東大の卒業を翌年に控えた秋のある日、尾高邦雄先生の研究室に呼ばれ、突然「来年四月から大学院特別研究生として大学に残れ」というお達しを受けた。尾高先生は私が学生時代、社会学教育の不毛についての激烈な批判を鷹揚に聞いて下さった唯一の教授であった。また私が理系から転じてきたことを過分に評価して下さり、いろいろな研究プロジェクトを手伝わせても頂いた。しかしその日は、学者としての素質も意欲もないことを理由に先生のお申し出をお断りしたのだが、結局「君は山岳部だろう。研究室に残った方が、ずっと山に登りつづけられるぞ…」といった温かいお言葉が殺し文句になり、社会人としての進路はあっけなく決まってしまった。「人生全て塞翁が馬」と言うべきだろう。
翌年春研究室に残ったその日から、私の心は、(多分広く日本の)大学を支配している世間離れした愚かしい価値観と、それと無縁ではないひどく時代錯誤的な制度や慣習に強い反発を感じた。何とこの反発は、思いもかけずその後日本の大学と深い職業的関係をつづけながらいつしか古希を過ぎてしまった私の心の中で、今も消えることなくつづいている。ということは、この約半世紀間、日本の大学を支配している忌まわしい価値観と制度・慣習は基本的にはほとんど変わっていないことを意味している。言ってみれば、この年になってもなお私が日本の大学の一角にとどまっているのは、この許し難い価値観や制度・慣習を私の終生の敵として戦いつづけるためであるとさえ極言できる。
皮肉なことにこの間大学人としての私の人生は、経歴書の上では極めて順調である。すなわち、東大大学院で特別研究生(前期)を終了した後、私は立教大学に赴任し、専任講師、助教授を経て、一九六五年には教授になった。結局三十三年間立教に籍を置いたことになるが、最後の数年間は多摩大学の設立に深くかかわり、八九年開学とともに同大学の初代学長に就任した。多摩大学学長は六年の任期を無事終えたわけだが、最後の数年間は(県立)宮城大学の設立に深くかかわった後、九七年開学とともに初代学長に就任し、現在にいたっている。
だが、経歴書に必ずしも書かれないことで、私の大学人人生に大きな影響を与えたことが幾つもある。例えばその中で特筆大書すべきは、立教大学の助教授時代に二年間、私はフェローとしてマサチューセッツ工科大学(MIT)に招かれ、研究生活を送ったことだ。この二年間に私が学んだことは、従事した研究からよりは、所属していたMITという米国の大学の研究・教育理念、運営方式、社会的信用(実力)…といったものからの方が遥かに大きかった。一言で言えば、私は異国で初めて、自分で納得できる「何もかも大学らしい大学」の中に身を置くことができた。それは、東大社会学科の研究室に残って以来たえず大学人になった悔悟と自虐に苛まれてきていた私にとって、新しい人生を拓くための劇的カルチャー・ショックであった。もしこの衝撃的体験がなければ、私は多分何としてでも米国に留まるか、あるいは日本へ帰るや、大学を去っていたであろう。
MITでの仕事を終えてボストンから日本へ帰る航空機の中での心の高ぶりを、今も私は懐かしく思い返すことができる。私は日本の大学には基本的にもう何の期待も抱かず、大学ではひたすら"良き教師"に徹しながら、主として外部機関の協力のもとに明日の日本が必要とするさまざまな活動を学外で積極的に展開していく将来構想実現に主力を置くことにした。この構想は帰国後、立教大学観光学科(一九六七年開設後初代学科長)、(財)日本総合研究所(シンクタンク、一九七〇年設立後初代所長)、(財)社会開発総合研究所(シンクタンク、一九七六年再建後理事長)、(社)ニュービジネス協議会(起業家の団体、一九八五年設立後初代理事長)…と矢継ぎ早に実現していった。こうなると私にとって、立教を含め日本の大学の後進性などは、全く気にならないものになってしまった。 |