野田の最も忌み嫌う言葉に、「和をもって貴しと為す」がある。「この言葉がこれほど国民の間に浸透した国はない。むしろ和をもって怪しいでなければ」
これを嫌というほど味わったのが、戦中生活だった。「戦前に経験した国家権力に対する徹底した反骨精神がある」と野田は言う。中学時代、配属将校が生徒を集めて軍事教練を行う。その際「日本に石油が出ないのは精神がたるんでいるからだ」と訓話。馬鹿馬鹿しさに笑う生徒をビンタで殴り、後々までそれを記録して、出征の際、戦場の最前線へと送った。優れた航空技術者である父親から「合理主義」のDNAを受け継いだ野田は、日本社会が持つ「不条理性」がどうしても許せなかった。こうして野田は、自ら「イレギュラーなジャパニーズ」、つまり「変わった日本人」であることを自覚するのである。それゆえ野田は日本が自分に与える「立場」を身をもって徹底否定することにした。
戦後、日本全体が敗戦と共に国家主義の重圧から「解放」された。
「その解放感が結果として戦後日本の高度経済成長を創った」と野田は言う。そしてソニー、松下らに、「戦後合理主義の最も純粋な発露」を学んだ野田は、自分の属する大学という組織にその解放感がないのを悩みつつ、「せめて自分が教える学生だけは、イレギュラーなジャパニーズを創ろう」と考えたのだった。 |