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野田一夫かく語りき
わが半世紀の大学人生
はじめに

 昭和二年(一九二七年)生まれの私は、戦後に旧制末期の東京大学で文学部社会学科を卒業するや研究室に残り、以後今日まで一貫して大学人として人生を歩んできた。しかも還暦前から古希にいたる十数年間には、二つの大学の設立に深くかかわり、しかも開学後はいずれも初代学長までつとめた。だが、経歴書に必ずこう記されている自分の過去を振り返ってみるとき、私はいつも心の中で反論したくなる。記述されていることは全て事実ではあるにせよ、私の人生の実相を伝えるにしては、余りにも誤解を招きやすい…と。

1.わが青春の彷徨
 私は小学生の頃から、当時航空機の技術者として第一線にあった父親を憧れとし、将来は父親を超える航空技術者になろうという少年の夢に胸をときめかしていた。だが、この夢は、太平洋戦争の敗北によって脆くも潰えさった。当時旧制高校理科の学生であった私にとって、「日本における航空機の製造ならびに保有は、これを永久に禁止する」という占領軍の指令は、正に人生最大の衝撃であった。外では敗戦がもたらした被占領国の政治・経済・社会的大混乱、内では父親の突然の失業にともなうわが家の生活事情の激変、二つの試練の中で私は約一年間悩みあぐんだあげく、結局、学年を一年遅らせて文科へ転学することを決意した。この決意が私の人生を、正に百八十度変えることになった。

 と言っても、その時期に青年の私が明確にそう意識していたわけではない。率直に言って、途方に暮れた上での選択であった。工学部の他の学科への進学はもちろん相当具体的に検討してみた。が、敗戦直後の当時の日本が置かれていた状況下では、どの進路にも明るい見通しは得られなかった。一方文科は、私には全く未知の領域であった。文科を卒業してどんな職業を目指そうといったことはもちろんのこと、当面どんな学部・学科へ進もうといった知識、希望すら私には全くなかった。要するに、技術者になりたいという未練を捨てるために、「どうでもなれ」と私がした捨て鉢の決断であったと言ってもよい。しかし結果的にはそれを契機に私には、人生の新しい道が拓けはじめたように思える。

 転科して暫くの間、授業を受けても友人と雑談をしても、まるで異国へ来た思いであった。授業についていえば、数学とか物理学といった理路整然と説明され、また理解できる学問が一つもないことにひどく戸惑った。友人との雑談でいえば、歴史とか文学といったいわゆる教養的知識の不足には常に劣等感を感じさせられた。こうした青春期の戸惑いとか劣等感は貴重なものだ。前者によって私は(自然科学との比較における)社会科学に目を開かれることになり、結果としてマックス・ウェーバーの学説に沈潜することになった。後者によって私は、(後れをとりもどそうと)それこそ猛烈なペースで歴史や文学の本を読み漁った。

 大学進学に当たっては、私は迷わず「社会学」を選択した。それがなぜ「文学部」の一学科としてあるのかということには大いに疑問を抱いたが、ウェーバーのような教授がおられるはずだという確信はいささかも揺るがなかった。だがこの確信は、東大入学後一月もしないうちに完全に崩れた。ウェーバーのようなカリスマ的教授がおられなかったことはともかく、講義という講義の内容が、私には余りにも空疎で知的関心を刺激しなかった。ただ、「東大の社会学」に興味を失った私は、在学中東大中のあらゆる学部・学科で評判のよい教授の講義を求めては聴講して回るという、誠に自由な学生生活を送ることとなる。

 今でも記憶に残る講義といえば、「十九世紀文芸思潮」(中島健蔵講師。文学部仏文科)、「東洋政治思想史」(丸山真男教授。法学部政治学科)といった単位履修などと関係のないものばかり…。これもひとえに、社会学科の教育に失望した結果である。今一つ、後になってつくづく感じる社会学科の功徳がある。私がもし法学部とか経済学部に入学していたなら、その学部の学生の間に広く定着していた否定すべからざる文化、世俗的に言えば、「中央官庁に入ってエリート官僚になろう」とか「大企業に入ってトップを目ざそう」といった卒業後の定型コースに影響され、違った人生を歩むことになったかもしれない。社会学科の学生間に幸いその種の文化は全くはびこっていなかった。だから今になって私は、社会学科が「文学部」の中にあったことに、やっと納得している。
 
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