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2009年12月21日

768 グリーンヴァレーの夢よ、実れ!

 幼少からの“航空技術者への夢”が敗戦で潰え、僕は旧制高校の時代に“ポツダム文科”生に転じざるをえませんでした。1年余計に高校生活を送ったことから、文・理系両方に同級生を持つという人生上の思わぬ特典も享受してきた反面、企業はもちろん政治や行政の世界でも「出世には文系(とくに法律と経済)有利」という日本社会の現実には大いに義憤を感じ、機会あるごとにその不条理を世に訴えてきました。

 中国の指導者9人のうち8人を筆頭として、主要各国では理系出身が優位な時代的状況の中で、文系有利という日本の慣習は傾国の原因にもなりかねません。中・韓はじめアジア諸国では、日本の企業で定年退職した技術者を自国へ招聘することが一種の国家戦略になっているのに、くだらない事件には血眼になる我がマスコミは(経営陣から現場のチーフまで文系出身者のためか)一向にこうした問題を報道しません。

 僕の年下の友人である大塚政尚君は、自身が某大企業で“文系優位”の現状を体験した後決然退社して一業を起こし、見事その企業を成功に導いた後NPO法人日本技術経営責任者協議会(JETO)を立ち上げ、理事長として上記の問題を世間に訴えるとともに、問題解決のための組織的努力を傾けています。県や関係市町村の協力のもとに既存の農業と食品産業を革新しつつ、大消費地である東京と結ぶ“グリーンヴァレー”の形成は、群馬県の南部出身の同君の夢の一つ。

 18日、その発表会とも言える会合が大泉町で盛大に開催され、同君の要請でJETOの会長になっている僕も、応援演説をしてきました。熱気溢れる会場から一歩外に出て上州名物の空っ風に吹かれた瞬間、僕は“教師”の半世紀を想起し、「嗚呼、今年も暮れまで走り回る“師走”か」と呟いた次第。

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2009年12月8日

767 『沈まぬ太陽』を見て

 今年度「(坂口)安吾賞」は渡辺謙氏に決定し、選考委員長として近く同氏と会う予定の僕は、この日曜午後、話題作『沈まぬ太陽』を見に、日比谷のスカラ座まで足を運びました。

 ご承知のごとく、山崎豊子さんが十年前世に問うた同名の小説を忠実に映画化したもので、“フィクション”とは断っているものの、冒頭のジャンボ旅客機の墜落事故現場を“御巣鷹山”としていることから、観客は誰でも、この作品の舞台「国民航空」を「日本航空」と同一視するのは至極当然です。

 渡辺謙氏の主演する恩地元は東大出身の同社社員ですが、若くして労組委員長として激しく労働条件の改善を会社に要求しつづけたため経営陣からマークされ、カラチ→テヘラン→ナイロビ勤務という一連の報復人事に会い、家族関係までが崩壊の危機に瀕します。スクリーン上でこの様を注視する観客は、自然に恩地に義憤に似た同情の念を抱かされます。

 社会派作家らしい原作に沿い、ジャンボ機墜落事故の遠因は整備不良→モラール低下→不当労働条件→乱脈経営→政・官・マスコミ関係者の腐敗と単純化される一方、経営危機打開のため政界人事で民間から同社入りする会長と、この会長が(社内きっての硬骨漢としての名を聞き)会長室長に抜擢した恩地、この二人の人物像は極度に理想化されています。

 今や日航は未曾有の経営危機に当面して世間注視の的だけに、この作品は製作者の商業主義にとって絶妙の公演時期でしょうが、日航再建関係者はさぞかし顔をしかめているに違いありません。それにしても、「あれほどの扱いを受けながら、恩地はなぜ辞表を叩きつけなかったのか? 終局的にケニアに飛ばされた彼の心は、アフリカの大自然の中で究極的に癒されるものなのか?…」と、僕には釈然としない作品でした。

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2009年12月2日

766 学問的課題としての“幸福”

 近代経済学の祖アダム・スミスは、有名な『国富論』を世に問う十数年前、『道徳感情論』という題名の本を著しました。当時彼はグラスゴー大学の倫理学の教授でしたが、その本の中で彼が人間の“幸福”の条件として挙げたのは、@健康で、A負債がなく、B良心の呵責もない、の3つです。

 それから約180年後の1937年、ハーヴァード大学では、「幸せの生き方には一定の公式はあるのか」という問題意識のもとに各分野の精鋭な教授を組織し、当時最も聡明かつ野心的で、環境への適応力もある学生(若き頃のケネディ大統領も含む)268人の一大追跡調査を開始し、最近ようやく結果が発表されました。かつてのより抜きの俊才たちのうち10年後には20人、30年後には何と約3割が精神疾患でエリート・コースから脱落、・・・50歳で幸福の7条件(@苦難に耐えうる精神的成熟、A学習意欲の継続、B家庭生活の安定、C禁煙、D禁酒、E趣味としてのスポーツ、F適度な体重)を具備できていたのはわずか106人で、80歳過ぎには、何とそれが半減してしまっていたではありませんか。

 「最後に笑う者が、本当に…」という名言通りこの調査も、人生を終局的に幸福に導く要因は、知性でもなければ氏育ちでもなく、長い時間をかけてつくりあげられた(家族、友人、同僚、先輩・後輩…との)良き人間関係にありとの結論。さぞや「そんなこと、自明の理…」と嗤う方もおられましょう。

 上記ハーヴァード大学の調査は、米国の雑誌『ジ・アトランティック』(本年6月号)に掲載された記事を、実の息子のように親しい趙佑鎮君(多摩大学准教授)が読み、要約して僕に送ってくれた一文を、僕流に強引に解釈したもの。関心深い各位は、何とぞ原典に当たって下さるようお願いします。

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2009年11月25日

765 渥美和彦君の先見

 ほの暗い講堂の出口のドアを開いた途端、余りの明るさに、僕は一瞬たじろぎました。21日午前10時半、見上げれば雲ひとつない青空、散り残った公孫樹の黄色が限りなく透明な陽光に映えて、その下を行き来する人々の顔までが、みな幸せそうに輝いて見えました。約束はあったのですが、すぐにはキャンパスを去りがたく、足は自ずと左折、三四郎の池へ…。

 歩道を敢えて避け、途中から枯葉の急坂を池に向って下りながら、僕の脳裏に蘇ってきた60余年前の学生時代…。日本がまだ戦後の荒廃の中にあった時代、この池の周囲は雑草に覆われ、木々は生い茂り、枯れ残った泥水の上には猫の死骸さえ浮かんでいたのです。その池のほとりに立ち、向かいの滝から流れ落ちる水の快い音を耳にしながら悠然と泳ぐ水鳥や魚を眺めていた時、僕はこれまで経験したことのなかった“母校”への切なる思いに駆られ、暫し佇んでいました。

 その日安田講堂を会場に第13回「日本統合医療学会」の大会が開催され、この学会の生みの親であり現会長渥美和彦君から来賓の一人として挨拶を頼まれたため、本当に久しぶりに訪れた東大でした。挨拶後も残り、大会冒頭の渥美君の講演だけは聴きました。壇上の渥美君は、日ごろ会えば冗談を言い合う彼とはまるで違った威厳と風格を感じさせます。

 東大助教授から教授にかけ医学部医用電子研究施設に属した渥美君。言ってみれば、西洋医学の最先端を担っていた彼が89年に退官後西洋以外の世界各国の医学の成果を医療に取り入れようとする運動を始めると聞いて、僕はもちろん彼を知る誰もが驚きました。しかし、その運動は今や政・官・財・学界の理解と協力のもと、日本のいや世界の未来を拓く医療として花開こうとしています。渥美君の先見に脱帽!

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2009年11月17日

764 憂国の人、孫正義!

 昔も今も赤坂にある僕のオフィスは、(場所こそ7回変わったものの)年齢・性別・国籍・職業・有名無名…を問わず、親しい友人知人たちの歓談の場として開放されてきました。今は共に大を成した孫(正義)君と南部(靖之)君が約30年前偶然知り合った所も、僕のオフィスだったとのこと…。

 その二人から「久しぶりに夕食歓談を…」という誘いがあったのは先月末でしたが、予想外に事は早く進み、先週木曜夜には実現。場所は、汐留のソフト・バンク本社ビルの一フロアの半分を個人で借り、孫君自身が趣向を凝らして創り上げた“静”の世界。いろいろな人から聞いてはいましたが、招かれて驚嘆! いかにもリラックスして仕事ができそうな孫君専用の執務室を一歩出ると、そこには(王朝時代の貴族の館もかくやあらんとさえ感じさせる…)渡り廊下あり庭園ありの純日本風空間が出現。その一隅、窓外に美しい東京の夜景を望む優雅な座敷で、会食は予定の時刻に始まりました。

 予想外だったのは出席者。前原(国土交通相)ご夫妻と竹中平蔵君が加わったのです。もちろんニューヨークから帰国し成田から直行した竹中君は少し遅れて、大臣で超多忙な前原君は更にかなり遅れてジョインしたのですが、みんなが揃う頃には、孫君の憂国の弁は正に最高潮に達していました。

 「年率1%の成長率では、20年後の日本はグロスGDP世界8位に転落するが、もし高度なIT化による工業生産性向上で成長率を3%にできれば4位に留まれるのみか、GDPパー・キャピタでは世界一になれる。そのために、一方では光ファイバー網の完全整備といった情報基盤確立を急ぐとともに、他方では“電子教科書”の全面導入といった画期的教育改革を断行すべきだ…」というのが、孫君の主張です。

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2009年11月11日

763 国と国より、人と人

 今週末の訪日を皮切りに、いよいよオバマ大統領のアジア訪問が始まります。日本滞在はたった1日に対し中国の3日は、多くの日本人には気になることでしょう。先週数日間来日していた親友のエズラ(ヴォーゲル・ハーヴァード大学教授)と去る3日昼食をとりながら歓談した際、彼曰く「米国指導者の中国への関心の高まりは、将来への潜在的恐怖感。だからこそ(対米一辺倒と安心しきっていた)日本の新内閣の(対米見直し、対中・韓歩み寄り=東アジア共同体)外交方針の行方を、米国では指導者のみか広く一般市民まで気にしている…」と。かつての教え子岡田外相や加藤紘一議員とも意見を交わした直後の彼の見解だけに、極めて示唆的…。

 さて、ウォン安もあって遂に266億ドルの貿易収支益(今年上半期)で日本(91億ドル)を大きく引き離した韓国ですが、対日経常収支損は数年拡大しつづけ、今年上半期217億ドルと貿易収支の黒字喰い。が、この数字こそ一種の日韓親密度の反映、と僕は考えます。先週はその韓国から朋友の李(鍾玄)慶北大学教授(半導体の権威者で、アジアサイエンスパーク協会会長)が、経営者40人を引き連れて来日。葉山国際文化村で開催された研修会で、僕は『東アジアの未来とヴェンチャー』と題して基調講演。し終わって、聴き手の熱心さと会場内の超友好的雰囲気には心から感激した次第です。

 韓国の誇る世界的指揮者チョン・ミョン・フンも来日中。僕は何時しか彼と会えば肩を抱き合う仲となり、来日すれば必ず会います。6日にはサントリーホールで、彼はブラームスの「レクイエム」を指揮し、9日には新国立劇場内「マエストロ」での和やかなカクテルパーティーの場で、自らが提案した東フィルの「One Hundred Club」を発足させました。

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2009年10月28日

762 人間万事「塞翁が馬」

 昨年来僕はまた新しい大学設立の事実上の責任者を引き受け、智恵を傾けています。文科省への設置申請名は「事業構想大学院大学」。因みに“事業構想”とは、僕が多摩大学学長退任後宮城県知事の要請で設立に深くかかわった県立大学(=宮城大学)の学部に、わが国で始めて冠した名称。

 一般に知られていませんが、わが国での大学設立は国の認可を必要とする大いに厄介な仕事で、設置者の財務内容、建物や設備類、教員や教科目…全てが審査対象となります。とくに教員と教科目に関しては、申請する学部(ないし学科)ごとに(専門の学者で構成された)大学設置審議会小委員会と称する機関の個別審査をクリアせねばなりませんが、学者先生方は概して発想が保守的ですから、革新的内容の学部(ないし学科)を創設することには否定的になりがちです。

 僕が目ざしたのは「一業を起こすか、または一業を任されるに足る人材の輩出」で、そのための教科内容はどの学問にも収まりきれません。そこで考えた末、共に学界用語ではない“事業”と“構想”を結びつけ、趣旨と教科内容を案出して文科省に申請するとともに僕自身で同省担当課へ出向いて説明し、所定の手続きを経て何とか認可に漕ぎ付けました。

 仙台では、「東京からやってきた学長が、変な名を…」といった程度の受け取られ方でしたが、東京ではその名と趣旨を評価してくれた人がかなりいました。しかも、かねてから独自の大学院大学の創設を胸に秘めながら僕のことを注目してきた一人の若い創業経営者は、大学名はこれしかないとわざわざ僕のところに来られ、意気投合し、その設立推進役まで僕に託してくれました。僕にとっては三つ目の大学創設。人の巡りあいの妙を改めて感ずる昨今です。

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2009年10月22日

761 グーグルとカヤックの“会社員革命”

 80歳を超えた今も感動、感激するような人や状況にめぐり会えることは、若い頃には想像できなかった人生の至福! 昨日午後、一つ年下の親友で建築家の沖塩(荘一郎)君に連れられて、鎌倉に「カヤック」社を訪ね、代表取締役の柳澤大輔君との心躍る歓談に、それこそ時の経過を忘れました。

 同社は、74年にSFC(慶応義塾大学湘南藤沢キャンパス)を巣立った同級生3人が一度は社会人として別々の道に進みながら、後年再び集い散々語り合った末98年に創業資金3万3千円で立ち上げたウェブ・サービスの会社。「今や社員70人・年商7億円にまで成長…」だけでは誰も大して関心を抱かないでしょうが、「面白法人カヤック」と聞くと「会社案内でも…」と思い、装丁も内容も凡そ他の会社と違ってまるで漫画本のような会社案内を一覧するとその会社を訪ねてみたくなり、(桜並木の美しい若宮大路に面した瀟洒な四階建てビル内の)オフィスに一歩足を踏み入れた途端にあっと驚き、社員の誰かから会社生活の楽しさをいろいろ聞かされて、必ず感動、感激せずにはいられなくなるのです。

 「(どんな仕事でも創造性に燃えて)つくる人を増やす。」は同社の経営理念。「(社員間でも顧客との間でも、仕事の喜びを共有するために)“何をするか”より“誰とするか”」は同社設立以来のキーワード。社内の上下関係を排し、誰もが“好きな場所で、好きな時間で、楽しく…”仕事し、“各人にしかない個性でもって社会に貢献する”ことを目指す…全てユニークな同社のオフィスを見学しながら、僕の脳裏には常にグーグル社の“キャンパス”が浮んでいました。スケールも考え方も全く違うとは言え、両社は共に21世紀の“会社員革命”の先駆者として、歴史に名を残すことでしょう。

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2009年10月14日

760 友を選ばば、才長けて…

 台風一過の先週末、富田直美君とゴルフ。飛ばし屋で方向性抜群の同君とスコアを競うのは無理ですが、たまに僕がオーバードライブすることがあるのが、何よりの楽しみ。その日も負ける度に、「20歳も若い奴にオーバードライブされるのが悔しい…」と嘆いては、キャディさんに慰められました。

 同君はピクチャーテル社など複数の外資系技術革新型企業の社長を務めた上に「アジア・ラジコン協会」会長にも推され、世界を股にかけて活動するかたわら、日本では愛用のポルシェ、ハーレー・デイビットソン、Qカー(小型電気自動車)を乗り分けて神出鬼没に動き回り、世事万端に驚くほど通じ、とくにICTや“メカトロ”の知識と経験は超一流。

 その日早朝ゴルフ場に向う車内での話題もなぜかCAE(computer-aided engineering)。「S社にもう革新的製品は期待できない…」という話から、同君が例に挙げたのは何とF1。「生産にせよ開発にせよメーカー現場と本部との関係は、レース中のF1ドライバー+自動車とそのチームのコマンド・センター(CC=監督以下数十名)の関係と同じ…」という前提から、「F1の場合は、両者が無線の音声+テレメータ・システムで常時一体化され、車の各部のセンサーから送られてくる走行中のデータを常に把握しているCCと、ドライバーとの高度なリアルタイム・コラボレーションが行われている。したがってF1の勝敗は、メカ(=メーカーで言えば生産設備)の性能ではなく、ドライバー(=同じく、現場スタッフ)の優れた技術+感性+表現力と、CC(=本部スタッフ)の迅速かつ適切な組織的判断力との緊密なチームワークで左右される。S社には今や、一流のドライバーもCCスタッフもいない…」という結論。実に説得力のある説明でした。

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2009年10月2日

759 “ものづくり論”を考える

 誰が言い出したかは知りませんが、日本の産業が論じられる場合“ものづくり”という言葉がよく使われます。企業経営を専攻分野とする僕も、これまで“ものづくり”についていささか話したり書いたりしたことがあるだけでなく、埼玉にある例の「ものつくり大学」(総長・梅原猛氏)の設置母体(=学校法人国際技能工芸機構)の理事を4期も務めました。

 “ものづくり”の定義は、「製造業≒工業を平易に表現したもの」から「ある設計情報を素材=媒体に転写していく過程」(東大ものづくり経営研究センター)といろいろですが、“ものづくり”論者は何れも、“日本的独自性”を強調します。そうした論も、日本人のDNAの中に刷り込まれている独特の“ものづくり”能力の強調から、“ものづくり”に適合している日本社会の伝統的特質の強調まで、実にいろいろです。

 “ものづくり”論者ではない僕は、日本民族やその社会が他民族との比較で、とくに製造業に適性があると考えてはいません。ただ、国の地理的・気候的条件や国家としての歴史的条件等の好運が重なり、優れた自己開発型農業を基盤として特異な文化を持つ“同質社会”(=阿部謹也氏の解明した“世間”)が成熟した時期に、(明治維新を契機に)実にタイミングよく欧米発の“工業化”が巧みに受容され、結果として、世界に冠たる“ものづくり”国家が形成されたと考えます。

 19世紀〜20世紀を通じ“工業化”を成功させた国々の中で日本は唯一の非欧米国であったため、識者は“ものづくり”という言葉で日本人の民族的ないし社会的優位性を主張できました。“情報化”と呼ばれる時代的趨勢とともに“工業化”が世界的に急速に新展開しつつある21世紀は正に、日本・日本人の“ものづくり”能力の真価が問われることになるでしょう。

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2009年9月24日

758 文化は政治・行政の最果てか

 「書」は東洋独特の造形芸術で、日展((社)日本美術展覧会)でも1946年以降戦前からの日本画、洋画、彫刻、工芸美術に次ぐ第五の芸術部門に加えられたのはご承知の通りです。杭迫柏樹さん(日展・常務理事など)は現在日本の書道界を代表する一人ですが、悪筆を自認する僕は、どういうわけか杭迫さんの東京での後援会の会長に祭り上げられています。

 先日のこの会で隣の杭迫さんが「…塩川(正十郎)先生にお会いしたら、最近ヨーロッパでの会議に出席された際、外国の出席者からいきなり『日本には文化はないのか?』と迫られて、何のことかと質すと、『…今度の総選挙のマニフェストを読むと、自民・民主両党とも文化については一行も触れていない…』と指摘され、考えさせられたとのこと…」と。

 一同暫しその話題を巡り盛り上がりましたが、その晩帰宅した僕は、早速インターネットで「文化予算」を検索したところ、文化予算の増額をその理由と具体策を含め堂々と主張している政党はなんと共産党のみ、公明党がわずかに“要望”を掲載しているだけで、自民・民主両党に至っては全く無掲載。両党のマニフェストの“文化”欠落は十分裏付けられました。

 欧米人から見れば、日本は(固有の文化を十分誇れる国であるにもかかわらず、政・官・財界指導者とも一般に文化には無関心なため)、経済大国にしては“文化”への比重のかけ方が異常に低い国であることは事実です。68年文化庁が設置され、また01年「文化芸術振興基本法」が成立しましたが、“文化予算”は一向に伸びず、今もって国家予算全体のわずか0.1%で、ヨーロッパ諸国の10分の1程度に留まっています。

国家財政の現状と在来の財政構造パターンを前提として、いかに文化に力点を移すかは、民主党政権の重要課題でしょう。

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2009年9月15日

757 俊才よ、新党を目指せ!

 “地殻変動”的選挙の後遺症で、惨敗の自民党はもとより圧勝の民主党でも事後処理や新体制づくりで党内は慌しいらしく、そのゴタゴタから暫し逃れんためか、昨今僕のオフィスには、政治家の友人・知人の来訪が目立ちます。相手の立場に過度に気を配らず、積極的に自説を述べるのが僕の流儀。例えば、先週来訪した藤末健三君(民主党、参・現)、片山さつきさん(自民党、衆・前)にはそれぞれ、既存政党を超える新党の創設を進言しました。

 藤末君(1964年生)は東工大→通産省(現経産省)→MIT留学→東大助教授→参院議員(04年参院選全国区で民主党から立候補当選)。片山さん(1959年生)は東大→大蔵省(現財務省)→フランス国立行政学院留学→財務省主計官(女性初)→衆院議員(05年衆院選で自民党から立候補当選)→09年衆院総選挙で落選。お二人は性別と所属政党こそ違いますが、ほぼ同世代である上に日本型秀才コースの典型と言っていいその経歴は、甲乙つけ難し。

 二人は共にかつて輝かしい未来を信じて、若き官僚となったはずです。利口ですから口にはしませんが、彼らを待ち受けていていたのは、(少数の例外を除けば)無知で、下品で、傲慢な政治家たちへの不条理な“奉仕”だったはず。折に触れ“脱官僚”を口にするくせに、官僚の力を借りなければ本務を遂行できない政治家に接すれば、自分たちがとって代ろうと思うのは至極当然・・・。

 “時の運”も利して初回の選挙で赤バッジになったとはいえ、二人が始めて体験した政治家の世界は、不当な年功(当選数)序列や世襲・金権・・・、奇奇怪怪の派閥活動と手練手管・・・の横行。「今回の選挙結果は自民党拒絶であって民主党支持ではない、というのは識者の一致した意見。とすれば、やがて流動化する政局を見据え、両党内の“同時革命”により清新な第三党でも結成されては・・・」という僕の進言への返事は、共に意味深な微笑でした。

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2009年9月7日

756 政治家たちの秋

 自民党の歴史的敗北に終わった総選挙から早くも一週間。結果として大勝した民主党鳩山代表が総理大臣に就任することを当然予想してはいたのですが、マスコミにより次々に閣僚の顔ぶれを知らされるにつれ、率直に言って、「面白うて、やがて“空しき”…」という気持に陥らざるをえません。

 同党のマニフェストも心躍る内容から程遠かったとはいえ、あの顔ぶれの内閣が、したたかな官僚の関与を極力排して清新かつ実効性のある政策を打ち出し、国民に希望をもたらしてくれると確信する人は、まずいないでしょう。一番驚かされたのは、目玉とされる「国家戦略相」という大げさな名称…。

 菅直人氏が担当大臣に擬せられていますが、本来国家戦略を実行に移すのは鳩山総理の仕事。両氏は氏・育ち、人生経歴、主義・主張・・・が全て大きく異なっている上に、民主党の幹部構成そのものが自民党の最も古い体質の持ち主から旧社会党右派の闘士までを包含し、更に、今回の組閣では社民党と国民新党から有力者の入閣が予定されているとのことですから、果たしていかなる国家戦略が生まれてくるのやら…。

 それにしても“奢った平家”の自民党は、週刊誌などが伝える落選議員の落魄ぶりもさることながら、(比例代表で首の繋がった連中を含め)当選議員間の支離滅裂ぶりは、哀れと言うも愚か…。ただ、今回唯一の快報は、彼らが党よりも国家よりも頼りにしてきた“派閥”の事実上の壊滅でしょう。

 “衆愚”に傾きがちな民主主義を守るために、例えば法律を改正し、立候補者自身の選挙活動を禁止してはどうでしょうか。いい齢をして鉢巻頭で巷を走り回ったりせず、支持者に選挙運動を任せて夫人と悠々海外視察の旅にでも出ている、そういった人物こそ選良にふさわしい、と僕は信じます。

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2009年8月24日

755 経済団体から見た中央と地方

 「先週は那須白河のリゾートホテルへ泊まって友人とゴルフを楽しんでから、会津若松で開かれた今年の同友会の夏季セミナーで講演をしてきた・・・」と僕が言うと、“財界人”を自負する東京の経営者ならば、多くはけげんな顔をするでしょう。彼らにとって財界夏季セミナーは毎年必ず軽井沢のホテルで開かれ、今年はとうに終わってしまっているからです。

 ご承知のごとく「同友会」は、東京では「経済同友会」の略称。それは日本経済団体連合会(=日本経団連)および日本商工会議所(=日商)と並び“経済三団体”と称せられ、折にふれ政治や行政に対し高邁な政策提言などを行うとともに、(会員総数1万数千名ながら)知性派の誇り高き団体です。ただこれら三団体は日本の主要都市に支部を置く全国組織とはいえ、(永田町も霞ヶ関も無い)地方での存在感と活動実績は、残念ながら、東京におけるそれに比すべくもありません。

 宮城大学長として仙台に住んで僕も始めて知ったのですが、当地の財界人(=地元大企業経営者ないし東京の大企業の支店長クラス)とその関係者以外の一般市民の間では、「同友会」とは、むしろ「中小企業家同友会」を意味します。中小企業家同友会は、地元の中小企業家たちが各自の企業活動に本当に役立つ勉強と交流を目的として、各県ごとに自然に育てあげた任意団体群で、現在会員数はとうに4万を超しています。

 この会は地域密着型であるだけに、個々の活動も運営も極度に自由裁量的ですが、相互の連絡は密で、全国協議会(=中同協)の下で各団体間のインフォーマルな情報交換が組織に柔軟性を与えているように思われます。学長時代に宮城大学を会場として始まったこの会の「同友会大学」での僕の基調講演は毎年9月初めで、今年が12周年。来週が楽しみです。

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2009年8月11日

754 奇跡のりんご

 目下ベストセラーの『奇跡のりんご』(石川拓治著、幻冬社刊)をご存知ですか? 青森の一りんご農家木村秋則氏が無農薬・無肥料に徹した栽培法で比類の無い味と生態力を持つりんごを実らせることに成功した物語。近代農業の常識を覆した快挙と言える氏の波乱の人生は、すでにNHKTV『プロフェッショナル 仕事の流儀』(06年12月放送)で全国に流され、視聴者の間にこの番組空前の反響を呼んだものでした。

 農家の次男に生まれながら、幼い頃から農業嫌いで無類の機械好き、高校時代には簿記一級を取って京浜地区の一工場で原価管理の仕事に就いた木村さんでしたが、結局は人生のめぐり合わせで故郷に戻された末に農家の婿養子となります。元来性に合わない農業と取り組んでますます疑問を深めていった氏は、ある日偶然手に入れた福岡正信著『自然農法』に惹き付けられ、それを繰り返し読みながら、この農法を自分のやり方でりんご栽培に応用しようと、固く決意しました。

 それが、氏の人生の苦労の始まり。四半世紀間の失敗に次ぐ失敗、誹謗と中傷・・・、挫折感と生活苦に疲れ果てた氏は、ある晩遂に首を吊ろうと山に入ります。が、決行の直前月光に照らされて凛然と立つ椎の木に思わず心を奪われた氏は、「農薬も肥料も貰わぬこの木が何故かくも・・・」という設問から、自然木を支える強大な根とそれを育てる豊かな土壌に気づき、それをヒントに、遂に宿願を果すことができたのです。

 先月末の「青森立志挑戦塾」では木村さんを講師としてお招きし、直にお話を伺いましたが、その間僕の心には繰り返し「自然の手伝いをし、その恵みを分けて貰う。それが農業の本当の姿なんだ・・・」という氏の含蓄のある言葉が蘇りました。

(*お盆休みのため、来週のRapportは欠号とさせていただきます)

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2009年8月5日

753 官僚たちの夏

 旧友城山三郎君が逝去してすでに2年余りになりますが、その真摯な人柄にふさわしい数々の格調高い作品に対する人気は高まるばかりです。夏と言えば、戦後の日本経済が高度成長の最中にあった時代、その牽引力の役割を果たしたといえる通産官僚の頼もしい姿を描いた『官僚たちの夏』は同君の代表作。それを原作にした同名の連続TVドラマが先月から毎週日曜夜に放映されていることはご承知の通りです。

 19世紀以来の“工業化”が(第二次世界大戦後のコンピュータの出現と急速な技術進歩により)“情報化”という新しい歴史的段階に入りかかった60年代、逸早くそれを認識した通産省(現経産省)は69年に「電子政策課」を設置し、国家としての対応策を進めるべく、初代課長には平松守彦氏を抜擢したのです。丁度その頃僕が責任者となって進めていた(日本初の公益法人形式の)シンクタンクの設立事業は、翌70年夏経済企画庁(現内閣府)・通商産業省(現経済産業省)共管の(財)日本総合研究所(初代理事長 茅誠司氏)として正式認可されました。何とその際通産省側の所管課は「電子政策課」。平松さんと僕との“運命的”出会いが生まれたと言えます。

 去る日曜夜放映の『官僚たちの夏』の主題は、コンピュータ国産化の鍵とされたIBM社との特許料交渉。各社が個別に交渉するにしては相手が強大すぎることから通産省が前面に出ることになり、平松さんがIBMのバーゲンストック副社長と膝詰め談判の結果、相手の要求を大幅に減額させることに成功したのです。テレビ画面で堺雅人演ずる平松課長の使命感あふれる不屈かつ誠意ある説得力は多くの視聴者を感激させたに違いありません。見終わってすぐ平松さんの自宅へ電話し歓談しながら、よき友を持つ幸せを満喫しました。

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2009年7月26日

752 A MOMENT

 一瞬照明が落とされた大ホールで、それはドビュッシーの妙なるフルート曲で始まりました。ヨーヨーを巧みに操るダイナミックな踊り、スポットライトで白い衣裳がひと際映える美女二人が交互に歌い上げるオペラ歌曲の美声・・・、圧巻は、ステージの奥の壁面全体を使い、快くビートが響くBGMが心憎いほどマッチする現代都市建設現場の変幻自在のスライド映像、そして最後に、9名の専属女性モデルと3名の男性ゲストモデルが交互に登場する粋なプレタポルテ・コレクション。去る23日夜、六本木にある「グランド・ハイアット東京」で開催されたコシノジュンコさんの『A MOMENT』でした。

 有名なファッション・デザイナー三姉妹の一人ジュンコさんとは親しくお付き合いしています。いや、ご主人で個性的写真家+ショートショート作家として玄人間で評判の高い鈴木(弘之)さんと僕の気が合ったことが、ジュンコさんへの親しみを殊更に増したと言うべきでしょうか・・・。上述の都市建設現場のスライド写真は、膨大な近作から鈴木さんご自身が編集され、またBGMは、ご子息の順之さんが父上の編集作品を眺めつつ『ターミネーター』の主題歌などの現代音楽メロディーから合成されたとのこと。このご一家の“結束力”と“芸術性”のお蔭で、一夜を堪能させていただきました。

 芸術と言えば、僕は子供の頃に習ったピアノもヴァイオリンも全くものにならず、絵もからきし駄目で、当然まともな鑑賞能力もあるはずはありませんが、そのために、あらゆる分野で高い評価を受けている芸術作品とそれにかかわる人々(=芸術家)には(わかるとか、好みを超えて)深い敬意を抱いてきました。おかげでその世界に多くの友人を持てたとすれば、それこそ“望外の幸せ”と言えるに違いありません。

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2009年7月14日

751 地域活性化の盲点

 先週土曜午後は地域活性学会で「地域活性化の盲点」と題して特別講演、と書くと、親しい僕の友人たちは、「なんでノダちゃんがそんなテーマで・・・?」と首をかしげるに違いありません。この齢になっても、ほとんど毎週どこかで講演をしていますが、昔と違うのは、“基調”とか“特別”という名のもとに本来の専門分野ではないテーマでの講演の頻度が大幅に増えたことで、来週以降も「植物工場への期待」、「ロジスティクス的思考」・・・といったテーマの講演が目白押しです。

 かといって僕は、依頼があれば、何でも気軽に引き受けているわけではありません。ただ、昔から好奇心が旺盛でかつ行動的だったため、齢とともに関心・活動・関係領域がどんどん広がり、上記を含めいろいろな問題に関しては、それぞれの専門家の方々に対して積極的に提言したいことが一杯あるのです。もちろんだからと言って、僕は専門領域ではないことに甘えていい加減な話をする気はなく、長い講演はもとより短い挨拶の場合でも、事前にそれなりの検討なり準備をし、自信を持って壇上で胸を張り堂々と話すことにしています。

 “地域活性化”に関しては、「対象は行政区域ではなく、重点は地域の経済力よりは住民の精神的充足感に置かれるべき」というのが僕の基本的主張。土喰集落とジェフ(Rapport−747)の例のように、行政から見放され経済的にも社会的にも事実上孤立化した地域ですら、優れたリーダーさえいれば、十分“活性化”は可能です。対照的な愚例が(小泉政権時代に始まる)“行政主導”型地域再生政策(終末的には、今年度補正予算の2つの「地域活性化・臨時交付金」)。このような政策は、各行政区域内の住民の精神を安逸と退廃に導くだけ。地域活性化に関して、国家はあくまで脇役に徹すべきです。

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2009年7月7日

750 土喰村にジェフを訪ねて

 先週土曜夕刻、鹿児島空港到着ロビーには、ジェフの笑顔。熱い気持ちを込めて交わす固い握手。1時間半をかけて、車でわざわざ迎えに来てくれた彼、電話とメールを通じて、二人の間には、すでに旧友のような親しみが育まれていました。

 Rapport−747でご紹介したように、米国の恵まれた家庭に生まれ育ったジェフは、名門大学を卒業して一度は大企業に勤めながら、「・・・何かが違う」と考えて決然祖国アメリカを去り、少年時代から憧れた日本へ渡り、しかも(各地を訪ね歩いた末)南九州に惹かれて定置網の漁師まで体験した後、人口28人平均年齢81歳の土喰村に住みつき、やがて頼られて世話役となるや、村に俄然活力を蘇らせた異色の傑人です。

 翌朝は青森県庁の職員二人と、いよいよ土喰村へ。着いて見ると、その名に反してそこは意外にも、梅雨晴れで殊更気を良くしたような長閑けさの典型的山村。ジェフは早速僕たちを村民それぞれの家に案内し紹介してくれた後、自宅へ・・・。

 ヨーロッパの田舎にあるような牧草地の丘の上に建つジェフの自宅は、昔は放牧牛の監視小屋だったとのことですが、場所に惚れ込んだ彼は老朽化した小屋を自力で改造に改造を重ね、今や素敵な夫人と可愛い二人のお子さんとで暮らす“スイート・ホーム”に造り上げたのです。さすが、米国人特有の“開拓者精神”の持ち主だと、改めて彼に尽きぬ敬愛の念。

 そこで、夫人心づくしの昼御飯までご馳走になり、その後は、集会所に集まった村民の方々から手製のおやつを頂戴しながら存分に歓談の時を過ごして、再びジェフの車で帰京の途へ。物理的には実にせわしく、心理的には実にゆっくりと時間の流れた一日を、帰路の機内でしみじみ懐かしみました。

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