個人と個人の信愛の確立に基づく新しい日韓関係の確立を目指すことを切に祈ります。 |
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2003年7月2日 |
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先日の全国大学野球選手権での日本文理大の優勝は番狂わせでしたが、ことさら驚いたのは僕です。数ヶ月前から、この大学の創立者である菅幸雄氏の叙勲記念講演会の講師としてお招きを受けていたからです。この大学の前身は大分工業大。大分といえば平松守彦さん…。その平松さんからは早々と、「…講演が終わったら、由布院で夕食歓談しよう…」と嬉しいお誘いまで受けていたのです。そんなわけで、先週金曜の朝は、羽田発大分行のJASにいそいそと乗り込みました。
聴衆の方々の盛大な拍手で講演を終え、その後に予定されていた大晩餐会を途中で失礼させていただいた僕は、用意されていた車で一路湯布院へ向かいました。折から雨のみか風も一段と強まって意外に車の時間がかかり、「玉の湯」へ着いた時はもう8時半を過ぎていましたが、そこには有難いことに、満面の笑み”を湛えた平松さんが悠然と僕を待ち構えてくれていました。その晩遅く、平松さんはご機嫌で帰宅されたので、翌朝は溝口薫平さんとさしでゆっくり朝食…。
溝口さんは湯布院の温泉旅館の代名詞である「玉の湯」の社長であること以上に、由布院を日本一の温泉地にまで育て上げた地域指導者として広く知られており、最近も内閣府から日本の「観光カリスマ」11人の一人に選ばれました。今から40年前、湯布院は年間やっと数万人の湯治客の来る寂れた温泉地に過ぎませんでしたが、今では年間約400万人の観光客を集める日本の代表的リゾートにまで成長しました。
しかも湯布院は、昔の素朴な温泉地の雰囲気を基本的に失わず、それでいて、世界中の観光客を驚かすだけの洗練した施設とサービスを充実させています。お話を伺いながら僕は、「日本の再生は地方から」の確信を一段と深めた次第です。 |
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