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2005年6月22日
555・556 衝撃のシニア・ビジネス
 すでにRapport(5月10日号)で書きましたが、シニア向けの大型住宅開発を目的として近く新設される会社の会長就任を依頼されたため、最近は多忙な日程をやりくりしながら既設のシニア向け高級マンションを見学して回っています。

 今日22日でちょうど満78歳となった僕はもうれっきとしたシニアなのに、これまでこの種の施設に関心を持ったことがなかっただけに、いろいろ新鮮な刺激を得ることが多く、時には大きな衝撃を受けて考え込んでしまいます。

 例えば先般訪れた施設は、遠くから見ても堂々たる超高級マンション。相当距離の専用導入路から車付けまでの外苑は滑稽なほど王宮風。いざ正面入り口を入ると、エントランスロビーは一流ホテルさながらで、われわれを迎えてくれた職員の服装も言葉づかいもサービス態度も申し分なし。が、一瞬目に入ったのは、彼方を通りかかった居住者とおぼしき二人連れの老人。いずれも服装はパジャマ、履物はスリッパ、歩く風情は旅路の果て…。いや、この施設のハードとソフトの極端な対比には驚嘆しました。

 少なくとも一流ホテルなら、宿泊者にとって居室外のロビーはもちろん廊下ですら全て“ソト”。ソトへ出る場合には、それなりの身だしなみがエチケットとして確立されています。これと対照的に病院は、身体的ないし精神的に社会生活に支障のある人々が集まる場所として、病院中が“ウチ”。

 僕がかかわることになるシニア向けマンションは限りなく一流ホテル風を指向しますが、サイト内に特別に設けられる介護老人用のエリアはもちろん病院風に運営せざるをえず、目下両エリアの自然な調整法に頭を悩ませているところです。

 (7月5日までイタリア北東部の小都市を旅しますので、Rapportを1回休ませていただくことをお許しください)
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2005年6月15日
554 夢を失ったとき 人は老いる
 新井満さんから新著『青春から』(講談社)が贈られてきました。日本でも昔から財界人の間で根強い人気のあるサムエル・ウルマンの詩『Youth』の新訳に、氏自身の所感を付した80ページの著作。早速数十冊を購入し、一文を添えて4人の子供たち夫婦と現代研究会の友人たちに贈りました。

 僕がこの詩を始めて読んだのは、米国留学から帰国直後の頃のこと。まだ30歳代半ばでしたが、思いもかけず知遇を得た松下幸之助さんにすっかり傾倒していましたから、氏が愛好してやまないというこの詩を求め、むさぼるように何回も繰り返し読み、読むたびに感激を新たにしたものです。

 が、ウルマンが『Youth』を世に問うたのは78歳の時。推敲に推敲を重ねたとしても、作詩したのは遅くとも70歳代に入ってからであったことを考えると、その頃の僕の歳では、とうていあの詩の意味を真に内面的に理解しえたはずはありません。松下さんが初めてこの詩を読まれたのは何時だったのかは伺い損ねましたが、僕より33歳も年上であられますから、多分60〜70歳代だったのではないでしょうか。

 僕は航空機の技術者だった親父を心から尊敬しています。親父は半生を投じた仕事を終戦とともに奪われ失業しましたが、僕たち家族は父から溜息や愚痴をただの一度も聞いたことはありませんでした。還暦を過ぎていた父は、「今まで忙しくてできなかったから…」と言いながら独学で科学技術の歴史と取り組みはじめ、20年をかけて大著をまとめたのです。

 「歳を重ねただけで 人は老いない 夢を失ったとき はじめて老いる」というウルマンの言葉を、親父は自ら僕に実証してくれました。来週は僕もいよいよ78歳。子供たちのために、それを実証してみせる責任を感じ、意欲満々です。
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2005年6月8日
553 加藤寛さんの午後
 先日日経の『私の履歴書』で加藤寛さんが僕との半世紀前の巡り会いを書いた朝から暫くの間、随分多くの友人知人から「いや、驚いた…」という声を直接ないし電話や手紙を通していただきました。その加藤さんが1日午後開催された?ニュービジネス協議会の20周年記念パーティーで講演をするというので、懐かしさに駆られ赤坂プリンスホテルへ…。

 何と1987年春初代理事長を退任して以来、新大学づくりなどに忙殺されて、この団体の行事にはほとんど出席しなかったのです。いや、加藤さんにも久しぶりでしたが、旧知の多彩な来賓やニュービジネス協議会会員の方々の多くにはもっと久しぶりで、懇親会の会場では乾杯の音頭をとらされた上、随所で元気な声がかかり、それこそあっという間の2時間。

 講演前控え室で、加藤さんと塩川正十郎さんの三人で雑談をしていた時、お二人が親しい小泉首相のことが話題となり、僕が「就任時、その凛々しい風貌と新鮮な発言に魅了されただけに、最近の小泉さんのやつれた感じと、とくにいい加減な発言には失望している…」と、先日の「罪を憎んで人を憎まず」発言を例に挙げたところ、お二人からはすかさず「そうだ、軽い感じだ。伏目がちに話すのもよくない…」(塩川氏)、「あれは孔子ではなく、大岡越前守が名裁きで述べたせりふ…」と同感の返事が返ってきたのは、全く意外でした。

 『民間自立を妨げるな!』と題した加藤さんの講演は、いつものように歯切れよく、楽しく、かつ抜群の説得力がありました。冒頭に「野田さんは昔から、私に劣らず官僚嫌い」と聴衆を笑わせた後、ご自身の政官界での豊富極まる経験を材料に、それこそ立て板に水を流す勢いで度し難い日本の官僚社会主義を徹底的に批判。聴衆一同溜飲を下げた次第。
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2005年6月1日
552 島康子さんに感動
「やわらかに柳あおめる北上の     

    岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」

 名古屋で生まれた僕は、子供の頃父親から折りあるごとに「わが家の先祖の地は、東北の最も美しい都市、盛岡」と聞かされて“故郷は遠くにありて思うもの…”をそのまま体験して育ちましたから、以来同郷の詩人石川啄木のこの歌をこよなく愛し、口ずさみながら年を重ねてきています。

 学長業から解放された今ようやく自分の思い通りの日程を組める身となった僕は、講演依頼に対しては、季節に応じて行きたい場所をとくに選好して応じています。となると、新緑の季節は自ずから柳あおめる東北の魅力には抗しがたく、先々週の新潟に引きつづき先週は青森に足を伸ばしました。

 昨年、青森県知事に当選した三村申吾氏は昔から、僕の兄貴分である平松守彦前大分県知事を公然と“師匠”と呼んで敬う仲。そんなことから平松さんは、三村知事の発意で去る24日に青森市で開催された「地域政策トップフォーラム─青森県の活力を探る」の講師に招聘され、結果として平松先輩の命令一下、僕も喜んで講師の一人に加わったわけです。

 ねぶた祭りの時以外は対照的に静かな街、というのが青森に対する僕の印象でしたが、当日は週日の午後、固いテーマの催しにもかかわらず、約500人収容の会場は大入り満員の盛況で、聴衆の盛り上がりが僕の青森観を大きく変えました。

 青森新時代の象徴は地元講師の島康子さん。青森市から最も遠い北の港町出身。慶応大卒業とともに銀座でOLを経験した後、感ずるところあって故郷に帰り、津軽まぐろ中心の活発な地域おこしの指導者的存在。その健康な明るさは斜陽国日本の救世主のような輝きで、僕を魅了してくれました。
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2005年5月24日
551 やり甲斐ある講演
 先週は講演でまた新潟へ。演題は「ほくほく線(北越急行)」。僕を知る人ならみんな怪訝な顔をするでしょうが、実はこの鉄道が新潟全体に持つ重要性を始めて世に力説したのは僕。その自負の故に、今回の講演も大いにやり甲斐を感じました。

 2年前平山前新潟県知事からお話を伺うまで、僕はほくほく線については全く関心がなく、金沢出張に際して乗った“やたらトンネルだらけの支線”という記憶だけありました。ですから、50%以上の株を新潟県が所有し、社長に元副知事まで送り込んでいる三セクだと伺った瞬間、「大赤字でお困りでしょう…」と知事に失礼な質問を呈したはずです。ところが、北越急行は全国で約40ある三セク鉄道の中で、数少ない黒字会社、いや、唯一といっていい超黒字会社だったのです。

 ではこの会社の何が問題かというと、運輸収入の90%以上を、なんと僕がかつて飽き飽きした特急「はくたか」(上越新幹線湯沢と金沢を約2時間半で結ぶ)に依存していること。つまり、7年後長野新幹線が金沢まで延伸されると、「はくたか」は当然存亡の危機にさらされ、会社は一転大赤字に転落し、沿線住民の便益は大きくし損なわれざるをえない…、ここまでは県の政・官・財指導者にとっては小さな心配事だったはずです。が、資料を基に改めてこの課題を検討した僕は、ほくほく線の赤字転落は上越新幹線を事実上支線化させ、結果として県経済全体の衰亡をもたらす可能性のあることを確信するに至り、以来関係各方面に警鐘を発し始めたのです。

 過去1年半、ほくほく線沿線住民有志を除いて反応はゼロに近かったのですが、昨年末の中越大地震は思いがけず僕の警鐘を実証したかたちとなり、今やそれは、「2010年問題」として新潟県の政財界人の最大関心事となりつつあります。
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2005年5月17日
550 安藤君からの手紙
 GW明けの仕事始め。机上に秘書が開封して置いてくれていた郵便物の山を立ったまま次々手早く処理しているうち安藤忠雄君からの手紙を見つけ、懐かしさから思わず椅子に座って読みだしました。3ページの専用箋の上に綴られた、いかにも同君らしい大らかな字と几帳面な文章を…。

 (僕から)「坂口安吾賞」審査員のご推薦を受けたのに、「…私自身がまだ現役としての可能性を求める側の人間でありたいと思っておりますので…」篠田新潟市長にお断りしたことをご了承賜りたい、という書き出しにつづいて、今の日本は元気がない中で自分が生まれ育った大阪はとくに深刻なことから自分は、(官に頼らないという)“遺伝子”を信じて市民の力で大阪を元気で美しい街にしょうと、「桜の会・平成の通り抜け」という運動を始めた旨が記された上、この運動を報じた新聞の切り抜きまで同封されていたのです。

 実に爽やかな読後感でした。名建築家としてのみでなく今や超セレブな人として国内外から引っ張りだこの身でありながら、なお日常的な義理堅さや一市民としての貢献をいささかも忘れていない同君への敬愛の念を改めて深めました。因みに、僕が篠田市長に安藤君の名前を出したのは、いつか雑談の中で「この賞の受賞者にふさわしいのは、例えば安藤忠雄君のような人でしょうね…」と口にした時で、決して「安吾賞」の審査委員として推薦したわけではありません。

 この手紙を読み終わるや否や僕はすぐコンピュータに向かい、画面上に一字一字心を込めて同君への返事を書きはじめました。意気消沈気味の日本を元気にするために、「君に負けないで知恵を出し、力を尽くす…」と書きながら、体内に何ともいえない活力の沸き起こるのを感じた僕でした。
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2005年5月10日
548・549 シニアビジネス開眼の旅
 GW直前の2日間、関西出張。小中村政廣君(タケツー社長)が御影と西神で進めている大規模かつユニークな開発の現地視察を兼ね、同君の事業を長く支えつづけている池田銀行の服部頭取と懇談させていただくのが目的でした。関西を中心に30余年マンションを建設してきた小中村君ですが、現在は“高齢に誇りを持つ高齢者”をモットーに、少なくともそのサービス水準の高さの点では欧米の同種一流施設を超えるほどのコミュニティー建設に情熱を燃やしています。

 そして驚いたことに、同君にとってはそうした高齢者の典型的モデルは僕だそうで、僕は新しいコミュニティーの企画・運営を担う新会社の会長就任を要請されたのです。そんなことから、今月の出張には、“シニアビジネス”の第一人者であり、また小中村君のよき助言者でもある村田裕之君(財団法人社会開発センター研究主幹)も終始同行してくれました。欧米での生活経験を基に同君は、株式会社日本総合研究所主任研究員の時代からつとに「日本社会の高齢化とその対策」を研究主題とし、今や各界で注目の人材です。

 ところで、この旅のフィナーレは、小中村君心づくしの「播半」での昼食でした。風光絶佳の甲山の麓に、造園と建築の粋を凝らして山荘様式のこの割烹旅館が開かれたのは僕の生まれた昭和2年。以来関西の奥座敷として内外の要人を受け入れてきた「播半」も時代の流れには抗しえず近く閉店が噂されているだけに、久しぶりに訪れた僕の感傷は一入。食事前の散策にと展望台へ上ると、朽ち果てたあの能舞台の前の藤棚から、西南の風にあおられて色あせた薄紫の花びらがしきりに舞い落ちていく風情に、思わず恩師中村草田男先生を偲んで一句。「散る花や、昭和は遠くなりにけり」…。
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2005年4月27日
547 二人の素晴らしい人物
 人生の至福は何と言っても、素晴らしい人物と出会い、会話を楽しみ、別れたあとに改めて深い感銘を味わうこと。先週21日は、何とそれを二重に味わえた吉日でした。

 21日昼、岐阜県人のよしみで熊崎勝彦氏と親しい近藤昌平君は、親切にも僕たちを昼食に誘って引き合わせてくれました。東京地検特捜部におられた頃、政財界の大事件を次々に手がけて“鬼検事”と謳われた氏ですが、お話を伺うにつれ、豪放磊落さと優しい気配りを兼備されたその人柄は、僕を完全に魅了しました。とくに感動させられた話を一つ…。

 名だたる人物の立件となると、各方面からの圧力はわれわれの想像を絶するらしく、持ち前の使命感・正義感…といった人間的資質と世俗的権力との葛藤に耐えられないようでは、担当検事はとうてい務まらぬとのこと。が、日頃家庭など全く顧みず職責一途に生きた熊崎氏も、さすがに金丸信氏の逮捕状を請求した日の夜は夫人とお子さんを都心のレストランに誘い、その席で「(逮捕状が受理されなかったら)荷物をまとめて官舎を出よう…」と不退転の覚悟を求めたのでした…。

 21日夜、赤坂の僕のオフィスで開かれた恒例の若手起業家の集いでの黒川清氏の基調講演、その堪えられぬ痛快さ!“山の手風べらんめえ”口調で氏は、日本社会の閉塞状態を打破するために?中年自殺者、?過労死、?天下り、?一人称の多様さ、4課題解消の必要性を熱く語りました。知らないで聞いた人は、氏が東大名誉教授で日本を代表する内科医とは、ましてや日本学術会議現会長とは夢にも思わなかったはず。しかも氏が偶然僕の高校の10年後輩であったとは…。

 二人の素晴らしい人物、熊崎氏と黒川氏と再開を約して交わした手のぬくもりを、僕はまだ懐かしく感じています。
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2005年4月20日
546 RITROVOの開設
 目下僕の最大関心事は何と言っても、内装工事の始まった赤坂見附の新オフィスです。昨年末から今年にかけて相次いで設立された3つの中間法人の代表理事として経営の任に当たることになり、合同オフィスとしてこのオフィスを開設することとなったのです。床面積わずか130m2のしかも賃借スペースですから、何の変哲もないオフィスなら、業者に頼めば、予算内でこちらの要求に沿って1週間もあれば内装完了・入居OKとなることはよく分かっています。

 「だから、そんなことは業者に任せて…」と普通の人なら思うはずですが、「そうはいかない」のが僕の性分です。そんなオフィスで事が済むような仕事なら、僕は始めから引き受けませんし、だいいち、そんなオフィスへは人も好んで訪ねてきませんし、僕も行く気にならないでしょう。今度の仕事を引き受けるや、僕はそれをどこで、どんな人たちと、どんな体制で、どんな雰囲気の中で…やるかを数ヶ月考え抜き構想を固めた後に、まずオフィスづくりに乗り出しました。

 僕のオフィスづくりは、目的に照らして(1)立地(場所の格、交通の便、周辺の景観…)と(2)ビルの質(躯体、デザイン、設備、使い勝手、管理…)の両面からこれという物件を物色して賃借交渉に入り、(3)リーズナブルな条件で契約を終わらせるまでには、自分自身で使用目的に応じたオフィス・レイアウトと家具・設備類の具備すべき機能要件案を作成し、(4)何人かの親しい専門家の友人・知人の知恵を仰ぎ、いよいよ(5)徹底したコスト・ベネフィット主義で完成にまい進するのです。

 この流儀で過去40年間に、僕は大好きな赤坂に5つの“マイ・オフィス”を次々に創り、仕事の糧としました。6番目のニックネームは「イル・リトローヴォ」(我らの溜まり場)です。
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2005年4月13日
545 首相に見る亡国の兆し
 9日の夜京都のホテルの自室でテレビを見ながらくつろいでいた僕は、突然画面に小泉首相の上機嫌の顔が大写しになった瞬間、条件反射的にチャンネルを回していました。このところ小泉首相の顔を見たくありません。上機嫌の時の氏の薄ら笑いはいかにも人を小馬鹿にしているようでかつ下品ですし、逆に緊張した時の表情にはやつれが目だって一国の指導者たる自信や気概は全く感じられず、見るに堪えません。

 4年前大番狂わせで首相の座に着き、「自民党をぶっ壊す」と叫んだ頃の氏のあの引き締まった顔つきと颯爽とした振舞いは、いったい何処へいってしまったのでしょうか。9日午前新宿御苑では天下の貴顕淑女を招いた首相主催の観桜会が開かれ、小泉氏は上機嫌で記者団に「このような穏やかな気持ちでこれからの政界も生きていきたい」と語った、と翌日の朝刊は報じました。が、首相が満開の桜の下で例の薄ら笑いを周辺に振りまいていた正にその時間、北京ではあの反日デモの参加者がみるみる膨れあがりつつあったのです。

 この情報は首相の耳に届いていたはずです。中国のみか、北朝鮮はもとより韓国でも、反日感情は俄然火のように燃え広がっています。(首相就任前には一度もしなかった)靖国参拝を強行しつづける小泉氏は、周辺諸国からの敵対的孤立を自ら望んでいるのでしょうか。成り行き次第では、事は単なる孤立では済まなくなりそうな国際情勢さえ予感されます。

 先日出版された村上龍氏の書き下し長編『半島を出よ』は、北朝鮮の反乱軍を名乗る特殊部隊が突然福岡市の中心部を制圧した際の日本政府の混乱と無能振りを克明に描いています。首相の顔に表れる亡国の兆しを見る度に僕の心の底には、滅び行く祖国をただ傍観する他ない悔しさが沸き起こります。
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2005年4月6日
544 みやびの京都、イケズの京都
 このところ、少なくとも桜と紅葉の季節には、京都へ旅するのが慣わしとなってしまいました。毎年ワイフが見頃の時期をいろいろと検討して何週間も前にホテルに予約を入れるのですが、今年4月6、7、8日の三日間の予約はどうやら見事に的中したようで、出発前から胸がわくわくしています。

 現在の京都は、古都としての街並みの魅力や暮らしの伝統的雅やかさはすでに相当損なわれているとはいえ、観光資源の蓄積度は量質両面において、やはり日本の他の都市とは格段の差があると感じます。それに、鴨川べりと東山にある三男のレストランも、われわれにとっては京都の魅力なのです。

 数年前、頼まれて京都にレストランを出店するという話を息子から聞いたとき、「京都人はイケズだから、用心しろ…」と言うと、「…イケズって?」と質問されて答えに窮したことを思い出します。実は僕も京都の友人からこの言葉とその独特の意味を教わって生半可に使っていますが、こんな厄介な気質が定着しているのも、千年の都ならではでしょう。

 最近新潮社から出版された『イケズの構造』(入江敦彦著)によると、イケズは陰険でもイヤミでもなく、毒舌とも天邪鬼とも違い、しかもイジメとはむしろ正反対の態度。歴史的起源は、応仁の乱で市井に下った貴族と庶民が相互の社会的距離を良好に保つため自然に身につけた対応法とのこと。

 が、イケズなんかてんで頭の片隅にもない東男には、例えば耳に聞こえてくる女性の京言葉など、堪えられないほどの雅の極。東京の都心で育ったわが息子が何の心の準備もなしに京都に進出し、何とか順調に商売をつづけていっているのも、いい意味で“聞く耳を持たなかった”からでしょう。…なら親父の僕もそれに習って京都の春を存分に楽しもうぞ!
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2005年3月30日
543 坂口安吾いま再び
 思いもよらず、僕はこれからの人生でどうやら坂口安吾と深い関わりを持つことになりそうです。先週はじめ赤坂のオフィスに篠田新潟市長から突然の電話で、「…当地出身の坂口安吾の生誕百周年記念に『…安吾賞』を創設するので、審査委員長をお願いしたい…」と依頼されたことがきっかけです。

 ご辞退しようと、「文学に関係のない僕は…」と言うと「安吾は小説家を超えた人…」、「僕は新潟に縁がないので…」と言うと「猪口孝・邦子ご夫妻など当地出身者もすでに委員を内諾されており…」といったやりとりで、結局「近く上京したおりにお会いして詳しく…」ということになりました。

 その時丁度富田直美君(元ピクチャーテル社長)が僕のためのラジコン用のヘリコプターを買って届けに来てくれていたので、今あった電話の件を話すと、「安吾の一人息子の綱雄君は僕の親しいラジコン友達。聞いたら喜びますよ。写真家ですが、親父と違ってまじめ一徹の人物」と。何たる奇縁!数日後富田君が赤坂オフィスへ綱雄君を連れてやってきて歓談するうち、僕たちは忽ち意気投合してしまったのです。

 …と書いてきましたが、若い世代の日本人の多くは安吾の名を知らないでしょうし、中高年層でもせいぜい“戦後名を成した無頼派小説家”といった程度の理解しかないことでしょう。が、僕にとって安吾は、旧制高校生だった戦時中には『日本文化私観』でそれこそ目から鱗を落とされ、また大学生だった終戦直後には『堕落論』で土性骨を叩きなおされたほど強烈な個性と思想を持った畏敬すべき先人。

 山出しホリエモンの落花狼藉と裸王義明の凋落に象徴される下克上時代の今の日本を「安吾ならどう考えるか」が、これから当分の間僕にとって継続的視点になることでしょうB。
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2005年3月23日
542 『北の零年』が暗示するもの
 恥ずかしながら、『北の零年』をやっと先週観てきました。ワイフから是非にと勧められながら、仕事や雑事に追われ通しで何と2ヶ月も果たせなかった情けなさ。話題作は時期遅れで観ては話題にならぬことを痛感しつつ、一文を…。

 率直に言って僕には、この映画は期待に反して感銘度の低いものでした。理由は明らかに“歴史もの”に対する監督の不慣れ、ないし不得意。最近『世界の中心で、愛を叫ぶ』のヒットで俄然大衆的注目を浴びた行定勲監督ですが、この作品では「史実で観客を感動させ、脚色によって面白くさせる」という定法を使いこなせず、やたら盛りたくさんの内容で観客を食傷させてしまいます。いま一つ。吉永小百合や渡辺謙といった一流スターの起用が象徴する“大作”だけに、出演者は全シーンを通してひた向きな演技を強いられた感を免れません。そのために、観客はストレスを受けつづけ、(上映時間が長いこともあって)ひどく疲れてしまいます。

 …などと、いっぱしの映画評論家のような辛口を叩きましたが、実は、『北の零年』を観終わって帰宅する道すがら僕には、腹の底からある熱い共感がじわりと沸き起こってきました。明治初年「新秩禄制」をめぐって一地方で起こった旧武家同士の騒動に対して、新しい国家が“喧嘩両成敗”という荒っぽい解決策を強行したことによって、この映画の主人公たち数百人は故郷の淡路島から未開地だった北海道に移住を迫られ、その後の人生を散々翻弄されたのです。

 国家主義の総決算だった太平洋戦争での惨敗を契機に“主権在民”を標榜して再出発した日本。その国の国民が早くも何かと国家権力を意識せざるをえない昨今の現実、この映画の興行的成功の理由は、正にそのことにあると信じます。
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2005年3月16日
541 カマキリ博士にお会いして
 知事室に入った途端に「先生、お久しぶりです。…」と泉田さんから親しみのこもった言葉を投げかけられた僕は、(当然初対面だと思い込んでいただけに)面食らって、「…いやー、あなたはちっとも変わっていませんね…」と思わず野暮な受け答えをしてしまいました。02年経済産業省から岐阜県に出向される直前に産業研究所で僕の講話を聞かれたそうですから、知事になったからとて外見の変わるはずはないのに…。

 こうして和やかな雰囲気で始まった会話の主題は、終始酒井輿喜夫氏。氏は長岡の無線工事会社の創業者で工学博士…といったことより、毎年の積雪予想の的中率抜群の“カマキリ博士”として新潟ではつとに有名。本業に関係深いアンテナ対策の必要上から氏は気象と微妙に関係を持つ動植物の生態に興味を抱き、諺などを裏付ける実態調査研究を自身で開発した装置を使って長年つづけてきた典型的な一民間学者。

 僕は一月に十日町の商工会議所にお招きを受けた際、中越大震災を数ヶ月前に的確に予想した人がいたという話から氏のことを知り、資料を拝見して関心を刺激され、その日直接お話を伺って心から感銘した次第。日本では過去30年間、オーソドキシー・グループ(既成権力から正式に認められた学者・専門家)による大掛かりな地震予知対策が採られ、通算何千億円の資金が投ぜられてきましたが、この間何回も起こった大地震予知では一回も実績は示されなかったのです。

 これに対し、一文の公金も使わずに見事な実績を示す研究はなぜいつまでも中央で無視されねばならないのか?「こうした不条理を解消しないことには、真の地方分権は実現しない。ぜひ酒井さんのような貴重な知財を日本の発展のために活用してください」と僕は泉田知事に力説しました。
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2005年3月9日
540 やりきれない気持ち!
 いま「日本人の間で最も注目を集めている人物」といえば、何と言っても堀江貴文・堤義明両氏。堀江氏に関しては、マスコミの評価は真っ二つに分かれていますが、その風体(ふうてい)や言動やがどうしても好きになれない人々ですら、彼を叩くマスコミに対してはなぜか反感を抱き、結果として時の経過とともに“ホリエモン人気”が高まるという、わが国では前代未聞の社会現象が進行中なのはご承知のとおり。

 自民党幹部、中央官庁のエリート官僚、“財界人”と称せられる企業経営者…といった人々が意識するしないにかかわらず構築している権力構造に対し大衆の反感がいかに鬱積しているかが、僕にはつくづく感ぜられます。堤氏こそはそうした権力構造の中枢で長らく君臨していた人物。つい数ヶ月前まで同氏との面識を誇りにし、関係をより深めたいと願っていた人々の多くが今や一転して“義明批判”に走る様は、正に人倫の果て。「哀れというも愚かなり」の感一入です。

 それにしても、わが祖国で、一企業の社長に対してちゃんとした教育を受けた社員が土下座して報告をしたり、年末には子会社までを含む幹部数百人が創業者の墓所に集まって徹夜で忠誠を誓う、といったことがごく最近まで当然の慣習として行われてきたとは…。何という情けない社会的現実。

 数百万人の戦死者を出した上に国土まで荒廃に帰した戦争に完敗した日本は、過去と断絶した主権在民国家として再出発したはずなのに、その後60年してこの体たらく…。 だから僕が今一番嫌いなテレビ番組は「水戸黄門」。葵のご紋に万人がひれ伏す姿に、不気味な不快感を覚えてなりません。(好漢・鶴田浩二の男らしい風貌を懐かしみつつ)こんなことを申し上げる私も、やっぱし古い人間でござんしょうか…。
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2005年3月2日
539 君死にたまふこと勿れ
 先週末カナダ政府は、米国の主導するMD(ミサイル防衛)構想への不参加を表明しました。衆知のごとくカナダはつとに米国と共同防衛協定を締結し、またマーティン現首相は最も親米的な政策を標榜して政権の座についた政治家です。国民世論が反MDであると察知した彼が苦渋の決断を下したという報道に驚いた僕の頭に突然浮かんだのは、何とサスマタ…。

 サスマタ(刺股)は字引によると「江戸時代、罪人を捕らえるために用いた三つ道具の一つ。木製の長柄の先端に鋭い月型の金具をつけた防御用武器」とのこと。博物館の片隅に置かれていたこの武器の需要が突然急増したため、下町の工場は目下増産でてんてこ舞いとのこと。関西の小学校で起こった教員殺傷事件に対応して、文科省に急遽呼び集められた専門家が鳩首協議した結果、サスマタを可及的速やかに全国の小中学校に常備するという珍妙な決定を下したためです。

 小中学校を狙った凶悪犯罪が増えたとはいえ、各地で頻発しているわけでもない上に、かりに自校に凶悪者が侵入した時果たしてサスマタがあらゆる場合に最適な防具なのかどうかという検討も各現場で十分なされぬまま中央権力の決定が下され、それに対して誰も異論を唱えずに全国にサスマタが氾濫しそうな現実が、わが国社会古来の特性を表します。

 この特性は、外交にも軍事にも反映されます。時の権力・米国政府の要請を受けるや、政府が世論も国会審議も軽視して急遽自衛隊をイラクに派遣したのは、正にその典型例。わが首相にカナダ首相のような決断は所詮期待しませんが、どうせ戦わない自衛隊なら、テロ勢力をやたら刺激する武装は一切廃し、その代わり駐屯地内をサスマタだらけにして世界に息抜きの話題をたとえ一時でも提供してくれる方が…。
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2005年2月23日
538 漂う気品と温かい知性
 世の中には、目的が営利でもなければ公益でもない団体活動がたくさんあります。こうした活動を長期にわたって活発に行っていくためにぴったりな制度として、数年前に2種類の“中間法人”が生まれたことはご承知のとおりです。

 僕は昨年秋立てつづけに中間法人2つの設立に深くかかわり、設立後は選任されて目下代表理事をつとめています。法人名は一つが「連志連衆会」、今一つが「cerchio di vent」。前者は、わが国の知識人の間で“知の巨人”とまで評価される松岡正剛氏の活動を支えつつ積極的に広めていくことを目的とし、後者は、ローマに長年在住して今や画家・彫刻家としての評価を確立した武藤順九氏が主導する国際プロジェクト(インド政府の要請を受け、ヴァチカン宮殿の永久保存作品となっている武藤氏の彫刻“風の輪”の姉妹作品を日本に運び、1年間三井寺で公開展示した後ブッダガヤ寺院に運んで寄贈、永久に安置する事業)の推進を目的とします。

 十数年前、尊敬する先輩である下河辺淳さんが何気なく「…松岡君のような人を友とすることが、これからの君の人生を限りなく豊かにする…」と直接紹介してくれたのが、同君との最初の出会いでした。武藤君はというと、宮城大学長を退任して2年後、県の国際交流課長をしていた村上和行君が、「仙台出身の国際的アーティストとしてだけでなく、素晴らしい人柄だから…」と、親切にも僕に紹介してくれたのです。

 中軸的支援者として、連志連衆会は福原義春氏(資生堂名誉会長)、cerchioは田中健一氏(カクイチ会長)に恵まれました。政治や経済といった分野と違って思想や文芸の分野は、話題そのものに気品が漂い、また集う人々の表情にも温かい知性があふれていて、代表理事としてのやり甲斐は抜群です。
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2005年2月16日
537 痛快! ホリエモン
 いやー、堀江ライブドアがまたやってくれました! フジテレビの筆頭株主であるニッポン放送の株35%をだしぬけに取得した上、フジサンケイグループに業務提携を申し込んだとは…。通産官僚出身のファンドの策にはまってフジがTOBに躍起だった時だけに、「寝耳に水。いきなり乗り込んできて…」と、同社の日枝会長が激高する気持ちはよく分かります。

 この激高は僕に、昨年秋突然堀江君が近鉄バッファローズの買収に名乗りをあげた時のナベツネこと渡辺読売新聞社会長の「どこの馬の骨か分からんが、まかりならん…」といった意味の発言を連想させてくれました。が、二人の勝負は冬を待たず、馬の骨の完全勝利に終わったのです。ナベツネは世論の袋叩きにあった上に球界への影響力を完全に失いました。一方同君は、ほとんど金を使わずに一躍超有名人となり、自社の業績まで急上昇させてしまったではありませんか。

 同君に関し昨年来僕の心を去来してやまない心楽しい想像…。古くは東大中退(東大卒は腐るほどいて、かつ好かれないが、その点中退は全く逆)、比較的最近では仙台での新球団旗揚げ騒動(フットワークの軽さと話題性が売り物の宮城県知事の条件反射を見事予測して三木谷君の後出しじゃんけんを誘発させた上、リスクをそっくり肩代わりさせて世間から莫大な同情と人気を獲得し、巨額の出費はきれいに逃れた)。…。

 物的豊かさが隠していますが、いま日本社会では、応仁の乱以来といっていいほどの下克上が密かに進行中。それを感知した天才ホリエモンは、入念に仕組んだ畢生の策謀によって、徒手空拳で旧体制を嘲り倒そうとしているのです。たとえ大失敗に終わろうと、この挑戦は、正に当代の一大痛快事!
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2005年2月9日
536 『愛の流刑地』余談
 同世代の親しい友人4人と先日都心のレストランで夕食歓談しました。お互い今もって何かと多忙で最近ろくに顔を合わす機会もなかったため、久しぶりにワインでも飲み交わしながら四方山話を楽しもうというのが目的でした。が、結果は意外にも、年に似合わぬ熱っぽい議論の展開……。

 主題は『愛の流刑地』。ご承知のごとく、昨年秋から日経朝刊の学芸欄(最終面)で連載中の渡辺淳一氏の小説。隣の友人が突然、「…日経も落ちぶれたもんだ。朝っぱらからあんな不倫男女のポルノを読まされては、たまったもんじゃない。ウォールストリート・ジャーナルやニューヨーク・タイムズでは凡そ考えられんことだろう…」と。

 一瞬一同沈黙。僕を含めて誰も「何のこと?…」といった質問をしなかったのは、みんなこの小説を読んでいる証拠でしょう。僕がまず口を開きました。「日経の買い被りじゃないの…。ただ、昔からあの学芸欄だけは編集方針も記事内容も特色と風格があったのに、渡辺淳一の『失楽園』で購読者増やしの甘い味を占めた。以後の商業主義路線には、高村薫の『新リヤ王』なんか所詮不似合いだったね…」と。

 それからは何と1時間余、この作品をめぐり侃侃諤諤の議論。曰く「いい年をして、よくもあんな場面を長々と…」。曰く「自分が駄目になったので、作品上の女に妄想で淫してるのさ…」。曰く「題名からして、やがて修羅場がくるはず…」。曰く「情事などに耽溺していていい時代か…」。……。

 結局、当然何の結論もつかずに散会となりましたが、帰宅途上いやな予感に襲われました。「“第二の敗戦”とか何とか深刻そうに騒いでいても、結局日本人は知識人を含めて本質的に能天気な国民。そのうち突然、壊滅的天罰が…」と。
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2005年2月2日
535 日本の素晴らしい若者
 今週日曜の夜、僕はNHK教育テレビの「バイクトライアル世界一」を視聴しながら、「トップとそれにつながる芸能番組担当者は腐敗していても、教養番組の制作態度と能力はやはりNHKが抜群…」と改めて感心し、それのみか、視聴されなかった方にはお話せずにおれぬほど感動しました。

 番組の主人公は“バイクトライアル”(ヨーロッパでは若者中心に熱い人気のある過酷無類なプロスポーツ)でアジア人最初のチャンピオンに輝いた藤波貴久選手。父親の教育方針で3歳からバイクで遊びはじめ、10歳で日本選手権に出場し、15歳で日本チャンピオンとなった時点で、この天才児は「高校進学か世界制覇か」という人生の岐路に立ちます。

 一人息子の人生選択に関して両親の意見は分かれましたが、貴久君が「16〜18歳はプロとしての才能の最も伸びる時期だ」という父親の意見に納得するや、一家はヨーロッパ移住を決行。一方では苦しい家計をやりくりし、他方では両親手分けして息子の夢の実現に総知総力を結集した甲斐あって、世界選手権に出場した貴久青年は初回から8位入賞を果たしたのち、年々順位を上げつづけて、ついに19歳で2位の座に…。

 が、英国のドニー・ランプキンとの実力差は大きく、彼は以来後4年間2位の座に定着。この厚い壁を乗り越えるべく、彼は両親に日本への帰国を懇請し、特別編成のプロチームの中で精神と肉体を徹底的に鍛え直す道を選びました。そして迎えた昨年9月、スイスでの世界選手権で彼は宿敵ドニーを破り、遂に待望のチャンピオンの栄冠を獲得したのです。

 藤波親子がただ無言で抱き合って喜ぶシーンに僕が思わず流した涙は貰い泣き、いや、「素晴らしい日本の若者は、イチローだけじゃない…」という爽やかな嬉し泣きでした。
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2005年1月27日
534 日本社会の原風景
 毎週の仕事初めである月曜日は僕の一番好きな日。今週はとくにいい気分で月曜の朝を迎えました。先週十日町で受けた爽やかな感動の余韻が、強く心に残っていたからです。

 織物の生産地として知られる十日町は、中越地方の山間部の中心都市。平山前新潟県知事から諮問を受けたことがきっかけで、僕がこの地方に深い関心と関わりを持つにいたったことはすでにご承知の通りです(Rapport-497&499)。そんなことから、この市の商工会議所の今年の新年会での講演を昨年秋に引き受けた矢先、例の大地震が起こりました。

 何時になく重い気分で現地入りした僕でしたが、講演の前に事務局の方と車で被災地を視察しながらお話を伺っているうち、気分はどんどん明るくなりました。住民が家族・隣人・地域民の絆の尊さに改めて目覚めた…、外部の方々からの支援に心から感謝している…、もっとひどい目にあった人々を思いいたずらにくよくよせず、手を携えて再建と取り組んでいる…、戦前派の僕にとってこれらは全て、あの荒廃の極にあった終戦時の日本社会の原風景を彷彿させてくれました。

 中越地震を報じるマスコミによって、山古志村は今や“日本の原風景”として、国民の注目を集める存在です。この村に象徴される中越地方には、たしかに多くの日本人を魅了する美しい里の自然がふんだんに残されています。しかしそこにはまた、多くの日本人の感動を誘うほど慎ましく律儀で、かつ芯の強い人々の住む社会が失われていなかったのです。

 「…日本人の心に原風景として浮かぶような社会とそこに住む人々の真摯な生き様、それこそが“戦後日本復興の原動力”と信じる私は、中越の復興が予想以上に早く達成されることを信じて疑いません」と、僕は講演を閉めくくりました。
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2005年1月19日
533 子孫にどんな国を残したいか
 新年早々、旧友の佐川八重子さん(桜ゴルフ社長)から、同社35周年の記念にと、一冊の本が贈られてきました。C.W.ニコル著『誇り高き日本人でいたい』です。ニコルさんは柔道修行のため来日してから、事実上の日本在住はすでに半世紀近く、90年代半ばには日本国籍まで取得して自ら「ケルト系日本人」と称する半端じゃない親日家、いや愛国者です。

 今は環境問題の専門家としてマスコミでさかんに発言したり政府委員など公務を引き受けたりする一方、私財で長野県に買い広げていった山林(すでに、広さ何と1万ha)を財団法人化して、モデル植林事業を目指したり、世界レベルの技能を持つレンジャーを養成する学校(すでに8期生、総計600人の学生が卒業して、国内外の林業を中心に活躍中)を運営したりしている超人ですから、Rapport読者の中でも、ニコルさんの名を知らない方はおられないでしょう。

 心から本書をお勧めします。かく言う僕も佐川さんの友情がなければ、この本を手にすることはなかったかもしれません。が、読み始めた僕は、驚くほど随所で感激と共感を味わいつつ一挙に読了してしまったのです。それだけではありません。「我々は子や孫たちに、ほんとうにどんな日本を残したいのだろうか」というニコルさんの切実な呼びかけに応えて、僕も今後の人生での決意を改めて迫られた感があります。

 先週の(財)日本総合研究所グループの新年会で寺島実郎君から、「アジア各国の若い人材が“それぞれの国の利害を超えて世界のためのアジアを創る”ことを目的とした清新な研究教育機関を日本に設立しよう」という力強い提言を受けた時も、僕は一瞬ニコルさんの顔を思い浮かべながら、「よし、やろう」と即座に答え、寺島君と固い握手を交わしました。
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2005年1月12日
532 パソナガーデンの開園
 ご覧になりましたか?「銀行金庫跡に野菜畑」という今週日曜の朝日新聞の一面の大見出しと、工事中の現場写真を含めて紙面の半分を占めるスクープ記事。その内容紹介は省き、ベンチャー起業家の面目躍如たる、その裏話をご紹介します。

 一昨年夏、南部靖之君が僕のオフィスにやってくるや否や、「今の本社ビルの地下で野菜を育てたいが…」と言い出しました。唖然としましたが、そこは25年間慣れっこ。最近は秋田県などと組んで、“新農業”の開発を通しての“新雇用”の創出に異常な熱意を燃やしてきた同君の実績にも敬意を表し、「とにかく現場を見ようや…」ということになりました。

 …現場を見て、また唖然。地下といってもそこは新聞社が輪転機をおいて日夜新聞を大量に印刷していたところ。広さは7千数百?もあったので、「…最初にしては広すぎるよ。賃借料が?○千円以下ならね…」などと注文をつけて断念を期待する一方、「やる以上何よりもまず、関係するあらゆる分野の一流専門家の意見を聞こう」と提案し、同意を得ました。

 こうなると、日本は人材には事欠かない国。早速人脈を駆使した結果、『植物工場』などの著書もある東海大の高辻正基博士をはじめ各界の専門家の協力体制は意外に短期間ででき上がりました。一方、例のビルとの交渉が不成立に終わった後“創業の地”は二転三転した結果遂に、昨秋からパソナが新本社を移した大手町野村ビルの地下に決まったのです。

 この間、「陽光と土壌がなくても育つ地下空間での植物栽培と、その空間の経営的成り立ち方」に関する共同研究も弾みがついてどんどん進み、南部君の途方もない夢「パソナガーデン」は、東京都心のビル街のど真ん中に前代未聞空前絶?の1千?の地下農園として、いよいよ今春実現の予定です。
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2005年1月6日
531 正月まで残った不快感
 大雪に見舞われた大晦日の昼食時、テレビをつけると、いきなり満席の大ホールが映り、舞台には何台かの異様にど派手な装置が並んでいました。「特賞2億円の宝くじ当選発表会…」という司会者の空々しい絶叫を耳にするや、僕はすぐチャネルを動かしたのですが、不快感は正月まで残りました。

 わが国では、明治につくられた法律で凡そ賭け事は違法です。国民の射幸心をみだりに刺激するからという理由からですが、宝くじ・サッカーくじから競馬・競輪まで、政府や地方自治体が胴元となる賭け事は(政治・行政権力共謀の産物である)特別法を盾に、臆面もなく堂々と催されています。

 政府や地方自治体直営ではやれないから、運営を目的にした公益法人をいとも安直につくると、以後は賭け金の中から運営費をたっぷり取る代わりに、幹部には慣習的に天下り役人を延々と受け入れるという仕組み。ことさら“お上”が奉られるこの国で、庶民はその実、心の底では“お上”を信用しない理由の一半は、正にこうした事実に淵源するのです。

 それにしても、零細企業の経営者や貧しい家庭の親たちの多くがどう越年しようかと苦しむこの時期に、“にわか成金”をつくることによって庶民の射幸心をみだりに刺激する正当性はどこにあるのか、さらに、NHKがその愚かしい催しを全国にテレビ放映するために投じた膨大な費用は誰がどう負担しているのか…、僕にはどうしても納得できません。

 因みに、僕は一切の賭け事を否定するほど堅物ではありません。むしろ、賭け事は時に関係者が想像さえしていなかったような社会的成果に繋がると信ずる者の一人。だからこそ、矮小な動機と不公正な手段で賭け事を独占している権力機構の掲げる“公”の一字に、常に激しい反感を覚えるのです。
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2005年1月元日
530 戦後日本の還暦と再生
 謹賀新年。今年は戦後日本が還暦を迎える年。僕のように戦前・戦中を生きた人間の思いは複雑です。改めて頭の中を去来するのは、終戦直後の生活。海外からの帰還軍人や帰国者を含めても8千万人弱の日本人はまともに食う物も着る物も(大都会に住む者の多くは)住む家もないほどの窮乏を強いられながら、世相はそれほど暗くはなかったことです。

 その理由は主に(1)「(戦場や空襲で死んだ人たちに比べれば)生き残っただけでも幸せ」というつつましい考え方と、(占領政策によってもたらされた言論その他の自由をはじめて体験したため)新鮮な解放感が国内に行き渡っていたこと、(2)戦前の教育を受け、社会に育った日本人の多くは、それなりに誠実で、勤勉で、几帳面であったために、国土は荒廃していたとはいえ、助け合いの気持ちを基に治安は高く保たれていたこと、(3)冷戦の勃発を機に占領政策が「日本経済の早期復興」へと大きく転換したため、国民の間に将来への“希望”が澎湃と芽生えたことの3点に集約できましょう。

 「世界の奇跡」とまで賞賛された戦後日本経済の復興と高度成長を経済学者はとかく経済的要因のみで巧みに説明してきましたが、それらは表面的“後追い論理”で、人間や社会の本質には到底迫れませんでした。同じことから、戦後日本が絶頂を極めたバブル期、またバブル崩壊後の長期的な不況期の説明も、経済学者の後追い論理には全く現実的説得力が伴いません。「第二の敗戦」が「第一の敗戦」より遥かに深刻な理由は、日本人の人間的資質がひどく低下した上に、国民として何の希望も見出せないこと。これは60年前の丁度逆。日本の再生は、まずこの認識から出発すべきと考えます。
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