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2017年7月6日

971 予想外の卒寿の宴

 健康に歳を重ねてきた私は、「卒寿の今年6月22日前後はいろいろお祝い会が重なるはず…」と覚悟はしていたが、その数は予想を遙かに上回った。「梅雨の最中でもあり、産業界各社の“株主総会の季節”でもあり」という理由で、先駆けは何と5月22日。これまで関係のあった5経済団体の共催。  
                 
 しかし一学究の身。数百人のささやかな会を予想していたが、当日来会者は千人近くに及んだのは、今も信じられない。石田純一君の司会で始まった会は、冒頭、小泉純一郎元首相の来賓代表挨拶、ジュディ・オングさんによる花束贈呈、友人代表茂木友三郎キッコーマン名誉会長の友情溢れる祝辞で始まった。
   
 宴会前には、(若い頃、僕の赤坂オフィス来訪の常連で、早々と世に名を成した)“ベンチャー三銃士”のうち澤田秀雄HIS会長兼社長と南部靖之パソナグループ代表との対談が行われ、海外出張中の孫正義ソフトバンク社長は、わざわざビデオメッセージを送ってくれたではないか。衷心喜びを感じた次第。僕は何たる幸せ者!
   
 我が人生を振り返れば、幼くして、日本の航空技術者を先駆けた父を憧れ、父に続こうとした青年時代までの一途な努力が、旧制高校時代の国家の敗戦で水泡に帰してから70年。心ならずも文科に転じ、社会人となり先ず大学教員としての職を得た時点でも、その職で人生を全うする気は全くなかったものだ。
   
 だが「人生万事塞翁が馬」。早々と米国留学を果たした一先輩が土産にくれたP・ドラッカーの書に感激し、僕がその書の翻訳監修をしたことが縁で彼との交友が生まれ、MITに招かれ、2年間の研究生活の過程で“起業家”という絶好の研究テーマにも巡りあい…、僕の学者人生は終生活気に満ち満ちた。

  以来60年、素晴らしい起業経営者と相知り合い、多くを学び、学んだ成果を抽象化して書き語る一業界を中心に、人間関係をいろいろな分野で自然に広げ、かつ深めてきた。この間にどんどん増えた友人たちと、結婚満60年を迎えた妻と4人の子供たちに、心からの感謝を捧げつつ、本稿を終る。
   
                                                 

2017年6月5日

970 卒寿を迎えて懸念すること

 今年も僕の誕生月の6月がやってきた、22日で満90歳を迎えるのだが、“卒寿”というとくに目出たい誕生日ということで、家族や友人、教え子や秘書たちそれぞれの心のこもった毎年恒例の祝いの集まりの他に、関係する団体が開いてくれる祝賀会まで加わり、幾つかは既に先月開催された次第。実に有難いことだ。  
                 
  僕が日頃関係している5つの団体が先頭をきって先月22日夜、品川のホテルで開催してくれた祝賀のパーティーは、(それを知るや)率先、「オレが…」とおっしゃって下さった小泉元首相の乾杯と(僕の娘と自認してくれている)ジュディ・オングさんの花束贈呈の後、世に“ベンチャー三銃士”と言われる創業経営者のうち澤田秀雄(HIS社長)・南部靖之(パソナ社長)両君の対談および(当日海外出張のため、孫君がわざわざ事前に作成してくれた)ビデオ・メッセージで華やかに開始されたのだが、はじめは(600〜700人と予想されていた出席者がなんと千人になんなんとする盛況だったことは、僕にとって、正に望外の幸せだった。
   
 ところで、最新の政府統計によると、日本人男性の寿命は平均で女性86・99歳、男性80・75歳だが、“健康寿命”となると女性75・5歳、男性71・5歳ということだから、僕は90歳で仕事に遊びに昔通り毎日元気な充実した時を過ごせる自分の幸せを、(大いにオーヴァーな表現と自覚しつつ)友人・知人とワイフ・ 子供たちに心から感謝しつつ毎日を過ごしている。
   
  「元気に毎日を過ごせる」とは言え、この歳の元気老人にとっての最大の不幸はと自問してみれば、すぐ頭に浮かぶのは、同年 で元気な友人が絶無に近くなることだ。恐らく彼らは今頃“三途カントリー倶楽部“でゴルフをしながら、「ノダちゃん遅いね…」などと語りあっていると思うと、この世であまりに長生きしてあの世へ行く頃には、彼らの大部分も更なるあの世に旅立った後で、僕をがっかりさせるかもしれない。長生きもほどほどか…?
   
                                                                                                         

2017年2月21日

969 僕を“師匠”と呼ぶ長官

 観光庁長官としては国民から抜群に人気のあった溝畑宏(ひろし)君は、現在は大阪観光局理事長として東奔西走の大活躍をされていますが、もう十数年来、会えば所嫌わず僕のことを「師匠!」と大声で呼ぶので閉口しています。…「やめてくれよ」と何回も注意したのですが、一向にやめる気配はありません。  
                 
 そもそもの原因は、同君がかつて内務官僚時代に大分県に出向しておられた際、上司として仕えた知事平松守彦さんの人柄に惚れこんだことにあります。僕は、その平松さんが通産官僚として大活躍されていた頃に相知り合うや意気投合し、“ノダちゃん”・“ヒラマツちゃん”と呼び合う仲になりました。
   
 そのことを知って以来溝畑君は、僕を「師匠!」と呼ぶようになったのです。先週はその同君と共に、会津若松市に講演旅行。…ご存知でしょうか? 一昨年から文化庁は“日本遺産“という認定制度を開始しました。名称から“世界遺産“が連想されますが、日本各地に点在する文化遺産や自然遺産を“面”としてとらえ、広く発信することによって地域活性化を計ることを狙った点、正に観光庁顔負けの感ある政策です。
   
 一昨年からわずか2年間ですでに37件が選定され、昨年は「会津の三十三観音巡り」がその一つに入ったことは、会津の政・財界指導者はもとより住民の方々を喜ばせ、“観光”需要の急増を期して今回の会合が開かれ、溝畑氏と僕とが講師としてお招きを受けたというわけです。予定人員を遥かに超えた来場者用に補助椅子が準備され、しかも、終了予定時間が来ても客席には空席がほとんど見られなかった状況にわれわれも励まされ、二人で交互に楽しく喋り続けた次第です。
   
                                       

2016年12月24日

968 「神ってる」って、流行っているかしら…?

 今やわが国社会では年末の“国民的関心事”の一つにさえなっている(自由国民社『現代用語の基礎知識』の)「ユーキャン新語・流行語大賞」の今年度第一位は、なんと「神ってる」。…プロ野球ファン、しかもセ・リーグファン以外には広く知られてはいなかったはずの(「広島カープ」の緒方監督が優勝決定直後に思わず吐いた)その一言。 実は少年時代から虎キチ”の僕は、その一言をもちろん知ってはいましたが、それが今年の流行語大賞第一位になったことは、全く意外でした。  
                 
 この春、一主婦がブログに投じて以来広く長く世の話題となり、僕がRapport-959 でも取り上げた「保育園落ちた日本死ね!」は、第六位。投書が年初だったとは言え、これは納得できません。僕たち夫婦は幼い頃長女を亡くした後、三男一女に恵まれたこともあり、また時代のせいもあって、ワイフが外に働きに出た経験は僕にはありませんが、「保育園落ちた日本死ね」と叫ぶ女性の怒りと哀しみは十分理解できます。たしかに、わが国の現在の社会的・経済的状況の中で、保育園需要だけを短期間に完全に満たすことは、所詮無理でしょう。
   
 しかしながら、外に職を求めざるを得ない主婦たちが、在宅の仕事でそれなりの収入を得られる体制が、国家的プロジェクトとして可及的速やかに整えられ、あくまで現実主義的に実施されることを、僕も念願します。もちろん、立案し実施に移すことは諸般の事情で容易ではありませんが、こういう時こそ安倍首相の決断力の見せ所と、僕は期待しています。
       
                                          

2016年11月22日

967 今こそ、大澤尚宏君に期待する

 『日経ビジネス』誌2014年9月22日号の「隠れ介護1300万人の衝撃」と題した大型特集記事は、日本の産業界各社のとップや人事担当者に衝撃を与えました。静かに“高齢化”が進行中のわが国で、各企業はその事業分野・その企業規模に関わらず、自社の中高年社員の多く(同誌の推定で、約1,300万人)は密かに“隠れ介護”に悩まされ、結果として、そのうち相当数の人々が退社の決意までせざるをえなくなっているという厳しい現実を、この記事は初めて大々的に世に伝えたと言えます。  
                 
 しかも、日本企業のトップはもとより人事担当者も、日本社会のこの不可避的趨勢が自社に与えるマイナスの影響を観念的にはとうに理解しつつも、自社の経営に与える具体的インパクトとその有効な対策の検討までも行っていた企業は絶無に近い状態でした。その原因は、親の介護に悩む社員は(日本企業では)概して高年齢≒長期勤続≒管理職社員で、自らの悩みを会社に申し出ることのマイナス効果を怖れ、最後の最後の段階で決意を迫られるまで、“隠れ介護”に徹しつづけるからです。
   
 それ故なお更、彼らから突然退社の申し出を受けた会社側の困惑と打撃は(程度には個別差があるとは言え)大きく、(経験も準備もなかった)対策に大童にならざるをえないのです。ところが、すでに20年も昔からこの種の現実を憂い、その具体的解決を目的とするベンチャーを起こした人物がいます。
   
 リクルート社出身の大澤尚宏君。彼は“将来の日本に絶対必要なこと”を実現すべく、先ず“ノーマライゼーション”=障害者の社会生活向上を目的とした活動で一応の実績を残した後,すでに十年前に“オヤノコト”の名で早々と「高齢の親とその面倒を見る中年の子供の“望ましい関係”の形成と持続」を目的とするベンチャーを起こし、着々と実績を重ねてきました。その彼にいよいよ、実力を存分に発揮する時代が来たようです。
   
                    

2016年11月22日

966 ドラッカーをめぐって

 先週末(11月19日)には長崎で今年度(第12回)ドラッカー学界全国大会が開催され、僕は全国から参集した百数十名の出席者を前に、講師として90分の講演をしてきました。多忙な日程をあえて割いた理由は二つ。一つには、同学会発足以来の顧問職を、今年度限りで勇退させていただく挨拶代わりにしようと決意したこと。いま一つは、この大会の講師のお一人だった岩崎夏海氏に対し'直接に心からお詫びすることでした。  
                 
 2003年のこの学会の東京での年次総会での講演の結びで僕は、当時べストセラーとして広く世間の話題の的となっていた岩崎氏が出版された“もしドラ”(『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』)を、(読みもしないで)しかも痛烈に批判しましたが、それを読んだ友人の一人から、「同書の内容はそのタイトルから連想されるほど低俗な本でではない」と教えられ、深く反省したものです。
   
  …かと言って、その後今日まで僕は同書を読んでいませんし、また、読もうとする気もありませんが、とにかく、読みもしな いで同書を痛烈に批判した自分を深く恥じ続けてきたからです。その後も同書を読んではいない僕ですが、とにかく自分が“その場”の感情に駆られ、読んでもいなかった本の著者を公の場 で痛烈に皮肉った自分を、その後は心中で責め続けてきました。
   
 お会いした岩崎氏の印象は予想以上の“紳士”で、講演前の僕の“お詫び”には、当方の心が痛むほど和やかに対応してく ださり、大会終了後の夕食会では、わざわざ僕の席の隣の席に奥様とご一緒に座って、終始歓談の相手をしてくださったことは今回の九州の旅の、いや生涯忘れえぬ思い出となりました。 …かといって、僕は未だ『もしドラ』を読んではいませんし、恐らくこれからも読むことはないでしょう。内容はともかく、あの本のタイトルは、僕の親友ドラッカーには似合わないので…。
   
                                     

2016年9月9日

965 会社就職は大卒者の王道か?

   昨夜は明大駿河台キャンパスの大教室で、日本私立大学連盟主催の公開講演会(テーマは「起業家精神と日本の教育〜 教育改革の一つの視点」)が開催され、僕は二人の講師の一人として熱弁を奮った後,出席者の方々との間でも熱い質疑応答を交わしました。主催者は日本の名だたる私立大学百数 十校が加盟する一般社団法人日本私立大学連盟だけあって、日本の大学に近年広く定着した異常な就職活動の反省を感じさせるテーマを掲げ、かねてからその異常さを機会ある度に マスコミを通じ指摘してきた僕に、講師の依頼があったのでしょう。事務局の方からの「この講演会は発表され間もなく出席申し込みは定員達成…」の一言は、僕を喜ばせました。  
                 
  国(文部省→文科省)が事実上間に立って大学卒業生の産業界への就職が混乱を来たさないようにする,いわゆる「就職 協定」の起源は1953年ですから、敗戦後の占領軍主導の戦後の教育改革で誕生した新制大学の最初の卒業生が世に出た頃のことです。その2年後に神武景気を契機とする戦後日本の 高度経済成長が逞しく始まって以来、大学数が増加するにつれて、産業界各社の大学卒業生獲得への意欲は恒常的に高まり、上記“就職協定”破り=所謂“青田買い”は、やがて, 事実上世の厳しい批判の対象ですらなくなってしまいました。
   
   一国の経済成長にとって“起業家”の果たす役割がいかに大きいかは、近年では戦後の日本、最近ではシリコンヴァレ ーによって俄然経済活性化した米国が良き実例でしょう。一国の経済成長に伴う高学歴社会は,起業家的資質を具備した青年の多くを大学卒の“サラリーマン化”させることによリ、 人生で彼らが貴重な天賦の資質を発揮、いや自覚させることすら失わせ、結果として, 一国そのものの経済的活力までも喪失させて行くことを、僕は誰よりも懸念しています。
       
                                                                            

2016年7月25日

964 さすがは、天才的起業家!

   今朝起きがけに日経朝刊に目を通しつつ6面を開いた途端、『孫氏、執念の買収』と言う大見出しが僕の目に飛び込んできました。申すまでもなく、今回のソフトバンク社の英国アーム・ホールディング社買収に関する大型記事の(上)ですが、今春孫君が飛行機で移動中に、機内のトイレで鏡に映った自分の顔をしげしげと眺め「…いつの間にこんなに老けこんだのか…」とため息をついたという,憎いほど上手い書き出しです。この記事を一気に読み終わった僕は、「これぞ、ソフトバンク社株主総会での孫君の(社長引退撤回の)“爆弾宣言”の根因を推察するための最も説得力に富む記事だ」と感心した次第…。
                   
  この決断を下す前に「何時どういう条件でアローラ氏を納得させたのか」という真実は、恐らく当分或いは永遠にお二人のみの秘密でしょうが、例の株主総会で株主たちを完全に煙に巻いて(?)無事終わらせた孫君は、翌週日本を発って、シリコンバレーの自宅でアーム・ホールディング社のCEOを招いて膝詰談判するや、その翌週には渡欧し(先方を満足させる条件で)買収を成功裡に終わらせたとのこと。思えば一零細企業としてインターネット・ビジネスに参入してから20年、数々の批判をよそに、何時しか自社を日本産業界きっての急成長企業に引っ張り上げた、いかにも孫君らしい驚くべき行動力です。
   
   ただしアーム社の当面の利益貢献度は、現時点では買収金額に比して余りにも小さいことから、未だに苦戦を強いられてい る米国スプリント社買収に引きつづき孫君は、壮大な将来構想実現に向けての“戦略的投資”をまたまた敢行したわけです。株式市場に集う俗物どもは、目下のところ依然孫君の壮大な経 営戦略に度肝を抜かれたようで静かですが、長年の友人である俗物の僕も、「低金利時代が一日でも長くつづくこと」程度のことを、親愛なる古き友人・孫君のために、ただ祈るのみです。    
 

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2016年7月12日

963 “安楽死”のレッスン

   石飛幸三君から新著『平穏死を受け入れるレッスン』(誠文堂新光社)が贈られて来ました。出版されるや否やベストセラーとなった同君の名著『平穏死のすすめ』(講談社刊)については、早々とRapport-780 でご紹介しましたが、以来“平穏死”という新概念は、その説得力のある意味内容と適切な時代的ニーズの故に、驚くほど短期間に世に広く使われる用語になると共に、それまで近代(西洋)医学最大の暗部とされた“終末期医療”にも初めて明るい光を当てる契機にもなったとのことです。  
                 
  石飛君は慶応大学医学部を卒業後ドイツならびに日本の病院での外科医として豊かな実績を重ねた後、東京済生会中央病院副院長を経て(特別養護老人ホームとして著名な)「蘆花ホーム」医師に迎えられました。斬新な気持ちで日々多くの入所者に接するうち、同君は(食欲も自己消化力も尽きて)すでに意識さえ 失った老人入居者に対し様々な苦痛を強いて生きながらえさせる(現行の日本の施設の)不条理と無慈悲に疑問を強め、(家族の人々を説得し、完全な了解を取り付けた上で)自然死(=平穏死=大往生)の選択を薦める努力を猛然と始めたのです。
   
   個人差はあれ、人間は年老いると徐々に食欲が低下し、やがて正常な意識を失い、終日眠りつづける状態になるとのこと。 この状態になっても医師の多くは、あらゆる方法で生命の灯を絶やさない努力をつづけるとのことですが、石飛君は「食べなくていい、飲まなくていい、眠って,眠って、さようなら」、 つまり“平穏死”こそが、ご本人にとってはもとより、ご家族のためにも、(そして恐らくは、広く社会にとっても)最も正しいあり方だと説きつづけるのです。わが国だけでなく世界全ての国で、家族の情が親族の“平穏死”を妨げている以上、人は全て学校教育と同じく「親族の平穏死を受け入れるレッスンを 受けておくべきだ」と、著者は本書を通し強調されています。
       
 

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2016年6月21日

962 88歳の最終日に想うこと

  「明日から80歳代最後の1年が始まる…」と思いつつ今朝開いた新聞の記事の中で、格別に印象的だったのは、朝日新聞15面の『アベノミクス考━外からの視点』。世界的投資家として名高いジム・ロジャース氏と元ウォールストリート紙東京特派員ジェームズ・シムズ氏による、共に、説得力に富む最近のアベノミクス批判です。  
                 
 “朝日嫌い”の方以外はお読みになったはずですから、内容の紹介は省略しますが、共にアベノミクスの「第三の矢」不発を論拠に、安倍政権批判を通しての日本経済への悲観論です。ロジャース氏が「第三の矢」を期待して安倍政権誕生後日本株に投資したのと対照的に、シムズ氏は最初から「第三の矢」に疑問を抱いていたという大きな相違があることは職業柄致し方ないとして、それ以上に僕には「…やはり外国人の限界だな…」という気持ちが…。
   
  総理が就任早々声を大にして“三本の矢”の中の第一の矢を放った時点で、第三の矢=積極的経済成長戦略など、総理の頭の中にあったのでしょうか? 「全く…」とまでは疑問視しないまでも、結果的には“第二の矢”も大した効果はなかったことから察するに、総理はもちろん“ブレーン”の面々にも、“第三の矢”への具体的目論見など、実はもともと無かったのだと、今僕は勘ぐっています。
   
 「では、代わりに何が?」と考えれば、やはり、現憲法=戦後(国家)体制の根本的改変。それがアベノミクスの究極的狙いだったが故に、「第一の矢で好景気を無理やり現出させ、その効果の限界が来ないうちに総選挙で過半数の得票を獲得し、さていざ…」というのが安倍首相の念願だったということ、そう信ずるが故に僕は、今回の総選挙に対しては殊更強い関心を抱かざるをえないのです。
   
 

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2016年6月6日

961 わが畏友カール・ベンクス

 僕の外国人の友人の中でもカール・ベンクスは異色の存在だ。第二次大戦の最中ベルリンで生まれた彼だが、青年時代にはすでに敗戦の祖国は、かつての同盟国日本と共に、逞しい経済成長過程にあって世界の注目を浴びていた。(フレスコ)画家として壁画の修復を業とした尊敬する父親の影響で、幼くして日本文化に関心を抱かせられた彼は、学生時代に“空手”を学ぶという目的でわざわざ日本の大学に留学したが、憧れの日本は逞しい戦後復興期経済成長の過程にあり、東京を始め大都市では不揃いの建物と町並みの乱れが、彼を失望させた。  
                 
 だが、戦災を免れた地方都市や村落に残っていた伝統的日本家屋の独特の景観的魅力と建築技術の緻密さが彼の心を捉えた。大学卒業後建築デザイナーを志してベルリンやパリで建築・デザインオフィスに勤務しながら古い建造物や家具の復元修復の仕事に携わった彼は、日本を忘れることが出来ず、折あるごとに来日し、彼の審美眼と技術評価力両面に叶った日本の民家を買い取っては、ドイツに移築するという、独特の職業分野を開拓した。結果として、日本民家の再生を、単なるエキゾティックな建物の展示ではなく、伝統的な西欧の価値観と生活様式の見直しにつなげて行くことが、彼独特の人生目的と化した。
   
 数十年この仕事をつづけながら日本各地を訪ね、多くの日本人と親しみを深めて行くうち、彼は(“コシヒカリ”の産地として名高い)新潟県山間部の美しい自然とそれに見事にマッチした古民家群と心優しい住民たちに惚れ込むや、(妻をも説得して)“日本永住”を決意し、1993年その地の中心である十日町市内に大きな古民家を購入。その内部を徹底的に改造し、自宅とオフィスと来客スペースを持つ“終の棲家”=名づけて“双鶴庵”として永住まで決意した。僕は、日本人にはちょっと真似の出来ない外国人のこの親友を、心から誇りにしている。
   

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2016年5月22日

960 大学教育が事実上軽視されている日本

  一昔前まで大学生の就職活動シーズンは、4年生の秋でしたが、適材確保を競う各社の競争意識から何時しかそれが早まり、(最終学年の教育成果を妨げるという)大学側の苦情を受けた経済団体側が行う規制にもかかわらず、最近では新学期早々が“シーズン”。ひどい企業では、名のある大学の三年生にまで“囲い込み”をかけるなどして、学生は“就職”に気を取られて勉学は二の次という状態さえ定着しつつあるとのこと…。
                 
 就職を手引きする媒体と言えば、昔は「リクルート」でしたが、今は新興の「マイナビ」の台頭が目立ちます。ですから僕は、昨年末同誌より「大学生諸君へのメッセージ」という依頼を受けるや、進んで同誌編集者との対談に応じましたが、なんとそれは、今年同社が作成した全国の大学4年生向け就職パンフレットの冒頭に掲載されました。読者が日本の大学教育を憂うる僕の気持ちを正しく理解してくれることを切に祈ります。どこの国でも、大学生にとって、卒業後の就職は大問題だとしても、採用側の都合で大学生の修学期間が事実上短縮されるという我が国の実情は嘆かわしい限り。…もっとひねた考え方をすれば、「産業界各社には、大学教育の内容とか効用などに関心が無いとさえ断言もしたくなります。しかし他方日本では、一流と評価される大学ですら、他の先進諸国の一流大学に比べて、低調な教育がまかり通ってきた気もしてなりません。
   
 日本の大学では、合否は昔から入試の成績次第で、東大合発表日の夕刊には、合格者が友人から胴上げされて狂喜しているといった写真が掲載されます。つまりそれは、入学さえすれば卒業が約束されたとする点で。入学後卒業するまでの勉学努力が大変な米国の一流大学とは対照的証拠。日本では、一流大学ですら、教育成果に責任を感じていないのでしょう…。嗚呼!                     
   
 

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2016年5月15日

959 保育園落ちた 日本死ね!!!

  「保育園落ちた 日本死ね!!!」の匿名ブログがネットに書き込まれてから早くも3ヶ月が過ぎました。その(為政者への)只ならぬ恨みのこもった荒い言葉づかいから、ほとんどの読者は、「ブロッガーは、子育てと就職の両立に悩む中年女性のふりをした中年男子…」という疑いを抱いたはずですが、何しろその一文から切実に感じ取れる投稿者の怒りと悲しみに共感した読者の反応は異常で、間をおかずマスコミもそれを取り上げ、国会での論議の的にすらなりました。今年度の流行語大賞も間違いなく「保育園落ちた。日本死ね!!!」で決まりです。
 
 衆院予算委員会で民主党議員からの質問に立たされた安倍首相は「…事実の確かめようも無い」とまともな答弁を避けましたが、これは致し方のないことでしょう。安倍さんが生まれ育ったご家庭は経済的に超裕福で、女中さんも複数居たはずですから、子供時代の安倍さんは、お勤めはもちろんのこと家事とか育児で終日超多忙な母親と言うものを、想像されたことさえ無かったはず…。その上、森永製菓社長令嬢と結婚された後お子さんにも恵まれなかった安倍さんは、夫として育児とか家事で忙しい妻の姿に接することも、遂になかったはずです。
        
 …だからと言って僕は、“アンチ安倍”ではありません。戦後70年間にわが国で総理を務めた35人(複数回を除く)の政治家の中で、第二次安倍内閣時代の安倍さんの活躍は(仮に“アベノミクス”が所期の成果を挙げられなかったとしても)確実にベスト10には入るものと、僕は評価しています。ただ、安倍さんのお育ちからか、側近として“甘言の士”を好まれ、“諫言の士”を煙たがられる感は、一番気になります。靖国参拝にせよ集団的自衛権の発動にせよ、安倍さんが一流の政治家なら、時に自らの考えに淡々と異論を展開するような“人物”に取り囲まれているご自分をこそ誇りにしていただきたいのですが…。                     
   
 

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2016年5月14日

958 セブン&アイホールディング(S&IH)社その後

  熊本地震は、一ヶ月経った今も、広範囲にわたって余震がつづいていますが、ほぼ同じ時期に東京で起こったS&IH社の中核事業セブン-イレブン・ジャパン(S-E・J)社社長更迭人事騒動は、提案者の鈴木敏文S&IH社会長の辞任で一応決着が着いた、とメディアは報じています。…が僕は、今回の役員人事に関しては、同社傘下各社役員や幹部社員と、とくにフランチャイズ方式のもとで同社を支えている全国2千店弱のS-E・J店主たちの間に不安ないし不満が相当残されていないはずはなく、新経営体制のもとでの今後の同社の業績次第では、(少なくとも今後数年は)巨大地震に伴いがちな各種の“揺り返し”が発生する可能性があると、他人事ながら懸念しています。
 
 S&IH社のSは“セブン・イレブン”のSですが、鈴木氏こそ、今や日本最大の流通企業となった同社内での生みの親+育ての親。他方、S&IH社のIは“イトーヨーカ堂”のI。戦後日本社会では、米国流の“スーパーマーケット”が全国的に隆盛を極めましたが、関西発のダイエーと並び両雄と称せられたイトーヨーカ堂の創業者こそ伊藤雅俊氏(現、S&IH社最高顧問)。

 業態としてのスーパーの斜陽化は必至と判断した伊藤氏は、(ほぼ三十歳で)途中入社した鈴木氏の抜群の時代感覚と経営の才幹を見抜き、次々に要職を託した後1992年には、同氏をイトーヨーカ堂の代表取締役社長に推し、2005年には自らが関わる全事業を統合したS&IH社の最高経営責任者(=CEO)である代表取締役会長に推し、自らは名誉会長職に退きました。
        
 今回のS&IH社の騒動は、それを一貫して推進したのが社外取締役の伊藤邦雄氏(一橋大大学院教授)だった点も話題性がありましたが、結果が裏目に出た時の責任の取り方が不明である点が気がかりです。何れにせよ、僕にとっては伊藤雅俊氏も鈴木敏文氏も旧知の仲。改革の成功を切に祈るのみです。                     
   
 

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2016年4月20日

957 荒み行く世相を憂いつつ…

  期待のアベノミクスにも目下赤信号が点りそうな経済状況のわが国に、正に天の下せる更なる試練か、前代未聞のしぶとい大地震が未だに九州中部を襲いつづけています。軽く十万を越すと言われる避難者の方々の心情を察しつつ何故か僕の心に浮かんだのは、この惨状を予期していたかのごとき匿名ブロッガーの「保育園落ちた日本死ね!」の怒声!…この怒声が俄然社会的反響を呼ぶや自称投稿者が続々現れましたが、何れも、子供が保育園に入れなかったため生活苦を強いられる母親たち…。
 
 育児のため家事に追われる女性を社会的労働力に転化しようというのは、アベノミクスの主唱者である安部首相の念願の一つとされていますが、当の安倍さんは“家事”と言う労働に事実上接せられてないことに、5人の子供の父親を経験した僕は、限りない不安を感じます。複数の下女たちが働く金持ちの家に生まれ育った安倍さんは、恐らく子供の頃から、母上が家で家事や育児に追われる姿を見たことも無かったのでしょう。

 しかも、名家の令嬢と結婚後子宝に恵まれなかったために、父親として妻が家事や育児で追われる姿に接したこともなかったはず…。「家事や育児は夫婦で分担すべきもの…」という意見も、僕には、“子供心”を知らぬ観念論に過ぎないように感じられてなりません。幼い子供たちにとっては、家に母親が居てくれること、そのこと自体が至上の“精神的安定剤”なのです。
        
 “母親”という名の女性の能力を社会的に生かすことには、僕に異存はないのみか積極的に賛成です…が、そのための僕の前提は「少子化の奨励」でないことはもちろん、「保育園の大増設」でもありません。今考えられることは、一つは給料生活者なら“在宅勤務”の高度化を徹底的に推進すること、今一つは、“フリーランサー”市場を徹底的に拡大すること。後者は、僕が目下構想中の画期的ニュービジネス。何とぞ乞ご期待!                     
   
 

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2016年4月16日

956 淀みに浮かぶうたかたは…

 先週、熊本で大震災が続く最中、東京ではセブン&アイ・ホールディング社(以下S&I社)取締役会で社長人事が諮られ、結果を不服とする同社鈴木敏文会長兼最高経営責任者の突然の退任表明が一大ニュースとなりました。何しろS&I社と言えば、日本の小売業界では売上でイオンと共に他社を断然引き離し、利益ではイオンに大差をつけつづけている超大企業です。
 
 しかも鈴木氏はS&I社の中軸事業となっているコンヴィニエンス・ストアをかつて米国に学んで日本に導入した上、その経営方式に改良に改良を重ねて完全に“日本化”させたことにより、今やわが国の“社会インフラ”の一つにまで高めた功労者。その鈴木氏が提案した「井坂現社長の更迭」が取締役会で否決されるや、同氏は会長辞任を表明し、その報はさまざまな憶測とともに一大ニュースとして全国に流されたのです。
        
 実は鈴木氏は、今やS&I社の大黒柱=コンヴィニエンス・ストアの生みの親でも育ての親でもありますが、S&I社そのものの生みの親は、戦後日本の花形産業として脚光を浴びたスーパーマーケット業界の成功者として、ダイエー(創業者)の中内功氏と並び称せられたイトーヨーカ堂(創業者)の伊藤雅俊氏。
 
 小売業界の行く末を案じた伊藤氏が、将来の同社を支える人材の一人と見込んで若き鈴木氏を出版業界から招じ入れたのは半世紀以上も昔。その期待に応えて鈴木氏は入社と共に頭角を表し、上記のごとき輝かしい実績を挙げ、40歳を待たずに取締役、還暦過ぎには(同社の不祥事で伊藤社長退任後)社長の座に就き、以来同社の発展を指揮して名経営者の名を残しました。

 両氏と旧知の仲である僕は、突然勃発したこの事件に心を痛めています。とくに激昂した鈴木氏の言動が名経営者としての氏の晩節を汚すと共に、これまでも微妙であった伊藤氏との仲が決定的となることが、友人として懸念されてなりません。
   
 

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2016年3月20日

955 創業と企業成長スピード

 僕の30年来の年少の友人澤田秀雄・孫正義両君の特異な“商才”の起源と企業生長の形成過程をテーマに、僕が寄稿した『日経ビジネス』(本年3月16日号)は、なんと「同族だから強い=不透明な時代を乗り切る変革力」というキャッチ・フレーズの特集号。実に20ページにわたり、日本のみならず欧米の産業界における同族企業独特の成功例が紹介されていますが、「現代日本の創業型企業の代表格と言っていいHISとソフトバンクが近い将来“同族企業”となる可能性は?」と問われたら、僕は即座に、「100%ありえない…」と答えることでしょう。
 
 両君は、天賦の事業家的才能に恵まれた上に、共に己を徹底的に信じつづけつつ、わずか数十年間で自らが創業した企業をを一大規模にまで育てあげたわけですが、成功=企業成長のテンポが早すぎて、「自らの事業に同族をどう関わらせるか」などということを考える時間的余裕など無かったはずです。 ただし、両君ともようやく“還暦”前後の歳ですから、当然“後継者”のことは頭にあり、澤田君の場合は、万全と思われる社内体制の中で、昨年から、同社の次の世代を担う人材育成を目指す「澤田塾」を起こし、独特の経営者教育をはじめました。

 孫君の場合は、超多角化しつづける自社の未来を担う人材育成を目指す「ソフトバンクアカデミア」をすでに2010年に開学し、自らの理念に共鳴する社内外の若手人材の教育を開始したことは広く知られています。その後スプリント社買収を契機に事業活動の重点を米国に移した同君は、昨年インド系経営者ニケシュ・アローラ氏をグーグル社から超高額でスカウトし、「自らの後継者」と公言して世間を驚かせましたから、アカデミア卒業生への期待は、当初とは異なり、澤田塾の場合と同じく“次の次”へということになったと言っていいでしょう。
        
 何れにせよ、創業者の思いとは関わりなく、新事業の成長スピードの速さは同族経営を阻む最大要因と言っていいでしょう。                     
   
 

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2016年2月12日

954 同年の友に恵まれて・・・

 今年数え89歳になったが、小学時代に日中戦争、中学時代に太平洋戦争、旧制高校時代に敗戦を体験した私は、実は時に『きけわだつみの声』をひそかに開いたりするたび、若い頃には願望すらしなかったほど“恵まれた人生”を享受し尽して年老いた我が身に、言いようのない“申し訳なさ”をすら感じる身だ。
 
 敗戦直後一斉に学窓を出て社会に散った同世代のうち、各界で活躍しつつ一業で自信を深めた連中が何時しか相知り合って「昭和2年の会」を組織し、何かと集って飲み、語り、歌い、楽しんだ想い出は忘れ難い。総勢約50人だった会員のうち、すでに9割近くは次々にこの世を去ったが、堤清二、植木等、城山三郎などの名は、依然今も世に忘れられてはいないだろう。

 学生時代“反体制”の闘士だった堤君は一転経営者となるや、西武百貨店からセゾングループへと事業を華やかに拡大展開して行ったが、実は、独特の文体で彼が世に問いつづけた小説や詩の中に一貫して漂う“哀しみ”にこそ、私は堤君らしさを感じ続けた。堤君と対照的に植木君は、映画や演劇でのど派手な演技や笑いと全く対照的に、われわれ仲間の中に居る時には、何時も無口でニコニコしながらの名“聞き役”だったが、時に仲間たちの激論が嵩じて座が白けそうな瞬間には、実に見事な“止め役”を演じる誰からも愛される人柄の持ち主であった。
        
 城山君は、その小説『官僚たちの夏』や『粗にして野だが卑ではない』などの題名が示すように、真面目一徹の文人で、無口ながら、質問には静かに自説を披瀝してくれた。晩年愛妻を亡くした彼はみるみる痩せ細って行ったが、ある時苦笑交じりに呟いた。「この間Yがやってきてね、しきりに後妻を薦めるんで、言ってやったよ。君の“お古”じゃないだろうねって・・・」と。正に同君の真骨頂! 因みにYとは、我々より少し年少のエロ作家。我々の会員になれるような人物ではなかったのだ!                     
   
 

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2016年2月5日

953 澤田秀雄君と孫正義君

 さまざまな内外経済・社会の不安定要因により、アベノミクスもこの数年悪戦苦闘をつづけてきているように思われますが、そうした過程で「昨年最も顕著な企業実績を挙げた日本の経営者として」各種産業・経営諸団体から最も数多くの表彰を受けたのは、上記のお二人でした。しかも、僕が殊更嬉しく誇らしく感じたことは、このお二人は共に、ほとんど創業直後の約30年前に僕と相知り合い、親しくなり、今も変わらざる友情がつづいている典型的な創業型経営者だということです。。
 
 若くして事業を起こした両君が初めて僕の赤坂オフィスへ訪ねて来たのは、澤田君が三十歳過ぎ孫君が二十五歳過ぎの頃で、共に起業家としての道を歩み始めた直後でした。僕はその頃すでに五十代半ば、主に数十年来の経済ジャーナリズム上での実績から、世間的には一応“経営学者”として活躍していましたが、大学教授主体の「経営学会」にも入らず、専ら自分が興味を抱いた企業あるいは僕に興味を抱かれた企業経営者との関係の中で、“生きた経営”への造詣を深めていたのです。

 そんな僕に若い頃から最も知的刺激および精神的感化を与えて下さったのは、松下幸之助さんや本田宗一郎さんといった、典型的な“創業型経営者”で、これらの方々がまだ大を成す以前の頃の大失敗談を振り返りつつ心から楽しげに語って下さるのを聞きながら、僕は次第に“創業型経営者”に憧れを抱くようになり、将来大成しそうな年少の創業型経営者に巡り会い、彼らとの交友を深めつつ共に学ぶため、自分の赤坂オフィスを現代の“梁山泊”にしょうと決意し、実行に移したのです。
        
 当時澤田君は社員十数名、孫君は二名の零細企業経営者だっただけに、その現在の大成を僕は殊更に嬉しく思いつつ、両君の稀有な商才の発露に関し、近く発売の『日経ビジネス』誌上に一文を寄稿しました。ご一読を是非お勧めいたしつつ・・・。                     
   
 

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2016年1月15日

952 映画『杉原千畝』を観て感動

 正月休みに子供4人を連れて米国から帰国した僕の三男の豊は、超多忙な滞在中の日程に追われながら、ある夜独りで日本映画『杉原千畝』を鑑賞して感激し、帰国前にわざわざ空港から母親に「…お母さんも、絶対鑑賞して…」と電話してきたとのこと。幾つになっても子供思いの僕の妻から、「だから、一緒に観て…」と誘われるまま、昨日僕は久しぶりに妻と共に、六本木ヒルズの映画館で日本映画『杉原千畝』を鑑賞しました。映画の出来を評価する資格の無い僕ですが、率直に言って、この作品そのものの出来にはとくに感銘を受けませんでしたが、かねて話しに聞いてはいた主人公・杉原千畝の生き様には、改めて深い感動を覚え、上映中何回も涙を拭った次第です。
 
 前大戦開戦直前、北欧の小国リトアニアで日本領事の職にあった杉原は、大戦直前の複雑な政治情勢の中で主にポーランドから追放されて同国に流れ込み、最終受け入れ国のvisaはありながら中継受入国のvisa が得られないため同国を出国できずに困惑の極にあった何千人というユダヤ人難民に対し、外交官としては全く異例な判断で(中継国としての)日本国通過visaを、自筆の添え書きまでつけて発給しつづけたのでした。
        
 このお陰で(事実上)命を救われた数千人ユダヤ人たちは、杉原の果敢な行為に感激し、多くは米国に渡って以降、事あるごとに子供や孫たちにまで杉原領事=日本人から受けた感動的助力を伝えつづけてくれたとのこと。何と、現在豊がマンハッタンで進めているホテル・プロジェクトの(絶好の土地の所有者であると共に)共同推進者の米国人も、(何と、かつて杉原領事に救われた父親の話を通じて)子供の頃から大の“日本贔屓”だったとのこと、一日本人外交官の(外交慣習まで無視した)人道的行為が、何十年後も自国、そして自国民を益してくれる実例を息子から教えらて心から感激した、良き正月でした。
   
 

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2015年11月22日

951 若い頃には感じなかった“人生の味”

 先週水曜は、58回目の結婚記念日。週末にはワイフの希望で、ドライバー役に娘まで誘い、久しぶりに信州を旅してきました。…だからと言って、“温泉めぐり”などという年恰好の旅ではありません。何しろ我がワイフの人生目標は「国宝全部の観賞」で、すでに総数1,100弱のうち約800は観賞済み。…となると、残りの観賞には、とかく東京からかなり離れた、しかも簡単には行けない僻遠の地を訪ねざるをえなくなっています。
 
 そこで今回は、先ず上越新幹線・上田で下車し、レンタカー を借りるや、北上して一路別所温泉の更にその奥にある禅寺・安楽寺の八角三重塔を目指しました。何と800年もの昔、中国の先進建築技術の粋を学び尽くし、しかも和式で建立されたというこの塔を眺めて、われわれは先人の才能と宗教の持つ力に只々感銘! その後は町の蕎麦屋で昼食を楽しむや一転安曇野を目指し、山越えの道を避け高速道を長野まで北上後一路南下し、星野リゾート『界アルプス』へと長距離ドライブ…。
        
 翌日の目的地は、信濃大町市に残る日本最古の神明造りの神社「仁科神明宮」。大学時代に山岳部員だった僕にとって、水清くワサビ田の広がる安曇野は、青春の思い出の詰まる北アルプスの山々を仰ぎ見る広大な高原ですが、仁科神明宮の社殿はその一隅、老木が鬱蒼と生い茂った森に囲まれています。
 
 神妙にお参りを済ませた後に僕たちは、娘がけなげにも調べ尽くしてくれていたおかげで、鄙には稀な垢抜けたフレンチ・レストランL`Ateller des Sensに直行。…満開のコスモスに囲まれた広い芝生を窓外に眺めながらランチを楽しみ、夕べには、懐かしい松本の情緒溢れる街の人ごみに快くもまれながら、ぶらぶら歩きの買い物に暫し時の経過を忘れた次第です。

 週日は若い頃に負けず仕事に励み、週末は思い切り楽しみながら、人生に限りない愛しさを感じつつ生きる、最近の僕です。
   
 

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2015年11月11日

950 中村修二さんと語る

 今年度の「ノーベル賞」受賞者・中村修二氏は、我われ日本人が世界に最も誇ることができる人物のお一人ですが、これまで日本社会、とくに氏が属しておられた学会ではいろいろ不当な目に遭われ、「二度と日本へは帰らない」という一言を残し、(カリフォルニア大学教授に招かれて)ご家族ごと渡米し、…すでに米国籍をも取得されて、現在は世界的に活躍中です。
 
 その中村教授が先日帰国された折、友人お二人の歓迎夕食会に何と僕までお招きを受け、おまけに氏の正面に座らされたこともあって、尽きぬ歓談の数時間、正に時を忘れた次第です。…すでに半世紀も昔となりましたが、僕もMITの一スタッフとして米国の大学に滞在したこともあって、その宵の中心的話題の一つは「日米大学の(教育・研究・運営)比較論」になりましたが、その結論は「全ての点で、日米とも変わらず」でした。
        
 読者の誤解が無いよう付言しますが、「日米とも“大学共通の体質”は変わらず」という意味ではありません。「米国の大学の教育・研究のあり方も学外活動も時代と共に変化してきているのに、日本の大学のそれらはほとんど変わらない」という意味です。…さて、中村さんとは談笑しつづけたのに、帰りの車中で、僕は何か物悲しい気分に陥りました。「わが国では、大学に関して“象牙の塔”と言う形容詞が庶民の嘲けりを込めて一世紀昔から使われ始め、今も」と、改めて思い返しつつ…。
 
 原語“tour d’ivoire”は、(俗世界を見下し)芸術至上主義に浸る輩を嘲ったフランスの成句ですが、百年前に厨川白村氏がそれを邦訳して以来日本では、何となく“大学”を嘲ける意味合いで、現在まで広く使われて来ました。往時の日本には東京・京都・東北・九州の4帝国大学しかなかったのに、大学総数が国・公・私立合計約800校、学生総数約250万人にも達した今でも、大学が庶民の間で“象牙の塔”と言われ続けているのは、「大学の屈辱」と僕が思うのが当然ではないでしょうか…?
   
 

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2015年10月16日

949 グローバリゼーション下の日本の大企業

 今春, 米国の友人から突然、「今年(米国でも一流の)大学院でMBAを取得する米国青年が、日本のA社への就職を希望している。彼は子供の頃両親と日本に住んだことがあって、日本贔屓で、日本語は今も達者のようだが…」という電話を受けた。「…日本では今や“グローバリゼーション”が流行語で、その上、官民挙げての“英語ブーム”だから、そんな青年なら、どの会社でも引っ張りだこさ…」と、私は笑って電話を切った。
 
 幸いA社社長を、私は偶然個人的に存じ上げていた。…部長時代に仕事上で知り合って以来数十年、時に会合の席などで顔を合わせると親しく挨拶を交わす程度の仲だが、私はすぐ同社秘書課へ電話し、「…お話し致したい案件がございますので…」と自分の携帯電話番号を伝えたものだ。…何と数時間後同社長から直接電話があり、楽しく要件をお伝えすると、案の定、同社長からは「…是非とも当社へ…」というお言葉を頂戴した。…と受け取った私は、意気揚々と例の米国の友人に電話し、その青年に同社秘書課へ直接連絡するよう頼んだものだ。
        
 ところが翌朝、私の赤坂オフィスにA社秘書室長からの電話。秘書から受話器を受け取った私の耳に、丁重極まるお礼につづき、「…ところで、当社の今年度の外国人入社希望者の選考は6月○○日月曜から金曜まで、本社で行うことになっております。因みに選考方式は、当社の公用語である日本語の面接試験で行わせていただきます。…」の声。私は反射的に質問した。
 
 (公用語の日本語での面接というのにも驚いたが)「御社はニューヨークにもオフィスをお持ちなのに、なぜ東京の本社で…?」という僕の質問に対し、当の秘書課長はいささかも臆せず、「幹部社員を目指されるなら、ご当人の将来のために、本社採用がよろしいかと…」の答え。“グローバリゼーション”必至の今も、日本の大企業の“日本的経営”は依然健在のようだ。
   
 

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2015年8月20日

948 逝く夏を振り返って

 6月に米寿を迎えたこの夏を振り返ると、病気一つもせず、よく働きよく遊んだ。思い出の中でも特に忘れ難いのは、仙台のホテルで7月に開かれた「野田一夫ファンクラブ」。“88”人の友人に囲まれて、僕は本当に幸せだった。
 
 大学時代に低調極まるその教育に愛想をつかしながら、皮肉なことに卒業後の40年余は大学教授を職とし、結果として僕は、“大学改革”の必要性を世に訴え続けることになったが、それが世を動かすには、40年もかかった。
        
 ただし僕にはその後、自らの基本理念に基づく大学の創設責任者を頼まれた後初代学長を経験する機会が三回も生まれた。大学創設も初代学長も楽な仕事ではなかったが、要らぬ“気苦労”をさせられたのは、宮城大学だけだった。
 
 仙台は、僕が幼い頃から尊敬して止まない父親が旧制二高生として青春を謳歌した憧れの地だった上に、わざわざ僕を東京までを訪ねて下さった本間知事から直接懇請を受けたことから、僕は勇んでこの大学の設置委員をお受けし、結果的には初老を過ぎて、初代学長を勤めることになった。
 
 しかし、この間思わぬ事件で本間知事は退職されていたから、任命者は浅野知事だった。ところが、僕と浅野知事とは本質的に価値観が違ったことが、県民の期待を背景に誕生した宮城大学にとって、思わぬ不幸だった。しかも、その事実は忽ち県民の間に伝わり、「学長は辞任・帰京する」という噂まで広がったらしい。そんな時期、僕を慰め励まそうとする方々で、僕のファンクラブが生まれた。もし浅野知事のファンクラブが現存するなら、僕は会員の方々から同氏の人物評を伺い、是非自らの評価を正したい。
 
 

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2015年7月15日

947 安倍首相の究極の狙いは?

 今日午前「衆院平和安全法制特別委員会」で内閣から提出された「安全保障関連法案」は、野党議員の発する怒声の中で与党議員のみによって強行採決されました。この法案は明日の衆院本会議で可決される予定ですから、現憲法の支柱だった“集団的自衛権”のこれまでの解釈は大きく変わります。
 
 帰宅後、夕刊を熟読しながら僕は思いました。「一昨々年末安倍氏が再度政権を握るや発表した政策=アベノミクスの究極的狙いは、実は同氏の血の中に潜む“国枠主義”の実現で、憲法改変=集団的自衛権の範囲拡大はその実現のための第一歩なのだ」と。つまり氏は、それを成功させることで、先ず、内閣に対する支持率を限りなく高めたいと考えたはずです。
        
 だが、出だし好調だったアベノミクスの効果が低迷し始めるや、安倍氏は内閣改造まで行い、閣僚を大幅に入れ替えた第三次安倍内閣で勝負に出ました。しかし、公約だった“円高”進行はママならず、(消費税率引き上げもむしろ逆効果に終わり)財政再建の可能性もむしろ低下し、頼みにする現閣僚や側近の力足らずや驕りから生まれた大小の不祥事も重なり、内閣支持率の低迷が昨年来目立ち始めました。
 
 「これ以上支持率が下がると、究極の願望=“集団的自衛権”の範囲拡大が不可能になると恐れた首相が“最後の賭け”に出たのだ」という結論に納得して僕は本稿を閉め、今から床に入りますが、僕は寝入る前に多分、少・青年時代の日本を回想するでしょう。小学生高学年の頃、今ほど豊かではなかったとはいえ今より遥かにのんびりしていた国内に、“2・2・6事件”が勃発するや社会的雰囲気は一変し、翌年(陸軍が仕掛けた慮溝橋事件)以降日本は“軍国主義”の路線を突き進んだ挙句は、無謀な太平洋戦争により何百万人という同胞を殺し、都市という都市、工場という工場を灰燼に帰したのです。嗚呼!
 
 

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2015年6月1日

946 健康と病気の相互関係

 先号でご紹介した僕の異色の親友・渥美和彦君のおかげで、僕は二十数年前、人生で初めて入院を体験しました。場所は、東大系の半蔵門病院。目的は身体検査。「…生まれてから入院経験が無い」と言っていた僕に彼は、「人生に一度くらい…」と勧めて、その健康度を徹底検査してみたかったようです。
 
 それから数日後入院し、囚人服のような寝巻きに着替えさせられるや、次から次へ何と二十数項目の検査を受けて驚かされましたが、翌日ほうほうの体で退院。数日後出た検査の結果は“オールA”で、渥美君によると「同病院で還暦を過ぎた受検者の中では初のケース」とのことで、それ以後僕は、渥美君によってやたらに医者の会合に引っ張り出されるようになりました。
        
 来週も僕は『未来健康共生社会研究会』と銘打った会合で、渥美君と共に講演をすることになっていますが、主催団体からは演題(仮称)「これからの健康産業の可能性」を頼まれ、それについてのレジュメ提出を今週水曜までに求められています。そこで、昨日の日曜午後はベッドに寝転がって、珍しくあれこれ思いを巡らしました。
 
 一般に“病気”と総称される種々の人間の肉体的・精神的障害に関しては、古来世界各国で(“医者”とか“医師”…と呼ばれる)専門家によりそれなりに治療法および予防法が発達してきましたが、その効果で“病気“の障害を一応解かれた人々の肉体的ないし精神的状態を一概に“健康”と呼べないとすれば、(最近“未病”と呼ばれるものも含め)病気と健康との中間にある肉体的・精神的状態こそ多くの人間の現実だと考えるべきでしょう。…とすれば、“先進国”でも、言葉の真の意味での“健康”人口は予想外に少ないと考えるのが妥当なはず。再び…だとすれば、言葉の真の意味での“健康産業”の本格的展開は「まだまだ」と考えるべきか? それとも、「だからこそ今」と考えるべきか…? 
 
 

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2015年5月27日

945 歳を取るのも、まんざら…

 “米寿”が近づきました。この歳になるとさすがに、僕のように未だ定職があって仕事に追われる同年の友はめっきり減る反面、仕事上では何の関係もなかった“規格外”老人の友同士が意外な面で仕事上密接な補完関係を持つことになったりして、改めて、“長寿の利”と“人生の妙”を感じさせられます。
 
 その典型例が、一歳年下の渥美和彦君との仲。同君は生まれ・育ちのみか学歴も僕と大違い。東大は医学部で外科を専攻して卒業後は医局に残された後に記録的速さで教授に昇格し、人工心臓のパイオニアとして国内外にその名を轟かせました。だが、定年退職後は「西洋医学には“治療”面で難あり」と主張して各国独自の医学の長所を採り入れた“統合医療”の学会を組織し、初代理事長に就任しました。その彼の最近の研究関心事は、何と同君の近著の宣伝文にも使われた“老い方上手”。
 
  僕たちは、もう半世紀も昔、都心で開かれたある華やかな会合で偶然隣り合い、渥美君は日焼けしていた僕を「南方から帰国中の商社マン?」、僕は彼の貫禄と風貌などから「ゼネコンの土木技師?」という第一印象を抱き、後に明かし合って大笑いし、以来長らく温かい友情が築きあげられました。
 
 ところで、『日経ビジネス』(昨年9月22日号)が『隠れ介護1300万人の激震』の見出しで大々的に取り上げたのを転機に、中高年社員の多くが抱えている“老いた親”の介護問題は、俄然産業界の重要な新経営課題となっています。
 
 実は僕は、この問題に早くから着目した大澤尚宏君(リクルート社出身のベンチャー起業家)を助け、すでに7〜8年前から、その具体的対処法をニュー・ビジネスとすべく共に努力を重ねて来ました。つまり何と、僕は医学者・医師として“健康と長寿”を終生の課題とした渥美君と固く手を組み、今や、人生の総仕上げの大業と取り組み始めています。
 

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2015年5月18日

944 Rapportの30周年を回顧して

 Rapport-943号以来約二ヶ月間休筆しましたことを、お詫び申し上げます。多くの方から「もしや病気でも・・・」とお気遣いまで頂きましたが、相変わらず至って元気な日々を送って来ましたので、“働き過ぎ後の小休止”…とご理解下さい。
 
 改めて回顧すると、“葉書通信”Rapport-の誕生は1985年10月1日で、表題は『NBCの発足』でした。NBC(ニュービジネス協議会)は、当時目覚しい成長期にあったシリコンヴァレーのventure群に早々と注目した若手通産官僚と僕とが推進役となって立ち上げた新進起業家たちの団体で、同年9月20日に通産省所管の財団法人として発足し、推されて初代理事長に就任した僕は、同法人関係者の方々の意思疎通と僕の友人知人らへのPRを目的に、週刊葉書通信を開始したのです。
 
 このRapport は翌86年末に僕がNBC理事長を退くまでほぼ毎週関係者に送られ、64号で完結しました。葉書通信の予想外の効果を経験した僕は、翌87年多摩大学の創設責任者を引き受けるや、同年末から開学の89年春までの72回、初代学長就任直後から退任するまでの6年間の実に156回、TIMIS(Tama Institute of Management & Information Sciences)の名称で学内外の関係者に週間葉書通信をつづけたものです。
 
 実は僕は、次期学長として後事を託した親友・中村秀一郎氏が不時の病に倒れたため、急遽学長代行となり、結局は、友人グレゴリー・クラーク(当時、上智大学教授)氏を説得して三代目学長をお願いし、94年9月やっと退任しました。そして、幸いにして多彩に形成されていた各界の友人との交友を保ち続けるべく、Rapport名での葉書通信の再開を決意したのです。
 
 現在のRapportの第1号『大きさと強さ』は1994年11月1日一斉に発送され、第913号以降は僕のホームページ上での掲載となった次第です。今後ともご愛読をお願い申し上げます。
 

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2015年3月16日

943 和歌と私

   若い頃から私は何故か和歌が好きだった。ただし、自分で詠むわけではなく、自分が置かれた状況に応じて古今の名歌を口中で唱えては、気分を整えてきただけだ。しかも、名歌の真意を理解する努力などはせず、情況に応じて、何故かわが心に強く響く三十一文字をひたすら求め、そらんじつづけただけだ。
 
  ほとんどが恋歌で占められている万葉集には、時代の差なのか、私の心をひきつける作品は意外に少ない。ただ、「永らへば またこの頃や しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき」(藤原清輔朝臣)だけは、私がこれまでさまざまな不運または不幸な情況に当面した際、常に私の心の支えとなってくれた。
 
   学生時代には山岳部員として高山に挑んだ私は、中年後山旅を好むようになってから、若山牧水に心酔した。「幾山河 越えさり行かば 寂しさの 終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく」、「けふ(今日)もまた こころの鉦をうち鳴らし うち鳴らしつつ あくがれ(憧れ)て行く」・・・。何と言う見上げた心境だろう!

  最近とみに、私は西行に心惹かれるようになった。あの「年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山」からは、69歳でしかも病身だった西行が再び奥州の旅を志し、若い頃踏破した名うての峠を越えた時の感激が熱く伝わってくる。近く米寿を迎える私に、これほどの激励は無い。
 
  ・・・と私の趣味である和歌につき書き綴ってきたが、恐らく読者の心中には、与謝野晶子流に表現すれば「一つだに すぐれし和歌も 詠まずして 空しからずや 和歌を説く君」という疑問も湧かれることだろう。まことにご尤もだが、私にはやはり、和歌を詠む気持ちは全く起こらない。微才御免・・・。

  (上記の一文は、書家として数々の賞を受賞し日展理事でもある杭迫柏樹氏を囲む会=東游会の会誌『小知風草』第二号用に寄稿したものだが、同誌編集部のご了解を得て転載させて頂いた。)

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2015年3月5日

942 PEZY社の名称に驚嘆

   徳重徹氏が僕のオフィスに一昨年初めて来訪された時、同氏が起こしたテラモーターズ社はすでに成功したヴェンチャーとして広く世に知られていましたから、その社名の“テラ”をtera(10の12乗=一兆倍を意味する国際単位)と勘違いした僕は、「さすがに気宇壮大な社名だね…」と言って笑いましたが、実は後で、その社名のテラはterra=地球の意味で「地球を守る」という願いが込められていると伺い、大恥をかいた次第。

  ところが、先日僕のオフィスに来訪されたPEZYグループの創業者・齊藤元章氏から、その社名の由来を伺った時には、僕は今度はそれこそ安心して驚嘆しました。「それはpeta, exa, zetta, yottaの頭文字を組み合わせて命名した」と知らされたからです。因みにpetaは一兆(tera)の千倍(千兆)、exa,zetta,yottaはそれぞれ前者の千倍の巨大数の単位です。

  齊藤氏は東大医学系大学院卒の一医師(放射線)ですが、すでに院生時代に、学外に医療系法人を設立し、医療への高度のコンピュータ技術応用の事業を開始されましたが、卒業後間もなく シリコンバレーに医療系システムおよび次世代診断装置開発法人を創業して急速に業容を拡大され、その間世界の大病院に対し8,000以上の自社システムを納入する実績を達成される一方、日本人初の「国際コンピュータ栄誉賞」(Computer World Honor)まで受賞されたとのことです。

    氏は東日本大震災を機に、自社のそれまでの研究開発の実績と海外での事業経験を日本の復興に生かすべく、事業拠点を日本に戻されましたが、これまで創業された研究開発系企業の数はすでに10社、出願した特許数は60件以上、グループ全体の売上げはすでに1,000億円を超える・・・といった急成長振りです。今後のPEZYグループの発展に関してご相談を受けましたが、さすがの僕もその場での意見はさし控え、「少しく検討の時間を・・・」と申し上げ、再会を約束してお別れした次第です。
 
 

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2015年2月22日

941 僕の“赤坂オフィス”開所50年

   最近日本のメディアで“戦後70年”という表現をよく見かけますが、その度に僕は、(場所は7回変りましたが)赤坂の自分のオフィスを回想します。「何か関係でも?」と思われて当然ですが、僕にとって、この二つは忘れ難く結びついています。

  僕が何回も喋ったり書いたりしてきたように、幼い頃から青年期までの僕の一貫した人生目標は、日本の航空技師の先駆者だった尊敬する父を超えるような航空技師になることで、その大前提として少年の僕が志したのは、東大工学部航空学科入学。

  ところが、旧制高校理科学生として人生の第一目標達成直前、祖国は戦いに敗れ、連合軍の「日本の航空機生産・保有の永久禁止」命令に関わる東大航空学科の廃止により、僕は人生目標そのものを喪失した上、何の見通しもなく、文科に転じました。

  さて、失意の青年として敗戦後の混迷と貧困の日本社会に生きて、僕は、戦争責任に怯える各界旧指導者達の哀れさとは正に対照的に、全てが破壊し尽された東京の随所に俄然登場し、驚くべき力強さで活動する名も無い起業家たちに感動しました。

  その後、旧制高校文科に転じて東大社会学科に入学し、卒業後は思いがけず大学院特別研究生を経て大学教授としての人生を歩み始めた頃から、『新事業の創出とその成長』こそは、正に必然的に、研究者としての僕の不変のテーマとなったのです。

  そして、「なぜ赤坂にオフィスを・・・?」という質問に対しては、「忙しい起業家たちがいろいろな場所からやってくる交通の便からも、わざわざやってきた彼らがくつろいで時間を楽しんで過ごせるだけの諸条件を絶えず整えておくためにも。大学の研究室は、何から何まで全く不向きだったから・・・」と答えます。その昔は、孫正義君を始め後に大成した起業家たちがよく集まっては話の花を咲かせ、今も、徳重徹君(テラモーターズ創業者)などの新鋭起業家がひょっこりやってきては頼もしい計画を語ってくれる“赤坂オフィス”こそ、僕の知の拠点です。
 
 

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2015年2月18日

940 ピケティ・ブームに想う

   慌しい日程を精力的にこなしてピケティ氏が帰国しても、わが国の“ピケティ・ブーム”が沈静しないことに、驚きを感じています。都心の書店では彼の主著の分厚い訳書の山積みが店頭で人目を引き、東大での彼の講演会は満員の聴衆で溢れたとのこと・・・。ただし僕には、訳書を購読する気は起こりません。部厚過ぎるからではありません。各種媒体を通して本書の内容を知っただけで、それ以上の知的関心が湧いて来ないからです。

   『21世紀の資本』は資本主義30ヶ国の膨大な基礎資料の比較検討に基づくとのことですが、「資本主義は(その発展につれて)将来的に、体制の持続さえ不可能なほどの所得格差を生み出す」とするその断定が、俄然わが国を含む先進資本主義各国の知識人の関心を集め、論議を巻き起こしたようです。ただし、日本では(先進・後進を含む)他の資本主義国に比し著しい所得格差が生れないという事実について、ピケティ氏の見解は推論の域を出ないという不満を広く専門家の間に残しました。

   僕の関係する企業経営の分野では一昔前まで、「上場企業の社長と新入社員の平均給与(含ボーナス)格差は米国が300~400倍なのに、日本ではせいぜい10~20倍」と言われて来ました。最近ではその格差も縮小したかもしれませんが、未だ比較にならぬほど大きいはずです。つまり、所得と言った経済現象も、それぞれの国の歴史とか社会的慣習と深く結びついたものです。

  と言うことは、社会現象を数字化することは出来ても、その数字で歴史や文化を全く異にする国々を比較して簡単な結論を下すことには大きな事実誤認を犯す可能性が大だということです。具体的事例を挙げれば、資本主義国である日・米の一流企業のトップと新入社員の給与格差も、資本主義の(経済)発展度合いから生じたのではなく、それぞれの国の固有の文化の違いから生じたものと考えるべきではないのでしょうか・・・。

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2015年1月29日

939 羊年の新春雑感

 国際的にはエボラ出血熱の蔓延やイスラム国の勢力拡大・・・、国内的には土砂災害の頻発や危険ドラッグに絡む事故や事件の頻発・・・、何かと不穏だった年が暮れて期待して迎えた今年でしたが、(群れて仲良く暮らす)羊年にふさわしい平和な幕明けとは裏腹に、新春早々から例のイスラム国がらみで、パリでの大型テロに続き、二人の日本人の国際的人質事件まで勃発して、残念ながら今年も何か不穏な先行きが懸念されます。

 昨年突然出現するや、イラク北部からシリア北部にかけての地域を忽ち武力制圧すると共に、征服者としては前代未聞の統治方式を駆使して急速に存在感を増してきたイスラム国に関しては、すでに米国を中心とする欧州系諸国やアラブ首長国など数十ヵ国の有志連合が、主に空爆によってイスラム国軍と戦うイラクやシリアの勢力を支援していますが、冷静に判断すると、今のところ、その目立った成果は挙がっていないようです。

 日本は目下、上記の反イスラム国有志連合には参加していませんが、新年早々の中東4カ国歴訪中の安倍総理の言動により、遂にイスラム国指導者からは“反イスラム国”の刻印を押され、すかさず、すでに同国が拉致監禁していた湯川・後藤両氏を人質として、その解放条件に合計2億ドル(上記歴訪の最初の訪問国・エジプトで安倍首相が“人道援助”の名において約束した反イスラム国への支援金と同額)が提示されました。

 問題は、人質とその家族に対する大手マスコミの異常な同情ぶりと安倍総理の高揚感。湯川・後藤両氏は共に高度な危険を承知の上でシリア入りしたわけで、その後の運命は覚悟の上だったはずですが、国内ではネット上の書き込みとはまるで正反対の過剰な同情が広がり、総理は総理で、今やイスラム国に宣戦布告したかのごとき高揚ぶり。88歳の僕には、まるで自分が戦前の日本にタイム・スリップさせられたかの感ありです。嗚呼!

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2015年1月元旦

938 あくまでも僕の生き様で・・・

 新年おめでとうございます。どんな初夢で新年を迎えられま したか? 僕は今年6月にいよいよ“米寿”を迎えますが、昨 年末、ある友人から「・・・今の日本で、心身とも壮健で88歳を迎える男性は、統計上100人中たった一人」と言われて気を良くしたせいか、今年の初夢は、とくに印象に残ります。

 芭蕉の最後の句とされる「旅に病み、夢は荒れ野を、駈け廻る」のように、人間の夢はたしかに、ある人の現実世界でのそ の時その時の個人的状況や感情に深く関りがあるようです。大 阪の宿で病に苦しみながら50歳そこそこで客死した芭蕉と対 照的に、今年の僕の初夢は、どこか新設の大学(とは言っても、 学生の姿は全く記憶にありませんが・・・)の瀟洒な学長室のよ うな所で、窓外の景色を堪能しつつ、僕がご機嫌で何人かの人 と歓談していると言った、実に単純で明るいものでした。

 問題は、「どこか新設の大学の・・・」と言っても「それはどこ か?」・・・。元旦の床の中で、僕は暫し思いを巡らし、すぐ思い至ったのは、2022年に開設となる長崎新幹線新大村駅前の公有地に新設が予定されている新大学のこと。Rapport(899号)ですでに記したように、この大学は小規模ながら、隈研吾君のアイディアをふんだんに取り入れた21世紀型ニュータウンの核となる機関にふさわしく、その個々の建築物はもとよりグリーンエリアから内部空間に至るまで全て斬新で話題性に溢れるものであると共に、教育・研究の内容から方式に至るソフト面まで日本の大学界に一新紀元を画することを、僕は期待します。

 以上は僕の夢であり、それがそのまま実現するなどとは僕は考えていません。現に問題の大学に関しては、昨年夏大村市役所内に市長を議長とする「大村市大学設置戦略会議」が設置され、以来何回か東京で会合が行われきました。委員の一人である僕は、委員会の場で、僕の主張を述べつづけるだけです。

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