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2008年12月23日

726 今年も『第九』を聴きながら

 僕もそして多くの日本人も、年末にはなぜかベートーヴェンの交響曲『第九』を聴きながら、暫し俗界を離れてそれぞれの思いにふけります。僕の場合、思いは毎年必ず旧制高校生だった頃の昔をさすらい、人生に決定的影響を与えてくれたジャン・クリストフのことをしみじみ懐しんできました。

  架空の人物である彼を主人公として19世紀末から前世紀初頭のヨーロッパの現実を痛烈に批判したロマン・ロランは、フランス人でありながらベートーヴェンをいたく尊敬し、世俗的堕落に抗して“高貴な精神”を失わずに凛と生きるジャン・クリストフをベートーヴェンになぞらえたと言われます。

  ベートーヴェンの交響曲『英雄』はナポレオンを頭に描いて作曲されたという説がありますが、それが事実だとすれば、一代にして皇帝にのし上がり、各国を席巻し、最後は囚人の身で死を迎えたその波乱万丈の生き様の中に、ベートーヴェンは何か“高貴な精神”を感じとっていたのでしょうか…。

  ロマン・ロランは『ベートーヴェンの生涯』の中で「…私は言葉や権力で打ち勝った人々を英雄と呼ばない。私が英雄と呼ぶのは、精神において真に偉大であった人々のことだけだ」と述べています。今こそ日本の政治家、財界人、オピニオンリーダーたちは、この言葉を肝に銘じてほしいものです。

  米国の金融破綻を契機に世界経済は一気に百年に一度と言われる混乱状態に陥りましたが、わが国では、その直後成立した麻生内閣が空前の失政と失態を連発し、今や“貸し渋り、貸し剥がし”、“首切り、賃金カット”…と、金きり声が聞こえてきそうな表現が連日新聞紙面上で踊っています。

  が、今の日本の真の危機は、経済ではなく精神の低落にある、と僕は固く信じます。穏やかな年の瀬をお祈りしつつ…。

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2008年12月19日

725 リンドバーグ、リンドバーグ、…

 先週末の「青森立志挑戦塾」の開催地は古牧温泉だったため、羽田発の一番機で早々と三沢入りし、昔から訪れたいと思っていた「三沢航空科学館」をたっぷり見学しました。日本四大航空科学館の中で最大・最新というだけあって、この科学館の展示物は予想外に多彩ですが、僕のお目当ては何と言っても、1931年に太平洋無着陸飛行を成し遂げた「ミス・ピードル号」の復元模型。三沢こそ、その出発地だったのです。

  館内を巡りながら、なぜ1927年大西洋無着陸飛行に成功したリンドバーグに比し、日本に関係の深い太平洋無着陸飛行の成功者である二人の米国人の名が日本人の間で広く知られなかったのか、といった意味ない考えにとりつかれつづけました。彼らもリンドバーグも曲芸飛行士上がりですし、どちらも多額の賞金のかかった冒険に挑戦した米国的英雄です。

  だが、三沢〜ウエナッチより、ニューヨーク〜パリは華やかですし、リンドバークの自伝『The Spirit of St. Louis』は名訳『翼よ、あれがパリの灯だ』で、同名の映画ともども大好評を博しました。また、名門の令嬢と結婚し、最初の子供の誘拐事件で悲劇の主人公になるとともに、それを契機にできた法律には彼の名が冠せられました。さらに、彼は有名人としてしばしばヨーロッパを訪れ、フランスでは生理学者と共同で人工心臓の開発に協力し、ドイツでは空軍に有益な助言をしてナチスから勲章を授けられ、何と、いい年をして不倫の相手に二人の子供まで生ませてしまったのです。etc.…。

  尊敬する父親を超える航空技術者になることを夢見ていた少年の僕は、1927年に生まれたことを偶然と思わず、ひたすら彼を憧れました。少年の夢は敗戦とともに果かなく潰えたとはいえ、その思い出は、81歳の今も懐かしく蘇ります。

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2008年12月9日

724 僕の春よ、早く来い!

 4日夜、僕の秘書たちも一緒に、わが友が銀座で京料理をご馳走してくれた後カラオケ・バーに案内してくれたので、久しぶりに何曲か歌いました。最初に歌ったのは、『春よ、来い』。大昔、ユーミンがNHK・TVの朝ドラ主題歌として作詞作曲した僕の愛好歌。歌いつつ、過ぎし人生を懐かしみました。

  思いがけず大学教員となり、半世紀以上も若い学生諸君と接しつづける無上の歓びを味わう一方、何とも息苦しい学界の現実を打破せんと、立教時代には観光学科、退任後は多摩大学、県立宮城大学などに、また大学の外では(財)日本経営史研究所、(財)日本総合研究所、(社)ニュービジネス協議会などに、何れも設立責任者として全情熱を傾けたのです。

  この中で多摩大と日本総合研究所への気持は格別。前者は今年すでに創立20周年を迎え、また後者は来年設立40周年を迎えます。何と僕は、この両者の設立趣旨に共鳴してくれた上に、運営責任まで応諾してくれた年少の友人に恵まれたのです。その名は寺島実郎氏。今や知的な日本人なら誰でもご存知のはず。限りなく博識、かつあくまで重厚な論客です。

  昔、三井物産の親友から「…変わった新入社員」と紹介されて始めて知りあった同君との交際は、深まりながらすでに30年以上つづいています。茅誠司初代理事長時代以来より慣例で「会長・理事長は無給」である日総研に関しては、「会社員の身、無給なら…」と快く理事長(現会長)を引き受けてくれた上に、来年4月からは、晴れて多摩大学の第5代学長にも就任してくれることになりました。何という幸運!

  責任を感じた僕は、乞われるままにこの春学長代行を受諾。まさに“老骨に鞭打ち”って同君のため多摩大の“地ならし”に“獅子奮迅”の毎日。あと数ヶ月だ、僕の春よ、早く来い!

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2008年12月2日

723 “非経済”的危機こそが問題だ

 去る20日赤坂のホテルで針木康雄君の『月刊経営塾』(5年前に『月刊BOSS』としてリニューアル)創刊20周年記念講演会があり、頼まれて講師の一人として話をしてきましたが、500人を超す聴衆の多さと、各界出席者の多彩さに驚き、「さすがは、針木ちゃん」と改めて感心した次第です。

  講演会といっても、「危機をどう乗り越えるか」という主題で人気経営者の鈴木敏文氏と北尾吉孝氏がそれぞれ20分ほど所感を述べた後で、僕がコメントをつける役柄。片や消費、片や金融ではそれぞれ実績もあり、弁も立つお二人ですから、お話の内容にはとくに批判や異論を唱える気も起こりません。そこで、全く次元の違う問題を指摘したのです。

  当年81歳の人生を振り返ってみて、現在の日本が当面している“危機”はどう考えても、一方で誇大化されており、他方では偏向化されています。具体的に言えば、「百年に一度の…」といった表現で経済危機が誇大化される一方、「民族の劣化」とか「家庭の崩壊」といった非経済的危機はマスコミの上でも識者の間でも余りに軽く扱われているのです。

  日本の経済危機といえば、敗戦直後に比すべきものがあるはずはありません。しかしそこに生きた僕の体験からすれば、食さえままならなかった多くの日本人が「生き残れただけでも幸せ」という慎ましさを抱き、誠実、勤勉、他人への心遣いといった貴重な人間性を失わなかったからこそ、戦後日本経済の驚異的復興・成長が実現されたことを銘記すべきです。

  「現在の日本の真の危機は“経済”よりも“非経済”にあり」という僕の発言に対し、聴衆の間から何回も拍手が起こっただけでなく、会終了後メールや電話で予想外に多くの共感の言葉が贈られたことに、かえって僕が恐縮した次第です。

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2008年11月26日

722 政治家諸君!失礼ながら…

 「“田母神”事件が二・二六事件を連想させた」とRapport先号に書いた直後、例の(年金行政に深く関わった)厚生省元事務次官を狙ったと思われる連続殺人事件が起こり、驚きました。自首した人物の語る動機には呆れましたが、もし彼が“天誅”という妄想に駆られたテロリストだったと仮定して、(二・二六事件では総理や蔵相といった大物政治家がテロの標的であったにもかかわらず)なぜ今回は旧官僚トップなのかを、改めて考えてみました。どう考えても、僕には、政治家の威信の低下が気になって仕方がありません。

  政治家の頂点は、何といっても総理大臣ですが、過去20年間に日本の総理大臣は何と15回交代しています。そのうち小泉時代の5年を差し引くと、何と年代わりで総理が誕生したことに改めて驚かされます。この間の歴代総理の顔と彼らの遺した言葉を思い浮かべてみると、やはり失礼ながら、テロリストの標的になるような人物はいないことが納得されるに違いありません。それにしても、現在の麻生総理の知性と教養はかの“鮫の脳”の持ち主と双璧と言えましょう。

  このところ、そのことを婉曲に報ずる新聞各紙の熱が高まってきていますが、週刊誌の記事となると、誌面の広告を見ただけでそのどぎつさにこちらが心配になります。代表的週刊誌「文春」と「新潮」先週号はそれぞれ、『漢字だけじゃない!麻生太郎の「マンガ脳」』、『「学習院の恥」とOBも見放した「おバカ首相」麻生太郎』の標題で、それこそクソミソに首相をこき下ろしているわけで、このような報道がテロリストを呆れさせ、実行意欲を喪失させてしまう逆効果をもたらすのかも知れません。何れにせよ同氏を圧倒的多数で総裁に選出した自民党議員の知性と教養も計り知れると言えましょう。

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2008年11月19日

721 “田母神”事件は終わったのだろうか

 田母神氏を招致した先週の参院外交防衛委員会でのやりとりは予想通り全くの不毛に終わり、この事件もやがてマスコミの話題として取り上げられなくなるのは確実でしょう。しかし、この事件で僕が受けた衝撃は簡単には失われません。

  @“政府見解”なる曖昧な歴史認識と真っ向対立する思想を堅持する人物が自衛隊の最高幹部に上りつめ、しかもその過程であらゆる機会に部下に思想教育を行っていた事実を、政府が長い間気づきもしなかったこと、A彼の教育努力もあって、現役の航空自衛隊員の中には、田母神氏と同じような思想の持ち主が相当いると思われること、B単に航空自衛隊のみならず、自衛官の中には田母神氏の説に共鳴するのみか、現在の文民統制制度そのものに不満を抱いている者も少なくないと推察されること、以上の三点は僕の知る限り、マスコミでもほとんど真剣な議論がなされてきませんでした。

  戦前の日本を生きた最後の世代の生残りである僕は、“田母神”事件からすぐ例の二・ニ六事件を連想しました。事件が起こった時僕はまだ小学生でしたが、冬の寒さとは違った巷の凍えきった雰囲気を、今でもよく覚えています。あの頃の日本は、今の日本と同じように経済は低迷し、政党政治は堕落し、行政は弛緩し、閉塞感の漲る社会の中で国民の多くが“正義と愛国”を主張する軍人に期待を寄せたのです。

  アリストテレスの昔から、民主主義の行く末は衆愚政治。理想的な民主憲法の下に発足したワイマール・ドイツで、ナチスは少なくとも第一段階においては合法的に政権を掌握したことを忘れてはなりません。折から秋冬の季節、愚劣な政策の極みと言える“給付金”をめぐる政治家のドタバタ劇に日々呆れながら、祖国の行く末への懸念の募る昨今です。

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2008年11月10日

720 老いては、妻に従う他なし

 この一週間は講演も原稿の締切りもなく、僕にとって今年一番の穏やかな日々。一方、仕事らしい仕事をしないと、妻の存在が俄然大きくなることを実感させられた日々でした。

  先々週末、子供や孫たちが箱根の「強羅花壇」に集まり、僕たちの“結婚50年”を祝ってくれましたが、孫たちの忙しない動きを眺めながら、息子と娘がその年頃だった昔、僕が仕事に追われつづけていた間子供たちを事実上一人で育てあげたワイフの苦労に遅まきながら気づくと、僕は少なくとも二日間、思い切り罪滅ぼしのワイフ孝行に努めた次第。

  5日は大栄GCでゴルフ。前日の好天気に矢も盾もたまらず、新事業で大忙しの富田(直美)君を無理やり誘い、7:46スタート。午後仕事のある同君のためスルーでプレイさせてもらったため、終了は何と11:03というスピード記録を達成。しかも、富田君のスコア87に対し僕の88は長い長い念願の“80台”。一昨年末南仏の山で転倒して左上腕を見事に骨折して帰国し、順天堂医大で治療を受けながら、僕はワイフに対し「来年は80歳だから、ゴルフも80台で回る」と宣言し、一笑に付されました。その頃の僕の平均スコアは100を超えていたので、致し方なかったのですが…。

  しかし、僕は真剣でした。進んで若者専用の療法を受ける一方、何冊も本を読み、イメージ・トレーニングも積みました。そして、昨年春ようやくサスペンダーをはずしてこわごわゴルフを再開したものの、思うようにいかぬまま懸命に練習に励んで1年半。遂に悲願を達成し、勇んでワイフに電話したところ、「大騒ぎするほどのことじゃないの…。81を出したらお祝いしてあげる。早く帰ってらっしゃい…」って。エージ・シューターを目指し、僕の新しい挑戦が始まります。

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2008年10月30日

719 21世紀長城アカデミー

 昨夕、3日間の韓国出張を終えて帰国。目的は28日の「21世紀長城アカデミー」での講演でした。光州の近くの長城は人口5万程度の町ですが、行政改革の傑出した成功例として、広く知られています。2年前に引退した前郡守金興植氏が「株式会社長城郡」をモットーに、何処も同じの“お役所仕事”を徹底的に効率化したことにより、この町は約十年間に農業、工業、観光…全ての面が活性化して財政は見事に安定化し、数々の表彰の賞金だけでも10億円に達する高い評価です。

  この改革の目玉は、役人気質を打破するための徹底した職員教育。その極致が「長城アカデミー」。95年以来毎週一回韓国各界の知名人を講師に迎え、約400人の全職員が、現下の様々な問題についての話を聴き、質疑応答をしてきたとのことです。過去の講師一覧表には錚々たる閣僚、財界人、大学教授、ジャーナリスト…が名を連ねています。僕の場合、今年4月現郡守の李清女史が視察団長として来日した折にいろいろお世話したことが契機となり招聘されたに違いありませんが、何と第592人目、二人目の外国人で初めての日本人講師。光栄というより、大いに責任を感じた次第。

  通訳をしてくれたのは、僕が“韓国の息子”と呼んでいる趙佑鎮君(青森公立大学准教授)。同君はまだ若いのに、その能力と人柄の故に抜群の人脈を持ち、訪韓の折に必ず僕に素晴らしい人物を紹介してくれます。今回も、日曜夜ソウルでは朴領植博士(政財界人に信望厚い学者)、月曜夜大邱では金石培氏(研究開発型起業家)と夕食歓談して友情を育みました。これからの人生で、このお二人と協力してどのような仕事を推進できるかが楽しみです。何れにせよ、日韓が真の同盟国となって世界に貢献することは、僕の夢の一つです。

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2008年10月22日

718 狭い長屋、大きな夢

 16日宵都心で、ある会合に出席していた僕の携帯電話が鳴り、慌てて廊下に出て耳に当てると、「…安藤(忠雄)さんが、久しぶりに野田先生に会いたいなぁ、と言っておられますが…」と南部(靖之)君の誘い。同君の懐かしい顔が心に浮かぶと、僕は早速麻布の「仁風林」に向かいました。

  着くと、すでに20人ほどのほとんど親しい面々が集まって歓談の最中でしたが、テーブルを挟み安藤君の向かいの席を空けておいてくれていたので、そこに座るや否や僕も大声で喋り始め、座は一層盛り上がって行った次第。いろいろな話題の中で、やはり例の“最近の若者論”が中心でした。東大の入学式で学生に付き添った親の多さに驚き、怒った安藤君が総長に「親の出席禁止」の進言をした逸話はご存知のはずですが、当日はそれに類する同君の憤慨節、多々無限。

  例えば、大阪の安藤事務所に実習に来る東大生は(ホテルなんか贅沢なので)近くにある安マンションに3〜4人一緒に放り込み、先ず何より“社会性”を身につけさせることから始めるとのこと。そう言えば、最近東大合格者は高所得家庭の子供ばかりで、また一般に家族が少ないため幼い頃から一人部屋を与られて育つと、長じて他人と雑魚寝すると寝付かれず、風呂を使うのに、男同士でも自分の裸が見られるのを極度に嫌がる…とのこと。正に悲しい亡国の兆しでしょう。

  安藤君に教えられ、昨日は目下乃木坂のGALLERY−MAで開催中の安藤忠雄建築展「挑戦−原点から」に足を運びました。目玉は何といっても、そっくり再現された『住吉の長屋』(同君の出世作)。床面積わずか13坪という狭い住居のために投入された大きい夢、そこから“世界の安藤忠雄”が育ったのかと、感無量の気持ちで暫し眺め入りました。

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2008年10月15日

717 素粒子理論はともかく、CASはね…

 「三人の日本人学者、ノーベル物理学賞を共同受賞」の記事が朝刊紙面に踊った8日の夜、僕は赤坂の割烹「伊真沁」の一室で、旧友のホリプロの堀(威夫)君と平松(守彦)先輩を囲み夕食歓談しました。ノーベル賞の影響があったとは思いませんが、その夜は偶然にも“研究開発”という凡そこの種の席らしからぬ次元の高い話題中心に盛り上がりました。

  堀君は超多忙な身ながら、沢庵は自分で漬けたものしか口に合わないほどの“味覚人”。野菜であれ肉・魚であれ、旬の味の劣化を防ぐ方法を昔から求めつづけてき同君は、ある雑誌でCASと呼ばれる画期的技術が開発されたことを知るや、早速開発者の大和田哲男氏(株式会社アビー社長)に手紙を送ったことから交友が生まれ、つい先日はわざわざ千葉の同社を訪ねて研究施設まで見学してくる惚れこみよう。

  CASはCells Alive Systemの略。在来の急速冷凍技術は細胞の死滅により食品の味を劣化させることから、同社は冷凍装置内に独特の磁場エネルギー(=CASエネルギー)を均一に発生させて“味”を変質させない技術を開発し、すでに国際特許を基に各国に技術輸出・指導を行いつつ事業を拡大中。ただし肝心の日本では、何から何まで例の“規制”と“利権”の壁が技術の普及を阻んでいるとのこと、許せません。

  ところで、平松さんといえば知事時代「一村一品運動」という画期的な政策で大分県を一挙に活気づけ、今や世界に広がったこの運動で東奔西走中。堀君の話を聞くや、「県特産のかぼすの実をそのまま冷凍保存する技術を長年探しつづけているところだ。早速大和田さんに会いたい。ノダちゃん一緒に行こう!」と僕を大声で誘いました。83歳にしてこの元気、この好奇心! 後輩の僕が断れるはずはありません。

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2008年10月9日

716 瀬戸内さんとの奇縁

 06年新潟市がはじめた「安吾賞」の選考委員長を、まだやっています。一昨年の野田秀樹氏、昨年の野口健氏につづき、今年第三回受賞者は瀬戸内寂聴さんに決定し、6日午後には赤坂のホテルで、その発表会が賑やかに開催されました。

  開会前控え室で瀬戸内さんと歓談しているうち、何と徳島で生まれ育った彼女が今は亡き僕の従姉(母の妹の長女)と幼友達であったことを知り、僕は思わず「それこそ“奇縁まんだら”(日経新聞・SUNDAY NIKKEI に彼女が連載中の人物随筆の題名)ですね…」と、大声を発してしまいました。

  その他、短い時間でしたが、彼女と交わした会話には記憶に残ったことがさすがに幾つかあり、僕は早速発表会での挨拶で、その一つを次のように披露しました。「…坂口安吾は単に、時流に流されず、世評に捉われず、定説に服さず、権威に屈せず…といった生き様によってだけでなく、その言動が人々の人生に与えた影響力によってこそ評価されるべきです。瀬戸内さんは安吾の『堕落論』を読んだことで、離婚まで決意されたとのこと、実に凄いではありませんか…」と。

  率直に言って、僕は安吾の小説にあまり感銘を受けた記憶はありませんが、多感な学生時代に『日本文化私観』や『堕落論』で受けた強烈な刺激は、僕の人生観形成に確実に大きな影響を与えたはずです。要するに彼は、われわれ俗人が無意識のうちに抱いてしまっている偏見や固定観念を、独特の論理と実に激しい舌鋒で忽ち打ち砕いてしまうからです。

  その日瀬戸内さんの、「いろいろな文学賞を頂きましたが、今回頂いた『安吾賞』が一番嬉しい…」という率直な受賞のご挨拶を伺って、僕ははじめて選考委員長を引き受けた甲斐があったと感じ、胸にぐっと熱いものがこみ上げました。

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2008年10月2日

715 観光庁発足と末期的政治状況

 昨日観光庁が発足し、夕刻その発足記念パーティーが「観光立国推進の会」としてグランドプリンスホテルで盛大に行われました。思えば丁度40年前、立教大学に日本では画期的だった「観光学科」を僕が設立した頃の苦い思い出が、嬉しいことに、今になってふつふつと懐かしく蘇えります。

  当時の日本では、“観光”のイメージは最低で、友人からは思いとどまるよう忠告されるやら、文部省の担当官には机を叩いて食ってかかるやら、学内からは「観光学科なんて(受験生が集まるはずないから)閑古(=観光)鳥が鳴くだろう」などという陰口が聞こえてくるやら…、散々なものでした。

  が、いざ幕を開けると受験倍率は何と名目で16.1倍。やはり「“時代の風”を若者は誰よりも早く感じ取る…」と改めて胸を膨らませた次第です。その観光学科も今では学部に昇格して、立教大学の看板になった上に、現在“観光”を冠する学部・学科は日本の大学で約40に達し、国家の政策としても最重要視された結果として「観光庁」まで生まれたではありませんか…。正に「ざまぁ見ろ!」という心境です。

  それにしても、国土交通省から上記の記念パーティーの招待状が僕に届いた時以来わずかひと月の間に、主催者である国土交通大臣は谷垣禎一、中山成彬、金子一義と三人も変わりました。当の初代観光庁長官に本保芳明氏が正式任命されたのは9月30日。何という非常識な政治の現況でしょう。

  90年代、日本では首相交代が10回。「自民党をぶっ壊す」と息巻いて一時は国民の人気を博した小泉首相が5年在任した後2年間で首相交代は3度。潔く政界引退をしたと思わせた小泉氏まで、直後には地元で息子への世襲披露会で“親馬鹿発言”…。これぞ、日本の政治劣化の象徴的愚行!

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2008年9月24日

714 乱気流の世界、黄昏る日本

 リーマン・ブラザーズ社の経営破綻を日本のマスコミが一斉に報じたのは、つい先週火曜午後。わずか一週間前ですが、もう何かかなり昔の出来事のような気がしてなりません。

  経済のど素人でさえ誰も、この大事件が一過性のものだと考える人はいないことでしょう。だが一方、日頃はマスコミでしきりにさかしらがって能書きを並べたてる経済の玄人でも、本当に自信をもってこの事件が世界の、そして自国の経済に及ぼす影響を予測できる人は誰もいないはずです。

  その後のFRBによるAIGへの巨額の救済融資(16日)も米・欧・日中央銀行による巨額のドル資金供給(18日)もそれぞれの国の要職にたまたま就いていたごく少数の人たちによって決定が下されたわけですが、(その影響の大きさにもかかわらず)これら要人の中で、自らの決定を絶対の確信をもって行うことができた人は、一人もいないでしょう。

  要するに、市場主義経済のもとでグローバライズしていく世界の中では、国も企業もそして当然個人も“乱気流”の中を飛行していることを、改めてリ社の破綻が教えてくれたことになります。そう言えば、米国の大統領選がいよいよ迫ったのに、オバマ×マケインの論戦は、昨年以来それぞれ民主・共和両党の候補者として正式に選出されるまでのあの熱っぽさがウソだったかのように、トーンダウンしています。

  ましてやわが国では、サラリーマン首相福田氏の退陣後の自民党総裁選も、騒いでいるのは5人の軽量級候補者・党関係者・マスコミだけ。もっと低調なのは、仏頂面代表の不気味な権力に誰もが抗し得ない沈黙集団の民主党。誰が首相になろうと、民主主義が明らかに衆愚政治へ急進しつつある日本には、世界の桧舞台への出番は当分ありそうもありません。

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2008年9月16日

713 二つの“偲ぶ会”

 9日昼オフィスへ入るなり、秘書の篠塚から「今朝、草柳さんが…」と、彼女の自殺を知らされて一瞬呆然。「先生にご相談したいことがあって…」という彼女の電話を受けていた篠塚が、先般来彼女と日程の調整をつめていた矢先の出来事でした。草柳大蔵先生のご葬儀のあと傷心の彼女に、「文恵ちゃん、気を落とすな! これからは僕が親父代わりだからな…」と大口をたたきながら、日々の多忙さに追われて結局何もしてあげられなかった身の不甲斐なさが、諦めきれません。

  彼女が最後に僕のオフィスに来たのは、ほんの数ヶ月前のこと。彼女を可愛いがっていた平松(守彦)さんを囲む勉強会があったので、彼女にも声をかけたのです。実は8日午後にもその会があり、やはり彼女が慕っていた椎名(武雄)君も出席していたので、もし彼女がそこに居てみんなと歓談していたなら、少なくともその夜自殺はしなかっただろう…などと、取り返しのつかぬことを未だ悔やみつづけています。

  8日夕刻には『阿久悠を偲ぶ会』もあり、会終了後平松さんや椎名ご夫妻と一緒にニューオータニに直行しました。阿久ちゃんが逝って早くも1年。献花のあと広い「鶴西の間」に入った時は未だ空間の余裕がありましたが、会がはじまる頃にはほぼ満員。しかも普通の“偲ぶ会”と違い、有名歌手が次々に登場して彼の作品を目の前で絶唱してくれたわけですから、懐かしさに浸りつつ、さすがに前人未到も記録を打ち立てた歌謡界の巨人だけのことはある、と感銘を新にした次第。

  翌朝羽田空港から、平松さんの電話。「…文恵ちゃん、可哀そうなことをした。…落ち着いたら、みんなで“偲ぶ会”を開いてあげよう…」と沈痛な声。僕はいま、いかにも彼女にふさわしい、感動的な“偲ぶ会”の構想を練っています。

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2008年9月9日

712 知られざる日本の危機

 異常な暑さがつづいたこの8月中旬、わが国の代表的経済誌二誌は、偶然にも共に日本産業界で起こっている“一般には知られざる深刻な危機”をとりあげました。すなわち「日経ビジネス」の『さらば工学部』(8・18日号)と「週間ダイヤモンド」の『日本の屋台骨を揺るがす“技術者使い捨て”の大罪』(8・23号。大塚政尚氏寄稿)の二つです。

  前者は、軒並み工学部志望学生の趨勢的減少に当面したわが国の大学が置かれている現状とその対応、また真に役立つ技術者の供給不足に危機感を募らせている企業が展開している各種の革新的プロジェクト、さらには、製造業の誘致に積極的な地方自治体が企業側の要望を先取りするために打ち出しているユニークな政策を、生々しく伝えています。

  一方後者は、かつては韓国、今では中国の企業が日本の製造業各社の現場ないし研究所に在職中、または定年退職した技術者をいかに戦略的に自国に迎え入れ、日本企業の相場を遥かに上回る処遇条件で働かせながら自社の技術水準を向上させてきているかにつき論じる一方、筆者自身が企業の理系社員であっただけに、返す刀で、専門技術を生かす職種ないし職場に過度にこだわり、在職年数を重ねるにつれて“ツブシ”の効かなくなる技術屋根性を痛烈に批判しています。

  旧制高校まで理科学生だったせいか、僕には今もって、こうした事態に強い関心があり、NPO法人「日本技術経営責任者協議会」(略称:JETO)の会長まで引き受けて事態の改善に努力しています。先週水曜午後には、大手町のサンケイプラザでこの協議会の4周年記念大会が盛大に催され、冒頭主催者代表の挨拶を通して僕は参会者に対し、“いま眼前にある日本の危機”の認識と克服を大声で訴えた次第です。

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2008年9月3日

711 衆愚政治という第三の潮流

 仙台から帰京する新幹線客室内の電光掲示板で、「福田首相辞任」のニュースに接しました。何の感慨もなく、何となく翌日の新聞各紙の報道振りをぼんやり頭の中で考えながら暫しまどろみ東京駅へ着きましたが、(「号外!」騒ぎなど全くなく)何時もながらのありきたりの混雑ぶりに一安心。

  翌朝の新聞各紙は一様に(当然のことながら)一面大見出しで「福田辞任」を伝えるとともに、一斉に福田氏の政権“投げ出し”を「無責任」と非難する一方、「円安と株価下落」あるいは「国際社会でのわが国の信用低下」を憂慮、…何と昨夜の僕の予想に余りに違わぬ論調で、改めて拍子抜け。

  このところあれだけ連日福田を叩いておいて、本人が辞めるや、途端に“無責任”と詰りまくるとは、さすがは、かつてあれだけ戦争を煽っておいて、敗けるや一斉に軍部批判に転じた各紙だけのことはあると、非常に納得。「(安倍さんが辞めて)出てくれ出てくれと言われて(総裁選に出たが)、それまで総理・総裁になろうと考えたことは一度もない」という福田氏(日経朝刊)の愚答だけが唯一の好感材料。

  さて、次の自民党総裁は?…、また次の総選挙で仮に民主党が第一党になれば首相の座に就くのは?…、国民衆知の事実。間違いなく福田首相よりずっとアクの強い人物が権力を握るはず…、とただ嘆くのはよしましょう。目を海外に転ずれば、傑出した指導者の欠落は各国共通の弱み、そして…。

  “グローバリズム”と“民族主義の台頭”という二大潮流と共に、世界は今や識者の多くすら未だ気づいていない“衆愚政治の蔓延”という恐るべき第三の波に曝されています。これら潮流の向う先は?…。“民主主義”が美しい幻想として回顧される日が必ずやってくると、僕は観念しています。

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2008年8月26日

710 カルロとアントーニオ

 季節で僕が一番好きなのは夏、しかも熱い夏。その意味では今年は僕にとって絶好の夏でしたが、多摩大学長代行という思わぬ仕事を引き受けたため、唯の一回もヴァカンスをとることもなく逝く夏を送る心境はややセンチメンタルです。

  どこかのリゾート、いや好きな言葉を使えば避暑地で、じりじりと照りつける陽光を避けて林間のベンチに腰掛け、あのクマゼミの鳴き声に何時までも耳を傾けている時、これほど生きていることの喜びが感じられることはありません。

  が、東京にいてよかったことももちろんありました。例えば、盛夏の東京になぜかあのチョン・ミョンフンが現れたのです。東京フィルが、先週月曜サントリー・ホールで開催した「こども音・楽・館2008」をわざわざ指揮するために…。

  チョンさんの人柄についてはRapport-674でもお伝えしましたが、世界的指揮者として本国はもとより欧米でも日本でも引っ張り凧の身でありながら、アジアの若い音楽家を育てる活動にも力を入れ、今回もそのために来日したのです。

  「こども音・楽・館」は、小学生にクラシック音楽の素養を身につけてもらうため、東京フィルが文化庁の文化芸術振興補助金を受けて実施している事業の中での中核で、チョンさんが指揮・監修を引き受けて、すでに3年になります。

  コンサートの後、南部靖之君がチョンさん夫妻のために麻布「仁風林」で設けてくれた慰労晩餐会で、久しぶりにチョンさんに会い、思わず肩を抱き合い懐かしさを分かち合うや、深夜までご馳走も忘れるほど歓談の時を堪能しました。

  「今度生まれるとしたら…?」という問いに、僕たちは同時に「イタリー…」と答えて大笑い。今後彼は僕を“アントーニオ”、僕は彼を“カルロ”と呼ぶことになった次第です。

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2008年8月13日

709 野田一夫ファンクラブ

 8日夕仙台都心の「ホテル江陽」で恒例の「野田一夫ファンクラブ」が開かれ、冒頭例の調子で元気一杯のスピーチをしながらも、僕の心はいつしか十年の昔を彷徨っていました。

  1997年県立宮城大学が創設されるや否や、初代学長の僕は当然のことながら、革新的な運営方式を次々に実行に移そうと試みましたが、これに反対する一部教員らがある県会議員を動かし、議会でしつこく学長批判を繰り返させました。

  そんなことで引下る僕ではありませんから、僕もマスコミで派手に応戦しましたが、政治家には弱い当時の県幹部は困り果て、かえって僕に自重を促しにくる始末。(東京なら考えられない事態に嫌気がさして)「学長は職を放り出すのでは…」という噂が広がった時、誰言うとなく地元各界の有志が僕を励まそうと結成してくれたのが、このクラブでした。

  「21世紀を拓くに足る公立大学を創ろう…」と古希を過ぎた身で誰一人親友のいなかった仙台に単身赴任してきた僕にとって、ホテル江陽の一室に百人を超す人たちが集まって開いてくれたファンクラブ第一回会合の有難さは忘れられません。世界各国にファンクラブは何万とありましょうが、学長のファンクラブは多分一つしかないのも、僕の自慢の種。

  それに、今年のファンクラブは華やかなおまけつきでした。7日〜8日は(青森ねぶた祭見物の帰途立ち寄った)“ジュディ”に七夕祭の仙台をたっぷり満喫してもらい、帰京する9日の午後には、たまたま來仙した“由美(かおる)ちゃん”と“劇的対面”し、暫し懐かしい会話を楽しんだからです。

  理想を追い求めながら、懐柔のしたたかさも堪忍の度量も無いが故に常に激しい人生を送って来た僕にとって、親しい友の存在は家族とともに、正にこの上もない生き甲斐です。

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2008年8月5日

708 ジャパノロジーの系譜

 松岡正剛君は日ごろ折あるごとに僕を「親父さん」と呼んでくれますが、日本文化を語らせれば当代その学識の広さ深さで敵う者のいない碩学の同君を、僕はむしろ年少の師匠と敬愛します。そういう親しい仲の松岡君の隔月全6回の連続講義『ジャパノロジーの系譜』が31日から始まりました。

  聴き手は、進行役を兼ねる福原義春氏(資生堂名誉会長)や山口昭男氏(岩波書店社長)など各界の知識人40余名。講義は毎回16時から(軽食休憩を挟む)20時までという長丁場で、第一回は、茶道とか能楽に象徴される日本的美意識ないし思想(=“侘び”、“寂び”)の源流が語られました。

  文字を持たなかったわれわれの祖先が、朝鮮経由でもたらされた漢字を使って意とすることを何とか記し始めたのは4〜5世紀頃とされていますから、大和朝廷の展開期。数百年間の習得の典型的成果こそ、天皇の神聖と正統性を叙述し、同朝廷の権威づけに大きく寄与した『古事記』と『日本書紀』。

  松岡君は、この古事記、日本書紀の中にすでに表れている独特の“空”の思想が、(仮名化した漢字での)『万葉集』中のほぼ同時代の幾つかの庶民の作品ではより人間的な無常観(心象こそ永遠)として歌われていることを指摘し、仏教が必ずしも日本的情感の源とも言えないと、微妙な示唆。

  この示唆は(松岡君に確かめませんでしたから)僕の単なる思い込みかも知れませんが、仏教がインドはもちろん中国でも韓国でも短期間で衰微したのに、最後の伝来国では(形式はともかく教義において他国のそれとは一線を画す)“日本教”としてしぶとく生き栄えてきていることは事実です。

  “幽玄”とは結局、全てを“おどろおどろ”しく同化していってしまう日本国の究極の美であり思想なのでしょうか。

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2008年7月29日

707 多摩大学学長代行の4ヶ月

 「まだ多摩大の学長代行をしておられますか?」「うん、やっと4ヶ月過ぎたけど、そのうち解任されるだろうね…」(驚いた様子で)「何かまずいことでも?」「いや、別に…。しかし僕の性格で、黙っておれない事が多すぎて、会議の席でも理事長につい大声で苦言を呈したりしてるからね…」(笑い)。

  「創設者でもいろいろご苦労があるんですね…」「僕の性分でね。もう創立後約20年経ってるから、放っておいても組織は動いているんだが、どうも現状がいろいろ気に入らなくてあちこち直そうとすると、それぞれ慣習や人間関係の壁に阻まれる。要するに、若いと思われている多摩大も、組織という点では、もう相当な年寄りになってるんだよ…」(暫し、間)。

  「創設期のご苦労に比べていかがですか?」「白いキャンヴァスに画きたいように絵筆を走らせたわけだから、創設期の苦労なんて記憶にないよ。楽しいことばかりだった。が、今の多摩大改革は、言わば、僕が最初に6年間画いて筆を擱いた未完の絵に14年ぶりに向き合い、後継者がそれぞれ手を入れた部分を僕の好みで消したり修正したりする仕事で、苦労する割合にはそれほど満足感の伴わない厄介な仕事だね…」。

  「“第二の建学”のため頑張っておられるのですね…」「とんでもない。それはすでに内定している次期学長の仕事。僕は確かに初代学長として個性的な大学を創ろうと志したが、その志にこだわる気は全くない。現在の僕の役割は、次期学長が就任と同時に“第二の建学”に取りかかれるための“地ならし”。絵で言えば、一流画家が手を加えれば、見違えるような作品になっていくよう画面を整えておくことだけさ。が、多摩大に対する愛とこだわりの強さは改めて感じているよ」。

  以上は、先週半ば、ある親しい年少の友人との会話でした。

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2008年7月22日

706 感動のチャリティー・コンサート

 サンディ・ラム、John-Hoon、JULY, イーキン・チェン、 alan、アーロン・クォック…、お分かりですか? 日本を含むアジア諸国の若者の間で目下人気のヴォーカリスト。…w-inds、JAYWALK、TOGI(東儀秀樹)+BAO、中孝介、日野皓正、イルカ、南こうせつ…、少なくともこの後半はどなたもご存知の日本人音楽タレント。以上の豪華メンバーを動員できたおかげで、先週月曜東京国際ホールでの「四川大地震チャリティー・コンサート」は一夜で3,000 万円の収益金(=義援金)を集めるという大成功のうちに幕を閉じました。

  催しを終始主導したのは、ジュディ・オング。先月初め彼女から電話がかかってきてこの話を聞かされた時、「7月中旬に…」と聞いて驚いたものの、熱意に動かされて直ちに何人かの友人に協力方を要請しました。その時の彼女の「ジャッキー・チェンが二つ返事で賛成してくれたの…」という弾んだ声が忘れられませんが、あれだけのタレントを、わずか一月半で集められたのは、二人の人柄と実力の何よりの証明。

  ことにジュディは、開催日までは、スポンサーや広告主などへの依頼、マスコミとの接触、観客確保からステージでの演出、果ては出演者のためのホテル客室の確保にいたるまで、一流プロデューサーも顔負けの働き、他方開催日当日は、最初の主催者および出演者を代表しての挨拶、途中でジャッキーとの息抜きのトークショウ、フィナーレで(懐かしい天使の衣装をまとっての)『魅せられて』の絶唱に至るまでの完璧なホスピタリティ。いやぁ、改めて、頭が下がりました。

  それにしても、5,000席を埋め尽くした観客のどよめき、出演者の熱狂的ファンと思しき若い女性の嬌声と打ち振る色とりどりのペンライトの光…。終始感動の3時間半でした。

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2008年7月14日

705 アンクラージュ御影の完成

 僕の年少の友人小中村政廣君は、関西を中心に長く手広く個性的なマンションの建設・販売を手がけてきましたが、いよいよその集大成(と言うのは、次に同君が手がけようとしているのは、西神地区に自社が所有する20万uの開発で、是はもう“街づくり”)とも言うべき「アンクラージュ御影」が完成したというので、芦屋に住む麗清さん(モデル出身の麗人書道家)を誘い、先週土曜に日帰りで視察してきました。

  御影は芦屋と並ぶ日本きっての高級住宅地。アンクラージュ御影は、その山の手の絶好地2万u強の南斜面につくられた長大な三層構造・三棟構成・218邸のシニア向け超高級マンション。背後には六甲山系の国有林の緑を擁し、眼下に神戸港と彼方に蒼い瀬戸内海を望み、しかも阪急御影駅からは至近の距離。イタリア人デザイナーが総力を傾けたハイセンスのエントランス・ロビー、ダイニング・ルーム、プールサイド・バー…。水と芝と石と木々で見事に創られた広大な前庭を散策する至福。最新の厨房と一流調理人の供する京料理。…となると、これはもう高級リゾートホテルですが、それに「日々の健康管理から緊急時の対応まで、安心のサポート体制」と謳われる医療・介護サービスが保証されているのです。

  実はこの事業、僕は大いに責任を感じます。還暦過ぎてから20年余、“高級”と銘打った老人用マンションを嫌というほど案内された僕の結論は、「これらは全て、老人になったこともない連中の観念の産物。ハード(特定介護施設など)からソフト(終身利用権など)まで、根本的に再検討の要あり」。この辛口評が、小中村君の御影プロジェクトの最初のヒントとなったとのことなのです。その意味で、当日の麗清君の「…私もここへ入りたい!」の一言は、僕には最高の癒しでした。

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2008年7月8日

704 素晴らしき哉、個性的人生

 2日午後は、オフィスに現れた宇沢(弘文)君と長い時間談論。日本を代表する世界的経済学者である同君と僕とは専攻分野から思想から趣味から…何も一致点がないのですが、なぜか気心が通じて、もう30年以上の交友がつづいています。

  僕が同君を尊敬するのは、本業では理論の粋を極めながら、“不適切な現実”に対しては、成田の土地収用であろうと、自動車の引き起こす公害であろうと、過激派とも受け取られる行動に出て、しかも相手からは敵視されない人徳です。

  洞爺湖サミットにからんで同君の目下の心配の種は、地球温暖化の阻止を目的に各国に課せられる可能性のあるCO2の排出枠。(公平性を欠いた京都議定書にしたがい)90年基準で日本が不当に低い排出枠を課せられ、しかも超過分に対し市場での排出権購入を迫られることを同君は何としても阻止せねばと思いつめ、その具体策を求めて訪ねてきたのです。

  僕は改めて宇沢君に感激しました。特定国だけに対する排出枠の設定はもちろん、排出権の市場取引などというものにも絶対反対の僕ですが、友人知人を促して反対運動を進めようなどという思いつめた気持ちになったことは全く無かったからです。真剣な同君に動かされて早速具体策を練り、影響力甚大と思われる某氏に電話で協力方を要請し、行動開始!

  学者としての宇沢君のこの30年来の志は、“社会的共通資本”(自然環境、公共的交通機関、各種社会的インフラ、それに教育、医療、文化、出版・報道、金融、会計、司法、行政などの制度資本から構成される農村や都市…といった社会的共通資本)を一つの学問領域として確立すること。東大退官後20年、なお同志社大の研究所を拠点に高邁な理想を追い求める同君からは、行動する人間の凛たる気迫を感じました。

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2008年7月1日

703 縁の不思議さを痛感させられた夜

 “ヨダちゃん”こと依田巽君から自主事業創業20周年の記念品が贈られてきたのがキッカケで、僕は25日夜都心のレストランで水入らずのお祝い会を開きました。誘ったのは、予てから同君と親しいジュディ・オング、河瀬直美さんの二人。

  かつてはエイベックス社を率い「音楽業界のビル・ゲイツ」とまで謳われた依田君は、4年前内紛で同社を去りましたが、その意欲は全く衰えず、同業の「ドリームミュージック」社に指南役として迎えられ、依然業界に睨みを利かせています。

  実は同社は、音楽プロデューサーとして有名な新田和長君が新世紀への夢を抱いて同志の友人たちと起こした会社。僕と新田君との出会いは彼が東芝EMIから独立してファンハウス社を創業した頃で、すでに四半世紀の親交が続いています。

  昨年カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した河瀬さんは、目下「なら国際映画祭」の開催に意欲を燃やしています。その件で後輩の安村克己君(奈良県立大教授)が彼女を僕のオフィスに伴ったのはこの2月。翌月には、依田君が東京国際映画祭の新会長に就任。この催事の推進者荒井奈良県知事は、僕が運輸省の「国際観光大学設立検討委員会」委員長をつとめていた時の観光部長。…僕が彼女に協力したい所以です。

  “ジュディ”(と呼び慣れているので…)にすっかり魅せられたのは、70年代末のレコード大賞『魅せられて』以来ですが、テレビを視聴する度に、何時か彼女と親しくなれそうな予感を強く抱いたものです。そのキッカケをつくってくれたのは特異な芸術評論家の旧友室伏哲郎君。しかも、ひとたび彼女と直接知り合って以来、共通の知人・友人の多さはともかく、その気心の波長の合い具合には、何時も驚いています。

  人の縁の不可思議さを、改めて痛感した先週の一夜でした。

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